サロンの黄金
金には匂いがある。労働者の握りしめる紙幣は、汗と機械油と、そして絶望の酸っぱい匂いがする。だが、ここにある金は違う。フランス製の香水、上質な革の手袋、そして退屈な午後のお茶会の甘い匂いがするのだ。
一九二三年、ミュンヘンの一等地。出版業者ブルックマン家の豪奢なサロン。クリスタルのシャンデリアが放つ柔らかい光の下で、私は絹のソファに深々と腰掛けていた。私の周りを取り囲んでいるのは、ビアホールにいるような怒れる男たちではない。ダイヤモンドの首飾りをつけた、初老の貴婦人たちだ。
「……まあ、なんて酷い話なんでしょう。今の政府は、ドイツの英雄をそんな風に扱うなんて」
エルザ・ブルックマン夫人が、ハンカチで目元を抑えながら言った。私は、わざとらしく視線を落とし、膝の上で固く組んだ手を見つめた。エッカートに教え込まれた「憂国の士」のポーズだ。
「ええ、奥様。私個人が飢えるのは構わないのです。私が耐え難いのは、偉大なるドイツの子供たちが、明日食べるパンさえ奪われているという事実……ただそれだけが、私の胸を引き裂くのです」
私は顔を上げ、少し湿った瞳で彼女を見つめた。その瞬間、彼女の瞳孔が開くのを、私は冷静に観察していた。彼女たちは、私に「政治」を求めているのではない。平和で満ち足りた、しかし死ぬほど退屈な彼女たちの日常に、劇的な「悲劇」と、それを救おうとする「情熱」というスパイスが投げ込まれるのを待っているのだ。
私は、彼女たちにとっての「可愛い狼」だった。それが、この界隈での私のニックネームだ。 危険な牙を持っているが、飼い慣らせば忠実で、どこか傷ついていて守ってあげたくなる野生動物。彼女たちは、私という猛獣をサロンで飼うことに、背徳的なスリルを感じていたのだ。
ピアノメーカーのベヒシュタイン夫人、ヘレーネもまた、私に夢中だった。彼女は私を「息子」のように扱い、私の好物である甘いケーキを山のように用意し、私がそれを頬張る姿を見て目を細めた。「アドルフ、あなたは少し痩せすぎよ。もっとお食べなさい。ドイツを背負う体なのだから」彼女はそう言って、封筒を私のポケットに滑り込ませた。その中身を確かめる必要はない。厚みで分かる。スイスフランか、あるいは米ドルだ。インフレで紙屑同然になったドイツマルクではない、本物の「力」だ。
私は、ウィーン時代から女性という生き物が苦手だった。彼女たちは感情的で、論理がなく、私の崇高な世界観を理解しない「ノイズ」だと思っていた。だが、このサロンでの経験は、私に新しい「女性の操縦法」を教えた。彼女たちを口説くのに、愛の言葉など必要ない。必要なのは、徹底的な「禁欲」の演出だ。
私は、酒も飲まず、タバコも吸わず、肉も食わず、そして決して特定の女性と浮き名を流さない。「私はドイツと結婚したのです」この台詞は、魔法のような効果を発揮した。私が独身であり、誰のものでもないという事実は、彼女たち一人一人に「私が彼を支えているのだ」という独占欲と、聖母のような慈愛を抱かせた。私は、彼女たちの満たされない母性本能と、性的抑圧の代償行為としての「献金」を、掃除機のように吸い上げたのだ。
サロンからの帰り道。私は、いただいた封筒や、時には「活動の足しにして」と渡された宝石類を、無造作にコートのポケットに突っ込んでいた。外の空気は冷たく、街は貧困に喘いでいる。だが私の懐は温かい。
私は、党本部の裏口で待っていたレーム大尉に、その戦利品を手渡した。「……おいおい、今夜は大漁だな、アドルフ」レームは封筒の中身を見て口笛を吹いた。「これなら、トラックが二台……いや、機関銃も買えるぞ」
そう。サロンの貴婦人たちが「可哀想なアドルフのために」と流した涙と金は、即座に形を変える。彼女たちが首に巻いていた真珠は、突撃隊員が履く頑丈な長靴に変わる。彼女たちが指にはめていたルビーは、共産党員の頭を砕く警棒に変わる。そして、彼女たちが愛した「ピアノの旋律」のような私の言葉は、街宣車のスピーカーから吐き出される「騒音」へと変換されるのだ。
これは、ある種の美しい食物連鎖だった。腐りかけたブルジョワジーの脂肪を吸い取り、それを純粋な筋肉へと変える錬金術。彼女たちは知らない。自分たちの金が、やがて自分たちの愛する「古き良き優雅な世界」を破壊するための燃料になっていることを。
(……笑いたければ笑うがいい)
私は、自分の下宿に戻り、鏡の中の自分を見つめた。燕尾服を着て、髪を撫でつけ、上品な笑みを浮かべる自分。それは完璧な道化だ。だが、この道化の仮面の下には、誰にも飼い慣らせない本当の狼が、牙を研いで待っている。
ある日、ヘレーネ・ベヒシュタインが私に言った。「アドルフ、あなたはいつか首相になるわ。そうしたら、私を一番前の席に座らせてね」
私は、彼女の手を取り、ウィーン仕込みの優雅な動作で口づけをした。「約束します、マダム。貴女には、特等席を用意しましょう」
心の中で、私は冷ややかに付け加えた。――新しいドイツが完成した暁には、君たちのような「無能な金持ち」が座る席など、どこにもないがな。
金は集まった。メディア、暴力装置、そして資金。三つの絵具が揃った。だが、まだ足りないものがある。 それは「実績」だ。ミュンヘンという温室の中で吠えているだけでは、革命は起こせない。私は、この「可愛い狼」の仮面を脱ぎ捨て、本物の血の味を覚えなければならない。一九二二年、十月。「ドイツの日」というイベントが、北部の都市コブルクで開催されるという知らせが届いた。そこは共産主義者(赤)の要塞と呼ばれる危険地帯だ。招待状には「少数の随員と共に来るように」と書かれていた。
私は笑った。少数? 馬鹿を言うな。私は、サロンで集めた金でチャーターした特別列車に、八百名の完全武装した突撃隊を詰め込んだ。遠足の時間は終わりだ。これからは、征服の時間だ。




