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黄金の静寂

 光が強ければ強いほど、影は濃くなるというが、光があまりにも眩しすぎると、影そのものが消滅してしまうことがあるらしい。


 一九二八年、五月。ベルリンの夜は、文字通り「黄金」に輝いていた。ポツダム広場のネオンサインが夜空を焼き、キャバレーからは軽薄なジャズの音色が漏れ出し、着飾った男女がシャンパングラスを片手に、終わらないパーティに興じている。アメリカから流れ込んだドルという名の輸血によって、瀕死だったドイツ経済はゾンビのように蘇り、頬に偽りの赤みを差していた。


「黄金の20年代」。歴史家たちはこの時代をそう呼ぶだろう。だが、私にとっては「窒息の時代」だった。


 人々は満腹だった。腹が満たされた豚は、革命を夢見たりしない。彼らは現状の維持を望み、政治になど関心を持たず、週末の映画や休暇の旅行のことばかり考えている。平和というぬるま湯。それが、私の描く「劇薬」を薄め、無効化していた。


 その結果が、この無残な数字だ。


 一九二八年五月二十日の国会議員選挙。再建されたナチ党が、満を持して挑んだ最初の国政選挙だった。ゲッベルスは声を枯らし、突撃隊はビラを撒き、私は飛行機を使って各地を回った。だが、投票箱を開けてみれば、中身は空っぽだった。


 得票率、二・六%。議席数、一二。国会全体の議席数が四九一であることを考えれば、ゴミのような数字だ。対する社会民主党(SPD)は一五三議席を獲得し、圧倒的な勝利を収めていた。


「終わったな、ヒトラーも」「あいつらはインフレ時代の徒花(あだばな)だったんだ」 「今さらユダヤ人の陰謀なんて流行らないよ」


 新聞は私を嘲笑し、あるいは無視した。党本部では、党員たちが絶望的な顔で床を見つめていた。資金は底をつき、家賃さえ払えない支部が続出していた。ゲッベルスでさえ、青ざめた顔で私に言った。 「総統……大衆は眠ってしまいました。彼らはこの繁栄が永遠に続くと信じています」


 私は、執務室の窓から、平和ボケしたミュンヘンの街を見下ろして笑った。乾いた、冷たい笑いだった。


「ゲッベルス君、君は詩人だが、経済のことはからきしだな」


 私は葉巻も吸わないし、酒も飲まないが、数字の匂いだけは嗅ぎ分けられる。今のドイツの繁栄は、ドイツ人が汗水流して稼いだ金で築かれたものではない。アメリカのウォール街から貸し付けられた「短期借款」という名の借金で建てられた、巨大な砂の城だ。アメリカがくしゃみをすれば、この城は一瞬で崩れ去る。そして、その予兆はすでにある。アメリカの株価は異常なほど高騰し、実体経済と乖離したバブルになっている。泡は、必ず弾ける。物理法則だ。


「今は待つのだ。大衆が満腹の間は、我々の料理は売れない。だが、飢えは必ずやってくる」


 私はこの「静寂の期間」を、無駄には過ごさなかった。都市部の労働者たちが社会民主党に投票し、享楽にふけっている間、私はターゲットを変えたのだ。農村だ。都会が好景気に沸く一方で、農村部は農産物価格の下落に苦しんでいた。彼らは「黄金の20年代」の恩恵など受けていない。むしろ、都会の繁栄を憎んでいた。私はそこに目をつけた。


 我々は「血と土(Blut und Boden)」というスローガンを掲げ、北ドイツやプロイセンの農村地帯に深く浸透していった。都会のエリートに見捨てられた農民たちにとって、私の語る「ドイツ本来の土の力」という神話は、福音のように響いた。この時期、ナチ党は都市では死んでいたが、地下茎のように地方の土壌に根を張り巡らせていたのだ。


 さらに、私は組織の内部を徹底的に磨き上げた。ヒムラーの親衛隊(SS)を拡充し、青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」を整備し、党の命令系統を軍隊以上に厳格化した。外から見れば、ナチスは死に体の弱小政党だっただろう。だが、内部では、来たるべき嵐に備えて、船の帆を繕い、羅針盤を調整し、乗組員を鍛え上げていたのだ。


 一九二九年、一月。新しい年が明けた。ベルリンの株式市場はまだ活況を呈していた。政治家たちは「永遠の平和」を謳い、フランスとの和解を祝っていた。


 私は党員たちに言った。 「準備をしておけ。服を畳み、ブーツを磨いておけ。……電話は突然鳴るぞ」


 私は知っていた。この「黄金の静寂」は、死刑執行の前の静けさと同じだ。遠い大西洋の向こう側、ニューヨークの摩天楼の上空に、黒い雨雲が集まり始めているのを、私の動物的な勘が感じ取っていた。


 彼らが踊り疲れるのを待て。彼らの財布が空になるのを待て。彼らの笑顔が凍りつき、絶望のあまり「誰か助けてくれ!」と叫ぶその瞬間を待て。


 その時こそ、私が舞台袖から躍り出るのだ。「解決策」という名の毒薬を持って。


 一九二九年、秋。黄金の時代は、唐突に、そして暴力的に幕を下ろすことになる。私の待ち望んでいた「灰色」の季節が、すぐそこまで来ていた。

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