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狼と少女の物語  作者: くらいさおら
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第94話

 巨狼は、地を駆けていた。

 エンドラーズたちが野営する地点から、不死者の脚で半日行程と思われる範囲をくまなく捜索している。魔獣が身を潜められるような森林ばかりでなく、直射日光を遮ることができる洞窟や、狩人たちの避難小屋、果ては穴を掘ったと思われる地表まで、神経質と思えるほど執拗に調べ回り、徐々にその捜索範囲を広げていた。臭いを嗅ぎ、気配を読み、敵の存在を感知しようとして、ありとあらゆる感覚を駆使している。

 やがて、周囲一日行程の範囲に敵がいないことを確認した巨狼は、長い遠吠えの後に野営地に向かって駆け始めた。


 ――やっぱり、なにもいないですね。

 野営地に向かいながら、アービィは念話で全員に伝えた。


 ――じゃ、早く戻ってきてよ、みんな待ってるから。

 ルティが代表して思念を返してきた。


 一気に丘陵地帯を駆け抜けた巨狼は、川の畔で既に酒盛りを始めていた一行の姿に、思わず力が抜けそうになった。

 繁みで獣化を解き、服を着込んだアービィが近付くと、頬を赤く染め始めたルティが酒瓶を振り回している。車座になり焚き火を囲む八人は、それぞれにシェラカップを呷り、火にかざされた干し肉にかぶりついていた。ルティが開いている自分の横を指差し、ティアが隙間を広げるようにバードンに寄り添う。

 アービィは、ルティのティアの間に腰を下ろし、少しだけルティに近寄った。


「間違いなく、最北の民はシャーラを放棄していますね」

 一息に酒を呷ったアービィが、偵察の結果を改めて報告した。


「我らも精霊と交感して周囲を探りましたが、全く害意を持つものの気配は感じませんでした。

 やはり、反撃密度を高めるため、防衛線を縮小したということで間違いないでしょう」

 神官の一人がアービィの言葉を裏付けるように言った。


「されば、我らとしては、このままシャーラを確保するだけでございます。

 吊られてラーニャを一気に衝こうなどとは、思わないことでございますな」

 エンドラーズが頷く。

 調子に乗ってシャーラより先に進んでも、それこそ補給が追いつかない。

 兵站距離が伸びれば伸びるほど、陸路の補給業務は無駄が多くなる。補給部隊も喰わなければ動けないし、帰り道の食料も必要だからだ。荷車に満載した食料が、行程を消化すると共に将兵に消化されていく。一定の距離を越えれば、運び始めた食料の半分以上が、輸送部隊の腹に消えるのだ。

 一度壊滅したターバ以北の食糧生産が軌道に乗るには、まだ数年掛かると見積もられていた。


「本当にそれだけでしょうか?

 今頃、河川流域に展開した部隊に、合成魔獣と不死者が襲い掛かっているなんてことはないですよね?」

 不安げにティアが誰とはなしに聞く。

 実際問題として、その危険性が一番高い。


 シャーラを落とし、ラーニャを落としても、河川による補給路が確保できなければ、大部隊を進出させたらその維持はできない。

 今回のように、精鋭部隊や大規模な侵攻部隊を進出してきたと見たら一旦兵を退き、拠点に縛り付けたうえで補給路を絶てば、少ない犠牲で大きな被害を与えることができる。精鋭部隊も大規模な軍団も、その育成には多大な時間と経費が必要だ。ましてや、将兵一人一人が積み上げる経験は、カネを出して買えるというものではない。当然それは最北の民にも、当てはまることでもある。正面からぶつかり合うシャーラ防衛より、神出鬼没の遊撃戦に徹することが可能な河川流域防衛の方が圧倒的に少ない兵力で済む。戦力の消耗が避け得ないのであれば、それがより少ない方を選ぶということは当たり前の判断でもあった。

 河川流域の制圧を阻止できるということは、最北の地への侵入も同時に阻止することを意味していた。


「その危険性はあるよね。

 でも、昼間にバードンさんが言ったとおり、あたしたちが今から引き返しても間に合わないでしょ。

 どこに行けば良いか判らないんだし。

 それに、ピラムの皆さんを放り出していくわけにも行かないでしょ?」

 そのような事態になっていたら、河川流域制圧部隊が奮戦するしかない。


 如何に巨狼の脚が速いといっても、行き先が分からなければ宝の持ち腐れというものだ。

 もし、どこで制圧部隊が襲われているか分かったとしても、せいぜい石畳程度の舗装しかなく、サスペンションやスプリングといった快適に乗用するための補助機構が発明されていないこの時代では、巨狼の全力疾走に曳かれる荷車の振動に長時間耐えられる人間も魔獣もいない。どうしても適宜休憩を取らなければ、到着した時点で乗り込んでいた者たちは、疲労と打撲等の肉体的ダメージで戦力にならなくなっている。

 ルティの返答は、昼間に話し合ったことを確認するだけだった。



「ここで考えていても仕方ございません。

 早々にシャーラを確保し、ピラムの方々の橋頭堡を築きましょう。

 秋のうちに最北の地を衝くか、ここで冬篭りか、一旦ターバかパーカホまで退くかは、司令部が考えることでございます。

 狼、干し肉ばかりではかなわん。

 まだ食料に余裕のあるうちは、何か旨い物を作れ」

 堂々巡りになりそうな会話を、バードンが干し肉と共に食い千切った。


「分かりましたよ。

 作りますけど、手伝ってくださいね」

 アービィはそう言って席を立つ。

 言い出した手前、放っておくわけにも行かず、ティアに睨まれたこともあり、渋々といった態度でバードンも席を立った。


「あの二人、なんだかんだ言っても仲良さそうね」

 笑みを湛えたティアがルティに言う。


「あたしがバードンさんを始めて見たときも、仲良く飲んでたみたいよ」

 噴き出しながらルティが言った。

 その声が聞こえたのかバードンは照れ臭そうに振り返り、ルティに困ったような顔で頭を下げた後、アービィを力一杯張り倒した。


「見て見て、兄弟みたい、あの二人」

 笑いを堪えきれず噴き出したティアに吊られ、焚き火を囲む七人全員の笑い声が夜の森に木霊した。



 自身を包んだ白い光が消失した後、ニムファは目を開いた。

 ラシアスのアルギール城地下迷宮から魔法陣を通ってどこへ来たのか、ニムファは把握していない。グレシオフィをまさか最北の民とは思うこともなく、神の使いと信じ込んでいたニムファは、眼前に驚愕の表情で立つ女を見て鏡写しのように驚愕の表情に染まっている。

 グレシオフィはニムファの前に姿を現す際には、髪の色を栗色に変化させていた。顔立ちまでは変えることはできないが、ニムファの濁った眼力ではグレシオフィを北の民と見抜くことは適わなかった。

 それ故に、魔法陣で転移したニムファは、ここが最北の地とは欠片ほど思ってもいなかった。


 唐突に起動した魔法陣に慌てて駆けつけたオセリファは、そこに南大陸の住人が立ち尽くしているのを見た。

 南大陸の住人で魔法陣を使用できる者は現在一人しかいないとグレシオフィからは聞かされていたが、唐突過ぎる出現にそれが誰であるかオセリファはそのとき認識できなかった。


「誰か?

 この神聖な魔法陣を汚す貴様は、誰かっ!?」

 誰何しながら、オセリファは混乱した頭で考えていた。


 現在彼女が前にしている魔法陣は、グレシオフィが最も重要視しているものだった。

 即ち、南大陸への侵攻の際に足掛かりにするため、二年かけて築き上げたラシアス地下迷宮へ繋がるものだ。どう考えてもそれを通ってくるものは一人しかいない。それも生者であるはずがない。その者がグレシオフィから受けていた命令は、ラシアス地下迷宮にある魔法陣の守護のはず。

 僅かの間にそう考えたオセリファは、眼前に立つ不死者に対し頭に血が上る感覚を感じていた。


「貴様、何故ここに。

 猊下からどのような命を受けていたか忘れたか?

 どういうことか、説明してみるが良い」

 驚愕の表情を収め、冷徹ないつもの立ち居振る舞いを取り戻したオセリファが言う。


 だが、驚愕の表情のまま固まったニムファは、口を無為に開閉させるだけで言葉としての音声を発することができないようだった。

 無理もない。眼前に立つオセリファは、生粋の北の民だ。目が覚めるような金髪に、南大陸の住人に比べ掘りの深い顔立ち。どう見ても巡幸の際に目にすることのあった、貧民窟に屯している貧しく卑しい、恥知らずな北の民と、同じようにしか見えない。次第にニムファの心に眼前の無礼な女に対する怒りが湧き上がり、それが却って冷静さを取り戻させた。

 一息大きく深呼吸したニムファは、静かに口を開いた。


「そなたこそ、何者ですか?

 私はラシアス女王ニムファ・ミクランサ・ミリオフィラム・ネツォフ・グランデュローサ。

 そなたの物言い、無礼極まりないものです。

 身分を弁えなさい、北の民」

 轟然と胸を反らし、ニムファは言い放った。


「それがどうした。

 貴様は、何の権限があって猊下の命に背く?

 地下迷宮の魔法陣の守護はどうした?

 グレシオフィ猊下の命はどうした!

 答えろ、ニムファ・ミクランサ・ミリオフィラム・ネツォフ・グランデュローサ!」

 叩き付けるようにオセリファは叫んだ。

 その言葉にニムファが反応した。


「そなた、卑しい北の民如きが、お使い様の名を軽々しく口に出すでない!

 お使い様よりいただいたこの力、そなたの身を以って思い知るが良い!」

 そう言うなり、ニムファは魔法陣を飛び出し、オセリファに掴みかかった。


 吸血不死者に限らず不死者は、自らを転生させた者に逆らうことはできない。

 だが、ニムファを転生させたのはグレシオフィであり、オセリファに対する服従に義務は生じていなかった。グレシオフィにしてみれば、ニムファはあくまでも南大陸での橋頭堡という位置付けであり、北の大地へ呼び寄せる気などさらさらない。オセリファと顔を合わせる予定もなく、もしあるとすればグレシオフィがオセリファを帯同して南大陸へ赴くときだ。

 ニムファの勝手な行いが招いた、予期せぬ遭遇だった。


「猊下より聞き及んでいた通りの、短慮。

 救いようのない思い上がりと、莫迦さ加減。

 どうして猊下はこのような者に、力をお与えになったのか」

 オセリファは、嘆息と共にニムファの一撃をかわす。

 態勢を崩し、無様に目の前を過ぎようとするニムファの延髄に、オセリファの手刀が打ち下ろされようとした。


「そこまでだ、オセリファ」

 背後から柔らかな声が聞こえ、オセリファの動きが封じられた。


 声に拘束の魔力など秘められていないが、オセリファにとってその声はこの世界の何よりも強制力を伴うものだった。

 ニムファの首を打ち落とす寸前で手刀が止められ、勢いを止められなかったニムファだけが、無様な姿を晒して床に転がった。ニムファが身体を起こし、怒りに染め上げられた目でオセリファを睨んだ時には、既にオセリファはグレシオフィの前で片膝を付き、頭を垂れていた。

 その光景を、ニムファは信じられないといった面持ちで、眺めるしかなかった。



 オセリファの前に立つグレシオフィの髪は、本来の金髪だった。

 ニムファの知る神の使いではなく、最北の民を率いるグレシオフィが、初めてニムファの前に姿を現した。その姿にニムファは戸惑いを隠せず、ただ唖然としたまま立ち尽くすだけだった。

 騙された、そういった思考が頭を過ぎるが、転生の際に植え付けられた絶対服従の強制力が、ニムファの自暴自棄を抑えつけていた。


「お使い様、これは一体、どういうことでしょうか?

 まさか、お使い様が北の民などと……」

 やっとの思いで、ニムファはそれだけの言葉を口にした。


「それが如何した、女王。

 何故、王城からここへ?

 そなたには、魔法陣の守護を申し付けておいたはず。

 何が起きたか、話すが良い」

 柔和な顔に僅かな厳しさを漂わせ、グレシオフィはニムファに命じた。


「宰相や神官どもが、寄ってたかって私を居室に封じ込めようと。

 廊下に怪しげな結界を敷き、それを越えようとした侍女は瞬時に灰と化し、危険を悟った私は魔法陣でこちらに」

 ニムファは目を伏せながら、要領を得ない返答をする。


「つまり、貴様は魔法陣を放棄してきた、ということか!?

 あれを築くため、猊下がどれほどの労力をお払いになったか。

 それを貴様は……っ!」

 あまりの口惜しさに、オセリファは絶句した。

 おそらく、いや、間違いなく、精霊の結界が敷かれたのだろう。

 いずれ城を囲む結界が敷かれたら、魔法陣に転移し実体化した瞬間に、グレシオフィであろうと灰化する。


 これではアルギール城の地下迷宮に侵入しても、南大陸に攻め込むことはできない。

 合成魔獣を転移させることはできるだろうが、結界を破壊できるかどうかは偶然に頼るしかなく、確かめる術はない。単独で送り込まれた合成魔獣は、それなりの被害を与えるだろうが、所詮それまでだ。開けた場所ならともかく、人一人がやっと通れるような隘路がある地下迷宮では、身動きも適わず本来の力を発揮する前に討たれてしまう。

 ニムファの先の見えていない行動に、オセリファは暗澹たる思いに囚われていた。


「そなたは、本当に役立たずよのう。

 ラシアスの王族貴族は、無能ばかりということか。

 あの偉丈夫も役立たずであったし、この女王も先がまるで見えておらぬ。

 如何いたそうかの、オセリファ?」

 南大陸侵攻が露のように消失した現実に、グレシオフィは顔には出さないが大きく落胆していた。

 ラシアスを起点に南大陸に侵攻し、北の大地で直接刃向かう小賢しい者共を絶望の淵に落とし込んでから殲滅するつもりだった。


 ニムファに不死者転生の能力を授ければ、南大陸に不死者の軍を作り出すことは容易だった。

 だが、場当たり的で捨て鉢になりやすい性格のニムファに、現時点でその力を与えた場合暴走する危険性が大きかった。力を得る度に使い道を誤り、自らの立場を危うくしては現実から逃げ、また新しい力を望み、手に入れまた使い道を誤る。ニムファが繰り返してきたことだ。勇者という力、摂政という力、女王という力、不死者という力。どれもこれも上手く使いこなせれば、ニムファの望みは簡単に叶えられていたはずだ。しかし、ニムファにその器はなかった。そのような者に過剰な不死者生成の力を与えてしまっては、片っ端から不死者を生み出し、倍々ゲームで南大陸から生者が消え失せる危険性がある。

 それでは面白くない。


 徹底的に虐げてやらなければ、最北の民の怨みは晴らせない。

 不死者に統治され、一切の自由、一切の快楽、一切の幸福を取り上げて、緩慢に死へ向かわせてやるつもりだった。グレシオフィはニムファを洗脳しきった時点で、その力を与えるつもりでいた。しかし、不死の身体を手に入れた時点で全能感に溺れ、欲望に流されたニムファが全てをぶち壊しにしてしまった。

 南大陸へ行くには、中央部から平野部という敵地を、突破しなければならなくなっていた。



 グレシオフィは、いつの間にか平伏したニムファに冷たく一瞥をくれると、オセリファに立ち上がるよう促した。

 グレシオフィとオセリファが並び立ち、ニムファに新たな命令を下す。


「知らぬこと故、この度のオセリファへの無礼は罪に問わぬ。

 だが、オセリファの言葉は我が言葉と心得よ。

 未来永劫、絶対服従とな。

 女王、一度だけ汚名返上の機会を与える。

 居室を与える故、別命あるまでそちらに控えよ」

 グレシオフィは重々しく言い放つと、オセリファを伴い魔法陣の間を出て行った。


 ニムファは、転生の際に植え付けられた絶対服従の強制力に、従わされただけではない。

 国を捨て、全てを投げ出した彼女は、グレシオフィに放り出されてしまっては、心の拠り所を喪い気が狂ってしまいそうだった。自ら命を断つ以外、死ぬことのない不死者の身体は、永劫の精神的苦痛が残るだけだ。もちろんニムファに自害する度胸などなく、脚に縋ってでもグレシオフィの歓心を買う以外、考えは浮かばなかった。

 居室に蹲り、ニムファは纏まらない思考の深淵に沈んでいった。



 グレシオフィは苦り切っていた。

 戦略が大きく狂っている。シャーラまでを明け渡しラーニャ以北を聖域化することで、最北の地での反撃密度を高め、何度攻め込まれても撃退できる体制を整え、長期不敗体制を築くというのが彼の戦略だ。アービィたちを疑心暗鬼に陥れた監視者など存在せず、シャーラの放棄は規定方針に従ったことだった。もちろん、空き家となったシャーラを南北連合が放っておくとは思わず、必ずある程度の部隊を送り込んでくるとグレシオフィは読んでいる。そのためにターバ以北の河川流域には遊撃部隊を展開させ、シャーラヘの補給を寸断する。陸路のみの補給では、シャーラに大部隊を配することは不可能だからだ。ターバが一大拠点となっても、それ以北のインフラ整備は平野部に比べれば遙かに困難だ。南北連合がどれほど頑張ろうが、河川流域の制圧無くしてはシャーラが攻勢臨界点だった。

 シャーラを餌に、グレシオフィは南北連合の大部隊か精鋭部隊という大物を釣ろうとしていた。


 もちろん、南北連合も馬鹿ではないと、グレシオフィは認識している。

 南北連合が補給の困難さから部隊を失うことを危惧して、シャーラを放棄するならそれも良し。不死者にとって家屋は整備されている必要はなく、直射日光さえ遮ることさえできれば充分だ。警戒に当る生者の住処くらい、夜間に不死者を動員すれば再建など造作もない。もし、シャーラを死守しようというのなら、河川流域の締め付けを強化すればそれ以上の北上は阻止できる。うまく事が運べば、南北連合の戦力を大きく削ることができる。

 南北連合に出血を強要する膠着状態を生み出すことは、どちらにせよ可能だった。


 秋までに膠着状態を生み出せば、そのまま冬がシャーラの拠点化を阻んでくれる。

 然る後にニムファに不死者生成の能力を授け、南大陸に不死者の軍団を作り出す。育成に多大な時間と予算を喰う兵と違い、不死者は一瞬で作り出せるため、短期間でかなりの軍勢を揃えられるのだ。南大陸の資源と技術力を以てすれば、直射日光を遮る天幕などいくらでも増産できる。そうなれば不死者の軍勢に、移動範囲の限界はなくなる。春までに南大陸を手中に収めることは、不可能ではないはずだった。あとは北の大地に残る小賢しい南北連合を、鉄槌と金床の理論で叩き潰せばよい。

 来年の夏には、グレシオフィの世界制覇が完了するはずだった。


 それをニムファがぶち壊しにした。

 冬の到来と、南大陸に不死者の軍勢を生み出すことを前提に、シャーラを捨てたのだ。改めて南大陸の拠点作りから始めていては、金床の完成はいつになるか解らない。いくら河川流域を抑えていようと、南大陸からの人的、物的補給を止めなければ、いつかは押し切られてしまう。

 早急に打開策を講じる必要があった。


 しかし、大戦略が崩れた今、付け焼刃の対応でどうなるものでもない。

 この世界にも、『急いては事を仕損じる』に類する言葉はあり、そのようなときには『急がば回れ』に類する言葉が処世術として存在していた。


「時間稼ぎに使うか……」

 グレシオフィはそう呟くと、ニムファを呼び出し、いくつかの命令を簡潔に伝えた。



 シャーラの結界は、当初の予定より八日早く完成していた。

 アービィが獣化して稼いだ日数が四日あったうえ、不死者も合成魔獣も妨害に出てこなかったことから作業が捗り、シャーラ到着から十日で完了を見ていた。アービィたちに遅れること六日目に、何の妨害も受けずに補給部隊が到着したことも、作業の進捗に大きく寄与していた。シャーラに到着するなり輜重兵は工兵に早変わりし、神官たちの結界敷設作業に加わっている。アービィとティアは獣化して周囲の警戒に当り、ルティとバードンも、ピラムの民も作業に加わっていた。もともと、ターバからシャーラまで十日、結界の敷設に十四日を見ていたが、アービィたちのターバ出発から十六日目にシャーラは完全に南北連合の勢力下に収められたのだった。

 もちろん、良いことばかりではなかった。


 アービィたちは知る由もなかったが、ティアの危惧したとおり、河川流域の制圧は遅々として進んでいない。

 最北の蛮族は過去の戦訓に習い、拠点を設けずに遊撃戦を仕掛けてきた。ほとんどの生者は攻撃に参加せず、日中不死者が直射日光を避けるためのシェルターを掘ることに専念していた。日没後、知性を持つ吸血不死者に率いられた少数の生者と合成魔獣、そして低位の不死者が、河川流域に展開する南北連合軍の拠点を攻撃する。生者は拠点に張られた結界の基準点を見極め、合成魔獣に破壊させた後、不死者の群れが拠点に突入するという、山脈地帯でも見られた戦法だった。そして、巨大な攻撃力を有する最北の蛮族たちだが、日の出を警戒してか長時間の戦闘は避け、一撃離脱に徹していた。

 南北連合の将兵も必死に防戦に努めたが、合成魔獣による被害は馬鹿にできず、有力な拠点のいくつかを放棄に追い込まれている。


 それだけではない。

 壊滅した拠点は放棄するにせよ、損害を受けた拠点に将兵の補充や食料、医療品といった戦略物資を送らなくてはならないが、それも狙われたのだった。河川の流れが緩やかな場所の水深は深く、水深が浅ければ流れが速い。どこであっても筏をひっくり返されては、武装した将兵は泳ぐことも儘ならず、溺死者が相次いでいた。襲撃時に運良く甲冑を着けていないか、咄嗟に外すことができたとしても、本来の活動場所ではない水中で合成魔獣の爪や牙から逃れることは至難の業だ。

 人的被害も、物的被害も馬鹿にはできず、河川流域制圧は頓挫する寸前になっていた。



 河川流域制圧部隊の苦境は、シャーラに到着した補給部隊第二陣から、アービィたちに知らされた。

 同時に、司令部からはシャーラの維持と、ラーニャの偵察を指示された。ピラムの民にも、最北の地への潜入が指示され、ラーニャまでの護衛がアービィたちに指示されていた。ラーニャを過ぎれば完全な敵地であり、ピラムの民の危険度も上昇するが、そこから先の護衛は指示されていない。

 ピラムの民から抜け道の存在を聞かされていたこと、シャーラ防衛に大人数は割けないこと、見知らぬ者を連れての潜入工作は却って危険であることが考慮された結果だった。


「いいんですか、戻らなくて?

 河川流域の安全確保を先にしないと、シャーラは維持できないんじゃないですか?

 春先ならともかく、これからの時期じゃここでの自給自足も無理です。

 陽動作戦は失敗と見て、いったん陣を退くべきと思います」

 危惧が的中してしまったティアが、焦燥感を含ませて言った。

 シャーラの中でも比較的傷みの少ない家屋に設えた会議場で、アービィたちと補給部隊の将官たちが今後の行動について意見を述べ合っていた。


「ご心配をお掛けして、まことに申し訳なく思います。

 ですが、河川流域の確保につきましては、こちらにお任せいただきたくあります。

 間もなく冬が到来いたしますが、この間は河川を使用した補給はいずれにせよ無理であります。

 従いまして、冬季シャーラヘの補給は、橇を使用する予定であります。

 アービィ殿たちにおかれましては、冬までにラーニャの偵察及び、ピラムの方々をラーニャまで護衛していただきます。

 その後は、補給につきましては責任を持って当たらせていただきます故、シャーラの結界を防衛していただきたくあります」 申し訳なさそうな表情で、輸送部隊の指揮官が言った。


「つまり、僕たちと神官様たちは、次の春までここにいろ、そういうことですね?」

 厳しい口調でアービィが聞き返す。


「はい、その通りであります」

 指揮官は簡潔に返答した。


「もうちょっと、こう、なんていうか、言い方ってもんがありません?」

 余りに直球な返答に、ルティが苦笑いしながら言う。


「申し訳ございません。

 どう言い繕おうと、結果的には同じであります。

 皆様の行動につきましては、自由裁量で構いません。

 無理と思われたなら、被害が出る前にターバにお戻りください。

 もちろん、ピラムの方々も、潜入するに当たって危険とご判断なされたら、無理せず一旦お退きいただきます」

 真面目な顔で指揮官は言ったが、内心の苦衷が窺い知れている。


「解りました。

 もともと、ここで冬篭もりの可能性があるってことは解ってましたし。

 それに、ピラムの方々を置いていくわけにもいかないでしょう」

 アービィの底抜けな楽天さが発揮された。


「他にも、最北の地を脱してくる民がいるかもしれない。

 そういうことでございますかな?」

 バードンが指揮官から視線を外し、席を立って窓から北の空を見ながら言う。


「ご慧眼。

 当然そのような事態も、想定されております。

 そのために、こちらの備蓄糧秣は皆様方が冬を越ために必要とする以上の、過大な量を輸送する予定でおります。

 最北の地を脱してきた民に、充分とは言えませんが分配できるはずであります。

 もっとも、充分に備蓄ができるかどうか、河川を利用できない現状では心許なくもありますが、精一杯に任務を遂行いたします。

 また、万が一、最北の地を脱してくる民に追っ手が掛かった場合、その排除をお願いします。

 とにかく、シャーラを過ぎれば一日行程内の集落を確保してありますので、なんとかターバまで落ち延びさせることは可能と考えます」

 指揮官は、バードンの背に向かって返答した。


「我らの命綱は、そこの狼、という認識でよろしゅうございますかな?」

 振り向いたバードンは、笑いながらアービィを視線で差し、指揮官に言った。


「解ってますよ

 ちゃんと狩ってきますから」

 アービィも笑いながら言い返す。


「アービィ殿お一人にご負担をお掛けすることになりますが、よろしくお願い致します」

 指揮官の言葉で会議は終了した。



「アービィ、いつラーニャに行く?」

 巨狼の毛皮の感触を、素肌で感じながらルティが聞いた。


 ――そうだね、みんなと、ピラムのみんなもだけど、相談してからだけどさ、早い方がいいよね。

 少し考えてからアービィの念話が返ってくる。


 補給部隊からの差し入れで、久々に石鹸で毛皮を洗った巨狼は、ふかふかに膨れ上がっていた。

 仮の住居に使用できる家屋はそれほど多くなく、エンドラーズを始めとした神官たちとアービィたちで、それぞれ一軒ずつを占有していた。いずれ第三陣、第四陣の補給部隊が到着した際には、修繕可能な家屋はできるだけ再生することになっている。プライベート空間の確保は、長期間他人同士が暮らしていくうえでなくてはならないものだった。

 巨狼の腹に埋もれようとしたティアは、ルティに蹴り出された後、バードンに引きずられて居室に消えていた。


「そうね。

 いつまで続くのかな、この争い。

 和平交渉って、手掛かりもないんでしょ?

 早く終わって欲しいね」

 巨狼の首を抱えながらルティが言う。


 ――厭戦気分は最北の民の間にも、あると思うよ。ピラムの皆さんが、上手く煽動してくれるといいんだけどね。

 欠伸をして、長く舌を伸ばし、巻き取るように口に収めながら、アービィは念話を返した。


 最北の地でグレシオフィに抵抗している部族は、ピラムを含めても十はない。

 人口比で言えば、グレシオフィが束ねる勢力の十分の一程度まで討ち減らされていると見積もられている。生者だけの比率であれば僅かに逆転するだろうが、グレシオフィの勢力を昼間だけで殲滅できるほどではない。

 グレシオフィ側の生者を寝返らせることができれば、戦局は一気に動くと見られていた。


「みんなの意見も聞いてみないと解らないけどさ、明日準備、明後日発っていうのも、あり?」

 眠たげに目をしばたかせつつ、ルティも欠伸を噛み殺しながら言う。


 ――そうだね。その線で明日、話してみようか。

 早く終わらせたいという気持ちは、アービィも同じだ。

 面倒になったわけではない。怨みや意地、面子といったもののために、人が死んでいくことに嫌気が差してきたのは誰もが同じだった。

 攻めてこなければ撃退もしないと、南大陸の住人や中央以南の北の民は言う。抵抗するなら殲滅するまでと、最北の民は言うのだろう。どこまで行っても平行線だ。簡単に引っ込められるなら、それは怨みとは言わないだろう。

 どこかで、互いが全てを摺り潰すほどの全力をぶつけ合うまで、この争いは終わらないのかも知れない。アービィはそう考えていた。


 取り留めのない思考の中、ふと気付くとルティの寝息が聞こえてきた。

 巨狼は欠伸を一つして、ルティを包み込むように丸くなった。



 二日後の早朝に、シャーラを発つ一団があった。

 アービィたち四人とエンドラーズ、十人のピラムの民がラーニャを目指した。ピラムの民は食糧事情から十人に絞り、残りはシャーラで待機している。ラーニャをアービィたちが偵察し、その状況如何で残ったピラムの民はターバへ戻るか、最北の地へ潜入するかが決定される。ターバへ戻るのであれば補給部隊に随伴し、最北の地へ潜入するのであれば、再度アービィたちが護衛に付く手筈になっている。

 いずれにせよ、ラーニャにどれほどの戦力が展開しているか、それを見てこなければ話にならない。


 ラーニャまでの道中は、平穏そのものだった。

 人間が減り、野生動植物の宝庫となった北の大地は、十四人がほぼ補給を要さないほどの実りを与えてくれている。アービィが動物を狩り、バードンが食用可能な植物を見分け、ピラムの民が南大陸の住人が知らない野草を探り出す。エンドラーズはピラムの民が見つけだす野草を見る度、嬉しそうな表情を隠せなかった。新しい知識と経験ほど、精霊神官を楽しませる者はない。

 知り、食べ、覚え、見つける。ピラムの民について野草を探し回るエンドラーズは、疲れを知らない子供のようだった。


 もちろん、エンドラーズは遊びに来ているわけではない。

 常に精霊との交感を維持し、周辺の害意や悪意を探っている。アービィも気になることがあれば、随時隊列から離れ周囲を走っていた。だが、不死者も、生者も、合成魔獣も姿を現すことなく、ラーニャを遠望できるところまで、何事もなく行程は過ぎていった。どうやら最北の民は、シャーラだけではなくラーニャ以南を放棄して、その戦力を最北の地と河川流域に集中していることは間違いない。そして、中央街道沿いでは、不完全ながら焦土作戦を展開しながら戦線を引き上げている。

 ラーニャまでの途上に点在する集落では、生者が生活した痕跡はあっても、食える物や使える物は何一つ残されていなかった。



「じゃあ、行ってくるね。

 何かあったら、すぐ念話で伝えるから」

 ラミアのティアラを髪に飾ったティアが獣化する。

 話には聞いていたが、ピラムの民がティアの本当の姿を見るのは初めてだ。思わず息を呑む気配が伝わるが、ティアはピラムの民に軽く微笑んだだけだった。

 そして、艶かしい笑みを残してティアは『透過』を詠唱し、姿を消した後ラーニャの集落に潜入した。


 ラーニャから中が見えにくい林に身を潜め、アービィたちはティアからの連絡を待っている。

 時折、人影を見たとか、不死者のいそうな社があるとか、合成魔獣の檻を幾つも確認したという念話が届いてきた。エンドラーズとバードンが、ティアからの情報を元にラーニャの簡単な地図を羊皮紙に描き、見つけた施設等を描き込んでいく。それまで通ってきた集落とは比べること事態莫迦らしいほど、ラーニャは要塞化されていた。

 ティアは順調に偵察を進め、やがて陽が落ちた。



 ――嫌ぁっ!

 唐突に、ティアから叫び声が念話で届く。


 ――どうしたの!? ティア、返事してっ!

 アービィが念話で答えるが、ティアからの返答はない。


 ――バードン!

 その一言が伝わり、ティアからの念話が途切れた。


 ただならぬ気配に、アービィが瞬時に獣化する。

 無言でルティとバードンがその背に飛び乗り、巨狼が地を蹴った。


 ――エンドラーズ様、ピラムのみんなをよろしくお願いします! ティアを連れてきますっ!

 遠ざかるアービィから念話が叩き付けられた。


 ――お任せあれっ! 少し離れた場所にてっ!

 事態を悟ったエンドラーズから、アービィを安心させようとしている思念が返された。



 巨狼はティアの気配を探りながら、ラーニャの集落を駆けた。

 何事かと家屋から顔を出した最北の生者たちが、禍々しい気配に気圧されてその場に尻餅を付く。


 やがて、実体化し、何かを掻き抱き、地面に蹲るラミアの姿が見えた。


「アービィ、あれっ!」

 ルティの叫びに呼応した巨狼が大きく跳躍し、ティアの真横に降り立った。そのときには正面にバードン、背後を守るようにルティがティアに寄り添う。


「ティア!

 どうしたっ!

 答えろっ!

 ティ――っ!?」

 バードンがティアの肩を掴んで引き起こし、叫び、そして息を呑んだ。


 石の塊がティアの腕から重い音を立てて零れ落ち、ティアの手が力なく垂れ下がる。

 その胸元には、夥しい流血の中に鈍く光る短剣が深々と突き刺さっていた。


「ティアっ!」

 バードンとルティの叫びが重なり、巨狼の唸りがそれに被った。


「あ、ヘマしちゃった……

 ごめんなさい、心配掛けちゃった……ね」

 血の気の失せた顔で、ティアが薄く目を開けバードンに言った。


「何があった!?

 いや、もう喋るな!

 狼、撤収だ!」

 今までに見たことがないほど狼狽したバードンが叫ぶ。

 ルティが『快癒』の詠唱を開始したとき、微かに聞き覚えのある声が響いた。



「逃すか、南大陸の犬ども」

 突然社の中から巨体が現れ、ルティに向かって突進し、勢いを殺すことなく剣を振り下ろした。


 ルティは咄嗟に体を入れ替え剣をかわすが、『快癒』の詠唱は強制的に中断させられてしまった。

 同時にティアが咳込み、大量の血を吐いた。バードンが必死の形相で呼びかけるが、ティアの意識は闇に墜ちて行った。

 バードンの喉から、言葉にならない叫びが迸った。


 ティアの身体から急速に熱が失われていくのを感じた巨狼が、尚もルティに突っかける偉丈夫に全力のタックルを敢行した。

 家屋の壁をぶち抜いて吹き飛ばされた偉丈夫が、立ちこめる土埃の中から立ち上がる。一気に間合いを詰めた偉丈夫が繰り出す剣の突きを、巨狼はその額で真正面から受け止めた。甲高い金属の破断音を残し、偉丈夫の剣が折れ飛び、その表情に恐怖と焦りが浮き上がった。

 その背後から、これも聞き覚えのある女の叫びが偉丈夫を叱咤した。


「ウェンディロフ、あなたの力を見せてみなさい!

 あなたから名誉も誇りも、地位も、命も、何もかも奪った、私を裏切った勇者に、怨みの力を叩き付けてやりなさい!」

 傲然と胸を反らすニムファの言葉に後押しされ、ウェンディロフが雄叫びを上げ、巨狼に掴み掛かった。


 ――あなた方は、何故!?

 ウェンディロフの突進をかわしながら、戸惑う巨狼から念話が漏れた。



「嫌ぁっ!?

 なんでっ!?

 どうしてっ!?」

 突然ルティの悲鳴ともつかぬ叫びが、夜の大気を引き裂いた。


 ティアに再度『快癒』を行使しようと、態勢を立て直そうとしたルティは、足下に転がっていたティアが抱いていた石の塊に足を取られてしまった。 痛みを堪えて立ち上がろうとしたルティの視界に、それが何であるかよく分かる角度で石の塊が入り込んだ。

 切羽詰まった状況であるにも拘わらず、否応なしにそれが何であるか認めてしまったルティの喉は、こみ上げる悲鳴を止めることはできなかったのだった。


 ルティに懐いていた少女が、恐怖と絶望の表情のまま、石と化していた。

 華奢な身体は、どこを眺めても見つからない。石像に鈍器を力任せに叩き付けたらこうなるだろうと思われる破片が、そこら中に散らばっていた。ティアに『快癒』を掛けなければと思う心と裏腹に、ルティの身体はいうことを聞かなくなっている。

 ルティは、石と化した少女の首を抱いて、その場に崩れ落ちた。


「穢らわしい北の民のクソ餓鬼が、百万匹死のうが石になろうが知ったことか!

 なんだ、そんなに大事に抱えおって?

 貴様等の飼い犬か!?

 ならば、貴様等も後を追わせてやろう!

 この不死の力を持ってすれば、石を砕くなど雑作もないことよ!」

 一旦巨狼から距離を取ったウェンディロフが、叫びながら飛びかかる。


 ウェンディロフを受け止めた巨狼は、その勢いでルティが抱えた物を見てしまった。

 その瞬間。

 巨狼の目が狂気に染まり、突っ込んできたウェンディロフの腰を銜える。そのまま頭を大きく振りかぶり、ウェンディロフの巨体を大地に力一杯叩き付けた。バウンドしてきたウェンディロフを前脚で押さえつけ、上方に向かっていた運動エネルギーを強制的に身体に封じ込め、もう一度大地に向けて叩き付ける。腰から背中、そして後頭部を地面に痛打したウェンディロフの身体は、意志に反して再度跳ね起きようとした。

 巨狼は、跳ね起きてきたウェンディロフの頭を巨大な口に収めると、両前脚でその身体を抑えつけたまま、自身の上体を大きく、力の限りに反り返らせる。


 肉が挽き千切れる鈍い音が響き、ウェンディロフの身体は、肩の直下から二つに分断された。 胸から下の身体が瞬時に灰化し、巨狼の口からは唾液にまみれた灰の塊が吐き出される。まだ身体の形状を留める灰の塊を、巨狼が踏みにじりながら詠唱した『暴風』が吹き散らした。

 ラシアス王国贈侯爵ウェンディロフ・ラティフォン・ドン・テネサリムは、痕跡すら残さずこの世から消滅した。



 怒りが治まらない巨狼の、狂気に染め上げられた両目がニムファを捉える。

 恐怖のあまり、腰を落として後退るニムファは、切り札であるコッカトリスを呼び出した。

 化鳥の叫びのような鳴き声を上げ、五頭のコッカトリスがニムファの声に呼応する。


「こいつらを、石にしてしまいなさいっ!」

 ニムファの勝ち誇ったような声が響く。


 しかし、姿を現したコッカトリスを、巨狼が睨み据えた。

 コッカトリスの本能が、巨狼に対する恐怖を湧き上がらせ、その動きを封じていた。その臆病風は、その次に用意されている本能、即ち生存本能をも封じ込めてしまった。もし、その本能を掻き立てることができたなら、五頭の合成魔獣は生き延びる可能性があるかもしれなかった。

 しかし、恐怖にすくんだ身体は動くことはなく、ニムファから発せられた追い打ちの命令が、コッカトリスの命運を決することになった。



 バードンは、自身の身を切り刻むような焦燥感に灼かれていた。

 ティアの身体から急速に体温が消えていく。取り乱したルティに、正確な呪文の詠唱は望めない。何よりバードンは治癒系呪文を持っていない。

 このままではティアの命は、消えてしまう。


 確かに戦闘で喪われた命は、水のレベル4『蘇生』で呼び戻すことは可能だ。しかし、チャンスは一度きり。失敗すれば、二度と蘇生は適わない。命が身体を離れて時間が経てば経つほど、成功率は下がる一方だ。全ての呪文を完全に修めたエンドラーズを呼び寄せるにも、そこへ戻るにも、ピラムの民の護衛として一旦後方に下がらせているため距離がありすぎた。

 一刻も早く目の前の障害を消し去り、ルティが呪文に集中できる状況を作り出さなくては、ティアを永遠に喪うことになりかねない。



 巨狼が地を蹴った瞬間、知性などないはずのコッカトリスの脳裏に、死が認識されていた。

 瞬く間に合成魔獣の喉を噛み裂いた巨狼が、ニムファの前に立ちはだかる。後ずさりしながらニムファが罵声を浴びせるが、巨狼は狂気に染まった目で見下ろしていた。


 ニムファの心が、張り裂けた。

 恐怖と絶望を通り過ぎたところには、理不尽な我が儘が、欲望が、本性が剥き出しになっていた。


「薄汚い、人狼がっ!

 私の前に立つなぁっ!

 私は、ラシアス女王なる、ぞっ!

 貴様など、私が呼び寄せた、勇者などではないっ!

 何故、何故、何故っ!

 何故、皆が私の、邪魔をするっ!

 私は、女王なるぞっ!」

 まるで、自分の思い通りにならない子供が駄々をこねるかのように、ニムファは手足をばたつかせ、口汚く眼前の巨狼に罵りのありったけを浴びせかけた。


「皆、私のいう通りにしてるだけでいいんだっ!

 何で思い通りにしてくれないっ!

 何で貴様は私のものにならないんだっ!

 全部、全部、私のものにっ!

 私のものにならないものなんか、全部壊れてしまえっ!

 死んでしまえっ!

 壊してっ!

 その薄ら穢い北の民のクソ餓鬼みたいにっ!

 殺してや――」

 ――世界は! 人間は! あなたの玩具じゃないっ!

 巨狼から横っ面をはり倒すような念話が突き刺さる。

 底抜けにお人好しな『アービィ』が、人を憎むという感情をどこかに落としてきたような『アービィ』が、初めて怒りを、殺意を、憎しみを露わにした。


 巨狼が鼻筋をひきつらせるように立て、低い唸りを喉の奥で鳴らした。

 短く息を吸い込むような短い悲鳴を上げ、ニムファは這い蹲ったまま社の扉を引き開け、中に転がり込んだ。ニムファはグレシオフィ以外の存在に、初めて気圧され、畏怖し、恐怖した。僅かに残る本能が、逃げろと命じる。全てをぶち壊しにする者から、全てを邪魔する者から、全てを奪い去る者から、逃げろ。捲土重来を期すため、逃げろ。

 復讐。その意志だけを抱きしめて、ニムファは社の壁に描かれた神と魔法陣に飛び込んだ。


 ニムファの姿が、禍々しい羊の頭を持つ神が背負う魔法陣に吸い込まれると同時に、白い光が魔法陣から真っ直ぐに迸った。

 アービィがビースマックで浴び、暫くの間狼が姿を消すことになった光と同じものだ。それが、床から垂直にではなく、壁から水平に伸びる。そのとき魔法陣から伸びる光の同一線上に、巨狼とルティが偶然並んでいた。 魔法陣が光を放つ寸前、巨狼がルティを銜えて跳んだ。その拍子にルティの腕から少女の首が零れ落ち、光の帯が少女の首を包み込む。

 暴風に吹き晒された砂山のように少女の顔が崩れ、消滅した。



「なんてことを……

 なんてことをっ!」

 ルティの怒りが裂けた。


 着地した巨狼の口を振り払い、魔法陣に向かって突進する。

 もう一度光が襲ってくるかもしれないなど、このときルティの脳裏からは完全に消え失せていた。ティアを傷付け、少女を殺した相手は、八つ裂きにしても、切り刻んでも許せない。剣に手を掛け、気合一閃、魔法陣の描かれた壁に向かって抜刀し、一気に振り下ろす。真下に打ち下ろし、左から右へと薙ぐ。どれほど剣を振るったか、壁が崩れ始め、音を立てて崩落するまでルティの斬撃は止まらなかった。

 剣を振り下ろす対象が消え失せ、ルティはその場に崩れ落ちた。



「ルティ殿っ!

 ルティ殿っ!

 お願いでございますっ!

 ティアを、ティアをっ!」

 地面のへたり込み、肩で息をするルティに、バードンの悲痛な叫びが届いた。


 血塗れのティアを掻き抱き、あらん限りの声を絞ってバードンはティアに呼びかけ続けていた。

 自らも血塗れになることを厭わず、バードンはティアを抱きしめている。少しでも力を緩めれば、そのままティアの体が消滅してしまうとでも思っているかのようだった。既にティアは息をしていない。心臓も鼓動を止めている。一刻も早く、一秒でも早く『蘇生』を掛け、魂を繋ぎとめなければ、ティアは本当に冥界へ旅立ってしまう。

 バードンの叫びにルティが覚醒した。


「バードンさん、ティアから離れて。

 短剣を抜いてあげて。

 機会は一度きり。

 あたしの、命を注ぎ込むつもりで。」

 ルティは、意を決して言った。


 バードンがティアを大地に横たえ、深々と胸に食い込んだ短剣を引き抜いてから一歩後ろに下がる。

 巨狼は、不死者や生者が突入してきたときに備え、少し離れて位置で周囲の気配を探っていた。


「ティア、今あなたを失いたくない。

 いえ、今じゃないわ、永遠によ。

 あたしたちを見送るって約束、あたしたちの子供を、子孫を見守るって約束は、絶対に破らせない。

 ……

 帰ってらっしゃい、ティア!」

 長い呪文の一言ずつに、自分の命を擦り込むような集中力で詠唱し、ルティは『蘇生』を唱えた。

 ティアを青い光が包み込み、やがてゆっくりと明滅が始まる。

 永遠と思えるような時間が瞬く間に流れ、光が徐々にティアに吸い込まれていく。ティアの瞼が、僅かに動いたように見えた。


 間髪を入れず、ルティは『快癒』を唱え、呪文使用回数の限界まで、重ね掛けした。

 ティアの心臓が力強く鼓動を始め、口から息が吸い込まれる。胸にあった傷は、跡形もなくなっていた。

 やがて、深い眠りから目覚めるようにティアは目を開け、上体を起こした。


「お帰り、ティア」

 ルティが一言だけ言った。


「ただいま、みんな。

 ――ちょっと、バードン!

 何、何!?

 どうしたのよ!?」

 恥ずかしそうにティアが答え、辺りを見回して驚いた声を上げる。


 家族を失って以来、人前で涙を見せなかった人狼狩りが、声を上げて泣いていた。


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