黒い制服の影
画家にとって、筆は手指の延長でなければならない。だが、今の私の手には、あまりにも太く、毛先が割れ、勝手にインクを垂らす粗悪な筆が握られていた。
一九二六年、秋。ミュンヘンの街頭。私は党本部「褐色の家」のバルコニーから、行進する自軍を見下ろしていた。褐色のシャツを着た「突撃隊(SA)」。その数、数千。彼らは威勢よく歌い、足を踏み鳴らし、時には沿道の共産党員を見つけては袋叩きにしている。その光景は力強く、敵を威圧するには十分だった。
だが、私は眉をひそめた。彼らは臭うのだ。安酒と、汗と、制御できない野蛮なテストステロンの臭いが。SAの指揮官エルンスト・レームは、私の古くからの戦友だが、根っからの軍人くずれだ。「革命には暴力が必要だ」と嘯き、私の命令よりも自分の暴れたい欲求を優先させることが増えていた。彼らは「群衆」だ。私が欲しいのは、群衆を指揮するための「メス」であり、群衆そのものではない。
(……このままでは、いつかこの筋肉ダルマたちに足元を掬われる)
私はバルコニーを離れ、執務室の奥まった部屋へと戻った。 そこには、SAの喧騒とは無縁の、奇妙な静寂を纏った男が待っていた。
ハインリヒ・ヒムラー。丸いロイド眼鏡をかけ、顎の小さな、まるで田舎の小学校教師か、真面目な郵便局員のように見える男。かつては養鶏場を経営し、鶏の餌の配分を几帳面に記録していたというこの男は、今は私の秘書的な役割をこなしながら、党内の雑務を黙々と処理していた。ゲッベルスのような華はない。レームのような腕力もない。だが、私には見えていた。この男の眼鏡の奥にある、爬虫類のように冷たく、底なしの「信仰」が。彼は事務処理をするように人を殺せる男だ。感情ではなく、効率と義務感で「処理」ができる、稀有な才能の持ち主なのだ。
「……ヒムラー君」
私が声をかけると、彼は直立不動の姿勢を取り、音もなく踵を合わせた。
「はい、総統閣下」
「外の連中を見たか? 豚のように騒がしい。あれでは『新しいドイツ』の品格が疑われる」
私は窓の外を指差した。「私は、私個人のためだけの、もっと純粋な護衛部隊が欲しい。酒も飲まず、女遊びもせず、ただ私の命令一つで心臓を止めるような……中世の騎士団のような組織だ」
ヒムラーの目が、微かに輝いた。それは狂信者の光だった。 彼は懐から、手帳を取り出した。そこには、彼が独自に温めていた「親衛隊(SS)」の構想が、びっしりと書き込まれていた。
「閣下、すでに準備は進めております。現在はまだ数百名程度ですが……基準は厳格に設けてあります」
彼は淡々とした口調で、恐るべき選抜基準を読み上げた。
「身長一七〇センチ以上。犯罪歴なし。アルコール中毒でないこと。そして何より……一七五〇年まで遡って、家系にユダヤの血が混じっていない純粋なアーリア人であること」
私は満足げに頷いた。レームの突撃隊は「誰でも入れる」ゴミ捨て場だったが、ヒムラーの親衛隊は「選ばれた者しか入れない」聖域になろうとしていた。
「色は?」と私が尋ねた。「黒です」と彼が即答した。
「褐色は土の色、大衆の色です。しかし黒は、死の色であり、威厳の色であり、そして何色にも染まらない『絶対』の色です」
黒い制服。銀の髑髏の徽章。そのビジュアルが私の脳裏に浮かんだ瞬間、私は震えるほどの美的興奮を覚えた。それだ。それこそが、私の描く「死の帝国」にふさわしい輪郭線だ。
「よろしい。ヒムラー君、君に任せる。その組織を育て上げろ。ただし、数は少なくていい。質だ。一人の親衛隊員が、百人の突撃隊員を無言で制圧できるような……恐怖の芸術品を作り上げろ」
「承知いたしました。……我々の名誉は『忠誠』であります」
彼は深く頭を下げ、そしてまた音もなく部屋を出て行った。その背中は、以前よりも大きく、そして不吉な影を長く引きずっているように見えた。
それからの数年、ヒムラーは取り憑かれたように「品種改良」に没頭した。彼は元養鶏家としての知識を、人間に応用したのだ。優秀な血統を選び、交配させ、不純なものを排除する。彼にとってSSは軍隊ではなく、アーリア人種という種を保存し、純化するための「人間牧場」だった。
SS隊員たちは、党の集会において特別な存在感を放つようになった騒ぎ立てる褐色の突撃隊の横で、微動だにせず、能面のような表情で直立する黒い影たち。彼らは決して笑わない。決して群れない。ただ、私の姿が見えた瞬間にだけ、機械仕掛けの人形のように一斉に敬礼し、命を投げ出す準備をする。
ある夜、私はベルリンのスポーツ宮殿での演説を終え、楽屋に戻った。廊下には、ヒムラーが選抜したSSの儀仗兵が並んでいた。 金髪、碧眼、彫刻のような長身の若者たち。その完璧な造形美を見ながら、私は確信した。
暴力には二種類ある。一つは、熱を帯びた、汚い暴力。これは破壊しか生まない。 もう一つは、冷徹で、静かな暴力。これは「秩序」を生む。
突撃隊は前者であり、親衛隊は後者だ。いずれ、この二つが衝突する時が来るだろう。熱い血が、冷たい刃によって洗い流される日が。
(……だが、今はまだ、両方が必要だ)
私は黒い制服の若者に軽く挙手し、車に乗り込んだ。車の窓に映る私の顔は、かつての革命家の顔ではない。自分の手駒を冷酷に選別し、使い捨てる準備を整えた、支配者の顔だった。
ミュンヘンのアトリエで始まったスケッチは、ついに「死」という色を手に入れた。事務屋ヒムラー。この地味な男こそが、ナチス・ドイツという巨大な処刑場の、最も優秀な管理人となることを、この時の私は予感していた。
黒い影は、まだ小さい。だがその影は、やがて欧州全土を覆い尽くし、ガス室の煙突から立ち上る煙のように、空を黒く染めることになるだろう。




