第93話
アービィたちの目的であるシャーラ奪回が成れば、最北の地までは指呼の距離と言って良い。
元々は中央域の勢力圏内にあったラーニャの集落があるとはいえ、現時点でそこは最北の地の出城という位置づけになっている。そうである以上、シャーラに陣を構えれば、最北の民の主力と激突する可能性もある。場合によっては、和平交渉の糸口を掴めるかも知れないいし、大きな会戦が生起する可能性も考えられた。
南北連合は南大陸という巨大な後背地があり、単純に数万の兵を食わせるということであれば造作もない。ターバまでの舗装道路と河川による補給路が完成しつつある現在、シャーラヘ補給線を延ばすことは、簡単とはいえないが不可能ではなくなっている。中央街道を確保するだけで、精鋭部隊をシャーラに展開することは可能だ。
さらにターバ以北の河川流域を制圧できれば、シャーラの維持態勢は盤石になる。
対して最北の民は、このままではじり貧だ。
民の八割近くが不死者に転生し、食料の必要量が減少したとはいえ、生産体制も貧弱になっている。生者は交代制であれば、効率は落ちるが丸一日稼働することは可能だ。だが、破壊衝動が行動原理である不死者に、食糧増産などできようはずもない。
そして、陽光下で灰化するという決定的な弱点を持つ不死者だけでは、攻勢をかけるにも防御に徹するにも、簡単に殲滅される危険性が高い。夜間に攻勢を掛けようにも、簡易な結界でも敷かれてしまえば、不死者だけでは手出しができない。そして、日中に拠点を焼き払われてしまえば、それまでだ。
どうしても生者を食わせておかなければ、戦にならないのだった。
しかし、最北の地には、グレシオフィに従わない生者も多い。
両者間での耕作地の奪い合いは、熾烈を極めている。いくら広大な耕作地を確保しようと、防御の手が足りない現状では、徐々に耕作地を侵蝕されてしまっていた。せっかく守り通した耕作地も、農耕に従事する頭数も足りないため、荒廃する一方だ。
不死者の脅威に押される一方だった反抗勢力は、ここへ来て息を吹き返しつつあった。
これらの情報を南北連合はまだ掴んでいなかったが、ピラムの民から最北の地の勢力図については、ある程度の情報を得ている。アービィたちが派手に動く目的は、河川流域に展開しているであろう敵を北方に釣り上げると同時に、最北の地の反抗勢力の目を向けさせるという狙いもあった。シャーラを確保できれば最北の地の情報も入手しやすくなる。逆に最北の地でグレシオフィに抵抗する勢力も、南北連合の動向に気付きやすくなるだろう。
巧くいけば、反抗勢力と手を結び、最北の蛮族に和平交渉の席に着くよう圧力を掛けられるかもしれなかった。
司令部は、ターバ解放の際に捕らえていた捕虜たちと面談し、徹底的に話し合ったうえで取引を持ちかけていた。
則ち、戦乱終結後の処遇でターバ侵略の戦争犯罪に問わないことを条件に、最北の地に残る生者たちのうち、グレシオフィに従う者たちの離反を煽動するように持ちかけたのだった。全ての捕虜が同意したわけではないが、半数にあたる六人の捕虜が最北の地へと戻ることになった。アービィたちに同行すれば道中の安全は確保されるのだろうが、それでは最北の蛮族に捕虜立ちは寝返ったと公表するだけでしかない。そのため、彼らはアービィたちから付かず離れずの距離を保ち、シャーラを落している間に一気に追い越し、最北の地へ戻ることになっている。
残りの捕虜たちも戦乱の終結を望む気持ちに変わりはないが、様々な理由から最北の生者を煽動することに同意はしなかった。
彼らにも和平交渉の一環と言うことは理解できるが、南大陸の走狗となって仲間たちを裏切るという後ろめたさを感じていたのだった。最北の民の悲願を達成するため、自ら太陽に背を向け、人間としての喜びや快楽の全てと決別した仲間たちの心情を思うと、それが両大陸に平和をもたらすためと解っていても、生者を煽動するために最北の地へ戻る気にはなれなかった。
彼らは、最北の地へ向かった仲間たちと、最北の地に残る仲間たちの無事を、ただ願うばかりの無力な存在になっていた。
司令部は、捕虜全てに無理強いはしていない。
彼らの心情を思い測った部分もあったが、最北の地へ着くなり裏切られても困るからだ。南北連合にとって裏切りであっても、彼らにしてみれば元に戻るだけのことであり、責める謂われはないのだが、河川流域制圧の情報が漏れることは歓迎できることではない。ターバ解放の際に思い知らされた、勢力圏外での補給の困難さを解消するための作戦を、わざわざ困難にする莫迦はいない。現状ではシャーラが攻勢臨界点であり、最北の地を衝くためには河川流域の確保は必要絶対条件だった。司令部は期待と不安に苛まれながらも、最北の地へ送り出した捕虜たちを信じるしかない。
その中には、ルティたちに懐いていた少女も含まれていた。
「ねぇ、ちょっとは手加減した方が良かったんじゃないの?
人狼はやっぱり危険だって、思われちゃうよ?」
ターバを発って暫くしてから、ルティがアービィに話しかけた。
「それは考えなくはなかったよ。
でもさ、バードンさん一人で、同時に二ヶ所以上は見られないから。
マ教だけに任せっぱなしってわけにもいかないし、国がやるべき事業だよ、安全保障は。
そうなったら実務は常備軍がやることになるでしょ。
僕が手加減して人狼の力を見誤ったまま、全力で挑んでくる人狼と戦ったらどうなると思う?
実際、危険なんだし、人狼って」
そうなったら、死しかない。
アービィは冷静だった。
これからも機会があれば、獣化した状態で将兵の訓練に付き合うつもりでいる。自身は人の間に溶け込んで生きるつもりだが、当然それを望まない人狼もいるはずだ。その人狼が人との接触を断ち、野生動物として暮らすなら何の問題もない。
山に迷い込んだ人間が野生動物に喰われるなど、当人の不注意を指摘されることはあっても、その動物を討伐し狩り尽くそうとまでは誰も考えない。動物が意識して人間を食うのではなく、偶々目の前に狩り易い獲物がいたという認識でしかないからだ。
だが、人間を喰らおうと、人の姿で人間社会に忍び込もうとするならば、討伐の対象だ。
人狼にとって人間とは、非力で動きが鈍い狩り易い獲物でしかない。
しかし、アービィだけが特別な食性を持っているのではなく、どの人狼も人間に準じた食性を持っている。狼としての本能は獣肉を好ませているが、基本的には雑食性だ。普通に働きカネを得て、食料を購入し食事をとることで、健康に悪影響が出ることはない。人間という食材は、人狼にとって必要不可欠な物ではなかった。人間さえ喰らわないのであれば、人狼が人間社会に溶け込むうえで不都合はない。
だが、利己的で、徹底した個人主義の人狼にとって、他との協調など考えるまでもなく面倒すぎて願い下げだ。
職を得て、収入を得るには、少なからず他との協調が必要だ。
例え事業を興し、材料の調達から加工まで全てを一人でこなしたとしても、販売は他との交流なしには成立しない。店舗の運営を一人で行うことは可能だが、客がいなくては経営が成り立たない。家や店舗を借りるにも、他者との交わりは不可欠だ。それを避けて材料から何から独力で行おうにも、道具の作成からなどという遠大な手間を一般的な人狼のように短絡的、享楽的な性格の動物が惜しまず掛けるとも思えなかった。
人狼が人間社会に溶け込むには、他者との交わりは避けて通れないことだった。
最北の蛮族との争いが終わったら、全精霊神殿から知性を有する魔獣に対して呼び掛けをする予定になっている。
魔獣としての素性を隠すことなく人と共に生きるか、野生に帰るかを選び、人と共に暮らすのであれば、自立支援を惜しまないと。もちろん、素性を隠したいのであれば、それも構わない。いずれの道を選ぶにせよ、人間に害を加えないことは大前提だ。自然に帰るなら、互いに不干渉を貫けばよい。
野生の掟に従い生きる中で、テリトリーに偶然迷い込んだ人間を狩ることまでは、推奨できることではないが止められることでもない。
度が過ぎれば討伐の対象になることは、互いの生存を賭けた動物同士の生存競争として当たり前の現象でしかなかった。そうなったときため、人狼の動きの特性やスピードを知っておくことは必要なことだ。必ずしも目の前の敵を倒すことだけが、戦いではない。逃走も、立派な戦術戦略の一つだった。
不安げな表情を隠せないルティに、アービィはそう説明した。
「あんたがそう言うなら、あたしはいいよ。
でも、気を付けてね」
諦めたように言うが、ルティの心配が尽きるということはなかった。
「俺は、今まで数え切れないほど、人狼を狩ってきた。
それも、獣化したものばかりをだ。
不完全な獣化しかできない人狼など、チーズでも切るかのようだった。
完全獣化した人狼も、昨日お前を斬ったときの斬撃で斬れない者はいなかった。
お前は、何者だ?」
もちろんバードンは、昨日の試し斬りでアービィを殺そうとは思っていなかった。
しかし、全力で斬らなければ、アービィの毛皮に刃を通せないと直感が告げていた。そして、全力であっても、心臓まで刃を通せないということも。
アービィという人狼は、バードンの知る人狼とは全く別の生き物だった。
「ちょっと、バードン!
どういうこと!?
昨日、アービィを斬り殺すつもりでやったの!?」
バードンの言葉の意味に気付いたティアが、色を成してバードンに突っかかった。
既にルティの目には、冷たい色が浮かんでいる。
「大丈夫だよ、二人とも。
バードンさんから、殺気なんか感じなかったでしょ?
あれくらいしなきゃ純銀製の剣とか、祝福法儀式済みの剣の威力は解らないって。
それに二人とも、昨日のあのとき、僕が危ないって感じた?」
誰よりも、バードンに殺意がないことを理解していたアービィが取り成す。
「確かにそうだけどさ。
あの血の出方は心臓に悪かったんだから。
意図は理解するけど、お願い、だから、もうあんなことは、しないって、約束して」
半泣きになりながらも、辛うじて冷静を保ったルティがアービィに懇願する。
「大変申し訳ございませんでした、ルティ殿。
決して狼を殺そうなど、そのような考えはございません。
どうか、お怒りをお解きください」
さすがにやり過ぎだったかと思ったバードンは、ルティに向かって素直に頭を下げた。
落ち着きを取り戻したルティが、照れ臭そうに応答する。
確かに、アービィの言うとおり、人狼の力を見誤らせるような手加減は不要だった。しかし、バードンの全力ですら斬り裂けないなど、却って恐怖を煽ってしまったのではないかという不安もあった。
「もし、またこういうことがあったとき、アービィにもしものことがあったら承知しないからね。
お願いだから、怖いことだけはしないで、二人とも」
ティアもそのときの光景を思い出し、涙目になっていた。
バードンもアービィも、ティアにとってどちらも大切な存在だ。こんなことで両方を一気に失うなんて、ティアには耐えられない。
「ごめんね、今度は気を付けるよ」
「済まなかった」
二人の男が頭を下げる。
アービィとルティの面前で照れ臭いのか、バードンは手短に一言謝っただけだ。
ティアはふくれっ面のまま頷くが、まだ言い足りないといった表情だった。
「そろそろ、頃合いでございますかな?」
話題を変えるように、大げさな仕草で辺りを窺ったエンドラーズが言った。
「さようでございますな。
もっとも、この先に南大陸の民間人はおりません。
気にすることもありますまい」
バードンが答え、アービィに目配せした。
頷いたアービィが繁みに消え、ややあってから多数の枝をへし折る音が周囲に響く。
繁みを掻き分け、巨狼が姿を現した。ここまでアービィとバードン、そして四人の神官で曳いてきた荷車を巨狼に繋ぐ。
食料や聖水、回復薬と触媒、そして酒といった物資を満載した荷車を、巨狼は軽々と曳きはじめた。
――乗っちゃってください。
暫く曳いて、荷車の重さを確かめた巨狼から、それぞれの脳に直接念話が届いた。
一行は、馬車よりも軽快な速度で、シャーラを目指し進み始めた。
司令部は捕虜たちと平行してピラムの民からも代表を募り、グレシオフィと敵対する集落へ使者として送り出すことに決定していた。
かつて互いの血を流し合った集落同士とはいえ、最北の地に不死者が蔓延ることは許しがたいと考える者同士だ。交渉次第では、共に肩を並べることも可能なのではないかと、司令部では期待を持たれている。しかし、グレシオフィたちに対する敵愾心はどちらも甲乙付け難いが、もともと狭い範囲で農耕地の奪い合いを繰り返してきた間柄でもあった。交渉次第ということは、逆に言えば敵を増やすことにもなりかねない。ピラムの民がグレシオフィたちの手先に成ったと思われる可能性もあるが、南大陸の走狗として問答無用で討たれてしまうかも知れない。だが、各自が連携を取れない状態でバラバラに戦っていたのでは、各個撃破をしてくれというようなものだった。
ピラムの民は、危険を承知で困難な任務に就くことを了承していた。
もちろん、ピラムの民が純粋な厚意から、この任務に志願してきたわけではない。
グレシオフィが率いる不死者や、それに付き従う生者たち憎しの想いも当然だが、戦後処理で他の部族たちに対して少しでも優位に立ちたいという思惑があった。南大陸への移住権まで転がり込んでくれば言うことなしだが、地味の肥えた土地を優先的に専位できるだけでも良い。ターバに滞在するうちに、ピラムの民は交易で人々が富めることを知っていた。これまでは集落内だけでの自給自足が常識だったが、分業制の効率の良さに気付いたのだった。それが平和のうちでなくては、成立しないことにも、ピラムの民は気付いていた。
この任務を完遂すれば、南大陸の商人たちから一目置かれる存在になれる。同時に、最北の地での指導者の地位も手に入れることができると、ピラムの民は考えたのだった。
司令部としては、捕虜たちにしろピラムの民にしろ、過大な期待は抱いていない。
むしろ、駄目で元々、敵に混乱を生じさせることができれば上出来とみている。だからといって、今や敵地となった最北の地へ赴く者たちを、蔑ろにしようとは思わなかった。ターバ解放時の捕虜たちは脱走を装えば、敵を利用することも可能だが、ピラムの民は敵対勢力が周囲に多いため、単独行動では危険と判断されている。
命辛々逃げ延びてきた道を、再度歩むことになるのだ。
そのため、ピラムの民はアービィたちに対する補給部隊に随行させ、シャーラまでは護衛することになっている。
シャーラ奪回後はそこに一時滞在し、その後戦況を睨みつつ単独で最北の地に戻るか、アービィたちに随行するか、護衛部隊を別に同行させるか改めて検討することになっていた。
補給部隊の準備が整い次第、ターバを発つピラムの民たちは、残る者たちとのしばしの別れを惜しんでいた。
捕虜たちは、アービィ一行から半日行程程度の距離を保ちながら、最北の地を目指す予定だった。
司令部は当初、アービィたちにも捕虜の動向を知らせておくつもりでいた。しかし、アービィたちが捕虜たちに気を取られ行程に狂いが出ても困るし、ましてや危険を避けるため常時庇護下に置くような気遣いでもされたら、捕虜たちの立場が最北の蛮族に知られてしまう。アービィたちの存在は、あくまでも捕虜たちが野生の魔獣に襲われるなど、緊急時の救援程度に留めるというのが司令部の描いたシナリオだ。
そのため、敢えてアービィたちには、捕虜たちを最北の地に派遣することを知らせずにいた。
ターバを発って半日ほどは、予定通りの距離を保つため、捕虜たちは結界の外にある小さな森に身を潜めていた。
だが、昼前にアービィが獣化して荷車を曳き始めてしまったため、捕虜たちは大きく取り残されることになってしまった。司令部からは引き離されても無理して距離を詰める必要はないと言われてはいたが、取り残される不安感は常に漂っている。
「狼のお兄ちゃんと一緒じゃ駄目なの?」
ルティにことさら懐いていた少女が、不安そうな目で呟いた。
「ああ、駄目だ。
死にたくなければ、我々だけで行かなければならん。
あくまでも、我々はターバを脱走したのだ。
そうでなくては、裏切り者として、明日にでも討たれてしまうだろう。
街道を目立つことなく、南北連合の警備兵の目を掠めるようにして、脱走者の振りをしながら行かなければならんのだ」
年嵩の男が答えた。
彼は、この作戦に誰よりも先に志願した。
幾多の仲間を失い、不死者への転生を見送り、ターバの民が灰と化す光景も目の当たりにしていた。その後、ターバに戻ってきた灰と化した人々の身内が見せた、身体がよじ切れるのではないかと思わせるほどの慟哭が、彼に戦乱を終結させる決意を固めさせていた。
司令部からの要請を受け、捕虜たちを取りまとめ、最北の地へ向かう人選を彼は引き受けていた。
少女はルティに対して心を開いて以来、徐々に同胞たちとも会話をするようになっていた。
それまでの頑なな表情が消え、年頃の少女らしい素直さと幼さが戻り、周囲の大人たちに甘えるようにもなっている。大人たちはその変化を歓迎すべきことと理解しているが、同時に戦場では命取りになりかねない危険な兆候だとも危惧していた。今回の作戦に少女が志願した理由は、ひとえにルティたちの役に立ちたいということなのだが、周囲の大人たちは却って足手纏いになりかねないとして翻意を迫っていた。一つ間違えばかつての同胞と殺し合いになりかねない、危険な任務なのだ。それに、一度笑顔を取り戻した少女を、殺戮の世界へ連れ戻すことに誰もが賛同することはできなかった。だが、それが却って少女の頑なな心を呼び覚まし、頑として自分の主張を翻すことはなかった。
そして、ついに大人たちが折れ、少女は再び戦乱の巷へと足を踏み出していた。
「目を掠めながらって、食べ物はどうするの?
何も持ってきてないよ?」
少女は荷物の少なさから、食料が各自一日乃至二日分しか携行されていないことに気付いていた。
「そりゃぁ、そうだ。
我々は脱走したのだからな。
有り余るほどの食料を持っての、物見遊山というわけにはいかんだろう」
男が苦笑いとともに答えた。
食い伸ばせば三日分くらいの食料は持っている。
決意はしたが、やはり歳相応なのだと、少女を見ながら男は次の言葉を考える。
ターバ攻略へ向かう際には、充分な食料と水を携行していた。途中にある集落も、彼らの勢力圏内だった。そこでも充分な支援を受けられた。往路は少女の目から見れば、順調に見えていた。もちろん、余裕があるわけではない食料の備蓄を持ち出すことに関して、最北の地においても、途上の集落においてもそれなりの根回しや見返りといった苦労が伴っていた。
中にはあからさまに食料を出し渋り、荷車から食料他の物資を抜き取ろうとする集落さえあった。
心を閉ざし、周囲に壁を作っていた少女は、当然この顛末は知る機会がなかった。
大人たちも同胞の情けない姿を見せたくないという思いや、少女には食べる心配をさせたくないというささやかな親心のようなものがあり、極力少女の周りからトラブルを遠ざけていた。見るもの聞くものに心を動かされることが少なかった少女には、大人たちの心遣いは届いていなかった。
互いに心配掛けまいとする心遣いはすれ違い、ぎくしゃくした雰囲気のままターバ攻略に向かっていたのだった。
しかし、今回は何もかもが逆転している。進む方向、使命、携行する食料を始めとした物資の量、そして、パーティの感情や心の動き。
大人たちも少女も、互いを気遣うことに安心を感じていた。無理矢理心を押さえ込み、周囲に対しての『良い子』を演じる必要がなくなった少女は、往路で見せた大人びた雰囲気を捨てていた。我が儘で周囲を困らせることはしないが、歳相応に甘えるようになっている。大人たちも、それを好ましいものとして、手を焼きつつも目を細めていた。そんな少女を連れて行くことに反対意見を述べる者も、当然のように多かった。
しかし、少女が言った、私の変わり様を見ればみんなも考え直すかも、という言葉に反駁できる者はいなかった。
「じゃあ、どうするの?
この先はシャーラの手前まで、お兄ちゃんやお姉ちゃんの仲間の人たちしかいないんでしょ?
盗む、の?」
兵の目を掠めて、ということであれば、途中の集落で食料を入手することはできない。
狩りなどしていたら、アービィたちから引き離されてしまう。消去法に頼らずとも、導き出される答えは一つしかない。
しかし、そんなことをしてしまっては、今度は南北連合から追われかねない。
「そうだ。
その通り。
もっとも、何故かは知らないが、判りやすく、持ち出しやすいようになっているものだけだがな」
少女を安心させるように、周囲の大人たち全てが笑った。
釣られて少女も笑うが、わざと解り難く言われたことに頬を膨らませるが、そのまま噴き出してしまった。
恥ずかしさから顔を赤く染めた少女がこのうえなく愛しい存在に感じられ、大人たちは自らの責任の重さに改めて身震いした。
アービィたちは、シャーラの手前で二手に分かれた。
不死者の掃討を担当するアービィ、ルティ、ティア、バードンは、そのままシャーラに侵入した。結界の敷設を担当するエンドラーズと四人の神官は、シャーラを取り囲む基準点を決めるため、アービィたちと別れた場所で精霊との交感に入っている。
シャーラの防壁からおよそ一日行程の位置に結界を敷くのは、ターバ解放と同じ要領だ。この距離であれば、万が一外部からエンドラーズたちが襲撃されようと、巨狼が全力疾走すれば充分救援に間に合う。
それぞれが一個分隊程度の戦闘力を有する神官が四人と、その四人を足下にも寄せ付けないエンドラーズがいれば、それで充分だった。
アービィたちは、エンドラーズたちと同心円を描くように、敷設中の結界基準点に最も近い集落から制圧することにしていた。
結界が完成すれば、その中にいる不死者は全て灰化する。それぞれが勝手に動き回るより、相互支援が可能な距離にいた方が何かと都合がよいからでもある。アービィの念話と精霊神官の思念通話があれば、両者の意志の疎通に不都合もない。何よりも、糧秣の運搬をアービィたちに統一しておけば、エンドラーズたちは身軽に行動できるという利点があった。
さらには後追いの補給部隊も、二ヶ所に分散する必要がなくなり、効率を上げられるとともに危険を減らすことができる。
アービィたちは、不死者の掃討は日中に行うつもりでいた。
日中であれば拠点を焼き払うだけでよく、合成魔獣や生者との戦闘もやり易い。結界敷設の妨害は、不死者が活動できる夜間に集中すると予想されているためでもある。実際のところ、エンドラーズが盛り上がりきっているため、救援はほとんど必要ないだろうと思われていた。
下手に手出しをしようものなら、エンドラーズが獲物を取られたと暴れかねない。
シャーラを構成する最外郭の集落に侵入したアービィたちは、過去の戦訓から社や集会所から検索していた。
だが、社にも、集会所にも不死者の気配は認められず、それどころか民家などにも生者の気配すら感じられない。
「ルティ殿、これをご覧ください。
ティア、どう見る?」
生者が生活していたと見られる民家を調べたバードンが、その痕跡を同じく家屋を調べていたルティとティアに見せ、意見を聞いた。
「少なくとも、昨日今日のじゃないですね」
「食器に残った物の腐り具合というか、乾き方から見て、三日?
それ以上かな。
それにしても、慌てて出て行ったみたいね」
二人は痕跡から読みとれたことを話した。
その他にも、小麦粉などの食料は、全て持ち去られるか焼かれているか、水に浸されているかしている。
家屋までは破壊していないが、最北の蛮族は焦土作戦を展開していったようだった。おそらく、ターバの戦訓から無駄に不死者を灰化させるより、戦力の温存を選んだらしい。アービィたちの接近をもっと早く察知していたら、食料だけでなく、家屋なども破壊していったに違いない。しかし、通常の徒歩での移動より遥かに早い巨狼の健脚が、完璧な焦土作戦を阻んだのだった。
だが、最低でも食料の現地調達だけは阻もうという強烈な意志が、水を掛けたうえでぐしゃぐしゃに踏みにじられた小麦粉の袋から窺い知れた。
――何の臭いもしませんよ。人も、不死者も、合成魔獣も。
屋外で警戒に当たっていた巨狼から、念話が届いた。
「どうやら、我々の動きをどこかで察知したらしいな」
屋外に出てきたバードンが、不機嫌そうに吐き捨てた。
「どこで、ですかね?
ターバに監視でも付いていた、とか?
まさか……」
ルティは不安げな表情で言った。
「それはないわ。
アービィの脚に追い付けるはずないもの。
ターバを見張られてたかもしれないけど、人間の脚じゃ追い越すなんて無理
ましてや、捕虜たちが脱走なんて、もっと無理よ」
ティアがルティの不安を解きほぐすように言う。
――街道全部が制圧できているわけじゃないからね。どこかに監視の拠点があってもおかしくないよ。最前線なんだもんね、ここは。でも……
巨狼の念話がティアの意見を後押しした。
「そうだ。
奴らが反撃密度を上げるために、シャーラを放棄したというのなら良い。
だが、浮いた戦力を河川流域に投入しようとしているのなら、これは由々しき事態だ」
バードンは、アービィの懸念が解っていた。
もともと囮の性格も有しているシャーラ奪回作戦の一端が、崩れた可能性は否定できない。
「どうしよう、戻る?」
その危険性に気付いたティアが、バードンを見上げながら言った。
「論外だな。
我々は河川流域制圧の詳細は知らん。
慌てて戻ったところで、間に合わない可能性の方が高い。
それよりも、今は我々の使命を果たすべきだ」
バードンは一切の迷いを見せずに言い切った。
――敵はそれを狙っているのかもね。ここで僕たちが引き返せば、またシャーラに戻ってくるんじゃない?
アービィもバードンと同意見だ。
「あたしたちだけなら、それほど食料もいらないし。
とにかく、シャーラを確保しちゃいましょう」
不安な気持ちを残したまま、ルティもバードンに同調した。
――エンドラーズ様たちは大丈夫かな。結界の妨害に全力を向けたってことはないかな?
ふと気付いたアービィが、念話を漏らした。
「大丈夫だろう、神官殿たちは。
もし、危なければ、お前に思念が届いているはずだ」
バードンは、エンドラーズたちを全く心配していない。
神官の戦闘力は、ターバ解放時に目の当たりにしていた。それが四人束になっても適わないエンドラーズがいるのだ。アービィほどではないにしろ、そうそう危機に陥るとは思えなかった。
――そちらも手持ち無沙汰でございますな?
巨狼の念話を拾っていたエンドラーズから、思念がアービィに届いた。
――エンドラーズ様、そちらも何もないのですか?
巨狼が念話を返す。
――まるで、何も。この分であれば、予定の半分で終わりそうでございますな。
エンドラーズの思念が巨狼に返された。
――エンドラーズ様、あたしたちが別々に動く利点はないようです。合流しませんか?
唐突にルティが念話と思念の会話に割り込んだ。
――おや、ルティ殿でございますかな? よくぞ会得されましたな。では、合流すると致しましょうか。我らはこの場で皆様をお待ちすればよろしゅうございますか、ルティ殿?
平静を装っていたが、エンドラーズの思念に驚きが含まれていた。
「じゃあ、みんな、行こうか。
エンドラーズ様たちと合流しましょう」
ルティがバードンとティアに振り向いて言う。
「――!?
ルティ殿、今、エンドラーズ様とお話しされていたのですか!?
いつ、どこで、その業を!?」
バードンが驚愕の表情で聞いた。
ティアは割り込まなかったが、魔獣の特性として念話が使える。
アービィとエンドラーズの会話は聞いていたが、特に意見を述べる必要もなかったので割り込まなかっただけだ。ルティが思念を向ければ念話と会話ができることを、ビースマック騒乱のときに知っていたので驚きはしなかった。
しかし、バードンは念話も思念も、どちらも特別な者しか使えないものと認識していた。念話は魔獣の特性のようなものであり、思念は精霊の専売特許のようなものだという認識だったため、所謂一般人のルティが思念を扱えることに腰を抜かさんばかりに驚いていた。マ教が長年かけて会得しようとして、ついに諦めた業だったからだ。
「ええ、いつの間にか。
かなり前のことなんですけど、離れた場所にいたアービィが念話で話しかけてきたときに、頭の中で答えていたら通じていたんです」
困ったように顔をしてルティが答えた。
「あなたは、一体……
狼といい、あなたのその思念といい……
私には解らないことばかりでございますな」
頭を横に振りながら、バードンは呻くように言葉を押し出した。
「どいういうこと、バードン?
誰でもとは言わないけど、そんなに驚くようなことなの?」
不思議そうにティアがバードンに聞いた。
「そうだ。
驚くようなことだ。
念話は、お前たち魔獣しか使えん。
思念を使えるのは、精霊神殿で過酷な修行を積んだ者だけだ。
ルティ殿が、そのような修行を積んだとは、聞いておらん。
それが、いきなり……
あり得ん。
我々マ教も思念を使えるようになるために、どれほど苦労してきたことか。
だが、精霊の加護を受けていない我々は、ついに使えるようになれなかった」
バードンは首を横に振りながら、エンドラーズたちとの集合地点へと歩き始めた。
ラシアスのアルギール城は、緊迫した空気に包まれていた。
宰相コリンボーサの前には、ニムファに付き従っていた侍女の首が二つ転がっている。つい先程まで生者だった侍女の身体は、地の泥濘の中で小刻みな痙攣を繰り返していた。コリンボーサの執務室は、むせかえるような、吐き気を催す血の臭いが充満している。彼の横では無表情のまま血刀を提げた影の者が、侍女の死体を見下ろしていた。
やがて、意を決したコリンボーサの視線を受け、影の者は音もなく天井裏へと消えていった。
この七日間というもの、コリンボーサはニムファが発した性的に成熟した処女十人を召し出せという命令を、のらりくらりとかわし続けていた。
ニムファからの度重なる催促も、侍女たちからの陰湿な嫌がらせも、風にそよぐ柳のように受け流した。政争に付き物の権謀術数の渦中にいた彼にとって、ニムファや侍女たちをあしらうなど朝飯前といって良い。巨悪に敢然と立ち向う勇気は持ち合わせていなかったが、絶対権力者のご機嫌を取りつつ自分の良いように事態を操作する能力が、彼は意識していなかったが初めて人々のために役立っていた。
コリンボーサは、不死者への転生も、盲従も拒絶していたが、かといって主君たる女王を討つ決意はできなかった。
彼の頭の中には保身が渦巻いている。もし、ニムファを討てば王位簒奪と民が騒ぎ、下手をすれば国が崩壊する。それを防ぐにはニムファが不死者であることを自身の口から証明させなければならないが、民衆の眼前に不死者を無抵抗の状態で引き出せるとは思えない。灰となったニムファの残骸を示したところで、民には到底信じられまい。いきおい、コリンボーサによる王位簒奪、正義のないクーデターと看做されるのが落ちだ。昨年ビースマックで勃発したクーデター騒ぎは、民衆の記憶に新しい。
政争の延長線上のように、女王を宥め空かし、事実上の幽閉時様態に持ち込むことが、彼にできる精一杯のことだった。
しかし、この間に火の神官は、アルギール城近迷宮に結界を張り終えていた。
そして、いよいよ女王を封じ込めるため、ニムファの居室前の廊下に結界を敷こうとしていたところを、生者だった侍女に気取られてしまった。あきらかに女王居室を隔絶しようとしている線引きは、結界の知識を有さない侍女からみても、悪意がある障害物としか見えなかった。もちろん、ニムファに報告が上がり、夜半にコリンボーサを呼び出したが、その時点で彼は姿を隠していた。陽が昇り、活動可能な『敵』が生者の侍女二人となってから、彼は執務室に戻り、平然と政務を開始した。
激昂した侍女二人が彼の執務室の扉を乱暴に開け、突き殺さんばかりの勢いで雪崩込んできたのは、執務開始から数刻と経たない頃だった。
「宰相、どういうつもりか、説明なさい!」
「陛下のお部屋前の廊下に、何をしようというの!?
事と次第によっては、大変なことになるわよ!」
コリンボーサは侍女の問いには答えず、ただ冷たく見据えるだけだ。
黙って見ているだけで、何の反応も示さないコリンボーサに侍女たちは益々激昂した。
王宮勤め、それも女王付きとは思えないほどの下品な言葉を並べ立て、目を吊り上げてコリンボーサを罵倒する。かつて、城に出仕した際に見せていた美しさや勤勉さ、誠実さの欠片も残らないほどの変化だ。それでも彼は、執務こそ中断させているが、侍女たちを何か音の出る壊れた玩具か何かといったふうに見ているだけだった。
「それが貴様の答えか、宰相!?」
「我らに聞く口はないと!?
陛下の命に従わぬと!?
よろしい、ならば貴様を誅し、陛下に忠実な者を宰相に据えるのみ!
覚悟は良いな!?」
口調まで変わった侍女たちは、懐に呑んでいた短剣を取り出すと、コリンボーサに向かって一歩踏み出した。
だが、彼女たちが二歩目を踏み出すことはなかった。
音もなく黒い影が彼女たちの背後に降り立った瞬間、重く固い物が床に落ちる音の後、盛大な血飛沫を噴き上げながら床に崩れ落ちた。その光景をコリンボーサは、感情のこもらない目で眺めている。影が侍女の死体を踏み越えて、コリンボーサの前に片膝を付いた。頭を垂れ、主からの命令を待つ姿勢だ。コリンボーサは執務机を離れ、彼の前に立ち、いくつかの命令を下した。
影は立ち上がるとコリンボーサの横に並び立ち、命令を彼の耳元で復唱し姿を消した。
コリンボーサは血の海と化した執務室を後にすると、衛兵に後始末と神官を居室に呼ぶことを命じた。
居室に戻ったコリンボーサは、血塗れの衣服を着替えると神官の到着を待つ間、まだ昼前というのに蒸留酒の栓を抜いた。グラスに満たした琥珀色の液体を一息に飲み干すと、食道と胃を同時に灼かれるような感覚を感じた。まるで、心を灼く焦燥感が現実のものになったかと思うほど、強烈な感覚だった。
これまで数え切れないほど飲み、慣れきっていたはずの酒が、未知の飲料のように感じられていた。
コリンボーサは、痺れたような頭で考えている。
彼の野望は、幾多の政争に勝ち抜き、国を恣にできる立場になることだった。だが、それは平和の中にあって、初めて可能なことだった。宰相を継げる家柄に生まれ、放っておいても国政をわたくしできる立場だったが、権力を欲するものは彼だけではなかった。醜い争いが繰り返され、幾多の宮廷人を生物として、人として抹殺し続け、現在の地位を築き上げていた。しかし、物理的な力を持って国が荒れては、権力などものの役には立たない。
純粋な暴力の前に、権力は無力だった。
あらゆる権謀術数も、不死者という爆発的な力にはあらがうことは適わない。
コリンボーサは、己の才覚が平和をお膳立てしてもらっていなくては、何の役にも立たないことに気付いてしまった。戦乱の世に軍を率いて戦うことも、国を乱す災厄に先頭に立って民を率いることも、彼の有する能力の範疇ではなかった。民の生活とは懸け離れた、民から見ればある意味無責任な権力争い、言い換えれば王にどれくらい気に入られるかの競争だけが、彼の能力を発揮できる場だった。
不死者との対決が避け得ない状況にあって、逃げ出したいという欲求とコリンボーサは戦い続けていた。
やがて、居室の扉が叩かれ、神官の到着が告げられた。
悪霊を封じる戦いに赴く決意を固めた表情が、怯えを一切感じさせない足取りでコリンボーサの前に進んできた。
「閣下、ご決断なされたようでございますな?
閣下からご依頼さえお出しいただければ、今宵不死者どもが外に出る前に結界は敷けましょう。
既に近迷宮の結界は、敷き終えてございます。
陛下の御部屋前の廊下も、障壁結界を敷くばかりとなっておりますれば」
神官はコリンボーサの決断を促した。
「神官殿。
お願い致す」
長い沈黙の後、コリンボーサはそれだけをやっとのことで音声に変換した。
救国の決断というには、あまりにもお粗末なものだった。
ニムファを封じた後、王族の後ろ盾を失う彼は、権力闘争に勝ち抜く自信がなかった。ニムファの寵臣という事実が、彼を宮廷で生き延びさせてきた。それなくして、どれほどこの場で生きながらえることができるか、エウステラリットからの扱いが全てを物語っている。既に臣籍降下している元第二王子が王籍復帰して摂政位を継ごうが、南大陸連合に出向している第三王子ヘテランテラがアルギール城に戻ろうが、コリンボーサの政治家としての生命は旦夕に迫っていた。
それでも不死者に喰らわれるよりはマシだと、コリンボーサは決断したのだった。
「しかと、承りましてございます」
それだけ言うと神官は、力強い足取りで宰相居室を出て行った。
白昼堂々、神官は女王居室前の廊下に、結界を敷いた。
不死者を滅するための結界は、壁や構造物などのさまざまな障害物があるため効果的に敷くことができない。このため、不死者が踏み越えることができない線状の結界しか引けないが、それでもニムファや三人の不死者と化した侍女たちが表へ出ることは充分防ぐことができる。地下迷宮の広間から外へ出る通路にも同様の結界を強いているので、廊下の結界が完成すれば合成魔獣でも放り込まれない限り人的被害が出ることはない。神官は当面はこれでお茶を濁し、いずれコリンボーサを説得して城を完全に結界で囲む、またはアルギールを結界内に治めるつもりでいた。もちろん、独力で城や町を収める結界を敷くなど、途方もない労力と時間が必要だ。ニムファが合成魔獣でも呼び寄せたら、結界などあっという間に破壊されてしまう。
神官は、ニムファが封じ込められたまま手を拱いているほどの莫迦ではないだろうと、最悪の事態を想定している。
ニムファにとって邪悪な気配が、女王居室の扉を通して伝わってきた。
とりもなおさず、結界が完成したときに発する波動だった。彼女は生者である侍女を呼ぶが、当然何の反応もない。苛立ったニムファは、不死者と化した侍女に廊下の状況を報告するように命令した。侍女は扉の衛兵を呼ぶが、これも当然のごとく何の返答もない。焦れた侍女が扉を開けた瞬間、開け放ってあったカーテンから陽光が差し込む。一人の侍女が声を発する余裕もなく瞬時に灰化し、残る二人の侍女が慌てて扉を閉めた。
ニムファに上がった報告は、侍女一人の喪失と、夜までは何もできないという現実だけだった。
ニムファにとって状況は最悪だった。
手元の戦力は、純粋な力だけであれば数百人の軍勢にも匹敵すると思われた自らの力と、多少劣るがそれでも百人程度は相手取れる侍女二人だ。純粋な暴力のぶつけ合いになれば、アルギール城の衛兵など瞬時に壊滅できると信じているか、陽光だけは如何ともし難い。コリンボーサを呼びつけようにも、扉の衛兵すらいない状態では、いくら叫んでも遠く離れた執務室まで聞こえるはずもない。
活動可能な夜まで、女王居室の中で蹲っているしか、ニムファたちに外を確認する手段はなかった。
永遠と思えるほど長い昼が終わり、ニムファは侍女二人に廊下の状況を確認するよう改めて命じた。
恐る恐るといった風情で扉を開け廊下に出た侍女たちは、邪悪な波動の向こう側に、これも邪悪な気配を漂わせた剣を携えた屈強な兵の姿を見出した。
「貴様ら、女王陛下の居室前である!
その無礼な振る舞いは何か!?
納得する説明をしてもらおう!」
城の中でも人気のあった侍女の可愛らしい顔は、その面影がすっかりなくなっていた。
アービィの世界の伝わる般若の如くに顔を歪ませ、目を吊り上げて兵に詰め寄った侍女は、不用意に結界の上を踏み越えようとしてしまった。
結界を過ぎた部位から瞬時に灰化する身体を、侍女は驚愕の表情で見詰め、次いでその口が絶叫の形に開かれた。
だが、兵に詰め寄ろうとしていた勢いは殺せず、喉元まで競りあがっていた絶叫が音声となる前に、侍女の身体は結界を越えてしまった。侍女の身体はそのまま灰と化し、開け放たれた窓から吹き込む初秋の風に跡形もなく吹き散らされ、彼女の痕跡はこの世から消え失せた。
兵たちも、唖然とした表情で侍女の自爆を見守るだけだった。
姉妹のように仲良くしていた侍女が灰と化す瞬間を見た残る一人の侍女が、声にならない叫びを上げつつ兵たちに突進する。
城内で一、二を争うと謡われた美貌はすっかりその影を潜め、怒りと怨み、狂気に染まりきった顔が兵たちに肉薄した。侍女は、結界が不死者を滅却したとは思わず、何かわけのわからない法術が仲間を消し去ったと信じ込んでいた。そして、その自身にのみ都合の良い思い込みが、彼女の命運を決していた。獣のような咆哮を上げながら兵たちに突入するかに見えた侍女は、結界の上を通り過ぎた部位から瞬時に灰化し、これも吹き込む風にその痕跡を消し去られた。
暫くしてから窓から月光が差し込んだ。しかし、吹き散らされ霧散した灰から侍女たちを復活させることは、もう手遅れだった。
唐突に途切れた咆哮を不審に思ったニムファは、いくら待っても戻らない侍女の安否を確かめに廊下へと出た。
そこには侍女たちの痕跡は何一つなく、屈強な兵たちと、彼らを率いる神官の姿を見ただけだった。
「陛下。
御労しや。
一体、どのような妄執が、陛下をそのようなお姿に。
民を想い、民をお労りになられた、美しい陛下は何処に……っ!?」
神官は、心底残念、慙愧の念に耐えられないといった口調で、ニムファに問い掛ける。
言いようのない恐怖に駆られたニムファは、無言で身体を翻し、居室へと飛び込み、内側から扉を閉め、鍵を掛けた。
生者からは考えられない暴力が、テーブルを、ベッドを、バスタブを内開きの扉に叩き付け、見る見るうちに巨大なバリケードを築いていく。一頻り家具を扉の内側に積み上げたニムファは、外側から乱雑に叩かれる扉の音に耳を塞ぎ、地下迷宮へと降りていった。虚ろな目は、既に何も見ておらず、怨み以外の感情は宿していなかった。蹌踉うように広間に辿り着き、そこにも鍵を掛け、うろ覚えの呪文で魔法陣を起動させる。詠唱が完了する前に魔法陣の中心に移動したニムファは、自身を囲む円陣が不気味に、しかしニムファにとっては心地よく鳴動し、明滅を繰り返すのを見た。
凄艶な笑みを浮かべたニムファは、躊躇うことなく詠唱を完了する。
次の瞬間、ニムファの姿は掻き消え、ラシアスから女王が消失した。