7章ここは大奥㊙の職場 ~やっぱりあります事件帖~
食事療法は時間がかかるもので、効果が出る間、マナは特に大きな用事もなく過ごしていた。そんな中、歌橋は「側室たちの相談相手になってほしい」と頼んできた。この当時、家定には御台所はおらず、側室の2名はいずれも譜代大名の子女で、側室同士のどちらが早くお世継ぎを産むかを競いあい、間に入っている歌橋の頭痛の種であった。
大奥は、江戸城の本丸御殿に設けられた女性専用の区域で、側室の部屋は正室ほど格式が高くはないものの、「奥御殿」と呼ばれるエリアの中にあり、御殿の後方や隅の方、さらに将軍の私的な空間に近い場所に配置されていた。両側室は、その大奥の東の端と西の端にそれぞれ部屋を持ち、次の日から、マナはその2人の側室の部屋を東から西まで行き来する日々を送ることとなった。1人目の側室は、お美也の方という17歳ほどの小柄で華奢な少女だった。現代っ子のマナからすれば、まるで守ってあげたくなるようないたいけな少女という印象で、「側室」という重責を負わせるにはあまりにも気の毒に思えるほどであった。顔立ちは全体的に小作りで、話す声もささやくように小さく、現代でいうメイドの洋服を着させれば、店で一躍人気者になるのではと想像させた。彼女の悩みといえば、どうすれば将軍の関心を引き続けられるかということで、なんとも現代的な視点からすれば驚くべきことに、ぶっちゃけ「エロい秘策はないか」という内容だった。
2人目の側室はお瑠璃の方と言い、23歳くらいで、年齢的にはマナに近い女性だった。緋色の打掛を羽織り、愛くるしい目と小さな口、黒髪はまるで人形のように整っている。声は透き通るようで、まるで川のせせらぎのように心地よく響いた。
彼女の悩みも、やはり将軍の関心をどう引き続けるかということで、なんと彼女はお小姓と張り合っているらしい。……お小姓?
(BLかい! 将軍ってそんなに幅広いんかい!?)聞くところによると将軍の周りには多くのお小姓が将軍のお世話をしており、お手付きのお小姓も複数名いるそうだ。しかし、どのみち将軍様が脚気が治り、元気にならなければ始まらない話ではあるし、それまではこの大奥を存分に堪能するとしようと、お小姓のことを気にしつつも話をスルーしておいた。
そんなお小姓への興味が冷めぬマナに、ある日歌橋から呼び出しがあり、2人の側室の悩みを探ってきた。マナは待ってましたと好奇心を押さえきれず提案する。
「では、敵を知らずして策もなし、ですね!」
どうせならお小姓たちの様子を自分の目で確かめたい――歴女の好奇心とは恐ろしいもので、マナはもっともらしい理由を並べ立て、彼らを見せてもらうことにしたのだった。
もちろん大奥は、お小姓といえども男子禁制の場所であり、将軍以外の男性が立ち入ることは許されない。そんな中、歌橋は一計を案じ、上様に願いでてくれたのである。
とある昼下がり、歌橋に付き添われながら、マナは大奥と表御殿を繋ぐ唯一の廊下である通称お鈴廊下を歩いていた。その廊下は全長30~50メートルほどで、幅約3メートル。テレビの時代劇で見た大奥の廊下よりも広々としている印象を受ける。両側の壁には、金箔を施した襖がずらりと並び、その表面には繊細な筆致で描かれた花鳥風月の景色と徳川家の紋があしらわれていた。
廊下の端に近づくと、一本の太い紐に無数の鈴が連なった飾りが目に入った。それはまるで神社の鈴緒を思わせるような造りで、その先には、豪華な装飾が施された金色の扉が堂々とそびえ立ち、重厚な鍵が堅固に取り付けられていた。お鈴廊下の鍵は通常、御年寄が厳重に管理しており、将軍以外が勝手に通ることは許されない。しかし、今回は歌橋が特別に鍵を借り受けており、彼女の手で鍵が外された。
「あけよ」歌橋の静かな声に促され、女中達が扉が横に開けると、いきなりスポットライトが照らされたように明るくなり、そこには眩しいくらい美しい10代の美少年たちが10名ほど、舞台の役者のように鎮座していた。先程の明かりはなんとこの少年たちからでた後光であった....
(なんと……美少年すぎる……目がくらむ……)マナは息を飲んだ。まるで人気アイドルグループに会ったかのような衝撃に、喜びと興奮で体が震えた。
「そなたのために、上様に特別に許しをいただき、歌橋が座らせておいたのじゃ」と歌橋は小さく笑みを浮かべながら語る。歌橋が軽く顎をしゃくる。「大奥においては、将軍様の近くに侍るお小姓もまた重要な存在。この者たちは、そなたが敵を知るための参考になるのであろう。どうじゃ、見ておいて損はあるまい?」
(これが恋敵?お瑠璃の方。手強すぎます——)
興奮が冷めやらぬまま、マナは歌橋に促され彼女の部屋へと戻った。
「何か質問やら、側室たちの悩みの解決策でもあるかえ?」と、歌橋が落ち着いた声で問いかける。
マナはお小姓たちの素性について尋ね始めた。
「譜代の家柄の子息である。この時代においては、主従の忠義の証として男色が一般的な風習とされておるのでな」淡々と語る歌橋はまるで何かの講義をする教授に見えた。
その時、「キャー!」という悲鳴が響き渡り、女中が転がるように部屋に飛び込んできた。
「お美也の方様が、口から血を出して倒れております!」
「なんと...」
歌橋たちは顔を見合わせると、すぐさまお美也の部屋へ向かい、マナもその後を急いで追った。
部屋に入ると、お美也の方は床に倒れ、顔は蒼白、呼吸も乱れていた。口元には血の跡があり、近くには茶碗が転がっていた。
「誰か、水を!」と叫びかけた女中を、マナがすかさず制した。
「待ってください!水を与えると毒が広がる可能性があります。まず吐かせます!」
マナは喉を傷つけないよう指にさらしを巻き、お美也の方の喉を刺激し、嘔吐を促した。しばらくして、お美也の方は咳き込みながら胃の中の内容物を吐き出す。吐瀉物の中には異様な色をした液体が混じり、硫黄のような匂いが漂った。
「やはり毒物の可能性が高いわ…」とマナは険しい表情で呟いた。
マナはすぐさま指示を出した。「胃を保護するために、生卵があれば持ってきてください!」
歌橋が素早く女中に命じ、卵を用意させている間、マナはお美也の脈を確認し続けた。弱々しいながらも、まだ脈拍は保たれていた。
女中が卵を運んでくると、マナはそれを水で溶き、慎重にお美也の方に飲ませた。少しずつ喉を通るのを確認し、息を整えながら言葉を続ける。
「これで胃の損傷を防ぎました。ただし、毒が体内に回る可能性はまだあります。御匙(医師)をすぐに呼んでください!」
続けて、マナは冷湿布を作り、額や脇の下、首筋を冷やしていく。
「体温を下げて毒の循環を遅らせるのが重要です。呼吸を楽にするため、身体を横向きにして支えてください」
マナの素早い処置により、お美也の方の呼吸は徐々に落ち着きを取り戻していった。しばらくして御匙が駆けつけたが、マナから「ヒ素中毒の可能性が高い」と聞くと、眉をひそめて言った。
「吐かせる以外、方法はありませぬ…」
(やっぱ…江戸時代には解毒剤はないよね)
マナは一人納得すると、ふと考え込み、御匙に提案した。
「次は毒の吸収を抑えるため、木炭を粉にして飲ませるのが良いでしょう」
御匙は少し驚いたようだったが、すぐに感心した表情を浮かべた。
「なるほど。火鉢の炭があるな。それを使うとしよう」
御匙と女中たちは急いで準備を進め、木炭を細かく砕いて水に溶かし、お美也の方に与えた。御匙が脈や呼吸を確認しながら処置を進めている間、マナはふと視線を茶碗に移した。その中に残った液体が目に留まり、彼女は手元の銀盃を持ち出した。
茶碗の中の液体を慎重に銀盃に浸す。全員が息を呑む中、数瞬の静寂の後、銀がじわじわと黒く変色していった。
(ちょっとこれって名探偵の漫画でみたシーンだよね、このやり方であってるよね?)
「やはり…これはヒ素」
その言葉が静かに部屋に響く。誰もが言葉を失い、凍りついたような空気が流れる中、「毒を盛った者を見つけ出さなければならぬ」と歌橋が低い声で言った。
お美也の方が毒を盛られた理由として真っ先に疑われたのは、もう一人の側室である瑠璃の方だった。側室同士の嫉妬という理由は、いかにもありそうな話だった。しかし、お瑠璃の方の部屋を隅々まで調べても、怪しいものは何一つ発見されなかった。
一方で、お美也の方の容態は安定しつつあり、命に別条はないと御匙が告げた。歌橋も安堵の表情を浮かべながら、マナに目を向けた。
「マナ、何か気づいたことはあるかえ?」
マナは少し考え込んだ後、
「歌橋様、申し訳ありませんが、女中たちを一度下がらせていただけますか」
と頼んだ。
歌橋は怪訝そうな顔をしたが、マナを見て小さく頷き、女中たちを部屋の外へと下がらせた。2人きりになるとマナは歌橋に向き直り、言葉を選びながら疑問を口にした。
「ヒ素は猛毒の毒です…もし犯人に殺意があれば、少量のヒ素ではなく、致死量を混入するはずではないでしょうか」
「なんと…それは…はっきり申してみよ」
歌橋が女中たちを下がらせ、部屋にはマナと歌橋の二人しかいない。マナは恐る恐る口を開いた。
「歌橋様、ヒ素が混入されていたのが本当に誰かの犯行だとしたら……どうして致死量ではなく、微量だったのでしょうか?」
「ふむ……確かに、それでは脅しにしかならぬな」と歌橋はうなずいた。
マナはさらに考えを巡らせ、ふとの島津家の存在を思い出した。当時、島津家は御台所の輿入れを画策し準備に入っていると歴史書で読んだことがあったからだ。
「歌橋様、もしかしてこれは……御台様の輿入れに関わる問題ではないでしょうか? 御台様輿入れのために側室たちを排除したいそんな意図から、お美也の方やお瑠璃の方に揺さぶりをかけた可能性も考えられます。島津家に縁のあるものは大奥にはおられませんか?」
歌橋は息を詰めた。「めったなことを申すでない。島津家からの御台を輿入れという表の話が、毒の一件にまで影響したとあっては一大事じゃ……。しかし、大奥年寄りのお久の方は、遠い昔に薩摩の縁者を頼り、大奥に上がったと聞く。今もなお、密かに島津家に通じておるのやもしれぬ」....」
歌橋は眉をひそめ、深く考え込んだ。「だが、証拠がないことには動けぬ……」
証拠とあらば、ふと天井の隅に目をやった。大奥の格式ある造りの中には、屋根裏通路があるはず――
「歌橋様、あそこから天井裏に行けそうです。」
歌橋は驚いた表情を浮かべたが、「気をつけて行くのじゃ。」と告げた。
マナは裾を帯びにはさみ、袖をたすきに掛け、柱の木肌に手をかけた。指先を滑らせないよう慎重に木目を捉え、体重を乗せる。江戸時代の建物は組木細工で作られており、微かな凹凸が絶妙な足場になる。
(まるでクライミングジムのホールドみたいだ……!)
左手を高く伸ばし、梁にかかる部分をがっちりと掴む。次に右足を柱の出っ張りに乗せ、ぐっと体を引き上げる。全身の筋肉を使って、しなやかに上へと移動していく。
手がかりはわずかだが、マナの動きに迷いはない。クライミングの経験から、体重移動と重心のバランスを正確に見極めている。
最後のひと押しで、梁の上に身体を引き上げた。両手両足で梁にしがみつき、慎重に体を安定させる。天井裏の暗がりが目の前に広がった。
(落ちたら終わりだ……!)
膝と肘を使い、静かに梁の上を進む。埃が舞い、くしゃみを堪えながら、天井の板の継ぎ目を探した。お久の方付きの女中たちの部屋の真上に到達し、目星をつけた天井板に手を伸ばす。
そっと指先をかけ、天井板を少しずつ押し上げる。ギシッと木の軋む音がしたが、誰も気づいていない。
隙間から部屋を覗くと、幸いにも無人だ。マナは深呼吸し、天井板をゆっくりと横にずらす。暗がりから足を下ろし、床にしなやかに降り立った。
室内は静寂に包まれている。マナは手早く箪笥や化粧道具を調べた。そして――赤い薬包に目が止まる。
(この匂い……ヒ素だ!)
指が震える。小さな紙片が薬包の下から出てきた。
「御台所輿入れのため」
マナは息が詰まり手が震えた。政治向きのはかりごとのための狂気じみた忠義が、この大奥には面々と受け継がれている。
(やっぱり……お久の方の側近が、側室同士をもめさせて、排除しようとしていた)
その時、廊下から足音が迫ってきた。マナは息を呑み、急いで屋根裏への格子に手をかけた。
(早く戻らなきゃ!)
ロッククライミングで鍛えた腕力で素早く体を引き上げ、格子を静かに閉じる。暗い屋根裏で息を殺し、下の部屋に女中が戻ってくる気配を感じた。「誰かおるのか?」と、女中の警戒する声。
「歌橋様、これが証拠です!」
歌橋は目を細め、低い声で言った。「……お久の方側の女中が隠しておったのだな。島津家は水面下で、将軍家に自らの姫を輿入れさせ、幕政に影響を与えようとしているのじゃ」
「まだ断定はできませんが、状況証拠としては十分です。島津からの輿入れで大奥内の緊張が高まっている以上、これ以上の対立を防ぐためにも、慎重に対処するべきかと。」
「そなたの言う通りじゃ。この件、わしが責任をもって処理しよう。しかし、そなたの勇気には恐れ入るわ……。まるで大奥に現れた、風のようじゃな。」歌橋は深く息をつきながら、そう言ってマナをねぎらった。
マナは緊張が解け、その場に大の字になって寝転びたい衝動にかられた。
(まさか大奥でもロッククライミングをするなんてね……)