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歪な増幅器

 優れた画家は、自分のパレットに存在しない色を恐れない。むしろ、その「異物」を飲み込み、自分の作品の一部として調和させることにこそ、創造の歓びを見出すものだ。


 一九二五年、再建されたナチ党には、致命的な亀裂が走っていた。それは地図上の南北問題であり、同時に「美学」の衝突でもあった。


 ミュンヘンに座る私は、現実主義的な「国家主義」を掲げ、資本家や右翼との連携を模索していた。対して、ベルリンなどの党員たちは、グレゴール・シュトラッサーを筆頭に、過激な「社会主義」を信奉していた。「金持ちから奪え」「ソ連と手を組め」と叫び、私のことを「ミュンヘンのブルジョワ気取り」と公然と批判していたのだ。


 その北部の反乱分子の中に、一際鋭く、神経質な「ノイズ」を発する男がいた。パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス。ハイデルベルク大学で博士号を取得したインテリ崩れ。小柄で、病的に痩せこけ、幼少期の病により湾曲した右足を引きずって歩く男。  彼は、その身体的なコンプレックスを、世界への呪詛(じゅそ)と、研ぎ澄まされた毒舌へと変換していた。


 彼の日記には、当時の私への評価がこう記されているという。 『あの小市民的アドルフを党から除名すべきだ』 『彼は我々の社会主義を裏切った』


 私は、送られてくる彼の攻撃的な論説を読みながら、不快感の奥で、奇妙な興奮を覚えていた。彼の文章には「リズム」があった。論理的でありながら、読み手の情動を直接撫で回すような、扇情的な文体。それは、私が演説という「聴覚」の芸術で行っていることを、「文字」という視覚情報で行える稀有な才能だった。


(……この男は、使える。今は調律が狂っているだけだ)


 一九二六年、二月十四日。私は、党内の路線対立に決着をつけるため、あえて南部の古都バンベルクに彼らを呼び出した。これは「会議」ではない。「調教」だ。彼ら北部の連中を、私のホームグラウンドである南部の空気に晒し、数的な優位と心理的な圧力で押し潰すための舞台装置だった。


 日曜の朝、会場となったレストランの一室に現れたゲッベルスは、借りてきた猫のように強張っていた。彼は私の目を直視しなかった。知性ある者は、本能的に「より巨大な獣」の存在を感じ取るものだ。彼は、自分の信じる「論理」が、私の持つ「意志」の前では紙切れのように脆いことを、肌で感じていたのだろう。


 議論が始まった。北部の指導者シュトラッサーは、ロシアとの同盟や貴族財産の没収を熱っぽく語った。私はそれを、二時間以上、黙って聞いていた。そして、彼らが語り尽くし、一息ついた瞬間、私は立ち上がった。


「……終わったか?」


 そこから先は、虐殺だった。私は彼らの「社会主義」がいかに近視眼的で、ユダヤ人の陰謀に踊らされているかを、二時間半にわたって徹底的に粉砕した。論理で論破したのではない。圧倒的な「熱量」で、彼らの思考回路を焼き切ったのだ。


「諸君はパンの配分を語る。だが私は、パンを焼くためのカマド(国家)の再建を語っているのだ! ロシアと組む? 愚かな! ボリシェヴィキこそが、我々の魂を食らう敵ではないか!」


 私は、最前列に座るゲッベルスを見据えて叫んだ。彼の顔面は蒼白だった。彼が神と崇めていたシュトラッサーが、私の前で言葉を失い、小さくなっていくのを見て、彼の「信仰」がガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえるようだった。彼は絶望していた。だが、その絶望の瞳の奥に、私は見た。「破壊されたい」というマゾヒスティックな願望を。強すぎる知性に疲れ果て、考えることを放棄し、ただひれ伏すことのできる「絶対者」を求めている、孤独な少年の魂を。


 会議が終わった後、私は茫然自失としているゲッベルスに近づいた。私は、演説の時の鬼のような形相を消し、慈愛に満ちた兄のような微笑みを浮かべて、彼の手を取った。


「……ゲッベルス君」

私は彼の冷たい手を両手で包み込んだ。 「君の才能は、こんな場所で(くすぶ)っているべきではない。君の言葉には、翼がある」


 彼は震えていた。私は彼の耳元で、悪魔の契約を囁いた。


「君は、自分の身体を呪っているかもしれない。だが、私には見える。君の頭脳が生み出す影は、巨人となってベルリンを覆うだろう。……私と一緒に来い。私という素材を、君の言葉で飾り立ててくれ」


 その瞬間、彼の瞳から「抵抗」の色が消えた。代わりに宿ったのは、恋する乙女のような、あるいは狂信的な使徒のような、湿った輝きだった。


 彼は陥落した。論理が敗北し、信仰が勝利した瞬間だった。


 後に彼は日記にこう記している。 『彼は私の手を握った。その瞳は青く、星のように輝いていた。……私は彼に屈服したのではない。私は彼の中に、ドイツの未来を見たのだ。アドルフ・ヒトラー、私はあなたを愛する』


 私は彼を、ナチ党にとって最も困難な戦場、首都ベルリンの「大管区指導者ガウライター」に任命した。  そこは共産党(赤)の支配するコンクリートジャングルだ。だが、ゲッベルスという「増幅器」を得た私は、もはや無敵だった。


 彼はベルリンで、私の期待以上の働きを見せた。彼は政治闘争を、血湧き肉躍る「エンターテインメント」に変えたのだ。共産党員との殴り合いを「英雄的な殉教」として新聞に書き立て、私の演説会場には映画のような照明効果を導入し、入場料を取って人を集めるという常識外れの手法まで編み出した。


 彼がデザインしたポスターは、赤地に黒いハーケンクロイツ。敵である共産党の赤色をあえて使い、さらに洗練されたフォントで煽動的なスローガンを叩きつける。「ベルリンは目覚める! ヒトラーが来る!」


 ミュンヘンから発信された私の「原音」は、ゲッベルスという「増幅器」を通すことで、歪み、増幅され、ノイズ混じりの轟音となって、ベルリン市民の鼓膜を突き破った。


 一九二六年の秋。  私はベルリン駅に降り立った。ホームで私を迎えたのは、満面の笑みを浮かべ、不自由な足を引きずりながら駆け寄ってくる小柄な男だった。彼は私の手を取り、うっとりとした目で見上げた。


総統(フューラー)。舞台は整いました」


 私は満足げに頷いた。この男は、私の影だ。私が光であればあるほど、彼は濃く、鋭く、地面に張り付いて私を支える。役者は揃った。演出家も手に入れた。さあ、いよいよ始めよう。この退屈で平和なワイマール共和国という劇場を、我々のオペラで焼き尽くす時が来たのだ。

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