ビュルガーブロイケラーの銃声
その夜、ミュンヘンの空気は氷のように張り詰め、火薬の微かな匂いが混じっていた。
一九二三年、十一月八日、午後八時。ミュンヘン最大のビアホール、ビュルガーブロイケラー。そこには、バイエルン州総督カー、州警察局長ザイサー、そして陸軍司令官ロッソウという、この地の権力を握る三人の男たちが揃っていた。彼らは、溢れんばかりの聴衆を前に、中央政府に対する不満を、いかにも官僚らしく、退屈な言葉で並び立てていた。
私は、会場の外に停めた重厚なメルセデスの車内で、時計を見つめていた。私の周りには、褐色のシャツを纏い、鉄兜を被り、拳銃と手榴弾で武装した「突撃隊(SA)」の精鋭たちが、飢えた狼のように命令を待っていた。ヘルマン・ゲーリングが、私の耳元で囁く。「総統、配置は完了しました。いつでもいけます」
私は、ポケットの中のブローニング拳銃を強く握りしめた。これまでの私は、言葉を使って大衆の脳内に絵を描いてきた。だが、今夜は違う。私は、この「現実」という巨大なキャンバスに、物理的な衝撃を打ち込む。 「……幕を上げよう」
私は車を降り、迷いのない足取りでビアホールの重い扉を押し開けた。会場内には三千人の聴衆がひしめき合い、熱気とビールの匂いが渦巻いていた。私はその人波を掻き分け、演壇へと続く中央の通路を突き進んだ。背後からは、ゲーリング率いる武装兵たちが、ブーツの音を轟かせて雪崩れ込んでくる。異変に気づいた聴衆が騒ぎ始めた。「なんだ!?」「何が起きている!」怒号と困惑。演壇の上のカー総督は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で立ち尽くしている。秩序が崩壊しようとしていた。人々は恐怖し、逃げ惑おうとし、会場はパニックの寸前だった。
私は、ここで「一筆」入れた。混乱という名の濁った絵具を一瞬で凍りつかせる、絶対的なアクセント。
私は拳銃を高く掲げ、天井に向けて引き金を引き絞った。
――カァァァン!!
耳を裂くような、乾いた金属音が石造りの天井に跳ね返った。その瞬間、三千人の心臓が止まったかのような、完璧な「静寂」が訪れた。飛び散った漆喰の破片が、スローモーションのように私の肩に降りかかる。誰もが動きを止め、誰もが息を呑んだ。私の望んでいた、最高のキャンバスがそこに出現したのだ。私は演壇へと駆け上がり、呆然とする三人の首脳陣を脇に押しやった。そして、静まり返ったホールに、私の「新しい言葉」を叩きつけた。
「国民革命が始まった! 会場は、我々国家社会主義ドイツ労働者党が包囲している! 警察も、軍も、我々の側にある! ベルリンの裏切り者たちの政府は、今この瞬間をもって解散されたのだ!」
嘘だった。軍も警察も、まだ私の手の中にはない。だが、この銃声と、私の圧倒的な確信に満ちた声の前では、嘘は「真実」よりも遥かに力強く響いた。聴衆の顔には、恐怖を超えた「戦慄的な期待」が浮かんでいた。
私は、カー総督ら三人を隣の別室へと連れ込んだ。そこは、文字通り「死の部屋」だった。私は彼らに向かって、拳銃を突きつけた。
「諸君。選択肢は二つだ。私と共にドイツを救うか、あるいはその場で犬死にするかだ。……私には、まだ四発の弾丸が残っている。三発は諸君のために。そして最後の一発は、失敗した時の私のためにだ!」
私の瞳には、狂気と、そしてそれを上回る「美学」が宿っていた。私は彼らを脅しているのではない。彼らという「素材」を、私の描く歴史という絵画の中に、強引に配置しているのだ。彼らは震え、沈黙した。だが、私が再びホールに戻り、ルーデンドルフ将軍――第一次大戦の英雄が私の味方として現れたとき、潮目は変わった。「英雄」の登場に、三人の首脳陣は屈服を装った。彼らは演壇に並び、私との協力を誓った。
会場は狂喜乱舞の渦となった。三千人の聴衆が、ビールジョッキを打ち鳴らし、国歌を歌い、「ハイル・ヒトラー!」と絶叫する。私は、その熱狂の頂点に立っていた。(見ろ。これだ。これこそが、私が求めていた『完成』だ)
一発の銃声が、不可能を可能にした。一発の銃声が、数千人の魂を一つの色に染め上げた。私は、暴力が芸術へと昇華された最高の瞬間を味わっていた。だが、この絵画には、致命的な欠陥が潜んでいた。私は、彼らの「服従」が本物であると信じ込んでしまったのだ。画家がキャンバスの上の絵具を信じるように。深夜。私は占領した都市の管理に追われ、一時的に会場を離れた。その隙に、解放されたカー総督たちは、前言を翻した。 「ヒトラーに銃を突きつけられて無理やり言わされただけだ! あの反乱分子を鎮圧せよ!」彼らは警察と軍を動員し、我々を「犯罪者」として包囲し始めた。夜明け。ミュンヘンの空は、血のように暗い赤に染まっていた。 私の夢見た「無血革命」の構図は、急速に崩れ始めていた。ビュルガーブロイケラーの床には、まだ昨夜の宴の残骸が転がっている。天井には、私の一発の銃弾が刻んだ、小さな、しかし深い傷跡が残っていた。私は、夜明けの冷たい風の中で、拳銃の重みを確かめた。「言葉」は失敗した。「銃声」もまた、一時の幻想に過ぎなかったのか。いや。まだだ。絵が描き上がっていないのなら、より鮮烈な「色」を使うまでだ。一九二三年、十一月九日。我々は、ビアホールを出て、ミュンヘンの市役所へと向かって行進を開始する。それは、私の人生という作品の中で、最も凄惨で、最も「赤」に満ちた、一ページとなるはずだった。




