指導者原理(フューラー・プリンツィプ)
建築において、最も美しく、最も強固な形状とは何か。 それは「ピラミッド」だ。 頂点は鋭く、ただ一点のみ。底辺は広く、無数の石が積み重なり、そのすべてが頂点を支えるために存在する。 そこに「合議」や「多数決」が入る余地はない。頂点の石が右に傾けば、ピラミッド全体が右に傾く。それが物理の法則であり、組織の美学だ。
一九二六年、五月二十二日。ミュンヘン。私は、党の総会を招集した。バンベルク会議で北部の反乱分子を精神的に去勢した私には、仕上げるべき仕事が残っていた。それは、党の規約そのものを書き換え、二度と私に逆らう者が現れないシステムを構築することだ。
会場に集まった党員たちの顔には、すでに以前のような迷いはなかった。彼らはバンベルクでの私の勝利を知っている。ゲッベルスが私にひれ伏したことを知っている。私は演壇に立ち、静かに、しかし断定的に切り出した。
「今日をもって、我々の辞書から『多数決』という言葉を削除する」
ざわめきすら起きなかった。彼らは、私が何を言おうとしているのか、本能的に理解していたのだ。
「民主主義とは何か。それは『責任の回避』だ。百人の無能が集まって決めたことは、誰の責任でもない。だから誰も腹を切らない。だが、我々は違う。ナチズムの組織原理はこうだ。『権威は上から下へ。責任は下から上へ』」
私は黒板にピラミッドの図を描き殴った。
「分隊長は分隊に対して絶対的な権限を持つ。中隊長は中隊に対して、管区指導者は管区に対して。そして私は、党全体に対して全権を持つ。部下は上官を選ばない。上官が部下を任命するのだ。議論はいらない。必要なのは命令と、服従のみだ」
これが、後にドイツ全土を支配することになる指導者原理」の産声だった。
かつて、この党にも委員会の投票ごっこがあった。議長がいて、書記がいて、手を挙げて数を数える滑稽な儀式があった。私はそれを、汚れた雑巾を捨てるように破棄させた。
「諸君、怖気づくことはない。これは君たちにとっても救いなのだ。考えるな。悩むな。正解か不正解かを恐れるな。すべての責任は、このアドルフ・ヒトラーが背負う。君たちはただ、私の指差す方へ走ればいい。たとえそこが地獄の火の海であっても、私が『進め』と言えば、そこは天国への道なのだ!」
会場の空気が変わった。重苦しい「服従」の空気ではない。それは、重い荷物を下ろしたような、恍惚とした「解放感」だった。人間という生き物は、本質的に自由など求めていない。今日の夕食を何にするか、どの道を通って帰るか、そして誰を敵として憎むべきか。それをすべて決めてくれる「強い父」を求めているのだ。
私はこの日、党の名称から「民主的な要素」をすべて剥ぎ取り、私個人を頂点とする宗教的な騎士団へと作り変えた。そして、この新しいピラミッドを強固にするための「接着剤」も用意した。
それは、挨拶だ。「これより、党員同士の挨拶を統一する。右腕を高く掲げ、掌を相手に見せる。武器を持っていないことの証明であり、古代ローマの戦士の礼だ。そして、こう唱えるのだ。『ハイル・ヒトラー』と」
最初は、照れ臭そうにする者もいた。自分の名前を挨拶にさせるなど、常軌を逸したナルシシズムだと思われたかもしれない。だが、私は知っている。言葉は、繰り返すことで「呪文」になる。朝、隣人に会って「ハイル・ヒトラー」。パン屋でパンを買って「ハイル・ヒトラー」。電話を切る時に「ハイル・ヒトラー」。 一日何十回と私の名前を口にし、右手を挙げる動作を繰り返すうちに、彼らの脳髄には「ヒトラー=絶対的な善」という回路が物理的に焼き付けられていく。それは、日常への浸食だ。呼吸するように私を崇拝させる。意識させずに洗脳する。
数ヶ月もすると、この挨拶は党内だけでなく、ミュンヘンの若者たちの間で流行し始めた。右手を挙げない者は「仲間外れ」にされる。「ドイツ人なら、当然やるだろう?」という空気が醸成される。同調圧力という名の見えない鞭が、人々を私の前で整列させていく。
一九二六年の終わり頃には、私の「作品」は完成に近づいていた。内部には議論も派閥もない。あるのは、一つの脳(私)と、無数の手足(党員)だけ。命令一下、全組織が同じ方向を向き、同じ歩幅で行進する。
私は、ミュンヘンの党本部「褐色の家」の執務室で、新しく刷り上がった党員名簿を眺めていた。そこには、かつて私に意見した者たちの名前はない。残っているのは、私のためなら笑って死ねる「信者」たちの名前だけだ。
ピラミッドは完成した。 あとは、この鋭利な頂点で、ワイマール共和国という腐った果実を突き刺すだけだ。
(……だが、まだ足りない)
私はふと、窓の外を見た。街頭では、突撃隊(SA)の連中が暴れている。彼らは私の命令で動くが、その本質は「粗暴なゴロツキ」だ。酒を飲み、喧嘩をし、時には私の制御を離れて暴走する。ピラミッドの土台としては使えるが、頂点を守る「親衛兵」としては美しくない。 もっと冷たく、もっと静かで、もっと忠実な……「黒い番犬」が必要だ。
私の視線は、部屋の隅で黙々と事務処理をしている、一人の男に向けられた。丸眼鏡をかけ、養鶏農家出身の、地味で目立たない男。ハインリヒ・ヒムラー。 彼なら、私のために「地獄の番犬」を育て上げてくれるかもしれない。




