ハルツブルクの握手
戦争には金がかかる。だが、平和な民主主義を破壊する「選挙」という名の戦争には、それ以上に莫大な金がかかるものだ。
一九三〇年の冬。私たちナチ党は、一〇七議席という勝利の美酒に酔う暇もなく、深刻な「飢餓」に苦しんでいた。急激な勝利は、組織の肥大化を招いた。数十万人に膨れ上がった党員、街頭を占拠する突撃隊(SA)の若者たち。彼らに着せる制服、彼らに食わせるスープ、移動のためのトラック、そして全国に撒き散らすビラの印刷費。この巨大な怪物を維持するための維持費は、天文学的な数字に達していた。党費や、老婆のヘソクリのような寄付金だけでは、もはや焼け石に水だ。
私は、ミュンヘンの執務室で、真っ赤に染まった帳簿を睨みつけていた。隣で会計担当のアマンが、葬式のような顔をして立っている。 「総統、このままでは来月の党本部職員の給料が払えません。突撃隊からは『ブーツが破れた』『スープが薄い』と苦情が殺到しています」
私はため息をついた。インクはある。キャンバスもある。だが、絵筆を動かすためのエネルギーが枯渇している。金を持っていそうな連中は誰だ?ユダヤ人? 論外だ。貴族? 彼らは土地は持っているが現金を持っていない。
残るは一種族だけだ。私が最も軽蔑し、そして最も利用価値のある連中。「資本家」だ。
ルール地方の鉄鋼王、フリッツ・ティッセン。ドイツ銀行業界の重鎮、エミール・キルドルフ。彼らは煙突の煙と、銀行の金庫を愛する現実主義者たちだ。彼らはナチスの「社会主義的」なスローガンを警戒しているが、それ以上に恐れているものがあった。
「共産主義(赤)」だ。不況で勢いづいた共産党が政権を取れば、彼らの工場は没収され、資産は国有化され、彼ら自身は吊るされるだろう。彼らは震えていた。自分の財産を守ってくれる「番犬」を探していた。
(……いいだろう。番犬の役を演じてやろうじゃないか)
一九三一年、私は彼らとの接触を深めた。デュッセルドルフの工業クラブ。重厚なオーク材の扉の向こうに、ドイツ経済を牛耳る男たちが集まっていた。葉巻の紫煙と、高級なコニャックの香り。脂ぎった顔、仕立ての良いスーツ。私は、質素な党服でその場に現れた。酒も飲まず、煙草も吸わない私の姿は、この場において異物だった。
彼らは私を値踏みするような目で見つめた。「こいつが、あの粗暴な扇動家か」「使えるのか?」という視線。
私は演壇に立ち、彼らに向かって静かに、しかし論理的に語りかけた。街頭演説のような絶叫はしない。彼らが好む「損得勘定」の言語を使った。
「諸君。私は諸君の工場を奪うつもりはない。私が奪いたいのは、諸君の工場を破壊しようとしている『共産主義者』たちの命だ。考えてみてほしい。誰が、あの凶暴な労働組合を黙らせることができるか? 誰が、ストライキを力付くで止めさせることができるか? 柔弱な政府か? それとも、私の突撃隊か?」
会場が静まり返る。彼らの脳裏に、赤旗を掲げて工場を占拠する労働者たちの姿と、それを警棒で殴り倒すナチスの突撃隊の姿が浮かんだはずだ。彼らにとって、私は「必要悪」なのだ。
「私への投資は、寄付ではない。諸君の財産を守るための『保険料』だ」
演説が終わった時、万雷の拍手が起きた。ティッセンが立ち上がり、私に近づいてきた。
「ヒトラーさん、感銘を受けた。我々は誤解していたようだ」
その日から、金の流れが変わった。 小川のようだった献金が、大河となってナチ党の金庫に流れ込み始めた。 借金は返済され、突撃隊員には新しいブーツが支給され、さらに強力な宣伝カーや、私専用の飛行機までチャーターできるようになった。彼らは思っただろう。「これでヒトラーを飼い慣らした」と。金を握らせておけば、この猛犬は自分たちの利益のために吠え、噛みつき、泥棒を追い払ってくれると。
愚かな豚どもめ。鎖を握っているのは、お前たちではない。私だ。
そして一九三一年十月十一日。ニーダーザクセン州の保養地、バート・ハルツブルク。ここで、右派勢力の大同団結を謳う「ハルツブルク戦線」の結成式が行われた。ナチ党、国家人民党(DNVP)、鉄兜団(在郷軍人会)、そして財界の代表たち。反ワイマール、反民主主義、反共産主義を掲げる「ナショナル・オポジション(国民的反対派)」の総結集だ。
会場には、旧ドイツ帝国の将軍たちや、貴族、財閥の重鎮たちが、勲章をぶら下げて並んでいた。メディア王フーゲンベルクは、自分がこの連合の盟主であるかのように振る舞い、満足げに髭を撫でていた。私はその横で、苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。
正直に言えば、反吐が出るような光景だった。この「古臭い」連中。過去の栄光にしがみつき、民衆の痛みなど知らず、ただ既得権益を守りたいだけの老人たち。彼らは私を「太鼓持ち」として利用しようとしている。「ヒトラーには大衆を集めさせろ。政治の実権は我々エリートが握る」そんな腹黒い計算が透けて見える。
だが、今はまだ、彼らの手を握り返さなければならない。彼らの持つ「信用」が必要だからだ。ナチスは「暴徒の集団」だと思われている。だが、将軍や銀行家と並んで写真に写れば、国民はこう思うだろう。「ヒトラーは、あの一流の人たちにも認められた指導者なのだ」と。
私はカメラのフラッシュの中で、フーゲンベルクと、そして鉄兜団のゼルテと握手を交わした。「ハルツブルクの握手」。新聞はそう書き立てた。
式の後、一人の男が私に近づいてきた。高い襟のシャツを着た、知的な、しかし傲慢そうな男。ヒャルマル・シャハト。元ライヒスバンク(中央銀行)総裁であり、「通貨の魔術師」と呼ばれた天才経済学者だ。彼のような超一流のテクノクラートが、この「野合」に参加していること自体が驚きだった。
「ヒトラーさん」シャハトは私の目を見据えて言った。「あなたの経済理論は幼稚だ。だが、あなたの持つ『意志の力』だけは本物だ。今のドイツに必要なのは、理論ではなく意志でしょう」
「……光栄ですな、ドクター・シャハト」私は彼の手を握った。この男がいれば、我々は「経済政策」という最後のピースを埋めることができる。彼が味方に付けば、国内外の投資家も安心するだろう。
私は心の中で舌を出した。資本家、貴族、将軍、そして経済学者。彼らは皆、私を利用しようとして近づいてくる。「ヒトラーという神輿は、軽くて担ぎやすい」とでも思っているのだろう。
担ぐがいい。山頂に着いた時、神輿の中から出てきた私が、お前たち担ぎ手全員を崖から突き落とすとも知らずに。
金は手に入った。信用も手に入った。暴力装置も完成した。
ハルツブルクの森の紅葉は美しかったが、私にはそれが、彼ら旧支配者たちの「黄昏」の色に見えた。一九三二年。いよいよ、最後の決戦の年が来る。大統領選挙。相手は、このドイツで唯一、私よりも人気のある「生ける伝説」。パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥。
巨大な壁だ。だが、壁は高ければ高いほど、崩れ落ちた時の音は大きくなる。
(……さあ、金は十分だ。飛行機をチャーターしろ、ゲッベルス。空からドイツを征服するぞ)
私は、資本家たちの金で買った高級車に乗り込み、冷笑を残して会場を去った。




