ヤング案と『呪い』
借金とは、経済的な数字ではない。それは「時間」の収奪だ。今日食べるパンを我慢するだけではない。明日見る夢を、来年買う服を、そして十年後に生まれてくる子供の笑顔さえも、あらかじめ担保として差し出させる行為。それが、国家間の賠償金というものの正体だ。
一九二九年、夏。世界恐慌の足音が近づく中、ドイツ政府は連合国側と新たな協定を結ぼうとしていた。その名は「ヤング案」。アメリカの銀行家オーウェン・D・ヤングが作成したこの計画は、ドイツにとって一見すると「救済」のように見えた。毎年の支払い額は減額され、フランス軍はラインラントから撤退する。政府の役人たちは「外交的勝利だ」と胸を張り、シャンパンを開けていた。
だが、私はその協定書の「ある一点」だけを凝視していた。そこに記された、支払い完了の予定年。
『一九八八年』。
私は、党本部でその数字を指差し、腹の底から笑い声を上げた。一九八八年だと? 今から六〇年も先の話だ。今生まれた赤ん坊が還暦を迎えるまで、ドイツ人はフランスやイギリスに金を払い続けなければならないということか。役人たちは数字しか見ていないが、私はそこに「物語」を見た。これは「呪い」だ。まだ見ぬ孫の代まで鎖に繋ぐ、永遠の奴隷契約だ。
「……勝ったぞ、ゲッベルス」私は確信を持って言った。「この数字こそが、我々を全国区にするための『パスポート』になる」
だが、問題が一つあった。我々には「ネタ」はあるが、それをドイツ全土の津々浦々まで届ける「放送設備」がない。ナチ党の機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』の発行部数はまだ少なく、私の声はバイエルン地方のビアホールにしか届いていない。ベルリンの、ハンブルクの、そして農村の隅々の家庭まで、「一九八八年の呪い」を周知させるには、もっと巨大なメガホンが必要だった。
そこで私は、ある男に接近した。アルフレート・フーゲンベルク。ドイツ国家人民党(DNVP)の党首であり、クルップ製鋼所の元重役。そして何より、ドイツ最大の映画会社「UFA」と、数多の大衆紙を支配する「メディア王」である。
彼は典型的な旧時代の保守主義者だった。カイザー髭を蓄え、威厳を漂わせ、私のような「成り上がり」を心の底では軽蔑している。だが、彼もまた困っていた。彼の率いる保守政党は、若者や労働者の支持を得られず、ジリ貧状態にあったからだ。彼らには金とメディアはあるが、「熱狂」を生み出すスターがいなかった。
一九二九年七月。私とフーゲンベルクは、手を組んだ。「ヤング案反対全国委員会」の結成だ。彼の目論見は透けて見えた。『ヒトラーという騒がしい太鼓叩き(ドラマー)を利用して、大衆を集めよう。用が済めば捨てればいい』 彼は私を「雇った」つもりでいたのだ。自分の巨大なメディア帝国の、客寄せパンダとして。
愚かな男だ。猛獣を首輪なしでリビングに入れた代償を、彼はすぐに知ることになる。
提携は劇的な効果をもたらした。翌日から、フーゲンベルク傘下の全国紙が、一斉にナチスの記事を書き始めたのだ。それまで「ミュンヘンの過激派」として黙殺されていた私の演説が、ベルリンの朝刊の一面を飾り、地方の夕刊に掲載され、全国の家庭の食卓に届けられた。
さらに凄まじかったのは「映画」の力だ。当時、映画館は最大の娯楽だった。本編が始まる前に上映される「UFAニュース」は、国民が世界を知る唯一の窓だった。そのスクリーンに、私が映し出された。身振りを交えて熱弁を振るう私。整列する突撃隊の勇壮な行進。鉤十字の旗が波打つ光景。
北ドイツの田舎町の農夫も、ベルリンの工場労働者も、ハンブルクの港湾労働者も、初めて「アドルフ・ヒトラー」という男を、動く映像として目撃したのだ。「一九八八年まで奴隷でいたいか!」スクリーンの中の私が叫ぶ。「この『奴隷化法』を破り捨てろ! 鎖を断ち切れ!」
そのメッセージは、シンプルゆえに強力だった。 複雑な経済論争など誰も理解できない。だが、「孫まで借金」という言葉は、誰の心にも突き刺さる。 反対運動の署名には、数百万人が殺到した。
フーゲンベルクは満足していた。自分の新聞が売れ、自分の主催する反対運動が盛り上がっているからだ。 だが、彼は気づいていなかった。集まった大衆が歓声を送っているのは、小太りのフーゲンベルクではなく、その隣にいる私だということに。
ある日の集会で、フーゲンベルクが退屈な演説を終えた後、私が演壇に立った。会場の空気が一変した。さっきまで欠伸をしていた聴衆が、身を乗り出し、私の言葉を貪るように聞き入った。私は、フーゲンベルクから借りたマイクを使って、フーゲンベルクの支持者たちを、ごっそりと私の信者へと塗り替えていったのだ。
寄生虫が宿主を食い破る瞬間だ。彼の金で、彼の新聞で、彼の映画館で、私は「ナチス」というブランドを全国に宣伝した。広告費はすべて彼持ちだ。これほど愉快なビジネスはない。
一九二九年十二月。 ヤング案反対の国民投票自体は、否決され、失敗に終わった。政府は胸を撫でおろし、フーゲンベルクは「負けた」と落胆した。
だが、私にとっては大勝利だった。投票の結果などどうでもいい。重要なのは、この半年間のキャンペーンを通じて、「アドルフ・ヒトラー」という名前が、ドイツの隅々まで知れ渡ったという事実だ。もはや我々は、バイエルンのローカル政党ではない。右翼の統一候補、愛国者の代表、そして「システム(体制)」に立ち向かう唯一の英雄として認知されたのだ。
ベルリンのUFA本社の前を通った時、私は巨大なビルを見上げて冷笑した。ありがとう、メディア王。君の築き上げた巨大なパイプオルガンは、素晴らしい音色だった。これからは、その鍵盤を私が叩くことにしよう。
そして、タイミングを合わせたかのように、ニューヨークから「死神」が到着した。名前は売れた。国民は絶望した。既存の政党は無能を晒した。
舞台のセッティングは完了した。一九三〇年、九月の総選挙。ここで我々は、歴史をひっくり返す。倍々ゲームどころではない。爆発だ。
私は執務室で、次の選挙ポスターのデザイン案をチェックしていた。そこには、鎖を引きちぎる労働者の絵と、ただ一言、こう書かれていた。
『我々は選ぶ。自由か、奴隷か』
答えは決まっている。人間は、自由という名の孤独よりも、服従という名の安らぎを選ぶ生き物なのだから。
(……さあ、収穫の季節だ)
私は万年筆を置き、窓の外の灰色の空を見た。 そこには、一九八八年という遠い未来ではなく、すぐそこまで迫った「第三帝国」の幻影が、はっきりと浮かんでいた。




