6章ここは大奥㊙の職場 ~食事で救う将軍の命~
沖田総司の喘息はすっかり収まり、マナが饅頭屋の佐吉に勧めた「プリン」は、粋な江戸っ子たちの心をがっちり掴んでいた。甘さと滑らかさの新感覚が評判を呼び、佐吉の店先には朝から人々が列をなし、試衛館の若い剣士たちも、沖田総司自身も、これ見よがしに買い求めていた。
佐吉は、忙しくも満足げに「マナさんには足を向けて寝られませんよ」としみじみと呟いた。
そんな江戸も年の瀬が近づいてくると、街全体を清め、年神様を迎える準備に取り掛かる。店の軒先にはしめ縄や門松が飾られ、子供たちは少し早い凧あげを始める。魚河岸では「らっしゃい、年越しに魚はどうだ!」と、威勢の良い声が飛び交い、青光りする新鮮な『コハダ』や『イワシ』が並び、隣には脂の乗った『ブリ』も目を引いた。
マナは、おちよと共に買い物の籠を抱え、そんな活気の中を歩いていた。
「江戸の人たち、本当にお正月を大切にしてるんだね!」
「当たり前さ!新しい年を気持ちよく迎えられるかどうかで、その年が決まるんだからね。」
おちよは楽しげに笑い、蒸したての蒲鉾を包んでもらう。
路地を曲がると、飴細工の屋台で子どもたちが群がっていた。職人が巧みに飴を引き伸ばし、鳥を形作る。マナはその技術に感嘆し、思わず目を奪われた。
(これが江戸の職人技……泣やんで背中に留まる飴の鳥 そういう川柳あったよね」
町中に漂う炭の香りと賑やかな人の声が正月の訪れを待ち望んでいた。
元旦の朝、浅草寺の境内には白い息と共に、人々の願いが満ちていた。鈴の音、柏手の音、線香の煙がふわりと漂う。おせっかいなおちよのはからいで、マナは久しぶりに沖田総司と会い、心の中がそわそわと落ち着かなかった。
「マナ殿、寒くありませんか?」
総司は心配そうに尋ねる。
「大丈夫です!」
振り向いたマナの頬は、寒さと少しの照れで赤く染まっていた。
本堂の前で、二人は並んで手を合わせる。帰国子女のマナは神前で祈願する習慣はないが、目を開けると、総司がまだ何かを祈っているようであった。その横顔の美しさにマナは見とれてしまっていた。
祈願を終え、参道の人混みの中で急に肩がぶつかる。マナは思わず立ち尽くす。ふと見ると、懐に入れていた巾着が消えていた。
「えっ、何……!」
目の前を駆け抜ける男。マナはその場で固まるが、沖田はひらりと身を翻し、駆け出し、軽やかな動きで男の腕を掴んだ。
「ここまでだ。」
男は驚き、財布を放り投げて逃げていく。総司はゆっくりと戻り、マナに巾着を手渡した。
「ありがとうございます。沖田さん……!」
マナは沖田の剣士としての顔を見た気がして、からだが熱くなるのを感じた。
そんな正月の賑わいが過ぎ去ったある日、おちよが大和屋から戻るなり、長火鉢の前に座り込む。いつも陽気な彼女が、何やら思いつめた顔で辰三郎とマナを呼び寄せる。
「おマナちゃん……」
低い声で切り出したおちよに、マナは不安を覚えながらも耳を傾ける。
「大和屋さんから話があってね。今の将軍様、家定公の乳母を務めておられる歌橋様が、大和屋さんの遠縁なんだそうよ。それで……歌橋様のお悩みを聞いてほしいって話が来たの。」
「悩み?」とマナが首を傾げると、辰三郎が横で吹き出すように笑った。
「大奥の悩みなんざ、あれしかないだろう。お世継ぎのことに決まってる!」
おちよは小さく頷き、重々しく言葉を継ぐ。「そう、それなのよ。」
「お世継ぎって……いや、いや! ちょっと待って!」マナは思わず身を乗り出し、大きな声をあげた。「そんな重大なことを、どうして私が解決できるのよ!未来から来たってだけの大学生だよ?それで大奥の悩みをなんとかしろなんて、話が大きすぎる!」
辰三郎は愉快そうに肩を揺らし、豪快に笑い飛ばす。「まぁまぁ、おマナちゃん。歌橋様も、あんたが大和屋の若旦那を助けたって話を聞いて、知恵を貸してほしいと思っただけさ。期待されるってのも、いいもんだろう?」
おちよも優しい声で言葉を添えた。「あのときだって、なんとかしたじゃない。今回もきっと大丈夫よ。」
マナはその気楽さに腕を組んで深くため息をついた。「はぁ……もう、やるしかないよね。でも、もし失敗して、切腹させられたりしないよね?」
辰三郎は豪快に笑いながら言った。「はっはっは!おマナちゃん、一度死んだ身じゃ怖いものなんざないだろう。」
その一言に、マナはふと考え込む。確かに、私はもう一度死んでる。大奥――女たちの嫉妬、憎悪、妬みが渦巻く陰謀の場。そこは歴史の表舞台に出ることのない、もう一つの『女の戦場』だった。胸は高鳴り、同時に冷たい緊張が背筋を走る。歴女として、これを見ずして何を見る!
そうこうしている間に、準備が整えられ、大奥への道が開かれた。歌橋様の女中として、半年間の滞在――一時的に「大和屋の娘」という立場を与えられたマナは、すっかりその役を演じることになった。
藍色の細やかな縞模様が入った木綿の着物。控えめな茶色の帯が、どこか静かな凛々しさを添え、その姿はまるで絵師が一筆で描き出したようだった。おちよの手際よい結髪によって銀杏髷に結われた髪は、小さな黒漆の簪を一本挿し、品を添えていた。
「これでよし、大和屋の娘そのものだね。」と満足そうに微笑むおちよに、マナは鏡越しに苦笑いを浮かべる。
現代の私とは別人すぎる……。茶髪が目立たなくてよかったけど、沖田様にはしばらく会えないのがつらい。とりあえず、おちよさんに手紙を渡してもらおう....。
江戸城の大奥、歌橋の間は、厳かな静寂に包まれていた。その静寂は、金箔の襖に描かれた鶴の羽ばたきが、今なお空を舞っているかのように錯覚させるほどだった。部屋は20畳以上の広さを誇り、畳は黒縁が美しく整えられた上質なもので、踏みしめるたびに微かに軋む音が心地よい。奥には漆塗りの床の間があり、そこには牡丹の花を生けた大振りの花瓶が鎮座していた。掛け軸には力強く泳ぐ2匹の鯉が描かれており、その躍動感は部屋全体に活気を与える。
引手には徳川家の紋があしらわれ、天井を見上げると、そこには金箔と漆が見事に調和した豪華な装飾が広がっていた。中央には、翼を広げた鳳凰が力強く舞い、繊細な筆致で描かれた花々は、まるで天井の中に四季の庭園が広がるようであった。
部屋の中央には深緑の絹地に金糸で刺繍された几帳が立ち並び、歌橋様が座る場所を上品に仕切っている。几帳の周囲には、控えの女中が整然と並び、それぞれが気配を消しながらも、わずかな動きに即座に対応できるよう心を配っている。
(ひゃっ……さすがに気おくれする。無理だわ、無理っ!)
心の声をひた隠し、置物にでもなったように、ひたすら身を小さくしていると、そよそよという絹ずれの音とともに乳母歌橋が入ってきた。
彼女は50代ほどの落ち着いた佇まいの女性で、黒髪にところどころ白髪が混じっている。目は一重で、鼻も口も小さく、見るからに上品な顔立ちをしていた。白粉で化粧を施した肌は透き通るように白く、藤紫の絹地に控えめな金糸で模様を織り込んだ打掛を羽織っており、その重厚で威厳に満ちた装いは、乳母という特別な地位を何よりも物語っていた。
すごすぎる圧を背負った歌橋はマナをじっと見据え、ゆったりと口を開いた。
「そなたに来てもろうたのは、他でもない。そなたも半年という短い大奥での滞在ゆえ、単刀直入に話すとしよう。」
その言葉に、マナは緊張でごくりと喉を鳴らしたが、次に続いた言葉でさらに目を見開いた。
「上様がお元気がないゆえ、側室どもが夜の営みで悩んでおる。」
(ひゃーーー単刀直入って、直入すぎるでしょ!?いきなりエロい話なんて!)
マナが心の中で大混乱している間にも、歌橋は落ち着いた声でさらに話を続ける。
「なんぞ……精のつくものでもなかろうか。殿の足がむくんで、お世継ぎどころではないのじゃ……」」
歌橋の嘆きにマナはハッとした表情を浮かべた。(あれ……これってもしかして、また脚気の話じゃない?この時代の偉い人の生活習慣病ってきいたことあるし……)
そう考えたマナは、大和屋の若旦那の件を思い出しながら、おそるおそる口を開いた。
「えっと……上様って、もしかして足のむくみの他に、心臓がどきどきしたりすること、ありませんか?」
その途端、歌橋の目が大きく見開かれた。「おぬし、なぜそれを知っておる!」
扇子でバシッと自分の膝を叩きながら、興奮した様子で家定公の病状を語りだした。
「むくみがひどく、庭に降りる階段を使うのも難儀される。それに最近では胸が苦しいと言われることもしばしば……医者どもが出す薬は、まるで効かん。お世継ぎどころではない」
歌橋の真剣な様子に、マナは心の中で深くうなずいた。(やっぱり……これ、間違いなく脚気だよね。また江戸城でこんな話を聞くことになるなんて!)
歌橋がじっとマナを見据える。「おぬし、上様を救えるのか?」
歌橋からの問診によるとこれも大和屋と同じ脚気の初期だと判断したマナは
「私のいう事をお聞き頂けるなら...よくなるかも知れません。ただ、食事を見直していただく必要があります」
と躊躇なく言ってしまった。
歌橋は眉をひそめ、「食事とな……?」と首を傾げた。
「さようでございます。まず白米ではなく玄米に切り替えていただき、さらに味噌や青魚、野菜を料理に取り入れていただけますようお願い申し上げます。この食事療法を3カ月ほど続けていただければ、改善の兆しが見えるはずです。精のつくものは、それからの話かと……」
「しかし、上様に粗食を召し上がっていただくわけにはいかぬ」と、歌橋は毅然とした顔で言った。大奥の格式と脈々と受け継がれる天下人に仕える誇りが、その一言に凝縮されている。
マナは歌橋を見つめ心の中でつぶやく(粗食って言っても、玄米や野菜は必要な栄養なんだよ……)しかし、大奥のしきたりや伝統というものは時に山より重いものであり、それを説得するというのは指南の技であった。
「歌橋様……今の食事が上様のお身体を苦しめているのです。慣例が大切なのはわかります。でも、命には代えられません。どうか、上様に少しだけ違う食事を召し上がっていただけませんか?」
歌橋は眉間にしわを寄せ、畳を見つめたまま沈黙した。大奥では、側室たちが将軍家の権威を保つために、日々厳しい礼儀作法や格式に縛られている。将軍家にとって食事は、権威そのものを示すものであり、「粗食」など、考えただけでも失礼に当たる。
それでも、歌橋は深く息をつくと、低い声で言った。「そなたの言う通りじゃ。命あってのしきたり……上様がお元気であらせられねば、大奥の栄えも、徳川の威光も虚しいものになる。しかし、粗食というのでは天下に威光も示せまい。はてどうするもんかの」
歌橋の声には、乳母として将軍家を支えてきた重責と慣例が彼女を縛り付けていた。
「おぬし、わしに教えてくれ。上様にお召し上がりいただけるような、上品で栄養ある品書きを。玄米も、工夫次第で格式を損なわぬものにできるやもしれぬ。」
マナは歌橋と向き合い、考えを巡らせた末に口を開いた。
「歌橋様、上様のお体を守るためには、やはり少しずつ食事を見直す必要があります。格式は保ちつつ、脚気を改善するものを考えてみました。」
歌橋は扇子を静かに畳み、真剣な表情で頷く。「申してみよ。」
「まずは、玄米入り白米の御膳でございます。」
「白米に少量の玄米を混ぜ、柔らかく炊き上げます。見た目は白米と変わらぬように工夫しておりますので、格式を損なうことはありません。」
歌橋は小さく頷いた。「白米の格式は守らねばならぬからな。それならば良いかもしれぬ。」
「次に、魚の葛打ちです。」
「上様のお召し上がりものなので、魚は鯛を葛粉を薄くまぶし、昆布出汁で静かに煮ます。葛粉が鯛の旨味を閉じ込め、上品な一品になります。」
「鯛ならば将軍家の威光にもふさわしい。」歌橋の目が少し明るくなる。
湯葉と小松菜の煮浸しはいかがでしょう。昆布と鰹節で取った出汁に濃口醤油を効かせ、滋味深い味わいです。湯葉の柔らかさと小松菜の青みが上品に合わさります。」
歌橋はゆっくりと頷いた。「それならば、江戸の味を保ちながら、上様のお身体にも良さそうじゃ。
「最後に、黒豆の煮物を。」
「黒豆はふっくらと炊き、上品な甘みで仕上げます。黒豆は体に精がつきます。」
「正月にも欠かせぬ黒豆か。これならば、上様の食卓にも合うであろう。」
マナは歌橋に向かい、真剣な眼差しで言葉を結んだ。
「これらのお品書きなら、上様の威光を保ちつつ、お体の改善に繋がるはずです。どうかお試しください。」
歌橋は目を細め、静かに息をついた。「……そなたの申し出、確かに受け入れよう。上様のお命を守るため、しきたりに囚われすぎてはならぬのだな。」
どの料理も、江戸の庶民のおちよが得意とした品ばかりであった。
歴史と現実の狭間で揺れる徳川の世――。
将軍家の膳に並ぶ一皿一皿は、
庶民との隔たりを歴然と浮かび上がらせ、
将軍の体を蝕んでいく。
それは、徳川の長き支配の終焉を予感させた。