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ゼロの肖像

 世界が崩壊する音を聴いたことがあるか。それは、爆弾の破裂音でも、建物の崩れる轟音でもない。乾いた紙幣が擦れ合う、カサカサという微かな音だ。


 一九二三年、ミュンヘン。街は、紙の雪に埋もれていた。だが、それは美しい雪ではない。ドイツ帝国銀行が狂ったように印刷し続ける、価値のない紙幣の山だ。私は街角に立ち、そのシュールな喜劇を眺めていた。主婦がリヤカー一杯の札束を運んでいる。それで買えるのは、ジャガイモが数個だけだ。子供たちが、積み木代わりに札束で遊んでいる。老人が、暖炉の薪代わりに紙幣を燃やしている。薪を買うよりも、燃やした方が安いからだ。


 一ドル=四兆二千億マルク。数字は意味をなさなくなり、「億」や「兆」という単位が、まるで無意味な呪文のように飛び交う。昨日までコツコツと貯金をしてきた真面目な中産階級の財産は、一夜にして蒸発した。彼らが生涯かけて積み上げてきた「信用」や「勤勉」という価値観が、ゼロになったのだ。


 人々は絶望し、泣き叫び、あるいは虚無的な目で空を見つめていた。だが、私の心は、かつてないほど静かで、冷徹に澄み渡っていた。


(……見ろ。これが「ヴァイマル共和国」という駄作の末路だ)


 私は、この光景を悲劇だとは微塵も思わなかった。むしろ、一種の「審美的な快感」すら覚えていた。私がずっと主張してきたこと――「この民主主義体制は腐敗しており、いずれ崩壊する」という予言が、最も残酷で、最も分かりやすい形で証明されているのだから。


 一月には、フランス軍が賠償金の未払いを理由に、ドイツの工業心臓部であるルール地方を軍事占領していた。外からの屈辱と、内からの経済崩壊。ドイツという巨大な機械は、完全に機能不全に陥り、悲鳴を上げていた。


 私は、ビアホールの演壇に立った。聴衆の目つきが変わっていた。以前のような、政治的な不満を持つ者たちの目ではない。明日のパンすら手に入らない、飢えた獣の目だ。彼らはもう、論理的な解決策など求めていない。誰を殺せばこの苦しみが終わるのか、それだけを知りたがっていた。


 私は、彼らに「犯人」を教えてやった。「諸君のパンを盗んだのは誰だ! 諸君の貯金を紙屑にしたのは誰だ! それは、ベルリンの無能な政府であり、彼らを操るユダヤ国際金融資本だ!」


 私の言葉は、乾いた薪に投げ込まれた松明のように、爆発的な憎悪の炎を巻き起こした。インフレは、私にとって最高の追い風だった。人々が貧しくなればなるほど、彼らは過激な解決策を求める。社会が混乱すればするほど、彼らは強力な独裁者を待望する。私は、党の幹部たちに言った。「嘆くことはない。このインフレこそが、我々の最大の味方だ。政府が国民を地獄へ突き落とすほど、国民は我々の天国を信じるようになる」


 私の懐には、サロンの貴婦人たちから巻き上げた「外貨ドルやポンド」があった。紙屑になったマルクしか持たない国民の中で、外貨を持つ我々は、相対的に莫大な富を手にしていることになった。その金で、我々は突撃隊の装備を整え、トラックを買い、来るべき日のために武器を蓄えた。国が滅びゆく中で、ナチ党だけが、肥え太った寄生虫のように力を増していたのだ。


 秋が深まるにつれ、空気は張り詰めていった。コブルクで血の味を覚えた突撃隊員たちは、もはや演習だけでは満足できなくなっていた。彼らは本物の革命を、本物の市街戦を求めて唸りを上げていた。「総統、いつやるんですか! 今こそベルリンへ進撃すべきです!」エルンスト・レームや、血気盛んなヘルマン・ゲーリングが私に詰め寄った。


 私は彼らを制しながら、冷静にタイミングを計っていた。画家として知っている。絵具が乾く前に次の色を乗せれば、絵は濁ってしまう。だが、待てば良いというものでもない。機を逃せば、この熱狂は冷め、人々は諦めという名の日常に戻ってしまうだろう。


 十一月。バイエルン州政府は、中央政府ベルリンに対して反旗を翻し、非常事態宣言を出していた。国が分裂しようとしている。混沌が極まった。(……今だ。すべての色が混ざり合い、黒に近い灰色になった今こそ、私が最後の一筆を入れる時だ)


 私は決断した。もう、言葉の時代は終わった。これからは、行動(アクション)だ。


 私は懐から、重たい金属の塊を取り出した。ブローニング拳銃。冷たい鉄の感触が、私の手のひらに吸い付く。私はこれまで、言葉を銃弾のように使ってきた。だが、明日は本物の銃弾を使うことになるだろう。


 一九二三年十一月八日。運命の前夜。私はミュンヘンのアパートで、鏡の中の自分を見つめていた。そこに映っていたのは、もはやウィーンの浮浪者でも、戦場の伝令兵でも、ビアホールの扇動家でもなかった。崩壊した世界の中心に立つ、唯一の設計者。すべてが「ゼロ」になったこの廃墟の上に、千年続く帝国を築くことを運命づけられた男の肖像。


 私はトレンチコートを羽織り、拳銃をポケットにねじ込んだ。明日の夜、ミュンヘン最大のビアホール「ビュルガーブロイケラー」で、バイエルン政府の要人たちが集会を開く手はずになっている。そこが、私の劇場の舞台だ。


 私は、静かに、しかし狂おしいほどの確信を持って呟いた。「……幕を開けよう。これは、私の革命だ」


 インフレという名の狂乱の宴は、明日、一発の銃声によって終わりを告げる。そして、より巨大で、より血なまぐさい、新しい時代が始まるのだ。

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