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狼と少女の物語  作者: くらいさおら
96/101

第96話

 ニムファは、得意の絶頂にあった。

 不死の身体ばかりでなく、神の力をも手に入れていた。自分を無能呼ばわりした年寄りと、生意気な女は地下牢に封じ込めてある。周りを固めているのは、神の力という強制力を以って従わせている吸血不死者と、意志など持たない低位の不死者ばかりだ。あとは死の恐怖で生者を従わせ、まつろわぬ民は根絶やしにしてしまえばよい。全てが自分を崇め、眼前に平伏す光景を、ニムファは思い描いている。最北の地の南に立ち塞がる者どもなど、神の力を以ってすれば何ほどのものでもない。

 ニムファは、民衆の熱狂的な歓迎の中、ラシアスに凱旋することを夢見ている。


 石以て自らを追い出した、ラシアスの閣僚は許さない。

 まずは、国内の粛清からだと、ニムファは考えている。既にラーニャ以南に展開する南北連合の軍など、全て撃破しているつもりになっていた。数日前からニムファの策で実施した河川流域の奪回作戦は、多くの不死者を失っていたが、その分新たな死体の入手に成功しているため、最北の兵力は減少することなく推移していた。連合軍将兵の死体で再生可能なものは全て、魔法陣によって不死者へと転生させていた。

 不死の軍団を以って北の大地を征服し、ラシアスを再び我が物にすることは、ニムファの中では規定路線だった。


 コリンボーサを始めとする役立たずは、生まれてきたことを後悔するほどの責め苦で苛んでくれよう。

 決して殺さず、這い蹲って許しを請うまで、マ教の説く地獄など子供の遊び場と思えるような責め苦に遭わせてやる。然る後、恭順を誓ったところで、無慈悲なまでに消滅させてやる。近衛師団を不死者に転生させ、自分を蔑ろにした他の三国に目に物見せてくれる。何も知らぬ民衆は、逆らわぬ限り生かしておいてやろう。

 おとなしく、エサとなっている限りは。


 神の像が、微笑んだ。気がした。



「由々しき事態であります。

 このままでは、ターバの結界を破られるのも、時間の問題であります。

 何故なら、敵は兵力の損失をおそれず、日の出すらものともせず、攻撃を続行しております。

 敵の生者を相当数倒しております故、現在敵の攻勢は停滞しておりますが、兵力が回復してしまえば現在以上の攻勢が予想されます」

 ターバの司令部で作戦参謀から報告が読み上げられ、状況の説明が終わった。


「小官と致しましては、河川流域の制圧は急がず、兵力を温存しつつ均衡状態を生じせしめ、ターバ防衛に全戦力を投入し、冬の到来を待つべきと考えるものであります」

 ラルンクルスの跡を継いだ総司令官が、一言ずつ確認するように私見を述べる。


 冬までに河川流域全体を制圧し、春からの攻勢に備える計画は頓挫したと見て良い。

 まさか不死者が灰になることを厭わず攻撃を続けるとは、想定の範囲外だった。そのうえ、打ち倒した敵兵を回収し、それを不死者として甦らせて戦線に投入するという外道の戦法を取ってくるなど、これも誰一人として想像の埒外だった。明日は戦友を灰にしなければならないか、戦友の手に掛かることは覚悟できても、戦友を手に掛ける嫌悪感は想像を絶するものがある。

 たとえ、それが意志を持たない戦友の抜け殻だとしてもだ。


「河川流域の確保に、拘る必要はない」

 それまで瞑目して司令部からの報告を聞くだけだったプラボックが、目を見開いて力強く言った。


「それは、どういうことでありますか?」

 プラボックが何を言い出したのか理解できないという表情で、戦務参謀が問い返す。


「それではここまで投じた戦費が、すべて無駄になってしまいます。

 それに、明日の勝利を信じて死んでいった将兵に、心ならずも不死者に転生させられた将兵に、申し訳が立ちません!」

 血涙滴らんとばかりに、戦務参謀はまくし立てた。


「戦務参謀の気持ちは、よく解る。

 私も、同じ思いだ。

 だが、倒れた将兵に申し訳ないからといって、さらに多くの将兵を死地に追いやるわけにはいかん。

 死んでいった将兵が、それを望むと思うかね?

 河川流域の制圧作戦は、中止する。

 冬が来る前に、展開している兵力を安全な地帯まで下がらせてくれ。

 撤退の方法の選定と実施については、司令部に一任する。

 私が全責任を負うので、司令部の皆さんにおかれては安心して、撤退作戦の実施に当たっていただきたい」

 プラボックの言葉が、会議の終了の合図になり、参謀たちは己が職責を果たすために席を立った。


「総司令官、此度の戦は最北の蛮族が積もりに積もった怨みを晴らさんがため、周到な準備の下、始まった。

 いや、一方的な侵略になりかけていたものを、皆さんのお力で戦といえるまで持ち込むことができた。

 これまでは部族、集落ごとの小競り合いしか経験してこなかった我々が、蹂躙されるままにならずに住んだのは、あなた方のおかげだ。

 しかし……」

 一人司令部要員の中で残った総司令官に、プラボックは頭を下げた。


「それは過分に過ぎるというものであります、プラボック様。

 戦は、始めることも難しいが、終わらせることは、もっと難しいものであります。

 プラボック様、戦乱の後、どのような世の中をお作りになられるお積もりですか?

 戦乱の後の世を描く能力は、我々軍人にはありません。

 人々が笑い、安らかに暮らすため、我々は存在しています。

 人殺しを生業とする者が、人々の平穏のために存在するなど、なんという皮肉でありましょう。

 ですが、皆が平穏を望んでいようと、一方的に破られることは多々あります。

 力なき正義など、弱者の泣き言に過ぎませぬ。

 攻め込んでくる敵が悪とは、決して申せませんが、自らの正義を全うできる力は必要です。

 どうか、我々が無聊を囲うような世の中を」

 そう言って、総司令官はプラボックの目を見つめた。


「私は、万民の誰もが満足できる世の中が、作り出せると思うほど自惚れてはいない。

 だが、万民すべての幸せを、望むことはできる。

 誰もが自由に、行き来できる世界。

 誰もが素性を、偽らずに暮らせる世界。

 誰もが毎日の食べ物に、飽きたと言える世界。

 誰もが王の悪口を、気兼ねなく言える世界。

 そんな世界を、私は望む」

 プラボックは力強く視線を返し、総司令官に答えた。


「ならば、我らはその礎となりましょう。

 この度の撤退作戦、見事成功させてご覧に入れます」

 プラボックの視線に負けない力強さを言葉に込め、総司令官は返答し、部屋を出ていった。



「アービィ、どうしたの?」

 ラーニャ周辺を哨戒中のルティと獣化したアービィが、異様な気配に気付いたのは夕暮れが迫る時刻だった。


 ――あれ。ちょっと下がって。あの魔法陣と同じ波動が感じられるんだ。

 鼻面で先を示した巨狼が、ルティに注意を促す。

 ビースマックで喰らった魔法陣からの一撃は、これまでで唯一アービィに大ダメージを与えたものだった。


「うん、でも、危ないと思ったら、逃げるんだよ」

 ルティは素直に木の陰へと身を潜めた。

 どうがんばっても人間の力でどうこうできそうな代物ではない。

 実体があるというのであればともかく、エネルギーの塊でしかない状態では、遠巻きに見ているしかない。


 森林地帯の空白にあるちょっとした広場のような空間に、邪悪としか言いようのない波動が球体を成している。

 地上1m程に浮遊する球体は全くの透明ではあったが、重力レンズのように向こう側の景色が歪んで見えていた。全方向に波動を放ちつつ浮遊していた波動は、アービィたちの気配に気付くと急速に近寄ってくる。球体は上下に細長く伸び始め、やがて人の形を作り始めた。景色の歪みが人型を浮き上がらせた後、徐々にその人型は実体化し始めている。

 北の民特有の金髪に、同じく北の民の証である碧眼を備えた、二十代半ばと見られる女性が、実体化すると同時に地に倒れ込んだ。


 ――ルティは出てきちゃダメ。

 念話でルティを制止し、巨狼が倒れた女性に近付いていく。

 完全に実体化した時点で邪悪な波動は鳴りを潜めているが、気配は濃密だった。警戒し過ぎてし過ぎということはない。


 ――邪悪な気配はしないから、多分大丈夫だけど。

 倒れた女性は、全く動く気配がない。

 不死者特有の気配こそ微かに感じられるものの、誘い込んで不意打ちを食わせようという気配は全くない。


 ――大丈夫?

 念話で呼び掛けつつ、巨狼が前肢を倒れた女性の肩に置く。


 まるで反応がない女性の頬を、巨狼がひと舐めした瞬間。

 巨狼の目から、火が出るかのような衝撃が脳天を貫いた。

 邪悪ではないが、生きとし生ける者全ての心胆を、寒からしめるような怒りを含んだ気配を感じた巨狼が恐る恐る振り向くと、まさに怒髪天を衝くといった表情のルティが剣を逆手に持ち替えつつ立っていた。


「アービィ、なにしてるの?」

 地鳴りのような低い問いがルティの口から漏れる。


 ――いや、あの、その、これなら気付くかなぁ……って、そのまま振り下ろしちゃだめぇっ!

 そのまま巨狼は降参のポーズを取るが、顔のすぐ横、目の前の地面にルティの剣が突き刺さった。



「莫迦な真似はこれくらいにして。

 その人、不死者よね?

 まだ陽があるのに灰にならないなんて」

 ルティは呼吸を整えつつ、アービィに問いかける。


 ――うん。息もしてないし、心臓の鼓動も感じられない。でも気配はあるんだ。

 神妙な顔でお座りしている巨狼が答えた。

 たとえ不死者であっても、女性の胸に耳を付けようものなら脳天を剣で抉られかねない。もちろん、ルティがそんなことをするとは思わないが、どんなお仕置きが待っているか判ったものではなかった。


 ややあって、倒れこんでいた女性が身を起こし、巨狼とルティに向き直る。

 生きた人間のような暖かみはないが、敵意は全く感じられない。今しも戦闘が始まると身構えていたルティが全身の力を抜き、口元からは大きな溜息が漏れた。



「そなたが、猊下が狼に封じたる異世界よりの人か?」

 何の脈絡もなく、身を起こした女性が巨狼に問う。

 全て分かっているというように、何の躊躇いもなく、誰何するでもなく、女性は問うた。


 ――そうだよ。猊下っていうのが誰かは知らないけど。僕は異世界から呼ばれた。いや、異世界に呼ばれた、かな。あなたは? 最北の民だよね?

 目の前の女性やルティから見れば、アービィが日本人として生きていた世界は異世界だ。しかし、日本人からしてみれば、この世界こそ紛れもなく異世界だった。


 巨狼の問い掛けに、女性は静かに頷いた。

 艶やかな表情は男たちを振り向かせるには充分な魅力に溢れ、少々吊り気味の瞳と適度な高度を持つ鼻梁、控えめな口元はそれぞれが整ったバランスを保っているが、今にも泣き出しそうな表情だ。


  「私は、最北の民を率いるグレシオフィ様に仕えし、オセリファ。

 異世界の人に問う。

 そなたは、何故、我らと戦う?」

 オセリファの表情には、気が付いて以来焦りの色が浮かんでいた。


 ――何故って? 明確な答えじゃないし、矛盾するけど、これ以上戦乱を広げないため、かな。

 巨狼はオセリファに戦意や敵意を感じなかった。そのため巨狼も闘気を発散させることなく、オセリファに対峙している。


「ならば問う、異世界の人よ。

 そなたにとって、この戦いは何を以て終結する?

 我らか、そなた等の滅亡か?」

 焦りの色に、疲労、苦痛といった色がないまぜになった表情を歪め、オセリファはさらに聞いた。


 ――僕は、いや南北連合の意志は、あなたたちの滅亡でも、僕たちの滅亡でもないよ。対等の立場で和平。それができたときが、この戦いの終結だよ。

 一切の逡巡もなく、巨狼は言い切った。


「ならば、その後の世界は? どのような未来図を、そなたは描く、異世界の人よ」

 興味深そうに、オセリファが問う。


 ――誰もが、生まれた所や姿形で差別されない世界。行きたい所にいつでも行ける世界。生まれ故郷に誇りを持てる世界。僕にできることはそんなにないけど、そうなって欲しいと思ってる。

 これも一切の逡巡なく、巨狼は言い切る。

 髪や目の色で差別される北の民と、姿形で差別されるアービィやティアといった魔獣たちは、形は違うが同じような立場だった。


「ならば、我らの怨み、如何にして晴らせばよい、異世界の人よ。

 そなたら南大陸の住人や我ら以外の北の民を、永遠に我らの膝下に組み敷かねば、千年を超える怨みを晴らすなど、できるものではない」

 鬼の形相に悲しさを浮かべ、オセリファが吐き捨てる。


 ――永遠なんて、どの世にもないよ。僕のいた世界にも、この世界にも。そうやって僕たちを、南大陸やあなたたち以外の北の大地を征服したとしても、今度はあなたたちが怨まれるだけ。武力にしろ何にしろ、征服するとか怨みを晴らすなんて、繰り返しになるだけ。そんな悲しい循環は、作っちゃいけない。

 巨狼が静かに反論した。


「そなたは、迫害された過去を、差別された過去を、簡単に水に流して終わりにできると?

 人狼が、悪鬼が、悪魔の化身が、人と並び立てる世の中が来ると、信じているのか?

 我ら最北の民が、蛮族と蔑まれる我らが、我ら以外の北の民と、南大陸の住人と、対等に交わる日が来ると、本気で信じているというのか?」

 話にもならないといった口調で、オセリファが言い返す。


「あたしは、信じてる。

 アービィは、狼の素性を隠すことなく、人間社会で生きていけるようになったの。

 小さなことから、少しずつ信用を積み重ねてね。

 だから、あなたたちにそれができないとは思わない。

 南北連合は、あなたたちの席を用意しているのよ」

 ルティが横から割り込んだ。

 石に変えられ、砕け散った少女を思うと、これ以上戦いを続けたくなかった。

 父を母を返せと叫んで灰と化した少年の、悲痛をこれ以上生産したくない。ルティは、そのことをオセリファに熱く語った。それは、最北の民とかそれ以外の人々といった区別などない、誰においても起きてはいけないことだと、ルティはオセリファに向かって言った。

 怨みを、怒りを、悲しみを作り続け、抑圧を、支配を、暴虐を続けるなら、人間そのものが滅びてしまうと、ルティは説き続けていた。



「あなたたちの言いたいことは、よく解ったわ。

 これなら私は、私たちは、安心して、滅びていける。

 私がここへ来たのは……」

 突然口調を変えたオセリファの表情から厳しさが消えたが、言葉の途中で苦痛に歪み始めた。


「どうしたの!?

 何が――」

「南大陸の女王が、私たちの神を奪った。

 猊下は、最後に残った魔力で、私をここに送り込んだの。

 あなたがいることを信じて、ね。

 でも、もう時間がないみたい。

 女王が私の居場所に気付いて、引き戻そうとしている。

 私たち以上の力を神から与えられた女王なら、私を引き戻すくらい容易なこと」

 オセリファの姿が、明滅するように消えていく。


「あなたが言うように、怨みを晴らしたところで、その繰り返しになるだけ。

 神を奪われて、その力であなたたちに復讐しようとしている女王を見ていたら、そのことに気付いたの。

 お願い、最北の地へ来て。

 女王を止めて――」

 オセリファの姿が薄くなり、口は動いているが声が聞こえなくなる。


「大丈夫!?

 必ず、行く。

 また、そこで会えれば――」

「そのときには、私は私でなくなっている。

 引き戻されたら、女王の下僕に作り変えられる。

 だから、今……私を……殺して……」

 姿を薄れさせながら、オセリファが懇願した。


「何で!?

 それって!?」

 躊躇うルティと巨狼の前からオセリファの姿は消滅し、同時に周囲に充満していた邪悪な波動の気配も急速に失せていく。


 ――あなたたちとは、敵として会いたくなかった……

 オセリファの残留思念がそれだけを伝え、邪悪な波動の気配は完全に消失した。


 ――行こう、最北の地へ。僕が決着を付けなきゃいけないんだね。呼び、呼ばれた同士が。

 決然とした表情で、巨狼が北の空を見つめた。



「さようでございますか。

 なれば、一刻も早く最北の地を衝かねばなりませんな」

 エンドラーズが深刻そうなそぶりで言うが、誰もその通りには受け取らない。


「なんか、まるっきり深刻そうには見えませんね、エンドラーズ様」

 眉間に皺を寄せてティアが言う。


「そのようなことを仰いますな。

 これでも由々しき事態と、認識はしておりますぞ」

 やはり、どう見ても浮かれたように風の最高神祇官は言った。


「絶対、浮かれてます、エンドラーズ様は」

 決めつけるようにルティが言う。


「それは否定致しません。

 公式に、最北の地へ足を踏み入れた南大陸の住人は、未だかつておりませんからな。

 あとで歯噛みして悔しがる顔を思い浮かべると、これはもう……」

 堪えきれずにエンドラーズは笑い出した。


 最北の地に、南大陸の住人が足を踏み入れた記録は、公式には残っていない。

 ルムたちが住む平野部ですら、南大陸から見れば未開の土地だったのだ。余程の物好きでも、山岳地帯を抜けることはなかった。行く用事がないこともさることながら、間違っても好意的ではない人々の中に飛び込んで、生きて帰ってくるはずもなかった。

 ましてや、最北の地に興味を示す者など、精霊神官以外には皆無と言って良かったのだった。


 それが今、目の前にある。

 精霊神官の目には、未知の世界がどれほど魅力的か、少年のように瞳を輝かせるエンドラーズを見れば良く解る。世界の存亡が懸かっていることは理解していても、知的好奇心を抑えることなど死と同義の神官には、やはり心が浮き立ってしまうのだった。


「ですが、エンドラーズ様。

 我々の使命は、ラーニャの確保にございます。

 古来、独断専行は軍の崩壊を招くものとして、厳に戒められておりますが」

 バードンとしては、最北の地を衝くことに異存はないが、司令部との連携は無視するものではないとの思いがある。

 ティアが暴走したと見られたくないという考えがあることを、否定する気もない。


「私が、悪いっ!」

 エンドラーズの言葉に、全員が間髪を入れず頷く。


「皆様、そこは否定するのが予定調和ではございませんか」

 少しだけしょんぼりとした口調でエンドラーズが異議を唱えるが、誰も取り合わなかった。



「まあ、そこは置いておきましょう。

 私が、皆様を最北の地へと誘った。

 ただただ、私の我が儘。

 これでいかがでございましょう」

 これならどなたも罪に問われることはございません、とエンドラーズは付け加えた。


「それは名案ですね」

「誰も不思議に思わないもんね」

「あたしたちは被害者って、みんな同情してくれるんじゃない?」

「では、周囲に気取られる前に出立いたしますか」

 四人は一斉に賛意を示す。

 風の最高神祇官は、これまで誰にも見せたことのない、寂しそうな表情を無意識に作っていた。



「アービィ、なんか不思議な感じだね。

 あんたがフォーミットに、あたしの家に来て以来、あたしは普通の人が経験できないような人生を送ってる。

 これからも、ずっとそうなんだろうけどね」

 巨狼の毛皮に埋もれながら、ルティが話しかけた。


 ――そうだね。僕もそう思う。この世界に来てから、ずっとそう思ってる。

 ジェットコースターのような人生だと、アービィは思っている。


 少々一般的ではない職業に就いていたとはいえ、波瀾万丈とは縁遠い人生を送るはずだった。

 明日も今日の繰り返しに、少しだけ違う色が着くだけの毎日のはずだった。いつかは結婚して、子を育て、送り出し、老いて平凡に死んでいく。新聞にお悔やみ記事など乗ることなどあり得ない、埋没した人生を送っていくはずだった。

 それが、異世界に召喚され、人狼に転生させられ、ルティと出会って旅をしている。


「あの、オセリファさんだっけ?

 殺し合わなきゃいけないのかなぁ。

 ニムファ様とも。

 殺し合いが決着なんて、嫌だよ」

 ルティが泣きそうな顔で呟いた。


 ――嫌だよね。でも、戦乱は止めなきゃ、もっと膨大な、数え切れない死が生まれちゃう。話し合いで済むなら、それに越したことはないけどさ。

 巨狼が溜息とともに答えた。


「あんたの力は、それを止めるためのもの?

 あんたが召喚された意義って、それ?」

 ルティが巨狼を見上げるように言った。


 ――そうかもしれないね。殺し合いのためじゃなく、戦乱を止めるための、ね。

 北を見つめながら、巨狼が答える。

 そこには部屋の壁があるだけだが、巨狼には明確な光景が見えていた。

 まだ見ぬ最北の地を、巨狼は思い浮かべている。


「もし、もしも、よ。

 あんたが十二年前に、人狼に封じられずにニムファ様の前に、日本人のまま召喚されていたらどうなってたんだろうね」

 歴史に『もし』や『たら』、『れば』は禁物だが、ルティは何となく聞いてみた。


 ――多分、言葉が通じない時点で、何にもできなかっただろうね。思い出してみて分かったけど、日本語とこっちの言葉ってまるで違う言語体系だから、日本人のままじゃ適応できなかったと思うよ。食べ物もね、やっぱり微妙に違ったし。役立たずのまま殺されたか、どっかの塔とか地下に幽閉されて発狂したかだね。

 巨狼は考えていた答えを出した。


 ニムファによる召喚が、グレシオフィの妨害を受けずに成功していたなら、おそらく日本人としてのアービィの運命はそうなっていたに違いない。

 そして、ニムファの望みを叶えられる、新たな勇者を召喚し続けることになっていただろう。それが何人の犠牲者を生むことになるか予想が付かないが、アービィが行方不明になったことでそれは防がれていた。

 グレシオフィによる横槍は、期せずしてアービィと多くの人々の命を救っていたのだった。


 その横槍の結果、日本人としてのアービィは人狼に封じ込められ、この世界で最強と言っても過言ではない力を予期せず与えられた。

 そのまま人狼として成長し、人間を喰らうことを覚えていたら、今頃はバードンの手で狩られていたかも知れない。それがほんのちょっとした偶然でルティに出会い、人として育ったことでその運命も避けられている。そのおかげで人狼が人狼のまま他を慈しむことを覚え、力の制御を覚えることができた。人狼の力を、他の役に立てることができるようになり、勇者と呼ばれてもおかしくない存在に成長している。

 魔王と化したニムファを滅するため、ニムファ自ら召喚した勇者が立ちはだかる。

 必然だったのか、偶然なのか、アービィにはいくら考えても答えは出せなかった。


「アービィ、アービィってばっ!」

 取り留めのない思考の海に沈んだアービィの意識を、ルティの呼び掛けが現実に引き戻した。


 ――あ、うん、ごめん、なんか考えが纏まらなくなっちゃった。

 心配そうに見上げるルティの頬を巨狼が一舐めし、身体全体でルティを包み込む。


「あたしこそ。

 なんか変なこと聞いちゃったね。

 あんたがこうしてここにいるのは、偶然でもなんでもなく、必然よね。

 そうすると、ニムファ様ってあたしの恩人?」

 災厄を撒き散らす魔王と化したニムファを、恩人と呼ぶには抵抗がある。だが、ルティにしてみれば、アービィと引き合わせる原因を作った張本人だ。


 ――そうなんだよね、なんか複雑な気分だけど。だから、僕が決着をつけなきゃいけない。そう思うんだ。

 巨狼が答え獣化を解いたとき、家の扉を叩く音が聞こえた。



「なんかさぁ、アービィがずいぶんと悩んでるみたいだったしぃ」

 半分できあがったティアが言った。


「もう酔っぱらっているのに、狼が悩んでいるから、励ましに行くと言って聞かなかったものですから。

 ルティ殿たちのお邪魔をする気はございませんでしたが、申し訳ございません」

 野暮な真似をすることになってしまったバードンが、ルティに頭を下げた。


「大丈夫ですよ、バードンさん。

 ここ久しくみんなで呑むこともなかったし、あたしたちは歓迎ですから。

 それにしても、ティア、何で判ったの?」

 グラスを並べながらルティが答えた。

 いい雰囲気ではあったが、それを邪魔されたという意識はない。ましてやアービィを心配してきてくれたというなら、尚更だ。


「だってえ、念話が駄々漏れでねぇ。

 聞く気はなかったけど、聞こえちゃったんだもん」

 魔獣同士ならではの理由だった。


 ――えっ? 漏れてたの? 恥ずかしいなぁ、もう。

 あまりにも急なタイミングだったため、服を着るより獣化した方が早かった巨狼が答えた。


「いや、俺には何のことか判らなかったんだが、急に貴様のところへ行くと言いだしてな。

 そういうことか。

 便利なんだか不便なんだか、判らん能力だな」

 呆れ顔で酔っぱらったティアを見つつ、バードンがアービィに向かって言った。


 ――普段は必要な相手を指定できるんですけどね。余程思考に集中してたみたいで。お騒がせしちゃって、ごめんなさい。

 巨狼の申し訳なさそうな念話がバードンに届く。


「ま、その様子なら心配するほどのことでもなさそうだな、狼。

 しかし、この後、貴様はどうするつもりだ?」

 肩から力が抜けたバードンが、ティアからグラスを取り上げ、それを一気に干してから聞いた。


 ――そうですね、フォーミットに帰って、人狼の子供を集めた施設を作ります。手に職を付けさせて、人間と暮らす術を教えて、僕みたいな人狼を増やしていかないと。

 魔王を倒し世界を救うという勇者として召喚された意義より、アービィはそちらを優先して考えている。


「もう、先のことを考えていたのか。

 俺は、どうやって最北の地を衝くか、そればかりを考えていた。

 もちろん、その先のことも漠然とは考えているがな。

 しかし、俺より貴様の方が、未来を見ているんだな」

 溜息混じりにバードンが言った。


 人狼狩りとしての仕事は、放棄したわけではなかった。

 それ以上の脅威を討ち鎮めることを、今は優先しているだけだ。だが、いつか、人に仇成す人狼を狩り尽くした後、どう生きていくかまでは考えていなかった。

 ティアと二人、どこかの教会でひっそりと神父の仕事をしながら、生きていくのだろうと漠然と考えていただけだった。


 ――僕を、ルティとティア以外で、初めて認めてくれた人に言われたんです。『この世に生を受けたもの全てが、それぞれに成すべきことがあるはずだ。』って。ルティと二人で平穏に生きていける場所を探すために、僕たちは旅を始めました。その途中でそう言われてから、僕はずっと考えていたんです。ルティと二人で、そうやって生きていくって。この世界に召喚された意義は、それなんだって。

 巨狼の念話を、誰もが無言で聞いていた。


 ルティの頬には涙が流れている。

 二人で生きていくことには、変わりはない。ルティは、極論すればアービィさえいてくれたら、それで充分だった。自らの存在意義など、考えたこともなかった。ティアが考えていた人狼の保護施設を手伝いながら、アービィのそばで笑っていられたら、それ以上の幸せはないと思っていた。

 だが、この人狼は、ルティに生きる意義も与えていたのだった。


「じゃあ、あたしもフォーミットに行くわぁ。

 別々にやるなんてぇ、効率悪いしぃ。

 そのうちぃ、増やしていかなきゃぁ、いけないけどねぇ」

 ティアは、己の存在意義をそれに見出している。


 アービィとルティがいたおかげで、男の精を喰らい尽くす一生に決別できた。

 そのうえ、生きる意義、存在意義にまで気付かせてもらっていた。二人と別れて生活するなど、ティアの選択肢にはない。


「ティア、ありがとう。

 あなたたち二人の生き方を、あたしはどうこう言えないと思ってた。

 だから、以前言ったことは、忘れてくれて構わないと思ってるの。

 あたしたちのことも、子孫も、遠くから見守ってくれたら、それでよかったの。

 でも、ティアがそう言ってくれるのは、とっても嬉しいよ。

 バードンさん、ありがとう」

 ルティは、ともすれば涙で声が途切れそうになるのを、必死に堪えながら言葉を繋いだ。



 だが、バードンは、ルティの言葉に困惑したような表情で、曖昧に頷くだけだった。

 もちろんバードンは、ティアと別れて暮らす気など、欠片も持ち合わせていなかった。

 しかし、それはそれ。仕事は仕事だ。人に仇成す人狼がいるならば、地の果てまでも行かなければならない。それがバードンの人生であり、存在意義でもあった。曲がりなりにも人として道を外すことなく育ててくれた、マ教への恩返しや忠義でもある。

 もちろんマ教も、人狼狩りや悪魔狩りを、バードン一人に押し付けているわけではない。だが、バードンほどの力を持った悪魔狩りはいないことも、また事実だった。当然、後継者の育成は続けてはいるが、返り討ちにあう者も皆無ではなく、バードンの変わりとなる人物は今のところまだいない。愛に殉じると言えば聞こえは良いが、使命を放棄することは、バードンの矜持が許さなかった。

 それ故、バードンは、この争乱の後はしばらく旅に出ると、ティアと話し合っているところでもあったのだった。


「どうしたんですか?

 なんか、気に障るようなこと、いいました?」

 言い難そうにしているバードンに、ルティが訪ねる。


「そうじゃないのよぉ。

 バードンは暫く旅に出るって。

 人狼狩りの仕事は、放棄できないもんねぇ。

 さっきも、その話してたのぉ」

 あっさりとティアが言った。


「ちょっと、どういうことよ、ティア。

 あんたは寂しくないの?

 やっと二人で暮らせるって人と、巡り会えたんじゃないの?」

 ティアの軽い回答に、ルティが血相を変えた。


「そりゃぁ、寂しいわよぉ。

 でもねぇ、代わりがいない仕事なんだしぃ。

 それに、それで別れるって訳じゃないしぃ。

 心は繋がってるからねぇ

 あたしのぉ、寿命からすればぁ、五年や十年なんてぇ、一瞬よぉ、一瞬」

 平然と答えてはいるが、ティアは涙ぐんでいるようにも見えた。


「そういうことでございます、ルティ殿。

 お近くで力になる前に、片づけなければならない仕事がございまして。

 親兄弟の仇も、まだにございますれば。

 それにティアを巻き込むわけには参りません。

 ティアと二人生きていくために、一人でやり遂げたいのでございます。

 マ教も後継者を育てております故、仇討ちさえ首尾良く終われば、悪魔狩りを引退できましょう」

 バードンが宥めるようにルティに言った。


「バードンさんもっ!

 ティアと離れ離れになっちゃうなんて、それでいいんですか!?

 あたしたちのことなら気にせず、ティアのことを第一に考えてあげてください。

 あたしたちがティアを縛り付けたいわけ、ないじゃないですか」

 ルティは涙ぐみながら、バードンに抗議した。


「ルティ殿、お気持ちはありがたいのですが。

 私は、必ず帰って参りますし、行きっぱなしにする気もございません。

 私は、ティアと二人生きていくため、為すべきことを為すだけでございます。

 先程、狼が申したように、この世に生を受けたもの全てが、それぞれに成すべきことがあるはずでございます。

 先程も申しましたように、後継者が育てば引退もできましょう。

 そう長く、家を空けることも、ございますまい」

 バードンは決然と言った。


 涙ながらに頷くティアを見て、ルティは何も言い返すことはできなくなっていた。

 それでも救いを求めるように、巨狼に視線を投げる。だが、巨狼は寂しそうな目をしつつも、首を横に振った。


「解りました。

 解りましたよ、バードンさん。

 でも、ティアを悲しませるようなことになったら、あたしが許さない。

 もし、死んだりなんかしたら、『蘇生』で生き返して、そのまま地獄に放り込んでやるんだからっ!

 アービィ、お酒っ!」

 精一杯の強がりを見せ、涙を誤魔化しつつルティが怒鳴り、巨狼に向かってグラスを突き出した。


 ――どうやって注げ、と……

 困り切った巨狼の念話と、救いを求める視線に笑いが弾けた。


「バードン、ルティはやるって言ったらやるわよぉ。

 死ぬときはぁ、こっそり死になさいよねぇ」

 ティアは、ルティの様子に安心したのか、それとも内心は納得できていないのか、怪しくなった呂律でバードンに憎まれ口をきいた。


「それだけはご勘弁ください、ルティ殿。

 死ぬときは、必ずおまえの横だ、ティア」

 これ以上はないバードンの惚気に、大喜びするティアの横で、ルティと巨狼は思い切り鼻白んだ。

 ついこの前までの二人が惚気まくっていたことなど、このときばかりはきれいさっぱりと棚上げされていた。



 ――来客だよ、ルティ。

「ごめんくださいっ!」

 巨狼の念話と、大声が同時に響く。


「お歴々、おそろいでございますな。

 先にこちらをお訪ねして正解でございました。

 さて、南大陸に残りし地水火の最高神祇官より、精霊を介した交感で報せが届いてございます。

 本日、正午に、全精霊神殿は、正式に、アービィ殿とティア殿を祝福したと発表してございます。

 そして、驚くなかれっ!」

 そこまで言って、エンドラーズは悪巧みを隠し切れずに笑みを漏らす少年の顔になった。


「マ教が正式発表で、お二人を害獣ではないと宣言いたしましたっ!

 もう、これで何も恐れることはございません。

 おめでとうございます、皆様」

 空間を、静寂が支配した。


 巨狼とルティが見つめ合い、ティアとバードンが見つめ合う。

 四人の視線がそれぞれに向けられ、最後に全員の視線がエンドラーズに集まった。

 してやったりという、満面の笑顔でエンドラーズが頷いた瞬間。



 歓喜が爆発した。



 ルティもティアも、しゃくり上げて声にならない。

 巨狼の瞳にも光るものが溢れていた。シャーラに滞在していた際に、エンドラーズからいずれ発表があるとは言われていた。それが現実のものとなったのだった。

 歓喜の中でバードンは、嬉しさが爆発はしているが、マ教が魔獣の存在を認めるなど信じられないという顔だ。


「エンドラーズ様、私にはまだ信じられません。

 あの、頑迷なマ教が、いえ、タンゼンデ教皇猊下や全ての民の融和を掲げるカーナミン卿であれば、とは思いますが、全ての民の教化を第一とお考えのデナリー卿や、私の上司でもある原理主義者、スキルウェテリー卿が納得されたとは、まだ信じられません」

 軽く頭を振りながらバードンは呻くように言った。


 タンゼンテ教皇の意向は誰も無視はできないが、それでも面と向かって反対意見を述べることは許されているし、枢機卿の意見が割れた場合は決が流れることも少なくない。

 当然、激しい駆け引きがあっただろうし、南大陸に帰還後のバードンに対する風当たりが強くなることも予想された。もちろん、そんなことを恐れるバードンではないが、大恩あるスキルウェテリー卿を裏切ってしまったのではないかとの思いが、心のどこかで燻っていた。

 涙を流し、抱き合って喜びを爆発させている三人に水を差す気などないが、バードンは不安も感じていた。


「中立というか、枢機卿の意見調整を己が本分とお考えになっていらっしゃる、ルビン卿のご活躍ももちろんでございます。

 ですが、この話はスキルウェテリー卿が、ご提案なさったと私は聞き及んでおりますぞ、バードン殿」

 悪戯っぽく笑ったエンドラーズからの返答は、この世が終わってもあり得ないと思っていたものだった。


 精霊神殿はアービィとルティの祝福に関して、マ教との水面下での折衝を続けていた。

 神が作り賜た人間に対する悪魔からの挑戦と位置づけられていた魔獣の存在を、公式に認めるなどマ教としては許せるはずもなかった。下手に精霊神殿が突っ走れば、大陸を一気に戦乱の渦に巻き込む可能性もあったのだ。教都ベルテロイに地水火の最高神祇官が集まり、タンゼンデ教皇と直談判が行われる前に、各枢機卿に対する働きかけが当然あった。

 その中で真っ先に賛意を示したのが、誰も予想もしなかったスキルウェテリー卿だった。


 バードンにとっては父のようなこの人物は、原理主義者として名を馳せているが、決して頑迷な人物ではなかった。

 マ教の教えこそ、全ての民を救う唯一の教えと信じるが故、他の益体もない宗教を排斥する姿勢を見せているが、民を迫害するという考えは持っていない。マ教の説く、博愛、自己犠牲の精神を、誰よりも体現しているといっても過言ではない人物でもある。それが悪魔狩りや人狼狩りを担当する部署を、一手に所轄するという現状に表れていた。

 最も危険度の高い仕事を、誰よりも率先して行う。

 誰よりも他者の幸せを望む、彼の行動原理だった。


 そんな彼にとって、バードンの行動は頭痛の種でもある。

 魔獣と愛を誓った人狼狩りなど、前代未聞の不祥事といっても良い。だが、スキルウェテリーにとって、バードンは我が子同然だった。我が子の不幸を望む親などいないように、スキルウェテリーもバードンの幸せを望んでいる。人に対して心を開くことがなかったバードンに、人並みの愛を教えたラミアに対する感謝の気持ちがあったことも確かだったろう。

 だが、このままではティアやアービィを狩ろうとする悪魔狩りや人狼狩りと、バードンが剣を交わすことになりかねない。バードンに匹敵する戦闘力を有する悪魔狩りや人狼狩りなど、世界中どこを捜してもいはしない。そのうえ、ラミアと人狼が戦いの矢面に立ったとなれば、誰一人として還る者はいないだろう。バードンを教敵にするわけにはいかないという親心が、そして組織の保全が、スキルウェテリーに決断させた。

 帰ってきたら説教責めだと、吐き捨てるように言ったスキルウェテリーは嬉しそうな顔だったと、折衝に当った神官から最高神祇官に伝えられていた。


 スキルウェテリーから提出された、アービィとティアの存在を認めるという動議は、神官たちの水面下での工作もあり、特に反対意見が出されることもなく枢機卿会議を通過した。

 不死者を作り、民に戦いを仕掛けるような邪教は排撃すべしという、ルビン卿の意見が背中を押したことも大きい。その不死者たちに第一線で戦いを挑んでいる人狼とラミアが、人間の敵であろうはずがない。全会一致の上奏を受けたタンゼンデ教皇は、最高神祇官たちとの会談を経て正式にアービィとティアの存在を認めたのだった。



 エンドラーズの話に呆気に取られた顔になっていたバードンの頬に、熱い涙が流れていた。

 まさか、スキルウェテリー卿がそこまで自分を思っていてくれているとは、バードンの想像の埒外だった。優秀な人狼狩りを手に入れるため、行き場のない自分を拾って育てただけと考えていた部分があった。人の心の温かさを、バードンはティアと愛を交わして以来感じるようになっていた。自身の感情が豊かになっていることを、バードンは自覚している。

 すべて、ティアのおかげだった。


「さあ、皆様。

 マ教の方々に、公式宣言が間違いではなかったと、証明しようではありませんかっ!

 行きますぞ、最北の地へっ!」

 エンドラーズが話を締めくくる。


 ――行こう。

「行きましょう!」

「最北の地へ」

「最北の地へ!」

 二頭と二人の言葉が、重なる。


 この年初めての冠雪が、遥か北の山々に静かに降りた夜だった。


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