漁師と少年
漁師のおじいさんは、この町では偏屈で知られている。白髪をひとつに束ね、いつもベージュの帽子を深く被っているので、表情はほとんど見えない。
朝一番、潮の匂いと波の音に包まれながら、ひとり船を出す。網を引き上げ、跳ねる小魚をより分けていると、ふとミヌのことを思い出す。
「これ、ちっちゃいけどうまいんだぞ」
ミヌに魚を分けていたあの頃のことを。
あれは「ニャア」とひとことだけ放ち、口に咥えていつもの場所まで運んだ。ペロペロと舐め始め、こちらを見て目を細めていた。今朝も網にかかった魚を見ながら、おじいさんは無意識にミヌを探す。
パン屋のこうばしい匂いが、海風にほんのり混ざる。
「……あれは猫のくせに、この匂いも好きだったな」
手にした魚の桶を胸に抱き、ゆっくり港を歩く。波の音とカモメの声、木造の桟橋のきしむ音。
港の外れで足を止め、桶からひとつ魚を掴む。しばらく見つめ、そっと海に放す。水面を弾きながら、小さな群れに溶けていく。
帽子を直し、心の中でひと息ついてから、パン屋の扉を開けた。
「カランコロン」
優しい鈴の音が港の静けさに溶ける。
おばあさんが笑顔で迎えた。
おじいさんは、ちらりと目を向けただけで、のしのしと店内を進む。ピーナツバターの香りを通り過ぎると、白パン三つが入った袋を手に取り、会計を済ませた。
おばあさんは、微笑むだけだった。
1か月後のある日、おじいさんは再びパン屋の扉を開けた。
外のざわめきは少し遠くなり、いつものパン屋の空気に、ほんのわずかだけれど、新しい香りが流れ込んできた。
おじいさんは思わず肩の力を抜き、帽子を直した。
先客がいたようだ。髪色の明るい灰色の瞳をした少年がひとりパンを選んでいる。彼は、そっとレモン型のパンをトレーに運んでいた。おじいさんは隣の棚のピーナツバター入りのコッペパンを手に取った。
「パンの耳、持っていくかい?」
おばあさんが少年にさりげなく声をかけた。
「うん...
もう、いないけど」
少年は店を出て、波の音と潮風の中を港へ向かう。
小脇にふたつ袋を抱えたおじいさんも後を追い、遠くの桟橋で少年を見つけた。
パンの耳の袋を横に置き、黄色いパンを口に運ぶ少年。
「ミヌはこれも、好きだったんだ」
白パンを差し出すおじいさん。少年はゆっくり見上げ、笑顔で頷いた。
波の音を聞きながら、ふたりは遠くの海を見つめた。潮風が頬を撫でて、いつもより少し、しょっぱいパンがお腹を満たしていった。




