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ホフブロイハウスの乱闘

 その夜、ホフブロイハウスの空気は、火薬のような匂いを孕んでいた。


 一九二一年、十一月四日。会場には、三千人近い聴衆が詰めかけていた。タバコの紫煙が天井に層をなし、無数の話し声が低い唸りのように空間を震わせている。だが、私の敏感な嗅覚は、その中に混じる「異質な殺気」を嗅ぎ取っていた。


 演壇に立った私は、ホールの後方を睨みつけた。そこには、明らかに我々の支持者ではない集団が陣取っていた。薄汚れた作業着を着た男たち。社会民主党や共産党が送り込んできた破壊工作員だ。彼らのテーブルには、尋常ではない数のビールジョッキが積まれている。あれは喉を潤すためではない。投擲(とうてき)するための「弾薬」だ。


「……来たか」


 私は恐怖を感じるどころか、口の端が歪むのを抑えるのに必死だった。待ちわびていたのだ。私がデザインし、レーム大尉が鍛え上げた「突撃隊」という名の彫刻刀が、実際にどれほどの切れ味を持っているのかを試す絶好の機会を。


 私の手元にいる突撃隊員は、わずか四十六名。対する敵は、推定で七百から八百名。数的な劣勢は明らかだった。常識的な指揮官なら、集会を中止して逃げ出すだろう。だが、私は画家だ。キャンバスに向かう際、重要なのは絵具の量ではない。「筆の強さ」と「意志の純度」だ。


 午後八時。私は演説を開始した。「ドイツの同胞諸君! 我々が直面している屈辱について……」


 私が口を開いて数分後、合図は送られた。敵の集団から、「自由!」という叫び声と共に、怒号が巻き起こった。次の瞬間、空気が物理的な質量を持って動き出した。数え切れないほどの重たい陶器のジョッキが、砲弾のように宙を舞い、我々の頭上へと降り注いだのだ。


 ガシャン! バリン!  割れる音、女の悲鳴、怒号。会場は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。普通の演説家なら、ここで演壇の下に潜り込むだろう。だが、私は一歩も動かなかった。演壇の手すりを強く握りしめ、降り注ぐガラス片を浴びながら、そのカオスを見下ろしていた。


(……美しい)


 私は、戦場で見た光景を思い出していた。秩序が崩壊し、生の感情が剥き出しになる瞬間。だが、今夜の崩壊には、私が仕込んだ「解毒剤」が存在する。


「やれ! 叩き出せ!」


 私の命令が飛んだ。その瞬間、会場の四隅に配置されていた四十六名の突撃隊員が、弾かれたように動き出した。彼らは、敵のように喚き散らしたりはしなかった。沈黙を守ったまま、獲物を狙う狼の群れのように、敵の集団の中心へと突っ込んでいったのだ。


 彼らが振るうのは、ゴムの警棒、椅子の脚、そして鍛え上げられた拳だ。訓練通りだった。彼らは個別に戦うのではなく、数人でチームを組み、敵のリーダー格を集中的に攻撃した。頭蓋骨が砕ける鈍い音。鼻骨が折れる感触。鮮血の赤が、ホールの床に鮮やかな飛沫を描く。


 私は演壇の上から、その光景を「鑑賞」していた。それは、ただの乱闘ではなかった。無秩序な「多勢」が、規律ある「少数」によって蹂躙されていく。だらしない民主主義的な暴徒が、全体主義的な鋼鉄のハンマーによって粉砕されていく。これは、私の政治哲学を、暴力という言語で翻訳した実演証明(デモンストレーション)だった。


「総統! 危険です、下がってください!」側近が叫び、私を庇おうとした。私はその手を振り払った。「触るな! 見ていろ、これが『意志の勝利』だ!」


 二十分後。嵐は去った。信じがたいことに、八百人の暴徒たちは、わずか五十人に満たない私の兵士たちによって、ホールの外へと叩き出されていた。あるいは階段から転げ落ち、あるいは血まみれになって床に這いつくばっている。


 会場に残ったのは、割れたガラスの山と、折れた椅子の残骸、そして数人の重傷者たち。だが、奇妙なことが起きた。一般の聴衆たちは、逃げ出すどころか、椅子の上に立ち上がり、興奮した面持ちで突撃隊員たちに拍手を送っていたのだ。


 彼らは見たのだ。圧倒的な暴力が、悪を駆逐するカタルシスを。彼らは「平和」を望んでいたのではない。「強い秩序」を望んでいたのだ。たとえそれが、どれほど残酷な手段でもたらされたものであっても。


 私は、血の匂いが充満する演壇で、再びマイクを握った。私のコートには、誰かの返り血が点々と付着していた。私はそれを拭おうともせず、静まり返ったホールに向かって語りかけた。


「……諸君。見たか。これが、今のドイツを蝕んでいる敵の正体だ。彼らは議論などしない。暴力で我々の口を封じようとした。だが! 我々は屈しなかった!」


 割れんばかりの歓声。さっきまでの恐怖は、熱狂的な崇拝へと変わっていた。私は知った。暴力は、隠すものではない。正しく演出し、正しく勝利すれば、それは最高のエンターテインメントになるのだ。


 演説が終わった後、私は怪我をした突撃隊員たちを閲兵した。彼らの顔は腫れ上がり、制服は破れていたが、その瞳は異常なほど輝いていた。彼らは今夜、英雄になったのだ。私は一人一人の手を取り、その血に濡れた手を固く握りしめた。


「よくやった。お前たちの流した血は、インクよりも雄弁だ。……この傷こそが、我々の勲章だ」


 ホフブロイハウスの乱闘。この夜を境に、ナチ党の集会は「単なる政治集会」ではなくなった。それは、命がけの闘争を目撃できる「劇場」となった。人々は、スリルと、強い指導者と、そして「敵が叩きのめされる快感」を求めて、我々のもとへ押し寄せた。


 私は、ビアホールの出口で夜風に当たりながら、確信した。世界というキャンバスは、筆先で撫でるだけでは色は乗らない。ナイフで切り裂き、その傷口に絵具を擦り込むようにして描かなければならないのだ。


 私の手には、暴力という名の最強の画材が握られている。もはや、怖いものなど何もない。次はミュンヘンだけではない。もっと広い場所、敵の本拠地へ、この「茶色の軍隊」を行進させる時だ。

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