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一九三〇年、衝撃の躍進

 選挙とは、数を数えるだけの事務的な作業ではない。それは、国民という名の巨大な怪物が、どの方向へ首を向けるかを決める「咆哮(ほうこう)」の瞬間だ。


 一九三〇年、九月十四日。日曜日。ドイツ全土の投票所の前には、早朝から異様な長さの列ができていた。普段は政治になど関心を持たない若者たちが、失業保険の給付待ちの列と同じような虚ろで、しかし殺気立った目をして並んでいる。彼らの手には、白い投票用紙が握られていた。それは紙切れではなく、今の腐った現状を破壊するための「石」だった。


 私はミュンヘンの党本部で、その夜を待っていた。窓の外は暗く、雨がアスファルトを叩いている。部屋には、ゲッベルス、ヘス、そしてヒムラーら、側近たちが集まっていた。煙草の煙と、焦燥感が充満していた。


「総統、予想はどう見ますか?」ゲッベルスが珍しく、不安そうな顔で尋ねてきた。世間の予想では、我が党の議席は現在の一二から、良くて四〇程度まで増えれば大勝利だと言われていた。対する社会民主党(SPD)や共産党は、強力な地盤を持っている。


 私は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめて答えた。 「……四〇? 馬鹿な。そんな「微増」のために、私は声を枯らしてきたのではない」


 私は知っていた。この二年間の不況で、ドイツ人の魂がいかに深く傷つき、いかに激しく「劇薬」を求めているかを。彼らはもう、微修正など求めていない。テーブルクロスを汚したシミを抜くのではなく、テーブルごとひっくり返すことを望んでいるのだ。


 午後六時。投票が締め切られた。午後八時。最初の速報がテレタイプから吐き出され始めた。


 タタタ、タタタ……。乾いたタイプ音が、静まり返った部屋に響く。通信員が紙テープを手に取り、読み上げる声が震えていた。


「フランクフルト……ナチ党、第二党へ躍進」 「ポメラニア……得票率、二〇%を超過」 「シュレスヴィヒ……ナチ党、第一党!」


 どよめきが起きた。予想を超えている。地方の農村部だけではない。我々の弱点とされていた都市部、労働者の街でも、票が雪崩を打って我々に流れ込んでいた。


 そして、深夜。 最終的な集計結果がもたらされた時、部屋の中の空気は、歓喜を通り越して「畏怖」へと変わった。


 得票数、六百四十万九千六百票。

 得票率、一八・三%。

 獲得議席数、一〇七。


 一〇七議席。前回の一二議席から、ほぼ九倍の爆発。社会民主党(一四三議席)に次ぐ、堂々の「国会第二党」へのジャンプアップだ。共産党(七七議席)さえも抜き去り、我々は一夜にして、ドイツ政治のキャスティングボードを握る巨大勢力となったのだ。


「……信じられない」誰かが呟いた。ゲッベルスは顔を紅潮させ、足の不自由さも忘れて飛び跳ねていた。電話が鳴り止まない。ベルリンの新聞社から、外国の通信社から、そして昨日まで我々を無視していた財界の大物たちから。


 私は、喧騒から離れ、一人静かに椅子に座り込んだ。勝利の美酒に酔うつもりはなかった。私の脳裏には、六百四十万という数字が、巨大な「軍団」の姿となって浮かんでいた。    六百四十万人。  それは、ミュンヘンのビアホールに集まった三千人とはわけが違う。ベルリンの人口よりも多い人間が、投票所で私の名前を書き、「ヒトラーにすべてを託す」と誓ったのだ。もはや、私は一人の政治家ではない。六百四十万人の絶望と怒りを背負った、巨大な「依代(よりしろ)」となったのだ。


 翌朝。世界の新聞は、驚愕と恐怖をもってこのニュースを伝えた。ロンドンのタイムズ紙は『ドイツは正気を失ったのか』と書き、ニューヨークの株式市場では、ナチスの躍進を恐れた投資家たちがドイツへの融資を引き上げ、ドイツ国債が暴落した。


 皮肉なことだ。私が勝てば勝つほど、海外資本は逃げ出し、ドイツ経済はさらに悪化する。経済が悪化すればするほど、失業者は増え、私の支持者はさらに増える。この「負の連鎖」こそが、私にとっての「勝利の永久機関」だった。


 数日後、ベルリンの国会議事堂ライヒスタークの開会式。これまでは無視されていた私たちナチ党議員団一〇七名が、褐色の制服を着て、軍隊のように整列して議場に入場した。他の政党の議員たちは、顔をしかめ、あるいは恐怖の眼差しで私たちを見た。議事堂という神聖な議論の場に、土足で泥を持ち込んだ野蛮人を見るような目だ。


 私は議員席の最前列に座り、議長席を見上げた。


(よく見ておくがいい、古い政治家たちよ)


 私は心の中で冷笑した。私たちがここに来たのは、君たちと議論をするためではない。予算案を審議するためでもない。私たちは、この議会というシステムそのものを、内側から食い破るために来たのだ。一〇七の議席は、議論のための席ではない。議事進行を妨害し、内閣を不信任にし、何も決められない状態を作り出し、国民に「議会制民主主義など無駄だ」と絶望させるための、一〇七個の爆弾なのだ。


 ゲーリングが、隣でニヤリと笑って私に耳打ちした。「総統、壮観ですな。ここが我々の新しい演習場です」


「演習場ではない、ゲーリング」私は訂正した。「ここは、屠殺場(とさつじょう)だ。民主主義という名の家畜を、合法的に解体するためのな」


 一九三〇年、九月。世界は変わった。もはや「いつか良くなる」という希望的観測は消え去った。あるのは、「ヒトラーか、共産主義か」という、究極の二択だけ。


 私は議事堂の丸い天井を見上げた。いつか、この建物を我が党の旗で埋め尽くす日が来る。そしてその日は、そう遠くない。


 六百四十万人の「白紙委任状」をポケットにねじ込み、私は議員としての最初の活動――「議事妨害」を開始した。

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