第3話 彼女はループを知っている
目覚ましのアラームが、けたたましく鳴り響く。
宮坂悠真は、反射的にその音を止めると、ぼんやりと天井を見つめた。
──始業式の朝。
見慣れた部屋。差し込む光。昨日と同じ景色。
しかし、胸の奥でざわめいている感覚は、昨日とまったく同じではなかった。
白石澪が──目の前で車にはねられ、血を流し、倒れて。
最後にかすかに口にした「また、か」という言葉。
そして暗転。気づけば、すべてが始まりに戻っていた。
あれは夢だったのか?
悪夢にしては生々しすぎる。
脳裏に焼き付いた鮮烈な光景を、忘れることなど到底できなかった。
「……本当に、繰り返してるのか」
声に出してみると、喉の奥がかすかに震えた。
澪を助けたはずの今日が、また繰り返されている。
これは偶然や思い込みではない。
──確かに、時間が巻き戻っている。
悠真は制服に着替え、重い足取りで学校へと向かった。
◆
校門前には、また同じような光景が広がっていた。
新入生たちの声、二年生のざわめき。
そして──
「おーい、悠真!」
背後から豪快な声。
振り返れば、椎名隼人が満面の笑みで手を振っている。
「……また、同じだ」
昨日と寸分違わぬテンションで背中を叩かれる。
痛みまで、まったく同じだ。
「お前、顔暗いな? 始業式なのに」
「いや……なんでもない」
誤魔化すしかなかった。
隼人に説明できるわけがない。
時間が繰り返されているなんて──信じてもらえるはずがない。
体育館の始業式を終え、掲示板でクラスを確認。
またしても「二年B組」という文字が目に入る。
そして。
教室に入り、窓際に座っていると──彼女が現れた。
白石澪。
長い黒髪を揺らし、淡い光をまとったように教室へ入ってくる。
昨日とまったく同じ光景。だが悠真の胸の鼓動は、さらに強く、重く響いていた。
(彼女も……気づいているのか?)
昨日、最後に漏らした言葉。
「また、か」──それは明らかに、繰り返しを認識している者の言葉だった。
悠真の背筋に冷たいものが走る。
彼女はすでに、何度もこの日を経験しているのだ。
そして必ず、死を迎える。
そんな現実を、悠真だけが知っている。
そして、もしかしたら──彼女自身も。
◆
昼休み。
隼人が楽しげに他のクラスメイトと話している横で、悠真はずっと澪を目で追っていた。
澪は窓際の席で、本を開いている。
その横顔は、静かで落ち着いている。とても「死を繰り返す運命」を背負っているようには見えなかった。
(話すしかない……)
悠真は思った。
このままでは、また彼女は死んでしまう。
放課後を迎えれば、昨日と同じ悲劇が繰り返されるに違いない。
だから、その前に。
直接、彼女に問いかけなければならない。
(白石澪……君は本当に、繰り返しているのか?)
胸の奥で呟くと、鼓動が一層速くなる。
それは恐怖ではなく──使命感のようなものに近かった。
午後の授業は、悠真にとってほとんど意味をなさなかった。
黒板の文字は目に入っているはずなのに、何も頭に残らない。
ただ、窓際の席に座る澪の横顔ばかりを見ていた。
──夕暮れが来れば、彼女は死ぬ。
それを知っているのに、何もしないで座っていられるはずがなかった。
チャイムが鳴り、終わりを告げる。
クラスメイトたちは新しい教科書を鞄にしまい、友人同士で賑やかに声をかけ合う。
隼人も「帰りにコンビニ寄ってこうぜ」と誘ってきたが、悠真は曖昧に笑って断った。
「悪い。ちょっと、用事がある」
「なんだよ、彼女でもできたか?」
「そんなわけ……」
軽口に答えながら、視線を澪に向ける。
彼女はひとりで静かに教科書をまとめていた。
クラスの誰とも特別に馴染んでいる様子もない。
──今しかない。
悠真は深呼吸をして、歩み寄った。
「……白石さん」
呼びかけると、澪は顔を上げた。
驚いたように目を瞬かせる。その瞳は、澄んだ水のように透明で、どこか遠くを見ているようでもあった。
「宮坂くん……だよね?」
「あ、うん。同じクラスになったし……その、少し話せるかな」
自分でも驚くほど、声は震えていた。
澪は一瞬だけ考えるように視線を落とし、そして微笑んだ。
「いいよ」
その笑みはごく自然で、誰にでも向ける優しいものに見えた。
だが悠真には、どこか作られたようなぎこちなさが感じ取れた。
二人は廊下に出て、まだ人の少ない教室前の窓際に並んだ。
西日が差し込み、ガラスに光の筋を作っている。
「それで……話って?」
澪は静かに問いかけてきた。
悠真は喉が渇いて、しばらく言葉が出なかった。
だが──もう逃げられない。
「今日……校門の前で、危なかっただろ」
「……」
澪の目が、わずかに揺れる。
彼女は答えず、ただじっと悠真を見つめ返した。
「君、知ってるんじゃないか? 今日が……繰り返されてるって」
空気が一瞬で張り詰めた。
廊下を行き交う生徒の声が遠のき、世界が二人だけになったかのようだった。
澪は口を開きかけ──それを閉じた。
そして視線を窓の外に向ける。
夕陽に照らされた横顔は、どこまでも儚く、美しかった。
「……どうして、そう思うの?」
その問いかけは、悠真の胸を鋭く突いた。
試されている。彼女は、確かに知っている。
けれど、それを簡単には認めるつもりはないのだ。
「昨日……君は、車にはねられた。僕は見たんだ。倒れて、血を流して……最後に『また、か』って言った」
はっきりと言葉にした瞬間、澪の肩がかすかに震えた。
だが彼女はすぐに表情を整え、静かな声で答えた。
「……見ちゃったんだね」
その声には、隠しきれない諦めと、かすかな安堵が混ざっていた。
まるでようやく誰かに気づかれたことを、ほんの少し喜んでいるかのように。
「そう。私は……繰り返してる。この一日を、何度も」
初めて聞く真実の言葉。
悠真の心臓は激しく打ち、呼吸が浅くなる。
「なんで……そんなことが」
「分からない。ただ、気づけばそうなっていた。朝が来るたびに、また同じ一日が始まるの」
澪は遠くを見るように目を細めた。
夕焼けの光がその瞳に映り込み、赤い色を帯びて揺れる。
「そして、必ず──私は死ぬ」
淡々と告げられた言葉に、悠真の喉が詰まる。
「事故にあったり、階段から落ちたり、何気ない出来事で……。方法は違っても、最後は同じ。私は、この日の終わりに死ぬ運命なの」
その言葉には感情がこもっていなかった。
繰り返し語りすぎて、もう痛みを感じなくなったような声音。
だが、悠真には理解できた。
彼女は──絶望に囚われている。
「死ぬ運命……」
その言葉を口にした瞬間、悠真の胸が締め付けられる。
目の前にいる少女が、そんな絶望を背負っているなんて。
「……どうして、そんなことを平然と話せるんだ」
思わず声を荒げると、澪は小さく首を横に振った。
その瞳は驚くほど静かで、けれど底知れない疲労を湛えていた。
「平然なんかじゃないよ。もう……泣くことすら、できなくなっただけ」
その言葉に、悠真は返す言葉を失った。
彼女は何度も繰り返し、何度も死を迎え、何度も絶望を積み重ねてきた。
その果てに、涙も枯れ果てたのだろう。
「じゃあ……僕が、君を助ければいい」
気づけば悠真の口から言葉が漏れていた。
澪は目を見開き、すぐに小さく笑った。
「不思議だね。誰も信じてくれなかったのに、宮坂くんはあっさり受け入れるんだ」
「だって僕は……見たから。君が死ぬところを」
その真剣さに、澪の表情から笑みが消えた。
彼女はしばらく沈黙した後、ぽつりと呟いた。
「本当に……助けられると思う?」
「思う。いや、助ける。絶対に」
自分でも驚くほど、言葉には力があった。
澪はその声に押されるように視線を逸らし、夕焼けを見つめる。
「……もし、本当にできるなら」
その声はかすれて、風に溶けていきそうだった。
「私、ここから抜け出せるのかな」
悠真は答えられなかった。
ただ、心の奥に燃えるような感情を抱いた。
彼女を救いたい──それがどんなに無謀なことでも。
◆
放課後。
澪と別れてからも、悠真の胸は落ち着かなかった。
昨日と同じなら、校門を出た彼女は事故に遭う。
それを防ぐためには、自分が動くしかない。
「……絶対に見てるだけにはしない」
強く心に刻みながら、悠真は校舎を飛び出した。
夕暮れの光が差し込む校門。
そこに澪の姿があった。
教科書を抱えて歩き出す後ろ姿。昨日とまったく同じ光景。
だが、悠真の目には昨日にはなかった決意が宿っていた。
「白石!」
声を張り上げると、澪が驚いたように振り返る。
その瞬間──道路の向こうから、再び車のブレーキ音が響いた。
悠真の全身を冷たい汗が流れる。
同じだ。また、彼女が死ぬ。
身体が勝手に動いた。
澪の腕を掴み、強く引き寄せる。
「危ないっ!」
直後、車が目の前を通り抜けた。
風圧に髪が乱れ、澪が小さな悲鳴を上げる。
衝突は免れた。
確かに──彼女を助けた。
だが。
「……やっぱり」
澪の声が震えていた。
振り返った瞳には恐怖よりも、諦めに近い色が浮かんでいた。
「何をしても、結局は死ぬんだよ。形を変えて」
その言葉が終わらないうちに──校門横の自転車置き場で、金属音が響いた。
倒れてきた自転車が澪に向かって傾き、彼女は反射的に避けようとした。
その足元に、散らばっていた石につまずく。
「澪!」
咄嗟に抱きとめる。
地面に叩きつけられる直前で、悠真の腕が彼女の身体を支えた。
髪が頬をかすめ、すぐ近くで澪の震える息遣いが聞こえる。
彼女は呆然と目を見開き、そして小さく笑った。
「すごいね……ほんとに助けてくれるんだ」
「当たり前だ。君は、絶対に死なせない」
言葉を吐き出すように告げると、澪の瞳に一瞬だけ光が宿った。
それは希望か、それともただの錯覚か──悠真には分からなかった。
◆
その日の夜。
布団に横たわりながら、悠真は天井を見つめていた。
もし澪の言葉通り、彼女が「死ぬ運命」にあるのだとしたら。
どれほど抗っても、どこかで必ず死が訪れるのだとしたら。
「……それでも」
声に出すと、胸に熱がこみ上げた。
「それでも、僕は諦めない」
彼女を救う。
そのためなら、どんなに繰り返しても。
この日常を、命をかけてでも塗り替えてみせる。
固くそう誓ったとき、夜の闇は静かに深まっていった。




