5章恋のレシピはカラメル少々
史実では彼は27歳(1868年)で肺結核で亡くなったとされているけれど、先日見た沖田総司は喘息持ちで、明らかに年齢が違う。歴史で語られる沖田総司は一体何者なのだろう?試衛館に訪れて以来、その疑問がマナの頭から離れない。しかし、どうあれ、マナと同じくらいの沖田総司は本当にイケメンで素敵であった。そう...何かしてあげたいと思考を巡らす。結核でもしなくなるにしたって、喘息を治すにしたって、病気の治療に大切なのは体力。マナが生活してみてわかったことは、江戸時代の人たちにはタンパク質が足りなすぎる。マナはふとひらめいた。「プリン!プリンを作ったらどうかしら?」プリンなら、卵と砂糖、牛乳というシンプルな材料でできる。
「おちよさん!」マナは勢いよく声を上げた。「沖田さんに何か栄養のあるものを作ってあげたいと思って。それで、プリンがいいかなって考えたの。でも、材料をどうするか悩んでて……」
「プリン?」おちよが首を傾げた。「それってなんなんだい?」
マナは身振り手振りを交えながら説明を始める。「卵と牛乳を混ぜて蒸して固める甘いお菓子なんだけど、喉にも優しいし、疲れた体にもきっと良いはずなの!」
「へえ……でも、牛の乳なんてここでは手に入らないよ?」おちよは申し訳なさそうに首を横に振った。
「そうだよね……」マナは考え込んだ後、はっと顔を上げた。「豆乳はあるかな?豆腐を作るときに余ったりしない?」
おちよは少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべた。「豆乳ならなんとかなるかもね。あの豆腐屋さんに頼めば分けてもらえるよ。」
しばらくしておちよは豆乳を手に取り、息を切らして帰ってきた「これだけじゃなくてね、私、豆乳で葛餅も作れるんだよ。甘い蜜をかければ、喉にも優しいし栄養もあるしね。」
豆乳、卵、砂糖――シンプルな材料が揃うと、おちよは手際よく準備を始めた。木のボウルに卵を割ると、見事な手つきで素早くかき混ぜる。ふわふわの泡が表面に広がり、その様子にマナは目を丸くした。
「おちよさん、混ぜるの上手ですね!」
おちよは笑みを浮かべながら、さらに手を動かす。「茶碗蒸しの要領だね。料理の腕だけは自慢なんだよ。」
次はマナの番だ。鍋の中で砂糖が溶け始め、透き通った液体がゆっくりと黄金色に変わっていく。マナは慎重に木べらでかき混ぜながら、絶妙なタイミングを見計らっていた。焦げすぎると苦くなってしまう――そんな母の教えを思い出しながら、じっと鍋の中を見つめる。
「そろそろかな……」
鍋の中の砂糖が、まるで琥珀のような深い茶色に染まった瞬間、マナは火を止めた。ジュワッという音とともに湯気が立ち上り、甘くて香ばしい香りが台所に広がる。
「できた!」マナは満足げに小さな器にカラメルを流し込んだ。
その光景を見ていたおちよは、目を丸くして息をのんだ。「マナさん、今の……一体何をしたんだい?」
「カラメルっていうの。砂糖を熱すると、こんなふうに苦みと甘みが混ざったシロップになるの。」マナは得意げに笑った。「プリンの底に敷くと、甘さが引き立つんですよ!」
おちよは恐る恐る鍋を覗き込み、琥珀色の液体をじっと見つめた。「砂糖って、こんなふうに変わるのかい?焦げてるのに、なんだかすごくいい香りがする……」
湯気がゆらゆらと立ち上り、現代と江戸がゆっくりと交差する。母の面影と、おちよの笑顔。時代は違えど、ここにも確かな温かさがある。
「ねえ、おちよさん。絶対、沖田さんに食べてもらいたいな。」
「きっと喜んでくれるさ。」おちよはマナの肩を軽く叩いた。
マナは籠に包んだプリンを抱えながら、おちよと笑い合った。
「これ、沖田さんに食べてもらいたいな。」
おちよは頷きながら、ふと笑みを浮かべる。「佐吉さんにも教えたらどうだい?饅頭と一緒に商売になるかもね。」
「そうだね、それなら沖田さんも気軽に食べられる!」マナの顔がぱっと明るくなった。
試衛館に着くと、沖田総司は縁側に座っていた。前回会ったときよりも顔色がやや良くなっているように見えたが、咳が完全に止んだわけではなさそうだった。
「マナ殿、またお越しくださいましたか。」
沖田は穏やかな声で挨拶し、わずかに微笑んだ。その微笑みに、マナは思わず胸が高鳴るのを感じた。
「今日は、これを持ってきました!」
マナは籠を開き、中に整然と並べられたプリンを見せた。
「喉にも優しいし、体力をつけるのに役立つと思います。お菓子なんですが、栄養たっぷりなんですよ。」
沖田は驚いたような表情を浮かべたが、マナの勧めに従い、一口プリンを口にいれ、大きく目を見開くと、もう一口食べた。
「不思議な甘さだが、なにやら胸にほのぼのとしたものが染みるような……。」
その言葉に、マナは思わず陽だまりのような顔をした。
「気に入っていただけたなら良かったです。これ、栄養価も高いので、少しずつ召し上がってみてください」
沖田は静かに頷いたが、ふと考え込むような表情を浮かべた。
「……マナ殿、あなたの知恵は尋常ではない。いったいどこでこれほどの技を身につけたのですか?」
マナは内心ドキリとしながらも、プリンを一緒に作った遠く離れた母に思いを馳せて答えた。
「まあ、ちょっと特別な環境で育ったものですから……。」
「マナ殿の環境とは、どんな場所なのでしょうね。」
そう言いながら、総司はふと何かを悟ったようにいった。
「ですが、無理に教えろと言うつもりはありません。人には、それぞれ語れぬ理由もあるでしょう。」
その沖田という人の懐の深さが、マナの離れた家族へのセンチメンタルな思慕を慰め、代わりにほっこりとした感情を与えた。
(この人……本当に優しいんだな。推しというだけじゃなく、こんなふうにまっすぐ向き合われたら……私、どうなっちゃうの?)
しばらく二人で縁側に座り、道場から聞こえる若者たちの稽古の音を静かに聞いていた。ふいに、総司がぽつりと言った。
「剣は武士の魂ですが、私はその剣で、万民を守れなくなるときが来るかもしれません。」
「え?」マナは驚いて総司の横顔を見る。
彼は遠くを見たまま続ける。ふいに、胸の奥がキリキリと痛み、咳がこみ上げる。彼は慌てて口元を覆い、肩を震わせながら咳を殺そうとした。しかし、その努力は虚しく、乾いた咳が何度も繰り返される。
「沖田さん、大丈夫ですか?」
マナの心配そうな声が耳に届く。
沖田は咳を鎮めようと息を整え、なんとか微笑んで見せた。「……大丈夫です。ご心配には及びません。」
だが、その笑顔はどこか弱々しく、目元には疲労の色が滲んでいた。
「本当に……大丈夫なんですか?」マナの声には切実な不安が滲んでいる。
沖田は少しの間黙ったまま、庭の草木をぼんやりと眺めた。そして、絞り出すような声で呟いた。
「……大丈夫ではないのでしょうね。」
マナは目を見開いた。沖田は顔を伏せ、両膝の上で手を固く握りしめる。
しばらく口を閉ざしていた彼が、ぽつりと呟いた。
「私が初めて剣を握ったのは、九つの頃でした。両親を早くに亡くして……姉と共に、叔父の家に引き取られたのです。」
沖田の声は淡々としていたが、その奥には冷たく硬いものが潜んでいた。
「叔父は江戸で道場を開いていて、私はその道場で剣を学びました。幼い頃の私には、剣しかなかった。剣を振るうことでしか、自分の価値を証明できないと思っていました。」
彼は庭に落ちた木の葉をじっと見つめたまま、ゆっくりと続ける。
「叔父や道場の皆は親切でしたが、私はただの厄介者だと思っていました。両親を失い、姉に迷惑をかけている負い目が常に心の中にあったんです。だから、剣の稽古だけは誰にも負けたくなかった。自分の居場所を守るために。」
マナはその話を聞きながら、胸が締め付けられた。幼い頃から抱え続けた孤独と、失うことへの恐怖。それが、彼の剣を振るう理由だった。
「試衛館に入ってからも、それは変わりませんでした。剣を極めれば、ここにいてもいい――ただ、それだけを信じてきたのです。それは他の剣士も同じです。」
沖田は拳を強く握りしめた。関節が白く浮き出るほどの力だった。
「皆、剣を振るうことで、自分の存在価値を証明してきました。それなのに、咳が出るたびに、身体が重くなるたびに、剣士としての自分が少しずつ崩れていくような気がするのです。剣を振る力が消えゆくとき、それがしは、武士としての輝きを失い、この世に在る意味さえなくなるのでしょう」
その問いは、まるで幼い自分に向けたもののようだった。彼の誇りを失う恐怖と、自分の存在が揺らぐ絶望にマナは痛みを覚えた。
「じゃあ、そのためにできることをしましょう。治療して食事で体力をつけて....でも、本当に大事なのはもしあなたが武士でなくなっても、あなたが何かを思う気持ちがあれば、それだけで十分あなたの存在意義があります。もしかしたら世の中から武士がいなくなるかも知れません。時代というのは変化するものです。その時の貴方の存在意義は武士ではないはず...少なくとも私は、そう思います。」
沖田は短く息をつき、ふと何かを思い直したようにマナを見た。
「時代が変化する?武士がいなくなる世の中......あなたには、何か先を見ているのですか?あなたには何が見えているのでしょう?」
彼は何かにしがみつくようにマナに尋ねた。ただマナは「この世にずっと同じものなどないのです」とだけ答えた。
沖田はじっと庭を見つめたまま、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……マナ殿、時代が変わるとはどういうことなのでしょう。私には、剣が武士の魂であると教えられてきました。それが無くなったとき、武士はどうやって己を証明するのか……」
彼の瞳は夕日に染まっていたが、その中には深い迷いと不安が垣間見えた。
マナはそっと息を吸い込んで、正直な気持ちを伝えた。
「沖田さん、私は……あなたたち武士がいつまでもこのままの形でいるとは思えないんです。今は想像もできないような、新しい世の中がやってくるかもしれません。でも、だからこそ――」
マナは沖田の目を真っ直ぐに見つめた。
「武士であることにこだわらなくても、沖田さん自身の価値は変わらない。あなたが何を信じて、何を守ろうとするのか、それがあなたの本当の魂だと思うから。」
沖田は目を閉じ、風が二人の間を吹き抜ける。肌に触れる風は穏やかだが、どこか張り詰めた気配があった。
「……もしも時代が変わり、私が己を見失うようなことがあれば、マナ殿、どうか叱咤してください。」
その言葉が風に乗り、空へと静かに流れていく。沖田の瞳には、決意と、隠し切れない不安が滲んでいた。
マナは息をのむ。自分とさほど年齢が変わらないはずなのに、この人は、まるで別の世界に立っている。
(同じ年頃の現代の私たちに、こんな覚悟を持って生きている人が、どれだけいるだろう?)
マナが医学を志した理由は、人を助けたいというシンプルな想い。でも、もし医学の道が絶たれたとしても、別の道を見つける自由がある。現代の若者は、何度でもやり直せる――そんな選択肢がある。
だけど、沖田には「剣」という一つの道しかない。その道が彼の生きる証であり、彼自身なのだ。
マナは静かに言葉を紡ぐ。
「もちろんです。絶対に叱咤します。だから、自分を見失わないでください。たとえ時代が変わっても、沖田さん自身の価値は、決して変わりません。」
沖田はゆっくりと頷いた。道場から聞こえる若者たちの稽古の音が、二人の間の静けさを埋める。
ふと気づけば、辺りの影が長く伸び始めている。
「もう、帰らないと……」
二人の会話はあてどもなく、宙に溶けていく。それでも、沖田総司という人物がマナの心に確かな痕を残した。形のない小さな熱が胸に触れ、消えそうで消えない大きな温もりとなって宿る。
マナはふと気づく。この感情は、恋とも愛ともまだ名付けられない。でも確かに彼女の心に湧き上がり、尽きることのない、彼とこの時代を生きてみたいという感情だった。
雲が空に淡く滲み、茜と金がゆっくりと溶け合っていく。日差しはまだ鋭さを残しつつも、微かな柔らかさを帯び始め、江戸の町には長い影が伸びていた。風に乗って子供たちのはしゃぐ声や、店先から聞こえる笑い声が、どこか遠くで響いている。
マナは沖田と並んでいるこの一瞬を、胸の奥にそっと刻み込む。
(この時間が、いつまでも続けばいいのに――)
けれど、夕暮れは確実に近づいている。彩雲は次第に薄れ、空は深い橙色へとその表情を変え始めた。
「そろそろ、帰らないと……」
マナの声は小さく、どこか後ろ髪を引かれるような響きだった。江戸時代の女子として、暗くなる前に帰るべき時間だ。
沖田はゆっくりと頷き、穏やかな瞳でマナを見つめる。「道中、お気をつけて。」
その言葉に、マナは小さく笑みを浮かべる。「ありがとう……沖田さんも、お大事に。」
二人の間に、柔らかな沈黙が流れる。まるで、今日の余韻を噛みしめるかのように。
マナは静かに歩き出し、何度か振り返る。そのたびに、沖田の姿が夕暮れの中に溶け込んでいく。
心の中で、そっと呟く。
(また、会えますように……)
淡い願いが風に乗り、茜色の空へと吸い込まれていった。