ウォール街の死神
神は、最高の演出家だ。だが、その脚本はあまりにも残酷で、あまりにも唐突だ。悲劇は常に、人々が「幸福」という名の微睡みの中にいる最中に、ノックもせずにドアを蹴破って入ってくる。
一九二九年、十月二十四日。木曜日。ミュンヘンの空は、鉛色の雲に覆われていたが、街の空気はまだ平穏だった。人々はいつものようにカフェでコーヒーを飲み、新聞のスポーツ欄を読み、週末のピクニックの計画を立てていた。彼らは知らなかったのだ。六千キロ彼方、大西洋の向こう側にあるニューヨークのウォール街で、世界の底が抜けたことを。
その日の朝、ニューヨーク証券取引所はパニックに陥っていた。「暗黒の木曜日」。株価は大暴落し、数時間で数十億ドルという富が電子の海へと消え去った。投資家たちは悲鳴を上げ、ブローカーたちは窓から飛び降り、アメリカの繁栄神話は音を立てて崩壊した。
だが、これは単なるアメリカの火事ではなかった。当時のドイツ経済は、アメリカからの短期借款という「点滴」によって無理やり生かされていた患者だった。アメリカが風邪を引けば、ドイツは肺炎を起こして死ぬ。 火事は瞬く間に大西洋を越え、津波となってドイツの岸辺に押し寄せた。
翌日、そして翌週。ドイツの銀行から電話が鳴り止まなくなった。「金を返せ。今すぐにだ」アメリカの銀行家たちが、貸し付けていた資金の即時回収を始めたのだ。
ドミノ倒しが始まった。資金を引き上げられた銀行が倒産し、融資を受けられなくなった工場が操業を停止し、給料を払えなくなった会社が従業員を解雇した。私は、党本部の執務室で、その光景を新聞を通して眺めていた。一面記事の見出しは、日を追うごとに悲痛なものに変わっていった。『失業者、百万人に迫る』 『大手紡績工場、閉鎖』 『路上に溢れるホームレス』
私の周りの党幹部たちは、この経済崩壊に動揺していた。「総統、これでは党費が集まりません」 「国民が飢えれば、共産党が勢力を伸ばすのでは?」
私は、彼らの怯えた顔を見て、思わず笑声を漏らした。笑いが止まらなかった。 腹の底から、黒い歓喜がマグマのように込み上げてくるのを感じた。
「……馬鹿者どもめ。何を怯えている?」
私は椅子から立ち上がり、窓際に歩み寄った。外では、冷たい雨が降っていた。その雨に打たれながら、職業安定所の前には、長蛇の列ができていた。昨日まで背広を着ていた中産階級の男たちが、プライドをかなぐり捨てて、スープの炊き出しに並んでいる。
「見ろ、あの美しい光景を。あれは絶望ではない。『可能性』だ。人間という生き物は、満腹の時には理屈をこねるが、空腹になればパンをくれる者に魂を売る。彼らは今、信じていた『民主主義』や『共和制』という神に裏切られたのだ。そして、空っぽになった彼らの心の祭壇には、新しい神を置くためのスペースが空いたのだよ」
私は振り返り、部屋の隅で目を輝かせている小柄な男に声をかけた。
「ゲッベルス君。出番だ」
宣伝の魔術師は、ニヤリと口角を歪めた。 「待っておりました、総統。インクの準備はできています」
「今までは『未来』を語ってきたが、これからは違う。『犯人』を語るのだ。なぜドイツ人は飢えているのか? なぜ真面目に働いていた君たちが、職を失わなければならないのか? それは、国際金融資本という名のユダヤ人が、君たちの金を盗んだからだ。それは、無能な政府が、ベルサイユ条約という奴隷契約を受け入れたからだ」
論理などどうでもいい。飢えた人間が必要としているのは、複雑な経済学の講義ではなく、怒りをぶつけるための「サンドバッグ(敵)」なのだ。
一九二九年の冬。ドイツは急速に灰色に染まっていった。街からネオンが消え、ショーウィンドウは板で塞がれ、あちこちでデモと暴動が起きた。失業者は三百万人を超え、さらに四百万人、五百万人へと膨れ上がろうとしていた。公園のベンチには、家を追い出された家族が身を寄せ合い、凍死者が毎朝のように回収されていく。
そんな地獄のような風景の中に、私たちのポスターだけが、鮮血のように赤く、力強く貼り出された。
『仕事とパンを!(Arbeit und Brot)』 『我々の最後の希望:ヒトラー』
シンプルで、力強く、そして断定的なメッセージ。昨日までは「過激派の妄言」として鼻で笑われていた私の言葉が、今日からは「預言者の啓示」として受け入れられ始めた。講演会の会場は、入りきれないほどの聴衆で溢れかえるようになった。彼らの目は、一年前とは違っていた。うつろで、絶望に深く沈み、そして「誰かにすがりつきたい」という強烈な依存の色を浮かべていた。
私は演壇に立ち、彼らの顔を見下ろした。かつて、ウィーンの収容所で見た顔と同じだ。人間は、底まで落ちると、プライドも理性も捨てて、ただ「生き残りたい」という本能だけになる。その本能を刺激するのは、あまりにも簡単だ。
「……ドイツ国民よ! 目を覚ませ!」私の声がマイクを通して響き渡る。
「君たちが悪いのではない! 君たちを食い物にしている『寄生虫』たちが悪いのだ! 今の政府を見ろ。彼らは議会で話し合っているだけだ。君たちが寒さに震えている間も、彼らは暖炉の前でぬくぬくと議論ごっこをしている! 私に権力を寄越せ!そうすれば、私は議論を終わらせる。私は、ユダヤ人の銀行家から金を奪い返し、君たちの手にパンを戻す!」
「ハイル・ヒトラー!」「ハイル・ヒトラー!」 悲鳴のような歓声が上がった。それは政治的な支持ではない。溺れる者が藁をつかむような、必死の叫びだった。彼らは私を愛しているのではない。今の苦しみから救ってくれるなら、悪魔でも構わないと思っているのだ。
その年の地方選挙で、ナチ党の得票率は爆発的に跳ね上がった。二・六%というゴミのような数字は、倍になり、三倍になり、場所によっては三〇%を超える支持を獲得し始めた。
私は、党本部の大広間に掲げられたドイツの地図を見上げた。赤いピン(ナチスの支部)が、まるでウイルスが増殖するように、黒い森の奥から、北部の工業地帯へと広がっていた。不況という風が吹けば吹くほど、私の風車は勢いよく回り、電力を生み出す。
ヒムラーが静かに近づいてきた。
「閣下、入党希望者が殺到しています。親衛隊(SS)の選抜が追いつきません」
「嬉しい悲鳴だな、ヒムラー君。……だが、質は落とすなよ。有象無象は突撃隊(SA)に入れておけ。SSはあくまで、純粋な血のエリートでなければならない」
「はっ」
私は窓の外を見た。雪が降り始めていた。灰色の空から落ちてくる白い雪は、路上の汚物を覆い隠していく。 来年は、一九三〇年。 国政選挙がある。この「神風」は、まだ吹き止まないだろう。むしろ、さらに激しくなるはずだ。世界が壊れれば壊れるほど、私の時代が近づいてくる。
私は知っていた。画家にとって、最も描きやすいキャンバスは「真っ白な布」ではない。一度塗りつぶされ、傷つけられ、汚されたキャンバスこそが、最も鮮やかな色を受け入れるのだと。
ドイツは今、傷ついている。だからこそ、私の色は輝く。
(……さあ、死神たちよ。もっと踊れ。もっと株価を下げろ。もっと工場を潰せ)
私は心の奥底で、ウォール街の崩壊に感謝の祈りを捧げていた。これは災害ではない。 これは、私が主役になるために用意された、壮大な舞台転換なのだ。




