8章ここは大奥㊙の職場 ~花は散る散る忠義の下で~
夜明け前、大奥は冷たい静寂に包まれていた。年寄りお久の方付きの女中・お藤の亡骸が横たわる部屋には、重たい空気が漂い、同僚の女中たちのすすり泣く声が庭の花を散らしていた。
マナは喉が詰まるような痛みを感じていた。
(私があの証拠を見つけたから、お藤さんは……)
歌橋はため息をつき、低い声で言った。
「忠義とは、時に人を狂わせるものじゃ。だが、女中の一存でお久の方は存ぜぬとのこと、これ以上に詮議はできぬじゃろうな.....しかし、ここから先は隠密どもの仕事じゃ。マナはもう深入りせずともよい。ご苦労であった」
将軍を取り巻く、不穏な事件はこれで終わりではなかった。
表御殿では、今日もお小姓たちが書状の整理や茶の支度に忙しそうにしていた。光の差し込む白木の廊下は変わらぬ静けさを湛えていたが、その静寂には、目に見えぬ緊張が編み込まれていた。
源之丞、佐渡守――二人のお小姓は、将軍・家定の側近として元服してすぐに使えてきた。家定と大名のとり次、身の回りの世話、家定の信頼と寵愛を二分してきたのであるが、ここにきて二人の様子がおかしかった。
佐渡守に名乗り不明の文が送られてくるようになったのは、約1ヶ月ほど前。最初は気にも留めなかったのであるが、家定と身近なものしか知りえない事が書かれていたりと無視することができなくなった。そうしているうちに、源之丞が自分を排除しようと家定に画策していることが書いてあり、ついには自分を毒殺するつもりであるとも書いてあったのだ。お美代の方の事件とも重なり、佐渡守はだんだんと疑心暗鬼になってきてしまっていた。
ある日、松也が家定の控える部屋に向かおうとしたとき、佐渡守が廊下で立ち塞がった。
「……お前ばかりが、将軍様のお側にいる理由は何だ」佐渡守の目は濁り、脇差が狂気の閃光を放った。
源之丞は反射的に身を引いたが、鋭い刃が右頬を裂いた。
「ぐっ……!」
頬を伝う熱い血の感触――だが、痛みを感じる余裕はない。目の前には、獣のように目を血走らせた佐渡守がいた。顔は蒼白に引き攣り、唇が震え、理性の欠片も見えない。
「お前が……お前が私を亡き者にしようとしているんだ!」
佐渡守の声は掠れ、妄執と狂気に満ちていた。
叫びながら、佐渡守が再び脇差を振り上げた。
源之丞は背後に柱を感じながら、必死に横へ飛んだ。
「取り押さえろっ!」
小姓組番士たちが怒号と共に駆け込んできた。数人が佐渡守の腕に飛びつき、ねじ伏せるように押し倒す。
「放せっ! 私は……私は殺されるんだっ!」
佐渡守の叫びは断末魔のように響き、全身を震わせながら荒れ狂う。
「動くな! 連れて行け!」
小姓組番士たちが力任せに佐渡守を押さえつけ、そのまま引きずるようにして廊下を去っていった。
家定の元に、老中・阿部正弘が重々しい声で報告を始めた。
「上様、先ほど表御殿にて、お小姓・佐渡守が源之丞に斬りかかるという騒ぎがございました。何者かが「佐渡守に偽の文を送り、源之丞が自分を毒殺しようとしていると画策したものがいたようでございます。」
家定は目を閉じ、しばし何かを思案しているようであったが、鎮痛な声で言った。
「……内に巧妙に疑心を植え付け、崩そうとする者がいるということか。」
続けて
「佐渡守にはしばし療養を命じ、源之丞も一旦、世から遠ざけよ。真相は隠密に調べるのじゃ。」
「御意にございます。」
老中が下がると、家定は深い息を吐き、下を向きながら何かを考え続けた。
「――内と外、どちらも揺れておるな……。」
噂がようやく人々の口の端から消え始めた頃、マナは歌橋とお美也の方の事件について静かに話していた。部屋の障子越しには、しんとした空気が漂い、遠くの廊下を歩く足音さえ聞こえるほどだった。
その静けさを破るように、突然、甲高いとも鋭いともつかない、張り詰めた男の声が外から響いた。
「お美也を助けたのはどのものであるか?」
声の主は、歌橋の部屋に悠然と入ってきた。
「上様…おいでになるならお知らせを…」と歌橋が少し困ったように言う。
現れたのは家定公だった。背は高く、痩せた体型に上質な紋付を纏っている。目元には赤黒いあざが広がり、目立つものの、その他の顔立ちは整っており、どこか儚げな印象を与える。鼻筋は高く、唇は薄く、どことなく冷たい印象を与える反面、その声には意外な明るさがあった。
髪は光沢のある黒髪で、丁寧に結われているものの、やや痩せた顔つきに神経質な雰囲気が漂う。彼の動作はゆっくりとしており、どこか疲れているようにも見える。
家定は歌橋の困惑など気にしないように言った。
「そなたがお美也を助けたものであるな、なんでも、世の病の食事療法というやらもそなたの指図じゃの?」
「はい……ですが、体調は如何でしょうか?」
マナは無意識のうちに顔を上げ、家定公の目を見てしまった。その粗相を見逃さぬよう、歌橋が慌てた声で「女子が上様と目を合わせるなど、もってのほか!」と制した。しかし、歌橋が制止するのを気にも留めず、家定公はマナをじっと見つめて、絡み合った糸が一本に合わさり、その方向を悟ったように告げた。
「それにしても、不思議なことが多すぎる……世を毒殺しようするものは山とおるが、側室、次に小姓の乱心.....何者かが世を孤立させそうとしているような.....措置もそう思わんか?まあ...よい」
そう言うと家定は軽く手を振りながら、マナの顔を覗き込んで「そなた、未来からきたものであろう?」と言った。
(またかよ…えええ―――なんで未来って知ってるの?)
マナまるで、自分が今座っている畳を引っ繰り返されたような顔で家定を見つめた。しかし、そんな彼女の反応を見て取った家定公は、その様子をまるで楽しむかのように、新しい本を手に入れた学者のように目を輝かせながら続けた。
「以前…未来から来たというものに会うてな、フフフ。お前もそうであろう…」
この突拍子もない展開に、マナの胸の内では「?」マークのツッコミがハリケーンのように吹き荒れていた。
(ウソでしょ…また未来の話…まさかこんなノリの将軍だったなんて――)
「未来の者であれば、英語も話せるのであろう?以前に世が会った未来からの者もそうであった。それゆえに今少し頼みがある。ペリー……黒船のペリーを知っておるか?奴と間もなく会談をするのじゃ。」
マナは家定公の顔をじっと見つめ、ただ一言発した。
「『あの.....』ペリーですか……」(1853年6月3日(旧暦)頃)
家定公は彼女の反応を気に留めることもなく、さらに話を続けた。「あのと言ったな!ペリーをやは知っておるのじゃな。英語ができるなら、手を貸せ。」
「確かに……私は医学の知識はちょっぴりしかない、英語が得意な帰国子女ですけど……」
マナがそう答えると、家定公はゆったりと頷き、自分の読みは正しかったと安堵する占い師のように
「うむ、良い返事じゃ――」と答えた。まるでこのやり取りは長年の友人との他愛ない会話であるかのように、軽さでその表情は満足げでありながら、どこかいたずら心が隠れているようにも見えた。
「では、決まりじゃな――三日後、頼むぞ。」と決定してしまった。
マナは何かを言い返そうとしたが、喉元で言葉が詰まってしまった。
目を見開いたまま、まるで水槽の金魚が空気が足りず口だけがぱくぱくと動かすようであった。
「……それ、急すぎませんか?しかも丸投げ……」マナは歴史の教科書を脳内でサーチしながら、家定に食い下がり、重大な事実を告げた。
「え--と、将軍様が私を未来から来たとご存じなら、お話ししますが、世の流れからして、開国は避けられないもの...その際の大混乱で多くの同胞の血が流れるということです...それをいかがお思いですか」
すると以外なことに「そのことであるか...前に来た未来のものから聞いておる。不思議なものがおると、紀州から遣わされた者であった。その者は未来とやらの話を世に教えてくれたが…半年ほどで、消えてしまった。その者がやり残したことを、そちに頼みたい。」
(なんと....未来からきた勇気のある人は将軍に日本の今後を教えていったと...話早くていいんだけど..びっくりすぎてひく...)
徳川の世が続くことだけを考えては、国が滅びるという未来の者から聞いた。世は生まれながらの将軍ではあるが、万民の安寧を願ってこそ天下人。天下人とは己の権力を守るためではなく、未来を切り拓く者であらねばならぬ。世はこの国の行く末だけが気がかりじゃ.....未来というやらの日本で万民が困らぬようしてもらいたいのよ。そうであれば...世は徳川の時代が終わってよいと思っておる。そのために3日後のペリーとの会談では、開国の準備のための時間を稼いでもらいたい。今、すぐ開国をしてもただ外国に食い物にされるだけであろう?そうではないか」
マナは家定が大きな分岐点を淡々と語る姿に思わず目を丸くした。
(え、ちょっと待って…徳川の時代が終わってもいいって…将軍なのにそんなこと言う!? 普通こんなにあっさり「終わってよい」なんて言わないでしょ!この人、めちゃくちゃ肝が据わってるのか、それともただの天然?いや、もしかして両方!?)
「えーと、将軍様、それは…本気でおっしゃっているのですか?」と恐る恐る聞いてみると、家定はふっと乾いたため息をついた。
「そち、何をそんなに驚いておる? 世はこの国の将軍ではあるが、未来の話を聞けば聞くほど、徳川の世に固執するのが得策ではないと分かるものよ。お主が未来の者であれば知っているであろう、世は流れに逆らえないのであれば先手を打つ。」
「将軍様。私が動くことで歴史って変えていいんですか?そして、その未来から来た人は半年後にどうして帰ったんですか」
「そのことの方が気になるか?なんでもそのものは、バンジージャンプとやらをしている最中にこの時代に来たそうじゃ。だが...ある日突然消えおった....半年ほどは世に仕え、世に未来の歴史とやらを教えていった。そちと違い、医学の知識はさっぱりな奴であったが...なんでも未来では『公務員』?というものをしておったそうじゃ...歴史を変えていいかとな。歴史など未来のものが勝手に書いているものであろう。そちも、世が醜悪な顔をした愚鈍なものと習っていたのであろう!歴史など所詮そのようなものフッフッフ…」
と顔を紅潮させ嬉しそうに言った。その姿は巨大な津波の到来を前にして、抗うことをせず、死への恐怖をも超越し、ただその時を待っているようであった。
(そういえば...愚鈍、ひ弱、そう習った....そういえば最近のニュースで鎌倉幕府ができたのは1192年ではなく1185年が有力って言ってたよね。歴史なんてそんなもんか。それに未来をいい風に変えれば問題なし!--それに私が初めて未来から来た人じゃないぽいしあまり深く考えなくてもOKでしょ!)
深く考えるのが苦手な歴女はポジティブな方向に気持ちを切り替えた。
「分かりました。将軍様がそこまでお考えでしたら、私もできる限りお力になります。ただ…ペリーとの会談で時間を稼ぐのは、簡単ではないかもしれません。…あ..もしかしてペリーさんに持病があればそれを治すということで恩が売れるかも?なんかありますかね?」
「恩か...世は知らぬが、船員の中に具合の悪いものが大勢いるらしいと聞いておる」
(それだ!!……この当時の航海病といえば、壊血病に違いない。)きっと船員は倦怠感や疲労感、歯茎の腫れなんかに悩まされているはず...これは使える!まず船員の治療を申し出て、彼らの信頼を得るのが第一歩。そのあと交渉に持ち込めば、きっと何とかなる!)
「分かりました、将軍様! ペリーとの会談、全力で挑ませていただきます!家定様、紀州からミカン、薩摩からサツマイモを取り寄せておいてください」
(よし!ペリーだろうが何だろうがやってこい、ミカンとサツマイモの威力を見せてる!)と...
「あい、わかった」
家定は軽く手を振りながら廊下の向こうへと消えていった。その背中に漂う猫のような気まぐれさに、どこか底知れぬ将軍としての意地が滲んでいるようにも見えた。
(やっぱりこの人、ただ者じゃない……)
マナは思わず眉間に皺を寄せたが、深く考えないことにした。(いや、現代の観光客にこんな大役を任せるなんて……もう、やるしかないでしょ!)
それでも――やると決めたからにはやるしかない。マナは着物の衿を整え、帯を指でキリッと横に撫でた。
(江戸時代の歴史、大きく変わるかもしれない。でも……私がやらないと、どうにもならないよね。)
「おマナ、そなたが果たすべき役目がある。迷わず進むがよい。」
何かを聞いても取り乱しもせず、ただ居ずまいを正しいそこに存在する歌橋はマナにそう告げた。彼女もまた徳川を生き、時代に翻弄される人々の一人だ。時代が変わる節目において犠牲がでないことなどありえない。しかし、その犠牲は少ないほうを選ぶのは家定のいう政治という祭りごとをするものの賢明な判断なのだろう...たとえ、それが歴史を変えることであったとしても。マナの役目は、流れくる濁流の方向を変えようと、小さな土嚢を積み上げるような作業に過ぎないのかもしれない。
「かしこまりました。」
--散る桜 残る桜も 散る桜--やがて散る運命にあるものが、散り際を知ることの無常---マナはその重みを歌橋から感じ、絞り出すように、ただそれだけを口にした。
【後書き】
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