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狼と少女の物語  作者: くらいさおら
99/101

第99話

 その女性は、音もなくアービィたちの前に立った。

 艶やかな表情は、男たちを振り向かせるに充分な魅力に溢れている。少々吊り気味の瞳と適度な高度を持つ鼻梁、控えめな口元はそれぞれが整ったバランスを保っていた。だが、その表情は、今にも泣き出しそうだ。

 美しい金髪が風にそよぎ、悲しみを湛えた碧眼が、アービィたちを均等に眺めている。


 少女の顔が凍り付き、恐怖に身を竦ませる。

 その少女を庇うようにルティが一歩踏み出すが、人なつっこい笑顔を浮かべ、女性に話しかけようとした。


「来ちゃダメっ!」

 その瞬間、その女性、オセリファの叫びと同時に両腕が水平に突き出され、指先が怪しく輝いた。短い呪文の詠唱が完結し、赤錆色の光弾がルティに襲いかかる。咄嗟に剣を抜き放ち、光弾を弾こうとするが、粘着質の泥を塗りつけられたかのように、光弾は弾けたまま剣にまとわりついてしまった。



「何、何が!?

 オセリファさん、何を!?」

 続けざまに襲い来る赤錆色の光弾を剣にまとわりつかせながら、ルティが悲鳴のように叫ぶ。


「これは腐食の呪文なの!

 私は、私は意識はそ――のままに、身体を操ら――れてる。

 ――

 もう、私には、どうすることも――

 ――できないのっ!」

 必死に叫ぶオセリファは、言葉の合間に呪文を詠唱し、矢継ぎ早に繰り出してくる。


 呪文を受け止めた剣は、祝福方儀式の効力で六発目までは耐えていた。

 だが、刃全体を赤錆色に染め上げられたとき、火の精霊の祝福加護は限界を超えた。みるみるうちに錆が進行し、まるで砂のように鍔から先が崩れ去る。ルティは護身用の短剣を抜くが、それは一発食らえばもう役に立たなくなることは明らかだった。

 オセリファと戦う意義を見い出せないルティは、どうして良いか判らなかった。



 エンドラーズとバードンが飛び出し、少女を引き戻し荷車の影に伏せさせる。

 ティアが『封魔』を放つが、オセリファの周囲に張られた重力結界に阻まれ効力が届かない。次の赤錆色の光弾がオセリファの指から放たれ、ルティに向かって飛翔した。ルティは短剣で光弾を浮けるが、祝福方儀式を受けているとはいえ、刃渡りの短い剣は一発の光弾で赤錆色に染め上げられた。

 


 あとは護身用のナイフしか残されていない。精霊の加護が腐食の呪文を相殺していたが、ナイフには何の処理も施していない。そんなものでは光弾を防ぐことなどできそうもなく、ナイフで受ければ身体ごと腐ってしまいそうだった。

 次の光弾を防ぐ手だてを、ルティは失っていた。


 今にも泣き出しそうに顔を歪め、オセリファは呪文の詠唱を完成させた。

 ルティに向かって赤錆色の光弾が襲いかかったとき、ルティはナイフを顔の前にかざし、思わず目を閉じた。次の瞬間腐食の呪文が炸裂すると覚悟して、それを食い止めるため効果があるかどうかは判らないが、『全解』の詠唱を開始する。もし、オセリファの放つ呪文が即効性であれば、『全解』を唱える前にルティの身体は腐敗しきってしまう。それでもルティは、可能性に賭けた。

 しかし、『全解』詠唱を完成させ、あとは発現させるまでになっても、腐食の呪文がルティに効力を発現させることはなかった。



 何が起きたのか確かめるため、ルティは目を開いた。

 そこには、頭から身体の前半分の毛皮を赤錆色に染め上げた巨狼が、ルティとオセリファの間に微動だにせず立っている。永遠とも感じられる一瞬が過ぎ、巨狼が水から上がったときのように身体を振るった。赤錆色は一瞬で飛散し、元の灰色の毛皮が現れた。

 巨狼の眼が狂気に染め上げられ、オセリファに向かって跳躍する。


「お願い、私を殺して。

 女王は、あの子を殺すように。

 あなたは生かすように、命じてる」

 オセリファに牙が届く前に、巨狼の身体に周囲の数倍とも思われる重力が襲いかかる。


 巨狼が異変を悟った瞬間、その巨体は地面にめり込んだ。

 巨狼の膂力と重力がせめぎ合い、全身を震わせて立ち上がる。だが、立っているのが精一杯で、次の行動に移る際に少しでも力が抜ければ、また地面にめり込まされてしまう。それでも巨狼は一歩ずつ、歩幅は僅かでしかないが、だが着実にオセリファに這い寄っている。

 その姿にオセリファは、また悲しそうに表情を歪めた。



 巨狼を援護するためにバードンが飛び出すが、巨狼の念話がそれを遮る。


 ――ダメっ! 来ちゃダメっ! 来るなぁっ!

 巨狼だからこそ、生きていられる。

 ルティを傷付けようとした者に対する狂気を、重力によるダメージが正気に戻し、辺りの状況を巨狼は把握していた。


 鍛えているとはいえ、バードンは人間だ。

 この重力結界に飛び込んで、無事に済むとは思えない。巨狼の叫びが今までにないほど切羽詰まっていたため、結界の寸前でバードンは蹈鞴を踏んで立ち止まろうとするが、その勢いは殺し切れていない。少女が思わず目を瞑った瞬間、バードンの腹に蛇の尾が巻き付き、力一杯結界から引き剥がすように、その身体を引き寄せた。

 肩で息をつくティアの前にバードンの身体が落ち、なんとか結界に突っ込むことを回避した。



 ――なぜ、あなたは、こんなことを!?

 巨狼の念話がオセリファに問い掛ける。


「お願いだから、殺して。

 私には、もうどうすることもできない。

 私の身体は女王に操られる傀儡子でしかない。

 私には、女王の力に抗う力はない。

 私が壊れるしか、止めることはできないの」

 オセリファの声は、泣いているようにしか聞こえない。

 だが、不死の身体から、涙が落ちることはなかった。


 ――どうすれば呪縛から逃れることができるの?

 必死に這い進みながら、巨狼が問う。


「私が壊れるしか、その方法はない。

 だから、私をもう一度殺して。

 不死の身体も、破壊すれば、破壊して水に捨てれば再生できない。

 お願い、私を、私の身体を、破壊して」

 血を吐くようにオセリファが叫ぶ。



 エンドラーズはタイミングを計っていた。

 おそらく、重力結界は悪霊を力の源にしている。聖水を使えば穴を開けることはできると、エンドラーズは見ていた。だが、先兵たるオセリファですらこの手強さだ。聖水のストックは無限ではない。ここですべてを使い切ってしまっては、あとに不安が残る。最も効果的な部分を探し、エンドラーズは聖水を叩き付けるつもりでいた。

 その側に、ティアが寄り添った。


「エンドラーズ様、あたしの尻尾に聖水を。

 突入します。

 尻尾であれば、万が一潰れても命に別状はありません。

 それで結界に穴が開けば、オセリファさんに……

 バードン、もしもの時はお願いね。

 尻尾が腐り始めたら、斬り落として」

 そこまで言って、ティアはすべての状態異常や魔法攻撃、物理攻撃から身を守る、地の白呪文レベル4『全壁』を詠唱し始めた。


 『全壁』が重力攻撃や腐食の呪文に対して効力を発揮するか、やってみなければ判らない。

 万が一にも効果がなければ、ティアの尾は重力に潰され、腐敗させられてしまう。そのときは、躊躇わずに斬り落すつもりでいるが、間に合わなければバードンにやってもらうしかない。身体の一部を失うことは怖いが、命をもう一度落すことは御免だった。だが、尾を斬り落せなど、ルティには頼めない。

 それはバードンにやって欲しかった。


 バードンとエンドラーズが頷く。

 エンドラーズがティアの尾に聖水を振りかけ、さらに『加速』と『全壁』を重ね掛けする。バードンは純銀の剣に聖水を振りかけ、赤錆色の光弾に備える。状況を把握したルティは、ティアの援護のため『快癒』の詠唱を始めた。

 その間も、巨狼は這い蹲りながらも一歩ずつ、オセリファに向かって着実に進んでいる。


「早く、私を、破壊して……」

 オセリファの目が閉じられた。


 ティアが重力結界の寸前まで這い寄り、尻尾を振り上げ結界に叩き付けた。

 聖水の効力が重力レンズをチーズのように切り裂き結界を開啓するが、水に刃を通したようにすぐに結界は閉じられる。地面で振り下ろした尾は重力に押えられ、ティアはその場に縛り付けられたようになってしまった。


「尻尾――を、切って、逃――げて!」

 目を開いたオセリファが、ティアに向かって絶叫する。

 ほぼ同時に繰り出された腐食の呪文がティアに襲い掛かり、一発は短刀が受け止めたが、もう一発が右腕に命中した。


 『全壁』が効を奏し、腐食の呪文が無効化される。

 だが、『全壁』の効果は永遠ではない。時間の経過と防いだ呪文の強度によって、その効力は徐々に失われていく。立て続けに炸裂する腐食の呪文を、尾を押さえられ身動きの取れないティアは避けることができず、『全壁』の効力はやがて限界に達した。

 正面から襲い来る赤錆色の光弾を、ティアは右腕をかざしてかろうじて直撃だけは避けた。


 痛みとは違う衝撃が右腕に走り、感覚が消え失せ、みるみるうちに腐臭を放ち始める。

 恐怖に顔を歪め、ティアは『全解』の詠唱を開始するが、集中できずに効力が発現しない。エンドラーズとルティが慌てて『全解』を詠唱するが、腐食の進行は早く、呪文が発現するまでに心臓まで達してしまいそうだった。エンドラーズは『全解』を諦め、そのまま『蘇生』の呪文に切り替える。万が一、ティアが命を落としたときに備えての行動だ。

 ルティも『全解』を諦め、別の呪文の詠唱を始めていた。


 バードンがティアに駆け寄り、純銀の剣を抜き放つ。

 右腕を斬り落し、次いで重力結界に捕らわれた尻尾を、躊躇うことなく切断した。次いで尻尾を押えている辺りに、懐から取り出した聖水を撒き散らす。エンドラーズも聖水を結界に叩き付けるように撒き、緩んだ隙間から切断された尻尾を引き摺りだした。

 ルティが唱えなおした『快癒』で尻尾を元通りに付け直し、エンドラーズが改めて『全解』で斬り落とされた右腕の腐食を食い止める。さらにルティの『快癒』が右腕に掛けられ腐食が回復され、エンドラーズが『快癒』を行使してティアの肩に右腕を付け直した。

 瞬く間に、ティアは重力結界から解放され、負ったはずのダメージはほとんど残らない状態になっていた。


「ありがとう、みんな。

 ごめんね、手間掛けさせちゃって」

 オセリファから距離を取り、ティアの言葉に四人は頷く。


「あなたたち、なんてことを」

 オセリファは、驚愕の表情で固まっていた。


 まさか本当に尻尾を切断するとも、腐食の呪文が浸透した右腕を斬り落すとも思わなかった。

 オセリファが受けていた命令は、ルティの殺害とアービィの確保だ。邪魔する者は排除しろとも、命令されている。自らが殺されることを願いつつ、オセリファの持てる力の全てがルティ殺害ただ一点に注がれていた。もちろん、ティアやバードン、エンドラーズが邪魔立てするなら、その殺害も躇いはしない。

 アービィを生かして連れてこいという命令さえなければ、それほど困難とは思っていなかった。


 もちろん、この時点でオセリファ個人に、殺意など欠片もない。

 殺されることを願い、ルティたちを傷つけずに済むことを祈りながら、転移させられていた。自身の意識とは裏腹に、五人を追いつめてしまっているが、オセリファは形成逆転を心から願っていた。だが、邪神の力は強大であり、五人が全力で懸かってようやく均衡を保てる程度だった。

 どうすることもできない焦燥感に、オセリファは身を焼かれるような感覚に囚われていた。



 ティアの尾を引き抜いたとき、一瞬できた隙に重力結界が弛んでいた。

 オセリファですら気付かなかった僅かな緩みは、全身を押さえつけられていただけに、巨狼には伝わっていた。

 全身の力を四肢に込め、巨狼が跳躍した。


 ――オセリファさん、ごめんっ!

 巨狼の念話が全員の脳裏に響き、鋭い牙がオセリファの脳天に振り下ろされた。ように見えた。


 結界は弛んだとはいえ、消えたわけではなかった。

 跳躍の勢いはそのままに、巨狼の身体が再び大地に叩き付けられる。不自然な姿勢で叩き付けられた巨狼が、細かく痙攣を始めた。助けたくとも誰も飛び込めない重力結界の中、オセリファの足元に巨狼が這い蹲らされている。

 ルティの悲鳴が、大気を裂いた。


「私には、何もできない。

 あなたたちを傷つけたくないのにっ!」

 巨狼を見下ろすオセリファの手が振り上げられ、手刀の形に振り下ろされようとしたとき、その額に亀裂が走った。


「くっ! はっ!

 ありがとう、でも、まだ…

 私は壊れない…」

 

 見えない何かに押さえつけられ、身動きの適わなかった巨狼の動きが変化した。

 それまでは重力に坑がってなんとか息を吸い込み、次いで抑えつけられるまま一気に吐き出していた。それが意識を失い呼吸すら止められそうだったが、荒い呼吸ではあるものの、押さえつけられた動きではなくなっている。


「重力結界が消えた?」

 エンドラーズがいち早く気付き、巨狼に向かって『快癒』を放つ。


 いったん距離を取ったオセリファが態勢を立て直し、一気にルティとの距離を詰めた。

 丸腰のルティは、オセリファが繰り出す手刀を、ただ避けるしかできない。もともと戦いの中に育った北の民と、習い覚えた剣技しか持たないルティでは、体術の勝負になってしまってはどちらが有利か考えるまでもない。そこへ持ってきて、オセリファには腐食の呪文がある。殴る蹴るの単純な暴力の手段を持たず、攻撃魔法も拾得していないルティは、ひたすらオセリファの攻撃から逃げ回るしかできなかった。

 バードンとエンドラーズが牽制に入るが、腐食の呪文が襲いかかり、あと一歩が踏み込めない。



「何やってんのよっ!

 アービィ、いつまで気絶してるつもりっ!?」

 聞き覚えのある声が響き、ルティの側に剣が突き立った。


 咄嗟に剣を引き抜き、ルティはオセリファに牽制の斬撃を繰り出す。

 跳びすさって斬撃をかわしたオセリファが腐食の呪文を詠唱し、赤錆色の光弾をルティに向かって立て続けに放つ。


 握りしめた剣の柄から活力が流れ込み、ルティは光弾に斬撃を放った。

 さっきはまとわりついた光弾は、剣の一撃を受けると爆散し、赤錆色の霧を残して消え失せる。それは、まるで柔らかいチーズを切るかのような感覚だった。次々襲い来る光弾を、ルティは斬り裂き続けた。

 呆気に取られるバードンとエンドラーズの側に、一本ずつ剣が突き立った。



「これはっ!

 アマニュークの英雄が揃いましたなっ!」

 エンドラーズが歓喜の声を上げる。


「どうして、あなたがここに!?」

「そんなことはどうでもいいからっ!」

 二人の言葉を遮り、メディがルティとオセリファの間に割って入る。



「あなたの気持ちは、良く解るの。

 でも、でもね……私は……私は……」

 メディは大上段に剣を振りかざした。


「ありがとう……

 ごめんなさい……

 どんなに謝っても、あなたには赦してもらえないことは、解ってるの。

 早――く、――わ――た――し――を――」

 その言葉を掻き消すように、オセリファの意に反して腐食の呪文は詠唱され、立て続けにメディに襲いかかる。


 反射的にルティが一歩踏み込み、光弾を薙ぎ払い、一瞬の躊躇いの後、オセリファの左腕を切り落とした。

 だが、その一瞬の隙に放たれた光弾が、自身のしてしまったことに呆然とするルティの脇をすり抜け、メディに向かって殺到する。


「大丈夫。

 私に、あなたの呪文は、通じない。

 全ての精霊の、祝福を受けたのよ。

 安心して」

 腐食の呪文は、メディの身体に炸裂するが、赤錆色の霧を散らすように無効化されていく。

 メディの言葉にオセリファの表情が、まるで母の胸に抱かれる幼子のように和らいだ。


「メディっ! ダメっ!」

 ルティの叫びと、メディの斬撃が重なった。

 オセリファの身体が両断され、さらさらと灰になって崩れていく。

 オセリファの精神力のなせる技か、一気に灰化せず足元から崩れていく。


「オセリファさんっ!」

 ルティの悲鳴に、宥めるようにオセリファは微笑んだ。

 そして、ルティを抱きしめるように残る右腕を差し出した。


「いいの。

 ごめ……んなさい。

 これでい……いの。 あ……なたの……手にか……かるな……ら……それで……い……い……」

 ルティとメディに言葉を投げかけ、オセリファの身体は崩れていく。

 ルティの顔にオセリファの手が触れた瞬間、その身体は一気に灰化し、ルティの頬を撫でるようにして崩れ去った。


 ――あ……たた……かい……

 一陣の風がその灰を吹き散らしたとき、オセリファの残留思念が呟き、消えていった。


「あ……

 あ……」

 呆然と突っ立ったままオセリファの灰を見送ったルティが、その場に泣き崩れた。


「ごめんね、ルティ。

 でも、私は許せないの。

 私の一族を殺して、私を南大陸に売り飛ばした連中は、ね」

 泣き崩れるルティの肩に手を置き、メディが言った。


「あたしたちが、みんなが、どんな想いで戦ってるとっ!」

 その言葉に反応したルティが跳ね起き、メディの頬を叩こうと手を振り上げる。

 だが、その手は振り抜かれることなく、メディの肩を掻き抱いた。


「ありがとう、メディ。

 ありがとう。

 あ……りがと……う、メディ……」

 顔中涙でぐちゃぐちゃにしたルティが、メディにしがみついた。



 嘘だと判っている。

 確かにグレシオフィによってメディの一族は滅ぼされ、メディ本人は南大陸に売り飛ばされていた。しかし、オセリファは、その一件には関わっていない。偶々か、それともグレシオフィの配慮なのか、オセリファは殲滅戦に参加することはあっても、人身売買に絡むことはなかった。もっとも、大きな括りの中では直接手を下すか、間接的に関わるかだけの差であり、南へ侵攻した最北の民である以上、メディにとっては両親や一族郎党の仇には変わりない。

 だが、敢えてそのことをメディが持ち出した理由を、ルティは理解した。



 融和を第一義に掲げる南北連合は、過去の怨みを水に流したい。

 直接の被害が少ない南大陸は、最北の民に対して怨みもほとんどないために残虐行為を行うことはなかった。しかし、北の民にはそれが不満の種でもあった。

 指導層に属する者たちは、ある程度清濁併せ呑む器量は持っている。


 だが、庶民はそこまでの器量はない。

 もちろん、皆無とまではいかないが、極少数であり、ほとんどの者は最北の民に対して、良い感情は抱いていない。ちょうどラシアスの民が北の民に抱く感情と同じことだ。そして、彼らの中には身内を傷つけられたり、殺された者も多くいる。そういった者にとって、崇高な理念など邪魔なものでしかない。

 メディは、敢えてそうした感情を持ち出した。


 過去を水に流す。

 アービィが生きていた、現代日本にもある思想だ。過去の過ちをいつまでも問わないという、日本人の美徳でもある。だが、怨みが消えるわけでもなく、やられ損でしかない。だが、この言葉は被害を受けた者から言い出して、初めて成立するものだ。加害の側から言い出しても、被害を受けた側にすれば怨みが消えるわけでもなく、やられ損でしかない。何らかの補償があって然るべきことだ。

 最北の民が受け続けた千年を超える差別と蔑視、様々な不利益と抑圧は、そう簡単に水に流せるものではなく、北の民が受け続けた最北の民による略奪や暴虐も、赦すの一言で片の付くような軽いことではなかった。

 どこかで誰かが、その怒りと怨みを一身に背負って死ななければ、いつまでも新たな戦乱の火種がくすぶり続けるだけだ。

 メディの剣は、負の螺旋を断ち切るための一閃だった。



「アービィはいつまで寝てんのよっ!」

 地面に長々と伸びている巨狼に歩み寄ったメディが、『快癒』を掛けつつ脇腹にけりを一発入れた。


 ――うぅ……、ごめん……、まだ頭がぐらぐらする……

 よろよろと立ち上がった巨狼が頭を振った。


「もう、頭大丈夫?」

 少しだけ心配げにメディが聞いた。


 ――何、その軽くむかっとする心配の仕方……

 苦笑いを含んだような巨狼の念話に、ようやく皆の顔に明るさが戻った。



「遅くなっちゃって、ごめんね」

 メディが軽く頭を下げた。


「いや、僕の方こそ、無理言っちゃって。

 メディだって生活があるんだし。

 だけど、助かったよ、ありがとう」

 今度は獣化を解いたアービィが頭を下げた。


「ちょっと、どういうことよ?」

 ルティとティアが異口同音に聞く。


「あのね、こっちに戻るときに、メディに手紙出しておいたんだ。

 グロッソさんに、僕たち三人の剣を新しく鍛えてもらって、全精霊の祝福を受けてきて欲しいって。

 不安だったんだよ、風と火の祝福だけじゃね」

 グラザナイを発つ際に、アービィは三通の手紙を書いていた。


 一通目の手紙は、メディに宛てた新しい剣をグロッソに鍛えてもらい、それに対する全精霊の祝福法儀式を施すことを依頼していた。

 二通目の手紙は、当時はベルテロイ駐在武官であったパシュースインダミト第三王子に宛てた、メディの関所通過に係る便宜を依頼するものだ。

 三通目の手紙は、これも当時はベルテロイ駐在武官であったヘテランテララシアス第三王子に宛てた、ウジェチ・スグタ要塞通過の便宜を依頼するものだった


「とにかくね、スライムがまた増えちゃって、砂鉄集めに時間が掛かったのと、風の神殿で祝福法儀式に四十日待ちになっちゃってさあ」

 そう言ってメディは、エンドラーズを横目で冷ややかに睨んだ。


「申し訳け、ございませんっ!」

 まるで悪びれるふうもなく、エンドラーズが謝った。


「絶対、悪いなんて思ってませんね、エンドラーズ様」

 今さら、といった呆れ顔で、メディは謝罪を受け流す。


「で、パシュース殿下のおかげで国境はほぼ無審査だったのと、ヘテランテラ殿下のご厚意で近衛師団から一個中隊も護衛付けてくれて。

 みんな、アービィたちによろしくって。

 知り合いだったのね。

 あとね、レヴァイストル伯爵とセラス様、から防具もいただいたの。

 アービィたちのサイズは判ってたんだけど、エンドラーズ様とバードンさんが一緒って分かったのはかなり後だったの。

 お二人の分は汎用の物なんですが、そこはご勘弁下さいね。 でも、ヘテランテラ殿下のおかげで、運ぶのも楽だったわ」

 ヘテランテラは、アービィからの手紙を受け取るや否や、メディの便宜を諮るため行動を起こしていた。

 ウジェチ・スグタ要塞の通過については問題ないが、三人分の剣は女一人で運ぶには無理がある。女の一人旅も、安全とは言い難い。ましてやラシアスを北の民の女一人で通過するなど、襲ってくれと言うようなものだ。


 そこでアービィたちが北の大地に渡るため、ビースマックからラシアスを抜ける際、ウェンディロフとのトラブルを避けるべく護衛にと付けた部隊がメディの護衛として就くことになった。

 アービィたちとウジェチ・スグタ要塞で別れた後は、それぞれ原隊に復帰していたが、今回の任務のため再度編成されたのだった。近衛師団が長期間国を空けるわけにもいかず、ウジェチ・スグタ要塞までの随行だったが、それでもメディ一人で四国家を回るよりは遙かに楽だ。

 また、護衛部隊を見たグロッソが剣を余計に、レヴァイストル伯爵が防具を持たせてくれたことで、バードンとエンドラーズの分まで運ぶことができたのだった。


 そして、ウジェチ・スグタ要塞以北は、別の騎馬小隊がメディの護衛に就いた。

 すっかり石畳の舗装が完成した街道を、山岳地帯から最北の地まで一気に駆け抜けたのだった。もちろん、ウジェチ・スグタ要塞に居を移した南北連合の五人の名で、道中の便宜は完全に諮られていた。馬の交換や泊地の手配、細かいところでは携行食や日用品の購入資金まで、その配慮は行き届いていた。

 馬車が曳く荷車には、厳重に梱包された酒まで入れられているというおまけまで付いている。


「こうなることを予期してたのか?」

 防具の装着具合を確かめながら、バードンがアービィに訊ねた。


「ええ、なんとなく、なんですけどね」 自身の防具を付けながら、アービィが答える。


「で、なんでメディまで防具を持ってるの?」

 訝しげにティアが聞いた。


「帰れなんて言わないわよね、ティア。

 私にだって、あなたたちの結末を見届ける権利はあるはずよ」

 頬を膨らませてメディが言い返す。


「お家のことはいいの?

 というか、お父さんとお母さんが心配するんじゃない?」

 それが心配なの、という問い掛けを視線に込めてルティが言う。


「友達が困ってるときに助けに行かず、何が友かって、お父さんもお母さんも言ってくれたわ。

 それよりルティ、胸当ての大きさは大丈夫?

 セラス様が、ちょっと大きいかなって」

 ご心配には及びませんことよ、と視線に乗せてメディが答える。


「ええ、ぴったり。

 大丈夫よ」

 あのガキ、戻ったら絶対張り倒してやると南の空を睨みつけるルティに、周囲の誰もが恐怖した。



「それにしても、凄い変わりようね、北の大地は。

 パーカホからターバまでの街道なんか、ラシアスの駅馬車路線に負けてないわ。

 パーカホの集落も、ちょっとした町よね」

 半分呆れたようにメディが言った。


 パーカホの発展振りは、南大陸の比ではなかった。

 安全が確保された拠点が他に少ないとはいえ、山岳地帯を降りて最も近い大規模集落という点が有利に働いていた。続々と運び込まれる南大陸の物資や、次々にやってくる人々が、一大経済圏を築きあげている。物流の活性化のために関税を低く抑えていることも、活況を呈する大きな要因だ。

 まだまだインフラ整備が必要だが、南大陸の中規模な町と比べてなんら遜色はない。


「ランケオラータ様の経営がお上手だからだよね。

 さすが、王宮でお勤めになられていただけのことはあるよ。

 レイもいるしね」

 満足げに防具を外しながら、アービィが答える。


「最初から武力で侵略なんかしないで、こうしていればよかったのに」

 ルティが溜息混じりに呟く。


「無理、だったんでしょうね。

 色んなことが絡み合って、今の状況があるのよ、きっと。

 最北の民が南下して、ちょうどその頃にアーガス様が突出した。

 そのせいで、そのおかげで、ランケオラータ様が北の大地で捕虜になって。

 たまたま、あなたたちが旅に出ていた。

 ランケオラータ様の言うことをルム様が取り上げなければ、きっとそのまま終わっていたわ。

 ルム様の器量があってこそだし、ランケオラータ様の知恵も、ね。

 もし、アービィがレヴァイストル伯爵と知り合っていなければ、ランケオラータ様もルム様も、あのキマイラの襲撃でお亡くなりになっていたかもしれないし」

 結局は後知恵だ。

 様々なことが絡み合い、現在がある。何か一つが欠けただけでも、今はないのかもしれない。例には挙げなかったが、リジェストで足止めを食った際に、ティアが暴走していたらどうなったか。もっと良い結果になっていたかもしれないし、今ここにいる誰もが生きてはいなかったかもしれない。結局、今がすべてだ。

 メディはそう考えていた。


「最北の地も、そうなるの?」

 それまで一言も話さなかった少女が、口を開いた。


「そうよ。

 後、三、四年もすれば、あなたが大人になる頃には、必ず、ね。

 あなたも、一度南大陸へ来ない?」

 メディの言葉に、少女は小さく頷いた。


「一人でも多い方が、道行きは楽しゅうございましょう。

 ピラムの皆様との会合まで、後三日。

 さあ、急ぎましょう」

 エンドラーズはそう言って、新しい武具に身を固めたまま歩き始めた。


 慌てたアービィたちが後に続き、メディに随行してきた護衛小隊がその後を追う。

 冬の太陽は、一行の影を長く伸ばしていた。



「一体、何が起きたというのっ!?」

 魔宮の奥でニムファの叫びが上がった。

 オセリファが灰と化したと同時に、始祖が滅すればその眷属も存在し得ないという、血の盟約が発動した。

 彼女を始祖として転生していた不死者の一群が、音もなく灰となって崩れ去った。


「オセリファ様が、消滅なされたということにございます。

 始祖が滅すれば、眷属もまた滅します。

 我らも、グレシオフィ様が滅すれば、共に」

 僅かに残った吸血不死者が、血の盟約を説明した。


 既にグレシオフィに意識はなく、邪神の力を現世に発現させる依り代とされているが、まだ滅したわけではない。

 しかし、グレシオフィが滅すれば、残った不死者は全て滅する。それはニムファも例外ではない。もし、神の力を得て下剋上に成功した際に、怒りに任せてグレシオフィを亡き者にしていたら自らも消滅していたのだ。

 その事実に気付き、ニムファは愕然とした。 


「どこまで役立たずなの、あの女は。

 いいわ、勇者様を誑かし、私から奪ったあの小娘は、私が殺してあげる。

 目の前であの小娘を殺せば、勇者様も目が覚めるはず。

 そうすれば、世界は私たちの物」

 狼狽を気取られないように、僅かに残った不死者に、ニムファは新たな命令を下す。


「城門に全てのキマイラを。

 出来損ないの合成魔獣は、集落南の丘に展開させなさい。

 邪魔者は排除しなさい。

 勇者様とあの小娘だけ、ここへ」

 闇の中で、先王の隣で見せていた微笑みとは、対極の笑みをニムファは浮かべていた。


 邪神の力を得て太陽を恐れる必要のなくなったニムファはともかく、他の不死者にとって陽の光は大敵のままだ。

 キマイラを門に配置しても、僅かな生者では太陽光の下で制御しきれるものではない。ニムファが出来損ないと蔑むゲイズハウンドとスライムの核を合わせた合成魔獣も、知性がない以上制御する者が必要だが、生者を魔宮の防備から外せない状況で太陽光の下に放てば二度と戻せなくなる。それを解っているはずなのにそのような命令を下した理由は、もし合成魔獣が逃げ散ったとしても、その存在自体が南北連合にとって脅威になりうるからだ。


「どれほど穢らわしい最北の蛮族を集めても、合成魔獣が蹴散らしてあげる。

 ここにくるのは、勇者様、それとあの小娘だけ。

 あとは、喰らい尽くされてしまえばいいわ」

 既に意見を具申する者はいない。

 不死者は、神の力による忠誠を強制させられていた。盲従と信頼を、ニムファは大きく考え違いをしている。


 そして、グレシオフィに付き従ってきた生者は、ほとんど残っていない。

 ニムファが最北の蛮族を乗っ取って以来、兵力不足を補うために片っ端から不死者に転生させてしまっていた。その理不尽さから戦線を離脱し、南北連合側に寝返った集落も一つや二つではなかった。

 今現在、ニムファの下に残っている生者は、過去の暴虐から南北連合に投降しても安全の保障がないと思いこんでいる者たちだけだ。

 毒を喰らわば皿までに類する言葉はこの世界にもあり、彼らの心境は当にそれだった。



「状況は変わった。

 南北連合は、全力を挙げてアービィ殿を援護する。

 ラーニャに対する補給、最北の地において、不死者に抗する人々への補給を、何より優先する。

 両大陸の興廃、この一戦にあり。

 各員、一層奮励努力せよ!」

 ターバの連合軍操錬所に、総司令官の野太い声が響く。


「諸君、長い戦いも先が見えてきた。

 最北の蛮族は、瓦解寸前と見て良い。

 最北の民は敵ではない。

 滅ぼすべき対象でもない。

 討つべきは、人の死を弄び、己が欲望を満たさんとする魔王ただ一人。

 アービィたちの障害となるものを排除せよ。

 私は各員がその義務を全うすることを確信する!」

 ランケオラータの見送りの言葉に、兵たちの喚声があがる。


 メディが一個小隊を伴ってターバを通ってから、七日が過ぎていた。

 エンドラーズとターバに残った神官との交信で、アービィたちの意図は知らされている。そして最北の民の窮状も、同時に知らされていた。多数の人々が動くのであれば、大量の物資が必要だ。当面の必要量は賄えているのだろうが、戦闘行動が発生すれば特に食料の需要は飛躍的に増大する。戦闘前に節約などしては、士気に影響しかねない。今からでは戦闘までには新しい物資は間に合わないが、その後の心配をしなくて済むようにするだけでも充分だ。シャーラとラーニャに待機している神官を通して、物資の移送は既に始まっていた。

 後は、不足のないように後詰めをすれば良い。


 北の大地の東西に広がる河川流域を、期せずして手中に収めたことが効いてくる。 河川を利用できれば、陸路に比べ圧倒的な輸送量と安全性を確保できる。連合軍の攻勢臨界点は、陸路による補給のみであればシャーラまでだが、河川を利用できればラーニャどころか最果ての地まで伸ばすことも不可能ではない。兵站が効率化されれば、部隊の展開や撤収、民間人の避難誘導までが容易となる。

 戦の後始末や最北の地の復興のためにも、河川流域は重要だった。



「それでは、我々もシャーラへ移動します。

 最北の民が安心して冬越しできるよう、全力を尽くします。

 しかし、アービィ殿がいらっしゃらなければ、この争乱はどうなっていたことやら」

 軍の移動が開始され、やがて誰もいなくなった操錬場に残った総司令官が、ランケオラータに話しかけた。


「くれぐれも、よろしく頼む。

 アービィがいなければ、今頃は南大陸が不死者で溢れかえっていたかもしれん」

 ランケオラータは軽く言ったが、戦慄する内容だ。


「思えば、多くの人々が不死者へと転生させられ、灰と化しています。

 このような争乱は、二度と起こしてはなりません。

 我々が、軍人が、その活躍を期待されるような世の中は、もうたくさんであります。

 ルム様が出向なされた南北連合が正常に機能すれば、この世界ももっと良くなるのでしょうか」

 総司令官が胸のうちを明かす。


「私は、決して争乱を肯定しない。

 しないが、もし、この争乱が起きなければ、まだ千年は北の民は虐げられたままだったろう。

 こうして北の民と肩を並べる日が来るとは、誰も思いはしなかった。

 両大陸は、これから飛躍的に発展する。

 死んでいった者たちは、その礎となるために死んだのか。

 彼らの死を無駄にしてはならない。

 それは、残された我々の責務だ」

 ランケオラータは、人々の死を無駄にしたくなかった。


 戦争を肯定するのは容易い。

 古くから伝わる英雄譚は、戦争の物語だ。民族の興亡史も、戦争の物語だ。人々は巨大な死に心を躍らせ、心を痛める。もちろん、敵役は小ずるく卑怯に汚く描かれ、その滅びに人はカタルシスを感じる。しかし、悲惨な戦争を体験した人々は、戦という言葉にすら嫌悪感を抱く。平和であることが最も重要なことは当然だが、平和を望むと唱えていれば平和になると盲信する者は、容易く悪意を持つ侵略者に利用されるだけの存在でしかない。

 否定するのも、また容易いことだ。

 だが、否定するだけでは、戦争はなくならない。



「アービィ殿は、何故この世界に、いや、何故アービィ殿がこの世界に喚ばれたのでしょうか。

 聞くところによれば、召喚を妨害され人狼に魂を封じ込められたとか。

 アービィ殿のご活躍は、人狼の力に因るところが大に思えます。

 もし、妨害が入らず、ドーンレッド様による召喚が成功していたら、今現在はあったのでしょうか。

 もし、アービィ殿がルティ殿と出会わず、人狼として覚醒していたら、どうなってしまったのでしょうか」

 総司令官が根源的な疑問を口にする。


「全ては偶然であり、必然だったのか。

 アービィの異世界人としての魂が人狼に封じ込められたことも、ルティと出会ったことも。

 親に愛され慈しまれて育てられても、歪む者は歪む。

 そうならなかったのは、アービィの元々持っていた人格に因るものだ。

 封じ込めた器としての人狼が、まだ子供であったことと、素直な性格だったのかもしれない。

 素直であればあるほど、周囲の影響を受けやすい。

 本来、人狼とはそういった性質の生き物なのかも知れんな

 おそらく、召喚呪法は誰彼構わず呼び寄せてしまうのだろうが、その場にアービィがいたことは、世界の意志としか考えられん」

 ランケオラータは、自身の推測が正しければ、人狼に新しい歴史が始まると考えていた。

 そして、アービィとの交流から、推測は確信に変わりつつあった。


「両大陸を人狼が一つに結びつける。

 新しい歴史が始まります。

 それに立ち会えることを、その手助けができることを、私は誇りに思います」

 そう言って総司令官は、送り出した軍を掌握するために操錬場を後にした。


「一人の少女が世界を救う。

 もし出会えるなら、八歳のルティに礼を言いたい気分だ。

 君は十二年後に世界を救った、と」

 ランケオラータは総司令官の背中を見送りつつ、そう一人ごちた。



「あの丘がそうじゃない?」

 ルティが小高い丘の上にある杉を指した。


「間違いないかと。

 ですが、素直には行かせてもらえないようでございます」

 バードンが早くも剣を抜き放ち、闘気を全身から発散させる。

 その視線の先にはゲイズハウンドが群れていた。


 おそらく何らかの合成処理をされているのであろうゲイズハウンドの群れは、辛うじて統率が取れている。

 そのために駆り出されたと思われる、生者の姿も散見された。だが、群れに対して生者の人数が少なすぎる。生者を狩れば制御を失ったゲイズハウンドが、野に放たれてしまう。山野に紛れ込まれては、誰に対しても脅威になりかねない。生者を拘束し、ゲイズハウンドは逃さず狩り尽くす。

 困難な戦闘になりそうだった。



「ルティとティアとメディは、この子から離れないで。

 僕とバードンさん、エンドラーズ様で突入します。

 小隊の皆さんは、生者の確保をお願いします」

 アービィが役割を割り振った。


「任せて。

 何があっても、この子にはゲイズハウンドなんか近寄らせないから」

 ティアはラミアのティアラを髪に飾ったままだ。

 全精霊神殿の祝福により、いつでも獣化できるようになって以来、ティアラは髪から外されることはほとんどなくなっていた。


「ティア、ちょっと私にも貸してくれないかな。

 最近、どこにも売りに出てないのよ」

 戦闘前の緊迫した空気にそぐわない口調で、メディが言った。


「いいけど。

 いいの?

 あたしは、あの子たちに会えるのは嬉しいけど」

 ティアが不安げに言う。

 メディが呪法を受けた姿を露わにする気でいることに、一抹の不安を感じたのだった。


 自身とアービィは、精霊神殿の祝福がある。

 だが、メディは正体を隠したままだ。


「いいの。

 役に立つと思うよ」

 あっさりとメディは言った。

 まるで町の雑貨屋で商品を選ぶかのような物言いだった。


「ご心配には及びません、ティア殿。

 私を誰とお心得でございましょうや。

 メディ殿がどのようなお姿であれ、人物に些かも関係するものではございません。

 例え、その髪が蛇であろうと」

 そう言ってエンドラーズは威厳に溢れた表情で、その場にいる一同を見やった。


「え……?」

「エンドラーズ様、ご存じだったんですか?」

 メディが固まり、ティアが聞き返す。


「ですから、私を誰と。

 皆様がどういう方々か、クシュナックでお目に掛かった際にすべて」

 ニヤリと笑って、エンドラーズは剣を抜き放つ。


「じゃあ、もう気にすることはないわ。

 あたしも使うから、すぐ返してよ」

 ティアはラミアのティアラを髪から外し、メディに手渡す。


「兵士の皆々様、よくお聞きいただきましょう。

 メディ殿のお姿がいかようなものであろうと、人物が変わるわけではございません。

 ましてやメディ殿は、邪法の被害者。

 被害者が迫害されるなど、あってはならない非道にございます。

 風の精霊神殿は、メディ殿を祝福致します」

 エンドラーズが高らかに宣言する。


 メディの人権が保障された瞬間だった。

 これまでラミアのティアラの力で、邪法を受けた姿を隠していた。もしも、その事実が知れ渡れば、その姿や見たものを石に変える力を恐れられ、迫害を受けることは間違いない。人間の姿を取り戻した現在は、石に変える力も封印されてはいるが、それでもメディの粗探しをしようとする者が皆無ではない以上、隠し通さなければならないことだった。

 しかし、精霊神殿の祝福は、その危険性をすべて封じた。

 祝福を受けた者を迫害するなど、全精霊神殿と信仰を持つものすべてを敵に回すと同義だからだ。


「ありがとうございます、エンドラーズ様。

 もう、父と母に心配を掛けることもないんですね」

 涙を堪えきれないメディがティアラを髪に飾った。


「礼には及びません。

 当然のことでございます。

 それより、今は目の前の危険を排除致しましょう」

 普段の破天荒さの微塵も感じさせず、慈愛に溢れたエンドラーズの眼差しがメディに注がれた。


「見直しちゃった、さすが最高神祇官様ね。

 アービィ、ここは任せて、思いっきり暴れちゃいなさいよ」

 涙を拭いながら、鼻声になったルティが剣を構え、アービィに発破を掛けた。


「うん。

 征ってくるよ、思いっきり」

 その言葉を残し、アービィが獣化する。

 次の瞬間、巨狼が地を翔け、三十頭ほどのゲイズハウンドの群れに突っ込んでいった。



「あの莫迦、また服を無駄にして……」

 ルティが巨狼に向かって罵声を放つ。


「怖がらないでね。

 見たものすべてを、何から何まで石にしちゃうわけじゃないから。

 でも、あなたを傷付けようとする者は、容赦しないから」

 邪法を受けた姿、髪を蛇に変えたメディが少女に寄り添った。

 メディの意志が伝わったのか、蛇たちも少女に対して威嚇の姿勢は取っていない。


「神様、なの?」

 メディとティアを見て、少女がぽつりと呟く。

 南の地に対する憧れの裏返しか、北の民には北の大地には生息しない蛇を神と崇める部族が多い。少女の部族もその一つだった。


「残念ながら、違うわ

 あたしは、ただの魔獣。

 メディは、あなたと同じ北の民よ」

 獣化したティアが少女に寄り添う。


「どうして、あなたたちは?」

 考えられないといった表情で、少女は首を振る。


 悪魔の化身と恐れられる人狼が、人と並び立っているだけでも信じ難いことだ。

 そればかりではなく、ラミアと化け物にされた北の民だ。少女の常識では、ルティのような南大陸の住人が、行動を共にする相手では決してない。初対面の時点では、最愛の人を失った悲しみに沈んでいて、そのようなことを考える余裕もなかったが、徐々に落ち着くにつれ少女は混乱するばかりだった。



 巨狼がゲイズハウンドの群れに突入し、手近にいた不運な一頭を肩からのタックルで弾き飛ばしたあと、バードンとエンドラーズはやや遅れて戦場に駆け込んだ。

 二人の参戦とほぼ同時に、輸送任務に鬱憤を溜めていた小隊の将兵は、丘の頂付近に布陣する最北の生者を包囲しつつある。ゲイズハウンドを制御するためその場を離れるわけにはいかない生者たちは、なす術もなく包囲されるに任せるしかなかった。殺害を目的としてはいないが、三十人対十人では戦いの行方は考えるまでもない。

 やがて、立っている金髪の男たちは皆無となり、ゲイズハウンドの動きに異変が起きた。


 それまでゲイズハウンドの群れは統率の取れた動きで、巨狼に攻撃を集中していた。

 本能が逃げろというほどの人狼に対する恐怖と、合成されたときに植えつけられた制御者への絶対服従。この二つが相克し、絶望の感情を振り撒きながら、ゲイズハウンドは戦っている。

 巨狼の牙が喉を噛み裂き、バードンとエンドラーズの剣が四肢を、身体を、胴を切り裂く。

 だが、固い甲羅のような皮膚の手応えの後、ゼラチン状の筋肉を何の抵抗もなく斬り裂くが、刃が通り抜けた後は元通りに癒着してしまう。それは巨狼の牙であっても同様だ。アービィは、どこかでこの感覚に出会っていたと、必死に記憶をまさぐりながら、ゲイズハウンドを弾き飛ばし、噛み伏せていた。


「なんだ、この手応えはっ!

 斬っても、またくっつきやがるっ!」

 苛立つバードンが罵声を放つ。


「スライムのような手応えでございますな。

 完全に離断しなければ、動きは止まりませんぞ」

 エンドラーズの叫びと、巨狼の記憶が合致した。


 ――核を、核を探してくださいっ! 多分、心臓の辺りか、身体の正中線のどこかですっ!

 確証はないが、試してみるしかない。


 だが、心臓を狙おうにも、六本の脚で踏ん張った下腹を抉るのは困難だ。

 背中に乗って、心臓や正中線を狙おうにも、他の個体が突っかけてくる。攻撃の瞬間が最も無防備になるという隙を、自ら作り出すことは危険すぎる。もし、スライムと合成されているのであれば、その唾液すら猛毒を持っている。限りなく不死に近い巨狼ならともかく、万が一にもバードンやエンドラーズが牙の一撃を受けたら、『解毒』の呪文が功を奏する前に毒が回り切ってしまうだろう。ましてや激闘の最中、全身の血流が上がっているのだ。通常より毒の回りは早いと見てよい。

 そればかりか、下手に返り血でも浴びようものなら皮膚が爛れてしまう危険性もあった。


 当然、エンドラーズもバードンも、スライムについての知識は有している。

 迂闊な攻撃ができなくなり、一瞬の間戦闘が膠着した。



 ――僕が首をっ! その隙に止めをっ!

 巨狼がゲイズハウンドの首に噛み付き、振りたくって仰向けにひっくり返す。


 そのまま前肢でゲイズハウンドの身体を押さえ、首に噛み付いたまま力一杯反り返る。

 固いゴムを引きちぎるような音が響き、ゲイズハウンドの首が胴体からちぎり取られた。痙攣しながら猛毒の血を流し、それでもスライムの生命力のせいで這いずり回るゲイズハウンドに、バードンが馬乗りになって正中線上に剣を突き立てた。そして力任せに剣を曳き、ゲイズハウンドの身体を縦に両断する。

 その間、エンドラーズはバードンが万が一返り血を受けたときのために、『解毒』と『快癒』を同時に放てるように詠唱を続けている。


 一頭のゲイズハウンドを屠ったとき、突然群れの動きが変化した。

 ちょうど小隊が最北の生者を無力化し、全ての者を拘束した瞬間だった。

 統率は失われ、絶望の感情が一気に恐怖に染め上げられる。算を乱して逃げ惑うゲイズハウンドに、巨狼とバードンが襲い掛かる。

 さらに二頭を仕留めたとき、バードンがまともに返り血を浴びてしまった。


 間髪を入れずエンドラーズの『解毒』が発現し、猛毒の血液の浄化を開始する。

 だが、スライムの猛毒すら強化してあった合成魔獣の血は、エンドラーズの『解毒』と拮抗している。毒を喰らった皮膚が爛れ始め、進行こそ食い止めているものの、バードンの身体を激痛が襲う。エンドラーズが『快癒』より『解毒』を優先すると決し詠唱を開始したとき、バードンのすぐ横から『解毒』の呪文が発現した。

 姿を消していたティアが実体化し、さらに『解毒』を発現させる。


 そこへエンドラーズの『解毒』が発現し、ようやくゲイズハウンドの血液は浄化された。

 だが、一度爛れ始めた皮膚から広がる激痛に、絶叫こそしないもののバードンの呻きは止まらない。歯を食い縛り、脂汗を流して激痛を耐えるバードンに、ティアが『快癒』を発現させ身体から痛みを取り去る。


「お邪魔でしたかな?」

 エンドラーズの含み笑いに、ティアが顔を朱に染め上げた。


 その隙を衝いて、ゲイズハウンドの群れは潰走を始めていた。

 四方八方に、無秩序に走り去ろうとするゲイズハウンドを、二人と一頭では仕留めきれるはずもない。もし、合成されていないゲイズハウンドであれば、最北の地の冬を越すことは不可能であり、放置していても構わない。だが、合成魔獣に生まれ変わったゲイズハウンドが、どのような生物特性を持っているかはまったくの未知数だ。スライムの特性を引き継いでいるならば、寒さに対する抗堪性があってもおかしくはなかった。

 一瞬の逡巡の後、巨狼がメディの元に駆け寄った。


 ――メディ、お願いっ!

 アービィの意図を悟ったメディが、蛇の神をなびかせて巨狼の背に飛び乗った。


 ――距離はどれくらいで発動するの!?

「やったことなんかないけど、弓が届くくらいで充分よっ!」

 巨狼の問いに、メディが叫び返す。

 足の遅いゲイズハウンドがいくら必死になろうと、全力で駆ける巨狼から逃れられるはずはない。

 恐怖を絶望が再度上回ろうとしたとき、ゲイズハウンドの群れは次々に石と変えられていった。


 それでも四方八方に散ったゲイズハウンドを、一瞬で全て捉えることは無理だった。

 一頭のゲイズハウンドが逃げた方向が、偶然ルティと少女のいる方向だった。巨狼がメディを拾いに走った際に、全ての個体はルティたちの居場所を逃走方向から外していた。巨狼の意図を読む能力がない以上、巨狼と同方向に走ることなど本能が拒否している。しかし、メディを背に乗せ、取って返した巨狼が走り去ったとき、何頭かのゲイズハウンドは巨狼と反対方向に逃げることを選んだ。

 そのうちの一頭が、ルティと少女に向かって来たのだった。


「逃げて。

 奴らは真っ直ぐ走るだけ。

 かわすのは難しくないわ」

 ルティが少女に言ったが、ゲイズハウンドの巨体に気圧され、少女の足は止まってしまっていた。


 さすがに少女を抱えて逃げるほどの余裕はない。

 もし、ゲイズハウンドが食欲を優先させでもしたら、確実に追いつかれ喰われてしまう。ルティは腹を決めていた。剣を構え、『解毒』を詠唱し、ルティはゲイズハウンドを待った。

 動きは遅いが、純粋な力は巨狼に匹敵するものがある。ルティ一人であれば難なく避けることができるが、背後に少女を守った状況では逃げるわけにもいかない。もし、ゲイズハウンドの体当たりを正面から受けてしまえば、人間の身体など簡単に弾き飛ばされ、衝撃で骨は砕かれてしまう。ルティの攻撃が、ゲイズハウンドの突進を止められるかどうか解らない。

 僅かでも怯ませることができれば、少女が逃げる余裕ができるとルティは考えていた。


 だが、少女は、その場にへたり込んでしまった。

 これでは完全にゲイズハウンドの行き脚を止めなければ、喰われないまでも踏み潰される。バードンも、エンドラーズもティアも、援護するには距離が離れている。全力でこちらに駆けてくるのが見えるが、同一線上にあるためエンドラーズの黒呪文が使えない。


「立ってっ!

 逃げてっ!

 早くっ!」

 ルティが背中越しに叱咤するが、少女が立ち上がる気配はない。


 もう、少女が逃げたとしても、ルティはかわし切れそうもないところまでゲイズハウンドが迫った。

 ルティはゲイズハウンドの喉を狙い、剣を顔の横で水平に構えた。返り血を浴びようが、弾き飛ばされようが、骨を砕かれようが、少女を踏み潰させるようなことはしない。どのような被害を受けようと、落ち着いて呪文を行使すればなんとかなる。痛いのはちょっとの間だけよ、万が一即死してもティアには貸しがあるからね、とルティは口の中で呟いた。

 息を止め、腕の緊張を解き、ゲイズハウンドの巨体を見据える。


 ルティが斬撃を見舞おうとした瞬間、感性の法則を無視したようにゲイズハウンドの突進が止められた。

 首を下げ、全力を込めた六本の脚全ての筋肉が躍動し、今にもルティに体当たりを敢行せんとする石の巨像がそこに立っている。確実に相手を屠れると確信したかのような瞳は、灰色の彫刻となっていた。

 その彫刻の向こう側から、ルティの目の前に巨狼が舞い降り、メディがその背から降り立った。


「間に合ったぁ。

 ごめんね、ルティ」

 ――刺しちゃだめぇっ!

 メディの言葉に、巨狼の悲鳴が重なった。


 少女は、呆けたような表情で、ことの成り行きを見守っていた。

 巨狼が駆け、バードンとエンドラーズが一陣の風のように駆け去った。三頭のゲイズハウンドが惨殺されている間に、ティアが姿を消してしまった。自分たちに随伴していた小隊が僅かの間に生者を無力化し、ゲイズハウンドが逃げ散ったと思ったら、一頭がこちらに迫ってくるのが見えた。逃げなければと思えば思うほど、少女の足は動かなくなり、ルティが剣を構えた。

 もうだめだ、踏み潰されると思った瞬間、ゲイズハウンドが石になり、巨狼とメディが現れたのだった。



 ここまで随行してきた小隊が、捕虜とした生者を連れて去っていく。

 最終決戦に際して不確定要素は取り払うべきと指揮官が判断し、アービィたちはそれに従うことにした。この場に留まり、アービィたちの帰還を待つという選択肢もあるが、食料に余裕があるうちにラーニャに戻るべきだとエンドラーズが勧めていたのだった。

 万が一、この後合流するピラムの民や、他の北の民に惨殺でもされたら後に禍根を残しかねない。捕虜となった最北の生者と、誰の間に怨みつらみがあるか判らない。捕虜を引き渡せといわれたら、小隊は断固として拒否する。ここで北の民と南大陸の住人の間に、諍いを起こすわけにはいかなかった。軍人として、最終決戦の場に参加できないことは悔しいのだろうが、指揮官はそのような素振りは全く見せず、アービィたちに見事な姿勢で敬礼し、背を向けた。

 小隊が去って数刻後、ピラムの民に先導され、北の民の群れが南から来るのが見えてきた。


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