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言葉という名の暴力

 その場所は、歴史の転換点にふさわしい荘厳さなど、欠片も持ち合わせていなかった。


 一九一九年九月十二日。ミュンヘンの裏通りにある、薄暗く埃っぽいビアホール『シュテルネッカーブロイ』。私は軍の調査員スパイとして、そこに集まる怪しげな政治団体「ドイツ労働者党」の会合を監視する任務に就いていた。使い古された木のテーブル、安っぽいビールの苦い匂い、そして数十人の、社会への不満を抱えた冴えない男たち。それが、後に世界を震わせる「巨大な嵐」の孵化場であった。


 私は、部屋の隅の暗がりに腰を下ろし、手帳に冷淡な記録を綴っていた。演壇に立つ教授風の男が、バイエルンの独立について退屈な持論を述べている。その言葉は、私の耳には空虚な風の音にしか聞こえなかった。ウィーンの路上で聞き、フランドルの戦場で見届け、ミュンヘンの革命で学んだ「血と鋼鉄の真実」に比べれば、彼らの議論はあまりにも色彩を欠き、構図が甘かった。


(……無価値だ。この男たちは、キャンバスの前に座りながら、筆の持ち方さえ分かっていない)


 私は、さっさと報告書をまとめて立ち去ろうとした。だが、その時。一人の参加者が立ち上がり、バイエルンがプロイセン(ドイツ北部)から分離すべきだという、私の「純粋なるドイツ」という理想を真っ向から否定する主張を始めた。


 その瞬間、私の内側で何かが爆発した。それは、パセウォルクの暗闇で研ぎ澄まされ、裏切りの赤い腕章の下で沈黙し続けていた、煮え繰り返るような「表現の衝動」だった。私は気づいた時には、椅子を蹴り飛ばし、部屋の中心へと歩み出ていた。


「……黙れ! お前の言葉は、ドイツという肉体をバラバラに切り刻むナイフに過ぎない!」


 私の声が、ビアホールの低い天井に跳ね返り、男たちの耳を打った。全員の視線が、私に注がれる。それはかつてウィーンのアカデミーの門前で浴びた嘲笑の視線でも、戦場での忌避の視線でもなかった。それは、暗闇に投げ込まれた「光」を追う、餓えた獣たちの視線だった。


 私は話し始めた。いや、それは「話す」という生温い行為ではなかった。私は、自分の喉という噴火口から、長年蓄積してきた「憎悪」と「理想」を、真っ赤な溶岩のように流し込んでいたのだ。


「我々がなぜ敗れたのか、お前たちは知っているか! それは我々の兵士が弱かったからではない。背後から、不浄な裏切り者たちの手によって刺されたからだ!」


 私の言葉は、最初は震えていた。だが、話し続けるうちに、私は自分の「声」が、目に見える実体を持った「筆」へと変化していくのを感じた。一言、放つたびに、ビアホールの淀んだ空気が一色に染まっていく。私は、聴衆の一人ひとりの瞳を見つめた。彼らの瞳は、最初は戸惑いに揺れていたが、やがて私の言葉という絵具が塗り込まれるにつれ、狂熱的な「輝き」を帯び始めた。


 私は、彼らの脳内にある「絶望」という灰色の下地を、強烈な「復讐」と「誇り」の赤で上書きしていった。論理など必要ない。整合性などどうでもいい。必要なのは、彼らが言語化できずにいた怒りを、最も残酷で、最も美しい形で肯定してやることだ。


(……描ける。私は、今、この男たちの魂を描き換えている!)


 かつてキャンバスの上で格闘していた頃には、決して得られなかった万能感が、私の全身を貫いた。絵具は乾かない。キャンバスは拒絶しない。私の声の震動に合わせて、数十人の大人が息を呑み、拳を握り、涙を流す。  私は、この時初めて、自分が「神の筆」を手に入れたことを確信した。私は十五分間、叫び続けた。演説が終わったとき、ビアホールには不気味なほどの静寂が流れた。そして次の瞬間、地鳴りのような拍手が巻き起こった。会合の主催者であるアントン・ドレクスラーという男が、震える手で私に一枚のパンフレットを差し出した。 「君……君のような男を待っていたんだ。ぜひ、我々の仲間になってくれ」


 私は、その汚れたパンフレットを無造作に受け取った。私の胸には、もはや軍の調査員としての義務感などなかった。そこにあったのは、自分が「何をすべきか」という、あまりにも明白な設計図だった。


 私は、ビアホールを出て、ミュンヘンの夜の街を歩いた。かつて私を拒絶したウィーンの空虚。私を殺そうとしたフランドルの戦火。私を欺こうとした革命の赤。そのすべてが、今、私の「声」という一振りの筆の中に収斂されていた。


(画家アドルフは、死んだのではない。……進化したのだ)


 私は、足を止めて自分の手を見つめた。絵具で汚れていた指先は、今や、大衆の熱狂という不可視のエネルギーを掴み取っている。これからのキャンバスは、木枠に張られた布ではない。ドイツという広大な大地。八千万の国民という、巨大な色彩の集団。私は、夜空に向かって、声に出さずに呟いた。「描き直してやろう。……この腐り果てた世界を、私の『色』だけで」


 一九一九年、九月。アドルフ・ヒトラー、党員番号五五五番(実際には五五番目)。  一人の「言葉の暴力」を手に入れた芸術家が、歴史という名の巨大なキャンバスに向かって、最初の一筆を力強く、そして残酷に叩きつけた瞬間であった。

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