合法という名の毒
犯人は必ず現場に戻るというが、歴史を書き換える者もまた、因縁の地へと舞い戻る運命にあるらしい。
一九二五年、二月二十七日。私は再び、ミュンヘンの巨大なビアホール「ビュルガーブロイケラー」の敷居を跨いでいた。一年三ヶ月前、私が天井に向けて一発の弾丸を放ち、「革命だ!」と絶叫したあの場所。そして翌朝、無残な敗北と裏切りに塗れ、私の野望が一度は死んだ場所だ。
ホールの空気は、記憶の中にある硝煙の臭いではなく、古いビールと大衆の体臭、そして安タバコの紫煙に満ちていた。会場を埋め尽くすのは四千人の群衆。その多くは、私がランツベルク刑務所に収監されている間、指導者を失って散り散りになっていた「古参闘士」たちだ。彼らの目は飢えている。 彼らは、出所した私が再び拳銃を抜き、今度こそベルリンへ向かって進軍号令をかけるのを期待して集まったのだ。彼らの腰には隠し持ったナイフがあり、ポケットにはメリケンサックが入っている。暴れたくてうずうずしている猛獣の群れだ。
演壇に上がった私は、静かに会場を見渡した。かつて弾痕を刻んだ天井は塗り直され、何事もなかったかのように平然としている。そう、世界は修復される。暴力でつけた傷など、左官屋が来れば半日で消えるのだ。だからこそ、私は悟った。消えない傷をつけるには、物理的な破壊ではなく、構造そのものを腐らせる「ウイルス」が必要なのだと。
私はマイクを握りしめた。一年前の私なら、ここで絶叫し、テーブルを叩き、即座に行動を求めていただろう。だが、今の私は違う。刑務所という名の大学で、私はマキャベリズムの学位を取得したのだ。
「……同志諸君! 我々はあの日、敗北したのではない! 我々は学んだのだ!」
私の第一声が、ざわめくホールを切り裂いた。私は彼らの期待を煽るように、まずはベルサイユ条約への呪詛と、ユダヤ資本への憎悪をたっぷりと語った。彼らの血液を沸騰させ、理性を麻痺させるための準備運動だ。 そして、会場の熱気が最高潮に達した瞬間、私は冷水を浴びせるように、トーンを落として切り出した。
「だが、聞け。……これより、我々は戦い方を変える」
会場が静まり返る。
「もはや、銃はいらない。市街戦も、バリケードも必要ない。……我々はこれより、新しい戦術を採用する。それは『合法性』という名の戦術だ!」
一瞬の空白の後、ホールは困惑と失望のどよめきに包まれた。 「合法だと?」「俺たちに法律を守れというのか?」「臆病風に吹かれたのか、アドルフ!」荒くれ者たちが立ち上がり、野次を飛ばす。彼らにとって「合法」とは、弱腰と同義語であり、自分たちを弾圧してきたワイマール共和国への屈服を意味していた。
私は彼らの怒りを、冷ややかな視線で受け止めた。想定通りだ。彼らは単細胞な筋肉だ。脳みそが制御してやらなければ、ただ暴れて自滅するだけの存在だ。
私は手を挙げ、静粛を求めた。そして、まるで悪魔が契約書を読み上げるような、低く、粘着質な声で語りかけた。
「勘違いするな。私が法律を守るのは、法律を尊重しているからではない。……法律という武器を、敵から奪い取るためだ」
私は身を乗り出し、彼らの目を見据えた。
「諸君、よく考えるのだ。我々の敵である民主主義者たちは、奇妙な宗教を信じている。彼らは『言論の自由』や『結社の自由』、そして『選挙権』などというお題目こそが神聖だと信じ込んでいる。……たとえそれが、自分たちを殺そうとしている我々に対してであっても、彼らはその権利を与えざるを得ないのだ!」
ざわめきが収まり、彼らが私の論理に引き込まれていくのを感じた。私は続けた。
「これは、民主主義というシステムの致命的な自殺願望だ。我々はそのバグを利用する。我々は、鼻をつまんで国会に入ろう。カトリック教徒やマルクス主義者たちと共に席を並べ、退屈な議事進行に従うふりをする。我々は、投票用紙という紙切れを弾丸として使い、彼らの憲法が保証する権利を行使して、彼らの喉元にナイフを突きつけるのだ!」
私は、比喩を重ねて彼らの脳内を書き換えていった。
「我々は議員となり、歳費を国からふんだくり、免責特権という防弾チョッキを着て、議会という建物の内部から、その柱を一本ずつシロアリのように食い荒らすのだ。彼らが気づいた時には、屋根は崩れ落ちている。そして何より滑稽なのは……その崩壊の瞬間まで、彼らは我々を『合法的に選ばれた代表』として扱わなければならないということだ!」
会場の空気が変わった。失望は消え、代わりに底知れぬ悪意と、陰湿な歓喜が広がっていく。彼らは理解したのだ。私が提案しているのは「平和主義」ではない。正面から殴り合うよりも遥かに残酷で、遥かに確実な「騙し討ち」の宣言なのだと。
かつて私と共にミュンヘンの街頭で殴り合いを演じたヘルマン・ゲーリングが、ニヤリと笑っているのが見えた。インテリ崩れのヨーゼフ・ゲッベルスが、熱っぽい瞳でメモを取っているのが見えた。彼らは知っている。この戦術こそが、最も現代的で、最も効率的な殺戮の手法であることを。
「諸君! 道は長い! 銃で政権を奪うよりも、票を集めて政権を奪う方が時間はかかるだろう。だが、その結果は、誰にも覆せない『正統性』を持つことになる! 我々が過半数を握ったその日、我々の意志が法律になる! その時こそ、我々は『合法的に』反対派の首を刎ねることができるのだ!」
ドッ、という爆発音がホールを揺らした。歓声だ。「ハイル・ヒトラー!」「ハイル・ヒトラー!」「ハイル・ヒトラー!」四千人の男たちが総立ちになり、右手を突き上げる。それは、単なる興奮ではない。自分たちが「羊の皮を被った狼」となり、獲物の群れ(議会)の中に潜入するという、背徳的な狩りの始まりに対する興奮だった。
私は演壇の上で、その熱狂の波を全身に浴びていた。天井を見上げる。一年前の銃声は、もう聞こえない。 代わりに聞こえるのは、民主主義の葬送行進曲だ。
私は知っていた。これからの道のりは、地味で退屈なものになるだろう。ドブ板選挙、ポスター貼り、資金集め、そして議会での退屈な駆け引き。だが、私は画家だ。壮大な壁画を描くためには、何千回もの地味な筆の往復運動が必要なことを知っている。
一九二五年、二月。アドルフ・ヒトラーという画家は、新しい画風を確立した。キャンバスを切り裂くナイフは、ポケットの奥にしまっておこう。代わりに手に取るのは、民主主義という名の絵筆と、合法という名の遅効性の毒薬だ。
私は群衆の向こうに、遠いベルリンの国会議事堂を幻視した。あそこには、老いたヒンデンブルク大統領や、保身に走る凡庸な政治家たちが、安眠を貪っている。彼らは夢にも思わないだろう。自分たちが作った「自由」という門から、自分たちを食い殺す怪物が、堂々と正面玄関から入ってこようとしていることを。
眠り続けるがいい、ワイマール共和国よ。お前たちの法律が、お前たちの絞首台のロープになるその日まで。
(……さあ、行こうか。選挙の時間だ)
私は、穏やかな、しかし絶対零度の微笑みを浮かべ、ゆっくりと演壇を降りた。かつての「革命家」は死んだ。ここにいるのは、冷徹なる「政治家」だ。
私の影は、以前よりも長く、黒く、そして鋭く、ドイツの地図の上に伸びていた。
第四章、完。 煽動の季節は終わり、収穫の季節が始まる。




