プロローグ
四月の風は、まだ冬の名残を含んでいる。
冷たさと温かさの境界に揺らぐその風は、春の始まりの曖昧さそのもののようで、宮坂悠真はいつもその空気に心を落ち着かせていた。
始業式の朝。
校門前には新入生の初々しい声が響き、クラス替えに戸惑う二年生の小さなざわめきが混ざり合う。桜は満開を少し過ぎ、花びらが舞うたびに地面を染める。淡い桃色の絨毯は美しいけれど、足早に散っていく花びらを見ていると、儚さだけが胸に残った。
悠真は、人混みの端を歩く。
誰かに声をかけられるのを恐れるわけではない。ただ、自分が輪の中心にいる姿を想像できなかった。人に合わせて笑うより、少し引いた位置から眺めている方が心地よい。彼を支えているのは観察眼だけで、誰よりも冷静に人の表情や仕草を読むのが得意だった。
それは得意技であると同時に、壁でもあった。
人は、じっと見つめられるのを好まない。彼の鋭さに気づいた者は、自然と距離を置く。だから悠真は、孤独を自分の居場所にしていた。
「おーい、悠真!」
豪快な声が背後から飛んでくる。
振り返るより早く、背中を思い切り叩かれた。
「……隼人、朝っぱらから騒がしい」
痛みに顔をしかめる悠真の隣で、笑い声をあげたのは椎名隼人だ。
剣道部に所属し、体格も大きい。陽気で人懐っこい性格は、誰からも好かれていた。悠真とは正反対の性格だが、それが逆に心地よく、二人は自然に一緒にいることが多かった。
「いいじゃねえか、新学期だぞ? テンション上がるだろ、普通」
「普通って……お前の普通は、だいぶ特殊だと思う」
「そうかぁ? むしろ悠真が落ち着きすぎなんだって」
隼人は気安く肩を組み、笑顔を向ける。
その自然さが、羨ましいと思う。悠真が一歩も踏み込めない場所に、隼人は何のためらいもなく立っている。
「今年は同じクラスかどうか……」
「そうそう、クラス替えな。俺は悠真と同じクラスがいいぜ。あ、でも女子的には新しい出会いも悪くないかもな!」
隼人は悪びれもなく笑った。周囲の女子がちらりと視線を送ってくるのを、悠真は敏感に察する。
──こういうところが、眩しいんだよな。
体育館での始業式を終え、張り出されたクラス表を確認すると、二人の名前は二年B組に並んでいた。
隼人は大げさにガッツポーズをし、悠真は心の底で安堵の息をついた。人間関係が一からリセットされるのは苦手だ。
新しい教室はまだざわめきの途中にあった。
黒板の上には新しい担任の名前がチョークで書かれ、窓際のカーテンは春風に揺れている。半分ほどしか埋まっていない教室に足を踏み入れた瞬間、悠真の胸に小さなざわめきが走った。
──視線が吸い寄せられた。
長い黒髪を揺らして入ってきた女子。
名札が示す名前は、白石澪。
その瞬間、悠真の心臓は一拍だけ強く打った。
名前も、顔も、何も知らない。けれど。
(……知っている?)
胸の奥で微かなざわめきが広がる。夢の中で何度も出会った人物を、現実に見つけたような感覚。しかし、その理由は思い出せない。記憶をたどろうとすればするほど霧がかかり、指の隙間からこぼれ落ちていく。
「お、あの子可愛いな」
隼人がささやく。悠真は返事をせず、ただ視線を澪に向け続けた。
その横顔は、どこか懐かしく、そしてどこまでも儚かった。
──放課後。
新しい教科書を抱えて校門を出たとき、悠真は再びその姿を見つけた。
白石澪。
ひとりで歩道を歩いている。
夕暮れの光が髪に溶け込み、柔らかな輪郭を浮かび上がらせる。まるで現実から浮き上がるような、静謐な存在感。悠真は立ち止まり、思わずその後ろ姿を目で追った。
澪は携帯を見ながら歩いていた。前髪が風で揺れ、白い指先が画面を滑る。日常の一コマにすぎないはずなのに、悠真にはそれがどこか異質に思えた。
──その瞬間だった。
金属を擦る音。タイヤの悲鳴。
澪のすぐ脇の道路から、一台の車が制御を失って突っ込んできた。
「危ない──!」
声を上げるより速く、衝突の音が響いた。
澪の身体が宙を舞い、スローモーションのように回転し、地面に崩れ落ちる。
鮮血がアスファルトに滲む。周囲の人々が悲鳴を上げ、誰かが駆け寄った。
悠真の時間は止まった。
喉が塞がれ、声が出ない。足が鉛のように重く、ただ見ていることしかできなかった。
その時。
澪の唇が、かすかに動いた。
血に濡れた口元から、空気を切り裂くような小さな声が漏れる。
「……また、か」
まるで独り言のように。
絶望と諦めが混じった声音。
そしてその目は、誰も見ない虚空を映していた。
次の瞬間──世界が暗転した。
夕暮れは掻き消え、音も色も失われる。
深い闇に落ちていく感覚に悠真は呑み込まれ、何も考えられなくなった。
──目を覚ますと、見慣れた天井があった。
布団の感触。窓から差し込む朝の光。
目覚まし時計は、始業式の朝を指している。
「……え?」
胸の奥に、ひどく不快なざわめきが残っている。
確かに昨日、白石澪は死んだはずだった。
けれど、今日がまた始まっている。
悠真は震える手で顔を覆った。
理解できない。けれど、ただ一つだけ確かに分かる。
──あの少女は、この日を繰り返している。
そして自分もまた、その渦に足を踏み入れてしまったのだ。
(本文ここで終了)
【作者コメント】
ここまで読んでいただきありがとうございます!
次回から本格的に物語が動き出します。
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