2章いつの世も女は下着で勝負する!
辰三郎親方の家は、日本橋の裏通りにひっそりと佇んでいた。大通りの喧騒とは打って変わり、静かな通りに並ぶ商人や職人の家々が落ち着いた雰囲気を醸し出している。表通りには大店が軒を連ね、商人や行き交う人々の活気に満ちているが、路地を一本入ると、中程度の商人や職人の家が規則正しく並び、そのまた奥には小さな長屋が肩を寄せ合うように建っていた。長屋の真ん中に位置する、井戸では女性たちが洗濯物や野菜を洗いながら談笑している。その声と水の音が、路地に淡々と広がっていた。
大通り一本裏の一角に『め組』の提灯が、宵に揺れ吊るされていた。その家には、鳶の頭の家ならではの威勢と粋を漂わせていた。
マナはその家に案内され、恐る恐る中に入ると、思わず目を見張った。
(これ…時代劇で見たことあるやつだ!長火鉢に神棚、めっちゃ江戸じゃん!)
入口の土間には白に黒の「め」と書かれた纏いがあり、広間には、火消し道具である鳶口(とびぐち――長い木製の柄に金属製の鉤が付いた道具)が顔をのぞかせる木箱が無造作に置かれ、奥の台所からはおちよという女房らしき女性が顔を出していた。その傍らで、辰三郎の子ども、5~6歳くらいの留吉が、好奇心旺盛にマナをじっと観察している。
辰三郎は、マナの父親と同じくらいの40代後半から50代前半で、火消らしいがっちりとした体格をしており、背は江戸時代の男性らしく小柄だが、日に焼けた肌と精かんな顔つきが印象的だった。普段は鳶職として建物の高所作業をこなし、火事が起これば火消しとして町の人々を助ける。家には鳶の若い衆が出入りしており、始終賑やかな家であった。
そんな中、め組と書かれた法被姿の辰三郎親方は神棚の前に座り、にやりと笑ってマナを見た。
「嬢ちゃん、まあ、すわって茶でも飲みねい」
彼の陽気な声に促され、マナは恐る恐る座布団に腰を下ろす。
「しかし、嬢ちゃん、その恰好はてえしたもんだ。未来ってところの着物かい?」
「えっ?」
あまりに唐突な言葉に、マナは思わずきょとんとする。
(洋服見ただけで未来って…おじさん、その発想どこから来るの!?)
「未来っていえば、まあ、そうですね。」
なんとか話を合わせようとするマナだったが、次の辰三郎の一言でさらに驚かされることになる。
「実はな、ちょっと前にも似たような奴がいたんだよ。その人も未来ってろこから来たって言っててな、奇才なお医者だったな。そりゃあ助かったもんさ。ふふふ。その医者っていうのはな、不治の病とされてたやつを治しちまったんだよ。熱病だとか、なんだか分からねえけど、妙な道具を使ってな。」
(え――――!?未来から人ってそんなに頻繁に来るの!?しかも医者?奇才って天才のことよね?これ、ドラマのあの人?ってことはないか...)
辰三郎は後ろの納戸から古びた巻物を持ち出してきた。それは江戸の地図だが、どこか奇妙な部分があった。「未来ノ門」と記された場所が、墨田川のそばに描かれているのだ。
「この地図には、時の流れが歪む場所が記されているらしい。このお江戸の中でも、特に浅草近くの土地が怪しいとされているんだが……その医者もあんたも倒れてた場所は、ちょうどその辺りだ。」
「時の流れが……歪む?」
辰三郎は頷く。
「そうだ。過去と未来、あるいはもっと別の世界が交わる場所。あんたがそこに引き寄せられた理由は分からねえが、ここに来たからには何か意味があるのかもしれねえな。」
地図を見つめながら、目を見開いてぽかんとするマナに、辰三郎は続けて言った。
「嬢ちゃんも、そいつと同じじゃねえか?間違いねえだろう。俺もにわかわかには信じられねい話だけど、こう目の前で不思議なことを見せられたんじゃ。信じずにもおられねぇわさ。」
「えっと…確かに未来から来たんですけど、ちょっと違うんですよ。私、一旦死んでるんです。」
ぽつりとそう答えると、部屋の空気がしばらく止まり、おちよが驚いて皿を持ち直し、辰三郎だけは面白そうに笑った。
「ほう、それはまた面白ぇ話だな。よっしゃ、嬢ちゃん。もっと聞かせてくれ。」
その言葉に促され、マナはボツボツとこれまでにあった出来事を話し始めた。大学での試験、事故、葬式の棺の中で目覚めたこと、そして気づいたら江戸にいたこと――。
辰三郎は黙って頷きながら、時折「へぇ」「なるほど」と相槌を打つ。その反応に、マナは次第に話すスピードを上げていった。
「それじゃ…嬢ちゃんは帰ったら死んじゃうわけさね?」
辰三郎の何気ない一言は、マナに自分の身に起こった悲劇を思い出させる。
「うーん…わからないです。成仏しないといけないんですかね?それとも、何かが解決したら元に戻れるとか…?」
マナ自身、どうなるのか見当もつかず、それを聞いた辰三郎も、腕を組んでしばらく思案していたが、やがてにやりと笑みを浮かべた。
「まあ、どっちにせよ、すぐに答えが出るもんじゃねえ。ことが解決するまで、ここにいなさるといい。」
「えっ、いいんですか?」
辰三郎の言葉に、マナは驚きながらもほっと息をついた。
「あたぼうよ。嬢ちゃん、あんな高い火の見櫓を登って子どもを助けてくれたじゃねえか。これからは、め組の一員みてえなもんだ。」
「一員…ですか?」
マナは少し戸惑いながらも、その響きに妙な温かさを感じた。おちよがにっこり笑いながら言う。
「そうさねぇ、ここはいつも賑やかだから、高いところが好きな嬢ちゃんみたいな人が来たら心強いよ。」
その横で、留吉が「うんうん」と大きく頷いている。
「嬢ちゃん、名前は?」とおちよが尋ねると、マナは借りてきた猫のようにかしこまって答えた。
「マナです。」
「ああ…おマナさんね。」
おちよがそう言うのを聞いて、マナは内心で小さくつぶやいた。
(おマナ?おマナ?…まあ、いいけど。なんかすごい話になってきたな。でも、とりあえず寝るところができてよかった…。)
これがマナと辰三郎たちとの出会いであった。
辰三郎の家でやっかいになることにしたものの、いざここで生活をするとなると、不便な事がたくさんある。着るものに関しては世話好きのおちよがさっそく用意してくれ、自分が若かった頃の着物を仕立て直してくれた。おちよは30代後半の色白で瓜実顔の美人で、実家は小間物問屋を営んでいるそうだ。10代で嫁入りに持ってきたという着物はとても美しく、華やかな顔のマナに似合っており、彼女も気に入った。だが、それを着るたびにどうしても引っかかる問題があった。
「ノーパンで腰巻だけなんて無理だよ…動くたびに落ちそうで落ち着かない!」
江戸時代の女性たちは当たり前のように腰巻で生活しているが、現代っ子のマナにとっては耐え難い不安感だった。最初は男性用の股引を代用してみたものの、どうもゴワゴワして動きづらい。
「もっと簡単で、現代っぽいのがいいんだけどな…」
そこで、マナは自分で何とかしようと現代のパンティの形状を思い出し、さらしを使って現代風の下着/江戸版「ひもパン」を作ることにした。
さらしを切り、針と糸を握るマナ。裁縫は苦手だが、工夫を凝らし、現代のデザインを頭に思い描きながら作業を進めた。
「こんな感じで切って、ここを結べば…よし、形になった!」
試作品第一号を試着してみると、案外うまくいった。紐でサイズを調整できるため、動いてもズレる心配がなく「これなら快適だし、江戸の生活にも対応できる!」
マナが嬉しそうに「ひもパン」を履いているところをおちよが目撃する。
「まあ!女の子がなんだよ、はしたない。でもおマナさん、それ…何だい?」
「これ?動きやすいし、腰巻よりずっと便利なの。私が住んでいたところの下着をヒントにしたの。」
おちよは半信半疑で試してみることに。
「これは…確かにいいね!動いてもずれないし、風も通る。これなら火事場で飛び降りても、女たちも恥ずかしがらないでいいよ!」
それ以来、おちよもすっかり「ひもパン」の虜になり、長屋の女たちはこぞってマナに作り方を聞いたきた。
その夜、木挽町の芝居小屋は、観客が引けた後の空気がどこか落ち着かず、小屋の中では明日の演目に向け、下働きの女中たちが道具の片付けや衣装の手入れをしている。油灯が揺れる薄暗い小屋の中で、女たちは寒さでかじかむ手を動かし、準備をしていた。
「これで終わりかしら…」
おきよが、手元の布をまとめながら小声でつぶやく。今年19歳になる彼女は、芝居小屋で働き始めてまだ1年足らずだが、旅から旅への慌ただしい日々に慣れつつあった。
その時――。
「ミシ…ミシ…」と建物がわずかに軋む音が響いた。「何?揺れてる?」
女中たちが顔を見合わせた瞬間、建物がほんの少し横に揺れる。その揺れに反応して、脚台に載せられた油灯がぐらりと傾いた。
「ガシャン!」
油灯は脚台ごと倒れ、障子の近くに転がる。灯芯からこぼれた灯油が障子の紙に燃え移り、一瞬で炎が広がった。
「きゃっ!火が出た!」
おきよが慌てて座布団で火を抑えようとするが、すでに炎は勢いを増しており、手に負えなくなっていた。赤い舌のように燃え上がる炎は、舞台の幕や木材を次々と飲み込み、周囲を煙で包み込んでいく。
「火事だ!火事だよ!」
他の女中たちも悲鳴を上げ、狭い舞台袖から階段に向かって走り出した。しかし、燃え広がる炎はすぐに出口をふさぎ、2階にいた数名の女中たちは窓際へと追い詰められる。
「どうすればいいの…」
おきよは窓枠にしがみつき、下を見下ろす。地面まではおよそ3メートル。飛び降りれば助かる可能性は十分にあった。
「でも…裾が乱れる…」
彼女の頭に浮かんだのは、自分が腰巻だけを身につけているという事実だった。もし飛び降りたら、着物の裾が乱れて肌が晒されるかもしれない。それは恥ずかしい思いだった。おきよは窓枠に手を掛けたまま動けない。
周囲の女中たちも窓際で立ち尽くし、同じように躊躇していた。
「飛び降りるしか…でも…」
「ちょっと待って、まだ他に方法が…」
その間にも炎は迫り、熱気と煙が肌を刺すように痛む。咳き込みながら、おきよは声を振り絞った。
「誰か…助けて!」
おきよが逡巡している間にも、炎は窓枠に燃え移り始めた。火の粉が舞い散り、建物が音を立てて崩れる。視界は煙に覆われ、呼吸をするたびに喉が焼けるような痛みが走る。
「やっぱり…無理…」
叫び声が上がるが、その声も炎の轟音にかき消され、周囲に届くことはなかった。
芝居小屋全体が燃え広がり、屋根が崩れ落ちる音が夜の静寂を切り裂く。近隣の住民たちは火の手に気づき、半鐘を鳴らして火消しを呼ぶが、到着した時には既に遅かった。中にいた女中たちは、誰一人生還できなかった。火消しや住民たちは必死に水を運び、火の勢いを抑えようとするが、燃え盛る火の前では成す術がなかった。
その夜、辰三郎が助っ人にでた、木挽町の火事現場から戻ってきた時、法被には煤が付き、髪も汗で乱れていた。玄関の戸を開けると、マナとおちよが心配そうに駆け寄る。
「辰三郎さん!大丈夫でしたか?」
マナが問いかけると、辰三郎は重い溜息をつきながら肩を落とした。
「ああ…俺は無事だ。けど、手遅れだった。」
「お前さん!手遅れって…?」
おちよが眉をひそめると、辰三郎は額の汗を拭いながら、低い声で話し始めた。
「芝居小屋の火事だった。幸い風がなく、芝居小屋だけの延焼ですんだがな。2階に女中たちが取り残されちまってな。窓から飛び降りれば助かったはずなんだが、みんな飛べなかったんだ。」
「どうして?」
マナが聞き返すと、辰三郎は悔しそうに首を振った。
「若い娘たちばかりで、着物の裾が乱れるのを恐れてな。それが理由で、命を落としちまった。」
まさかそんなことが、マナは絶句した。
「そんな…命がかかってるのに、着物の裾を気にするなんて…!」
辰三郎は苦い笑いを浮かべながら言った。
「若い娘だもの気にするってもんさ。迷ているうちに火にまかれてちまったんだよ。やりきれねえ。」
辰三郎が火消としての無念を語る中、マナがひらめいた。
「辰三郎さん、その……火事の時、女性がもっと動きやすい服装をしていれば、結果は変わったかもしれませんよね?」
辰三郎が驚いた顔でマナを見つめる。マナは続けた。
「私、この間作った『ひもパン』を広めたいんです。これなら、裾が乱れる心配をしなくても済むと思うんです。」
おちよがその話に、目を輝かせた。
「確かに!長屋の女たちも、あれを気に入ってるわ。じゃあ今度は火消しの奥さんたちに教えてみるよ。」
辰三郎は腕を組みながら頷いた。
「おちよが履いていたあれか!それはいい考えだ。火事場で素早く動ける工夫があるなら、それが命を救うきっかけになるかもしれねえ。」おちよは意気揚々と話し出した。
「火消の女房たちや、井戸端で話してみるさ。江戸の女たちは器用だもの、作り方を教えればすぐに広まるよ。」
「ありがとうございます、おちよさん!」
マナはほっと息をつき、自然と頭を下げた。
辰三郎は肩を揺らし、にやりと笑う。
「嬢ちゃん、そりゃあなかなかどうして、見上げたもんだ!」
江戸の町に漂うもやが、ふと一本の道筋を描くように、マナの中で輪郭を成していくのがわかった。
【後書き】
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