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鉄格子の向こうの設計図

鉄格子は、私を閉じ込めるための檻ではない。それは、世界という混沌とした風景を、幾何学的に整理するための「枠」に過ぎない。


 一九二四年、夏。ランツベルク要塞刑務所。私の独房は南向きで、明るい日差しが差し込み、窓からは美しいレヒ川のほとりが見渡せた。部屋には花瓶が飾られ、机の上には差し入れの菓子やハムが山積みにされている。看守たちは私を「ヘル・ヒトラー(ヒトラー氏)」と呼び、敬意を込めて接した。ここは牢獄ではない。「国費で賄われるサナトリウム」であり、騒がしい俗世から隔離された、思索のための聖域だった。


 私は、部屋の中央を歩き回りながら、言葉を紡いでいた。タイプライターに向かっているのは、私の最も忠実な崇拝者であり、私という預言者の言葉を記録する使徒、ルドルフ・ヘスだ。


「……書け、ルドルフ。見出しは『生存圏レーベンスラウム』だ」


 タタタ、タタタ……。タイプライターの乾いた打鍵音が、静かな部屋に響く。私は、これまでの人生で蓄積してきたすべての憎悪、すべての偏見、そしてすべての理想を、体系的な「理論」へと精製していた。


 私が書いているのは、単なる自叙伝ではない。これは「設計図ブラウ・プリント」だ。一〇年後、二〇年後に、このドイツという国をどう解体し、どう再構築するか。どの民族を排除し、どの方角へ領土を拡張するか。私は、建築家がビルの構造計算書を書くような冷徹さで、未来の戦争と虐殺の計画を記述していった。


「フランスは宿敵である。だが、我々が真に進むべきは東方……ロシアの大地だ。そこにゲルマン民族のための永遠の農地を確保するのだ」


 ヘスは、恍惚とした表情でキーを叩き続ける。彼にとって私の言葉は、神の啓示そのものだった。私は知っていた。この本が出版されても、世間のインテリたちは「狂人の妄想」と笑うだろう。笑わせておけばいい。設計図の読み方を知らない素人は、建物が完成して自分たちがその瓦礫の下敷きになるまで、何も理解できないのだから。


 ある日、独房に一通の訃報が届いた。ディートリヒ・エッカート。私を「発掘」し、トレンチコートを着せ、社交界へ導き、「お前はメシアだ」と囁いた師。彼が、モルヒネ中毒と心臓発作で死んだという知らせだった。


 私は、窓の外の青空を見上げた。涙は出なかった。胸に去来したのは、悲しみよりも、ある種の「完了」の感覚だった。


(……ご苦労だった、ディートリヒ)


 彼は「洗礼者ヨハネ」だった。救世主の到来を予言し、道を清める役割。だが、救世主本人が現れた今、先導者の役目は終わったのだ。彼が死んだことで、私は彼という「作者」の手を離れ、完全に独立した「作品」となった。いや、私自身が作者となったのだ。


 私はヘスに向き直り、静かに言った。「本の最後に、エッカートへの献辞を入れよう。……だが、本文を変える必要はない。過去は過去だ。我々が見つめるのは未来だけだ」


 この刑務所での生活は、私の中の「自画像」を完全に塗り替える時間でもあった。一揆の失敗までは、私は自分を「道を作る太鼓叩き」だと思っていた。いつか偉大な将軍が現れるまでの露払いだと。だが、ルーデンドルフ将軍の無能さを目の当たりにし、エッカートの死を乗り越えた今、私は確信していた。


 ――私が待っていた英雄は、私自身だったのだ。


 この気付きは、雷に打たれたような衝撃だった。私がドイツを導くのではない。私がドイツそのものなのだ。  私の意志が法律となり、私の憎悪が正義となる。この『わが闘争』という書物は、その新しい神話の聖書となるだろう。


 一九二四年、十二月。仮釈放の知らせが届いた。刑期はわずか九ヶ月弱。国家反逆罪としては異例の短さだ。私は、書き上げた原稿の束をカバンに詰め込んだ。 分厚いその紙束は、鉛の塊のように重かった。ここには、数百万人の運命を決定づける「毒」が封じ込められている。


 出所の日。私は、刑務所の門の前に立った。外の世界は、一年前とは様変わりしていた。「シュトレーゼマンの奇跡」と呼ばれる経済改革によってインフレは収束し、社会には平穏な空気が戻っていた。ナチ党は禁止され、党員は散り散りになり、人々はもう私の名前など忘れかけていた。迎えに来た車の中で、ヘスが不安そうに尋ねた。「総統、党はバラバラです。また一から、あのビアホールで演説を始めるのですか?」


 私は、車窓を流れるバイエルンの冬景色を見つめながら、微かに笑った。「いいや、ルドルフ。もうビアホールの喧嘩屋の時代は終わりだ」


 私はカバンの中の原稿に手を触れた。そこには、新しい戦術が記されている。


「これからは、鼻をつまんで国会に入る。我々は、民主主義という武器庫から、彼らの武器を借りるのだ。選挙、投票、議席……それらを駆使して、我々は合法的に権力の階段を登る」


 一揆の失敗は、私に「忍耐」という新しい絵具を教えた。暴力でキャンバスを破るのではなく、キャンバスの織り目の一つ一つに、時間をかけて自分の色を染み込ませていく。それが、最も確実に世界を征服する方法だ。


 車はミュンヘンへと走る。かつて私を拒絶し、私を嘲笑い、そして私を投獄した街。だが、今の私には、その街が全く違って見えていた。それは、これから私が「合法的に」解体し、私の設計図通りに建て直すための、巨大な建築現場に見えていた。


 アドルフ・ヒトラーは死んだ。そして、アドルフ・ヒトラーが生まれた。一人の人間から、一つの「概念(フューラー)」への変異。 私はトレンチコートの襟を正した。さあ、再建の時だ。第三帝国という名の、巨大なバベルの塔を。

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