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影の演出家

 傑作というものは、キャンバスと絵具だけでは完成しない。それを飾る重厚な「額縁」があり、それを批評し価値付ける「権威」があって初めて、ただの落書きが芸術へと昇華されるのだ。


 一九二二年。私は、ミュンヘンのビアホールでは「王」だったが、一歩外へ出れば、ただの薄汚れた「元伍長」に過ぎなかった。上流階級の紳士たちは、私の擦り切れた軍服と、訛りのあるドイツ語を嘲笑っていた。 「ヒトラー? ああ、あの下品な太鼓叩きか。労働者を騒がせるには丁度いいピエロだ」彼らの冷ややかな視線は、ウィーンの美術アカデミーで味わった屈辱を私に思い出させた。


 だが、私には「父」がいた。実の父ではない。魂の、そして政治の父だ。ディートリヒ・エッカート。詩人であり、劇作家であり、そしてモルヒネとアルコールに溺れた、巨大な体躯の男。彼は私とは正反対だった。裕福で、教養があり、ユーモアのセンスを持ち、ミュンヘンの社交界に顔が利いた。彼は私という歪な原石の中に、彼自身が夢見ても成し得なかった「ドイツの救世主」の姿を見出した唯一の人間だった。


「アドルフ、お前には才能がある。だが、今のままでは田舎芝居の役者だ」

 エッカートは、高級レストランのテーブルで、ワイングラスを揺らしながら言った。私はナイフとフォークの使い方も知らず、ただ黙って座っていた。

「いいか、大衆を熱狂させるだけでは不十分だ。国を動かすには、金とコネが必要だ。そして金を持っているのは、いつの時代も退屈した有閑階級の貴婦人たちだ」


 彼は私を「教育」した。  テーブルマナー、スーツの着こなし、会話の()。彼は私を自分の息子のように、あるいは愛する作品のように磨き上げた。そしてある日、彼は私に一着のコートを買い与えた。それは安っぽい軍服の上から羽織る、上質なトレンチコートだった。私は鏡を見た。そこに映っていたのは、もはや貧しい兵士ではなかった。革命の風に吹かれて立つ、憂いを帯びた指導者の姿だった。


「そうだ、アドルフ。その目だ。その悲劇的な英雄の目をしていれば、女たちは勝手に財布を開く」


 エッカートは私を連れ、ベルヒテスガーデンの別荘や、ミュンヘンの富豪たちのサロンを回った。ピアノの旋律、シャンデリアの輝き、香水の香り。そこは、私が最も憎んでいた「ブルジョワジー」の世界だった。だが、私はエッカートの脚本通りに演じた。寡黙で、禁欲的で、祖国ドイツの未来だけを憂える孤独な男。効果は劇的だった。宝石をつけた夫人たちは、私の演説に涙を流し、「この方こそがドイツを救うのよ」と囁き合い、夫の隠し財産を私の活動資金として差し出した。ピアノメーカーのベヒシュタイン夫人、出版業者のブルックマン夫人……。彼女たちは私の「母」となり、私という作品に金箔を貼るスポンサーとなった。


 だが、エッカートが私に与えたもので最も大きかったのは、コートでも金でもない。それは「言葉の毒」だった。


 ある夜、酔っ払ったエッカートは、私の肩を抱いて言った。「アドルフ、お前はただの太鼓叩き(扇動者)じゃない。お前は……メシア(救世主)だ」


 私は彼を見た。彼の瞳は、薬物とアルコールで濁っていたが、その奥には狂信的な光が宿っていた。「ドイツは長い間、英雄を待っていた。バルバロッサのように眠りから覚め、民衆を導く光を。……それがお前だ。お前が、その役を演じ切るんだ」


 ――メシア。その言葉は、私の脳髄に甘美な電流となって走った。それまでの私は、自分が「道を切り開く者(先駆者)」だと思っていた。私の後に、もっと偉大な将軍や政治家が現れるのだと。だが、エッカートは囁き続けた。「違う、お前自身がゴールなのだ」と。


 私は、彼が書いた詩を読んだ。『ドイツよ、目覚めよ』。その詩の中で、彼は私を神格化し、伝説の英雄と重ね合わせた。私は次第に、その「物語」に侵食されていった。いや、喜んで同化したのだ。私が鏡を見るたび、そこには人間アドルフではなく、ドイツ民族の運命を背負った「超人」が映るようになった。


(……そうだ。ディートリヒ、あんたは正しい。私が選ばれたのだ)


 しかし、芸術家というものは残酷だ。作品が完成に近づけば、教師は不要になる。エッカートの体は、不摂生によって崩壊し始めていた。彼の息は酒臭く、その存在は次第に「洗練された指導者」になりつつある私にとって、古臭い重荷になりつつあった。


 一九二三年の初頭。私は、かつて私を見下していたサロンの人々の中心で、熱っぽく語っていた。エッカートは部屋の隅で、寂しげにグラスを傾けていた。彼は気づいていたのだろう。自分が作り上げた人形が、自分の手から糸を切り離し、自分の意志で歩き始めたことを。あるいは、自分が呼び出した悪魔が、もはや制御不能な怪物に育ってしまったことを。


 私は彼に感謝していた。彼がいなければ、私はただの「叫ぶ伍長」で終わっていただろう。彼は私に「額縁」を与え、私が名画として世に出るための舞台を整えてくれた。だが、演出家の出番はここまでだ。これからの劇の主役も、脚本も、そして監督も、すべて私がやる。


 私はトレンチコートの襟を立て、ミュンヘンの夜霧の中を歩いた。ポケットには、夫人たちから巻き上げた金が入っている。頭の中には、エッカートが植え付けた「選民思想」が、巨大な城郭のようにそびえ立っている。


 影の演出家は、舞台袖に退場する時間だ。スポットライトは、今、私一人を照らしている。

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