裏切りの朝
夜明けの光は、希望の色などではなかった。それは、死人の肌のような冷たく青ざめた灰色だった。
一九二三年、十一月九日。私はビュルガーブロイケラーの床で、堅いブーツを履いたまま目を覚ました。口の中には、昨夜の興奮の燃えカスのような、苦い味が残っていた。周囲を見渡せば、数百人の突撃隊員たちが、椅子の上や床で雑魚寝をしている。彼らの寝顔は無防備で、昨日までの「革命の兵士」としての覇気は消え失せ、ただの疲れた労働者のそれに戻っていた。
不吉な静寂。本来ならば、今頃はミュンヘンの市庁舎を占拠し、ラジオ局から「新政府樹立」のファンファーレが流れているはずだった。ベルリンへの進軍準備で、街は沸き立っているはずだった。だが、聞こえてくるのは、遠くで鳴る教会の鐘の音と、冷たい風が窓を叩く音だけだ。
「……総統。悪い知らせです」
蒼白な顔をした伝令が、私の元へ駆け寄ってきた。報告を聞く前から、私には分かっていた。私の本能的な嗅覚が、空気中に漂う「裏切り」の悪臭を嗅ぎ取っていたからだ。
「カー総督、ザイサー警察局長、ロッソウ将軍……彼らは昨夜、総統との誓いを破棄しました。彼らは今、正規軍の兵舎に逃げ込み、我々を『国家反逆者』として指名手配しました。……さらに、政府機関への立ち入りを禁止し、ミュンヘン市内に軍隊を展開させています」
私は、手に持っていた渇いたパンを握りつぶした。裏切り。昨夜、私の銃口の前で「ドイツのために協力する」と涙ながらに誓ったあの男たちが。私が少し目を離した隙に、手のひらを返し、私を檻の中に閉じ込めようとしている。
「……三文芝居の役者どもめ」
私は怒鳴り散らすことはしなかった。ただ、内臓の底から湧き上がる、凍りつくような冷笑を噛み殺していた。彼らは「約束」などという道徳的な概念を持ち合わせていない。彼らにあるのは、自分の保身という卑しい計算だけだ。私の描いた「無血革命」という完璧な構図は、彼らという不純物が混じったせいで、一夜にして見るも無残な失敗作(駄作)へと成り下がってしまった。
ビュルガーブロイケラーは、今や革命の本部ではない。袋小路だ。外には正規軍と武装警察が包囲網を敷きつつある。我々には重火器はない。あるのは小銃と拳銃、そして古臭い手榴弾だけだ。正規軍と正面衝突すれば、数時間で全滅するだろう。
突撃隊の指揮官であるヘルマン・ゲーリングやエルンスト・レームが、殺気立った顔で私を取り囲んだ。 「アドルフ、どうする! ここに籠城するか、それとも裏口から逃げて山へ入るか!」 「彼らは我々を皆殺しにする気だぞ!」
彼らはパニックに陥っていた。昨日までの威勢の良い「英雄」たちは、死の影を前にして、ただの怯える子供になっていた。私は沈黙した。逃げる? オーストリアへ亡命する? いや、それはできない。そんなことをすれば、私は「口先だけの臆病者」として歴史に刻まれ、ナチ党は永遠に笑いものになるだろう。画家として、未完成のまま筆を置くことだけは許されない。たとえキャンバスを切り裂くことになったとしても、何らかの「結末」を描かなければならない。
その時。それまで彫像のように微動だにしなかった一人の男が、口を開いた。エーリヒ・ルーデンドルフ将軍。第一次世界大戦の英雄であり、私の隣でこの革命の神輿に乗っていた男だ。
「……進むのだ」
その声は、驚くほど平坦で、重厚だった。彼は軍服の襟を正し、私を見下ろして言った。
「ヒトラー君。我々は籠城も逃亡もしない。街の中心部へ向かって行進するのだ」
「行進ですって? しかし閣下、外には正規軍がいます。撃ってきますよ」
「撃たんさ」
ルーデンドルフは、確信に満ちた瞳で断言した。
「彼らはドイツ軍人だ。かつての総司令官である私に銃を向けることなどできん。私が先頭に立てば、彼らは銃を下ろし、我々の列に加わるはずだ」
私は、この老将軍の顔を凝視した。彼は本気でそう信じているのだ。「軍人の名誉」や「過去の栄光」が、現実の弾丸を止めると信じている。それはあまりにも前時代的で、あまりにもナイーブな、十九世紀的なロマン主義だった。
(……狂っている。この老人は、ボケているのか?)
だが、次の瞬間。私の脳内で、ある計算式が成立した。
そうだ。この「狂気」こそが、唯一の突破口かもしれない。論理的に考えれば、詰みだ。だが、この絶望的な状況を打破できるのは、論理を超越した「神話的な光景」だけだ。 英雄ルーデンドルフを先頭に立てて、武器を持たずに堂々と行進する。もし軍が発砲しなければ、我々の勝利だ。もし軍が発砲すれば……その時は、我々は「裏切り者に撃たれた殉教者」として、ドイツ国民の記憶に永遠に焼き付けられることになる。
勝っても、死んでも、私の「作品」は完成する。最も最悪なのは、何もしないまま捕まることだ。
私は立ち上がった。迷いは消えていた。私の瞳に、再びあの「演出家」の狂気が宿った。
「……閣下のおっしゃる通りです。行きましょう。運命の行進へ」
私は隊員たちに号令をかけた。「総員、整列! 武器を持て! 旗を掲げよ!」ざわめきが静まり、絶望していた男たちの目に、再び生気が戻る。彼らは知っているのだ。この行進が、凱旋パレードではなく、葬列になるかもしれないことを。だが、この灰色の朝にただ座って待つよりは、破滅に向かって歩き出す方が遥かにマシだった。
午前十一時。隊列は整った。先頭には、私とルーデンドルフ将軍、そして突撃隊の幹部たちが並ぶ。私の隣には、同志であるショイブナー=リヒターが腕を組んで立っている。「アドルフ、死ぬときは一緒だ」彼は笑っていた。
私は、空を見上げた。鉛色の雲の隙間から、一筋の光も差してはいない。だが、私の目には見えていた。 これから流れる鮮血の赤と、火薬の黒で彩られた、壮絶なクライマックスの構図が。
「前へ!」
二千人の男たちが動き出した。イザール川を渡り、ミュンヘンの中心部、オデオン広場へ。そこには、昨夜我々を裏切った者たちが待っている。
私はトレンチコートのポケットの中で、昨夜は使わなかった拳銃を握りしめた。弾丸はまだ残っている。だが、今日使うべき武器は、この鉄塊ではない。私という「存在」そのものを、銃弾として歴史の心臓に撃ち込むのだ。
一九二三年のインフレ紙幣のように、私の命の価値は暴落し、乱高下している。ならば、この命を賭けたギャンブルのレートは、最高倍率でなければならない。橋を渡る風が、冷たく頬を叩く。その冷たさは、イープルの戦場で感じた死の感触によく似ていた。さあ、行こう。美しい地獄へ。




