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【間話:破かれた地図と混濁する色彩】

 アドルフ・ヒトラーという一人の伍長が、ミュンヘンの場末のビアホールで「言葉の筆」を手に入れたその時、彼を取り巻く世界――すなわち、彼が「キャンバス」と呼ぶべき欧州の地図は、無残に引き裂かれ、血と(すす)で塗りつぶされていた。


1. 帝国の没落と色彩の喪失


 一九一四年以前のヨーロッパは、巨大な帝国という重厚な「額縁」によって守られていた。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国。そこには伝統という名の、古臭くはあるが堅牢な構図が存在していた。しかし、四年にわたる大戦は、それらすべての額縁を粉砕した。かつてアドルフが「純粋な秩序」を夢見たドイツ帝国は、一九一八年十一月のドイツ革命によって心臓部を撃ち抜かれ、ヴィルヘルム二世という象徴を失った。地図上から「帝国」という威厳ある色が消え、代わりに現れたのは、敗戦の賠償金に喘ぐ「ヴァイマル共和国」という、あまりにも虚弱で、彩度の低い灰色の国家だった。


2. ベルサイユという名の「歪んだパースペクティブ」


 一九一九年六月、ドイツに突きつけられた「ベルサイユ条約」。それは勝者によって一方的に引かれた、屈辱の境界線だった。領土を割譲され、軍備を剥奪され、天文学的な賠償金を課せられたドイツ国民にとって、世界はもはや「均衡」を失った歪な絵画でしかなかった。アドルフはこの歪みを「芸術に対する冒涜」と捉えた。彼にとってベルサイユ条約は、ドイツという最高傑作を、凡庸な隣国たちがナイフで切り刻んだ結果に他ならなかったのだ。


3. 「赤」と「黒」の衝突(イデオロギーの混濁)


 国家の土台が崩れたことで、ドイツの内側では色彩の衝突が起きていた。ロシアから流れ込んできたのは、すべてを平等という名の虚無で塗りつぶそうとするボリシェヴィキの「赤」。  それに対抗するのは、崩壊した帝国を懐かしみ、古い秩序を力で取り戻そうとする右翼義勇軍フリーコールの「黒」。  ミュンヘンの街路は、もはや風景を描くための場所ではなく、この二つの色が互いの血を流して塗り潰し合う、凄惨なアトリエへと化していた。


4. 隙間に立つ男


 世界大戦という「巨大な破壊の美学」を経て、一億の命が消費された後。かつて一通の「不採用通知」に泣いた青年は、今や「一国の死」を目の当たりにしていた。彼は気づいていた。古い画家たちは、木を、水を、人を描こうとして失敗した。しかし、これほどまでに破壊し尽くされ、真っ白な灰になったドイツという大地ならば。今度は、一人の天才が望むままの「新しい秩序」を、一から描き直せるのではないか。


 世界が絶望に沈み、人々が「次の色」を求めて彷徨っていたその隙間に、彼は立っていた。手には、パセウォルクの暗闇で研ぎ澄まされた「言葉」という名の鋭いナイフ。そして、軍の調査員として培った「大衆の急所」を見抜く冷徹な観察眼。


 歴史という名の時計の針が、一九二〇年へと進もうとしている。それは、一人の狂った「自称画家」が、国家という名の巨大なキャンバスに最初の下書きを開始する、【煽動の時代】の幕開けであった。

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