オデオン広場の血痕
一九二三年十一月九日、正午過ぎ。ミュンヘンの空は、泣き出しそうなほど重く垂れ込めていた。だが、石畳を踏みしめる二千足の軍靴の響きが、その湿った空気を熱く震わせていた。
我々はイザール川を渡り、市の中心部へと向かっていた。先頭を歩くのは、第一次大戦の英雄ルーデンドルフ将軍。その隣に私、そして突撃隊の幹部たちが腕を組んで横一列に並ぶ。沿道には市民が溢れ出ていた。彼らは昨夜の混乱を知りつつも、ハーケンクロイツの旗と、威風堂々たる行進の列に、ある種の催眠的な興奮を覚えていた。彼らは帽子を振り、「ハイル!」と叫び、あるいは不安そうに口元を覆っている。
私は、コートの襟を立て、前を見据えていた。私の右腕には、同志のマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターがしっかりと腕を組んでいる。左隣には他の幹部たちが続く。我々は物理的に連結された「一つの巨大な意志の塊」だった。
(……見える。私には見えるぞ)
私の脳内では、現実の風景がカンディンスキーの抽象画のように、強烈な色彩の奔流となって渦巻いていた。灰色の街並み、褐色の制服の波、そして赤と黒の旗。これは、ただのデモ行進ではない。腐敗したヴァイマル共和国という古いキャンバスに、私が「革命」という名の極太の筆で、真っ直ぐな線を引いているのだ。ルーデンドルフという「神話」を先頭に立てたこの筆を、誰が止められるというのか。
隊列は、市の中心部、オデオン広場へと続く狭いレジデンツ通りへと差し掛かった。道の両側は重厚な石造りの建物に挟まれ、逃げ場のない谷底のようだ。その時、前方の視界が開けた。通りの出口、フェルトヘルンハレ(将軍堂)の前に、緑色の制服を着た集団がバリケードを築いて待ち構えていた。バイエルン州警察。約百名。彼らは手に、棍棒ではなく、装填されたカービン銃を握りしめていた。
行進の足音が乱れた。後方の隊員たちに動揺が走る。だが、ルーデンドルフ将軍は歩調を緩めなかった。彼はステッキを振り、まるで散歩でもするかのように、銃口の壁に向かって真っ直ぐに進んでいく。 「彼らは撃たん! 構わず進め!」
我々もそれに続いた。距離が縮まる。百メートル、五十メートル、三十メートル……。警官たちの青ざめた顔、震える指先が、肉眼ではっきりと見える距離。その時。私の隣にいた男が叫んだ。 「撃つな! ここにルーデンドルフ将軍がおられるぞ!」
次の瞬間。世界の時が止まった。
――パンッ。
乾いた破裂音が、狭い通りに響き渡った。誰が撃ったのか。我々の側の興奮した突撃隊員か、恐怖に駆られた警官か。だが、それはもはや重要ではなかった。その一発が、「静止画」として保たれていた世界の均衡を粉々に砕いたのだ。
号令が飛んだ。 「撃て(フォイヤ)!」
轟音。百丁のライフルが一斉に火を噴いた。それは、私がこれまで演説で使ってきた「言葉の弾丸」とは違う。熱を持ち、質量を持ち、人体を容易に破壊する、物理的な鉛の嵐だった。
私のすぐ隣で、嫌な音がした。熟れた果実が潰れるような、湿った音。腕を組んでいたショイブナー=リヒターの体が、激しく痙攣した。彼の胸から、信じられないほど鮮やかな「赤」が噴水のように噴き出した。肺を撃ち抜かれたのだ。
「……ぐ、あ……」
彼は声にならない呻きを上げ、崩れ落ちた。彼と腕を組んでいた私は、その全体重に引きずり込まれるようにして、石畳の地面へと激しく叩きつけられた。
激痛が走った。左肩の関節が、嫌な音を立てて外れたのだ。「う、うあああっ!」
私は泥と血にまみれた地面を転げ回った。視界が回転する。耳元では、絶え間ない銃声と、仲間の悲鳴、そして弾丸が石畳を削る音が響いている。私は見た。私の隣で、ショイブナー=リヒターが、虚ろな目を見開いたまま動かなくなっているのを。彼の血が、私のトレンチコートをどす黒く染めていくのを。少し離れた場所では、他の幹部たちが血まみれになって倒れている。後ろにいた突撃隊員たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、あるいは撃たれて石畳の上に折り重なっている。
(……嘘だ。こんなはずはない)
私の描いた完璧な構図が、音を立てて崩壊していく。「意志の力」や「神話」が、冷徹な物理法則の前に無力であることを、私は骨の髄まで思い知らされていた。鉛の弾丸は、詩的な表現など一切解さない。それはただ、直進し、肉を引き裂くだけだ。
ふと、顔を上げると、信じがたい光景が目に入った。ルーデンドルフ将軍だ。彼は、弾丸が飛び交う中を、たった一人で、直立不動の姿勢のまま、警官隊の方へと歩き続けていた。彼の両側で部下たちが次々と撃ち倒されているにもかかわらず、彼は一度も振り返らず、煙の中に消えていった。
私は、その「本物の英雄」の背中を見つめながら、泥の中で震えていた。外れた肩の激痛で、脂汗が噴き出す。恐怖で、歯の根が合わない。
私は英雄ではなかった。私はただの、痛みに弱い、惨めな男だった。
「総統! 早く! こっちへ!」生き残った側近が、私を引きずり起こした。「逃げるんです! ここにいたら殺されます!」
私は、ショイブナー=リヒターの死体の横を這いずり、裏路地に停めてあった黄色い乗用車へと押し込まれた。車は急発進し、戦場から遠ざかっていく。 後部座席で、私は外れた肩を押さえながら、呻き声を上げていた。窓の外では、まだ銃声が続いている。私の作った「作品」が、破壊され、蹂躙されている音だ。
ミュンヘンの空は、相変わらず鉛色だった。だが、私の目には、その景色は全く違って見えていた。私のキャンバスは、引き裂かれた。 私の筆は、折られた。オデオン広場の石畳に残されたのは、英雄的な革命の叙事詩ではない。十数人の若者たちの、無残で、無意味な血痕だけだった。
私は目を閉じた。まぶたの裏に焼き付いているのは、隣で死んだ友の、驚愕に見開かれた瞳。そして、絶対的な「暴力」という現実の前に、あまりにも脆く崩れ去った、自分自身の幻想の残骸だった。




