第92話
吸血不死者へと転生を果たしたラシアス女王ニムファは、宰相コリンボーサを前に傲然と胸を反らせていた。
厚いカーテンで全ての窓を覆ってある部屋の中程に、玉座を擬したように置かれたお気に入りの椅子にニムファは深々と身体を沈めている。
人前では慎み深く振る舞っていた気品ある姿は影を潜め、まるで大帝国時代に身体で国政を乗っ取ろうとしたとされる、伝説の悪妃を思わせる態度だ。暖かみを一切感じさせない、見下ろすような視線は、扉の外に平伏するコリンボーサをそれ以上一歩も近付けさせまいとするかようだった。
「宰相、先まで摂政の任にあった愚弟エウステラリットは、不埒にも私を手篭めにしたうえで王位を簒奪せんと企みました。
肉親の情においては忍びがたいものはありましたが、国を思う気持ちから手討ちとしました。
夜が明けたらば、民に知らせなさい。
私は、今後この部屋で国政を司ります。
王家の私事で、国政に空白期間を作るわけには参りません」
ニムファは国政への復帰を宣言した。
コリンボーサにしてみれば、解任されるところを救われた様なものだ。
再度国政の中心に立つことができ、そのうえニムファはこの部屋から出ないと言う。どう考えても、報告さえ適当にでっち上げておけば、コリンボーサのやりたい放題にできる。もともと政治センスなど欠片も持ち合せていなかったニムファのことだ、コリンボーサがニムファの我儘を適当にあしらいつつ政治を仕切るのは以前と変わらない。内心小躍りしたい心境だ。
だが、コリンボーサには、なぜ女王がこの部屋から出ようとしないのか、権力の象徴である玉座に戻ろうとしないのか、それが解らなかった。閣議室や謁見の間へ行くには、どうしても陽の光を受ける廊下を通らなければならず、ニムファにはそれができないからだが、この時点でコリンボーサは、まだニムファが不死者であることを知らない。
「陛下、何故、この部屋にて……?
執務室はいつでもお使いいただけますよう、整えてございます。
何より、謁見の義をこの部屋で執り行うわけには参らないかと存じますが?」
冷や汗が全身を流れるような、言い様のない嫌な感覚を感じつつ、コリンボーサが異議を唱える。
政治自体は何とでもなるが、謁見の義だけはコリンボーサでは代行できない。
「下賎の者に、私がなぜ謁見などしなければなりませんか?
私が会う方は、ただ一人、神のお使い様のみ。
それ以外のくだらぬ者など、私の前に出るなど無礼千万。
卿とて、それは同じ。
行き違いがあってはと、直接申し付けねばならぬと思えばこそ、この場にいることを許しているのです。
今後は、この二人を通して命令を伝えます。
永遠の命と、老いぬ身体を授かった私に、卿らのような下賎の身が会えるとは、努々思わぬよう。
下がりなさい」
見下ろすような視線を投げ掛け、ニムファはそう言うと身を翻し、部屋の奥に戻って扉を閉めさせた。
コリンボーサは女王が言った意味不明の言葉の意味を問い質そうと扉に駆け寄るが、未だ生者であり続ける侍女二人がそれを阻んだ。
「無礼者っ!
そこを退かんかっ!
私は、陛下に、まだ、お話がっ!」
侍女を扉の前から引き剥がそうとするが、逆に押し返されながらコリンボーサは叫んでいた。
「無礼者はどちらでしょう?
陛下にお目通り適うのは、私たち六人のみ。
今後平穏に暮らしたかったら、私たちの言うことには逆らわない方がよろしくてよ」
侍女たちは、まだ若く日常では力仕事も多くこなしている。
対してコリンボーサは男であるとはいえ既に老境に差し掛かり、頭を使うことを主たる仕事とし、武芸の鍛錬からも遠ざかっている。両者の純粋な力の差は明らかだった。
「宰相であろうと、他国の王であろうと、不老不死の陛下にとってはくだらない存在。
いつか命尽き果てる者の機嫌など、取る必要はございませんの。
お解りになりましたら、さっさとお下がりなさいまし」
廊下にへたり込み肩で息をするコリンボーサに、侍女たちは冷たい言葉を投げかけた。
「もし、陛下の御前に出られる栄誉に浴したいのでしたら、陛下はもちろん私たちにも服従することを誓いなさい。
そうすれば陛下に、お使い様へお伺いしていただけるよう、取り計らうことを考えてもよろしくてよ」
言葉遣いこそ汚くはないが、一国の宰相に言って良い内容ではない。
だが、吸血不死者という後ろ盾を得た二人の侍女は、既にコリンボーサに対する礼は不要と考えていた。
コリンボーサは激情を抑え、肩を震わせながらその侍女たちに背を向けた。
「陛下のおみ足に縋ってお願いすれば、あなたも不死の身体にしていただけるかもしれなくてよ」
コリンボーサの背に侍女たちの言葉が、追い打ちとなって突き刺さる。
悔しさのあまり、強く握りしめられたコリンボーサの拳の中では爪が掌に食い込み、唇をあまりにも強く噛み絞めたため口の中には塩気の強い鉄の味が広がった。
――永遠の命と、老いぬ身体? 陛下は確かにそう仰った……
蔑むような侍女たちの視線を逃れるように己の執務室に戻った彼は、女王の言葉を反芻している。
コリンボーサは、エウステラリットが独自に面会していた神官を、執務室に呼び出した。
ラシアス宰相コリンボーサの決断は、素早かった。
彼は、不死者になり永遠の命を手にすることも、不死者の下で働くことも、そんなことは真っ平御免だった。権力欲こそ人一倍だったが、自分を愛する心はさらにそれを上回っている。永遠の命は魅力的だが、太陽に背を向け、美食も、愛も性欲も失って、何が人生の華か。彼はそう思っている。権力も欲しいが、尊敬も賞賛も富も欲しい。そして、得た富で贅沢に、豪奢に暮らすことができないなら、いっそ死んだ方がマシだ。
自らに付き従う者が、己の意志などほとんどない不死者など、こちらから願い下げだ。
不死者は確かに忠実に命令に従うが、それは確固たる意志を持った忠誠ではない。
恩義を感じることもなく、献身を捧げることもない。にも拘らず、盾になれと命じれば、何の疑問を抱くことなく身体を散らす。もはや、それは服従ですらなかった。ただ、自らを不死者に転生させた者の命令に、何の疑問を抱くこともなく、賛同の喝采をあげることもなく、唯々諾々と機械的に従うだけだ。
機械的にプログラミングされた、システムでしかなかった。
彼が欲する忠臣とは、彼を慕い尊敬し、彼のために命を投げ出すことを厭わず、彼の栄達を望んで止まない者たちだ。もちろん、彼自身そんなカリスマ性を持っていないことは熟知している。それ故の無い物ねだりだ。
美しかった女王には、そのカリスマ性の片鱗はあった。だが、不死の身体を手にした女王からは、そのカリスマ性はすっぽりと抜け落ち、自身を不遇にした人々への復讐心と、両大陸に君臨したいという欲望しか彼には感じられない。
自身が家臣を服従させていることを棚に上げ、コリンボーサはニムファへの服従を拒絶していた。
「神官殿、殿下はいったい何と仰っていたのです?
どうやら、王家どころの騒ぎではなく、国が、いや、南大陸が存亡の危機にあるのではないですか?」
神官が部屋に入るなり、コリンボーサは単刀直入に聞いた。
「隠し立ていたしましても仕方ありますまい。
閣下の思われるとおりでございます。
殿下は、陛下が不死者と通じていることに、お気づきになりました。
我が火の翁は、この城の地下迷宮に北の大地に蔓延る不死者の気配を感じ、私を派遣したのでございます。
私は殿下にお目通りを願い、そして地下迷宮の調査を願い出ました」
そこで神官は目を伏せる。
何がどうあれ、強引に地下迷宮に踏み込んでいれば、エウステラリットを死なせることもなかったのではないかと、強い後悔の念を抱いている。
「して。殿下は何と仰られた?」
その先を早く聞かせろという焦りが、コリンボーサの口調に溢れていた。
「国家の機密ゆえ待つように、と。
ですが、陛下のお部屋から伸びる通路に関しては、外側から広間までの調査をお認めいただきました。
さらに、広間から外へと繋がる通路に結界を敷くことまでは、ご許可をいただきました。
ですが、明日、結界を敷こうというところで」
いかに精霊神官であっても、材料の用意もなく無限に結界を敷くことはできない。
アルギールの町で材料を調達し、明日にでも結界を敷くというところでエウステラリットが殺害されてしまったのだった。神官が怠慢だったわけではない。これ以上はないという迅速さで、結界の準備は完了していた。
だが、予想もしなかったグレシオフィの帰還が、全てを狂わせていた。
魔法陣の発動を火の最高神祇官ばかりでなく、神官も感じていた。ただごとならぬ気配にエウステラリットの居室へと急いだが、時既に遅くエウステラリットは単身丸腰で、不死者と化したニムファの前に立ってしまったのだった。
「陛下は、いったい何をお考えになっていらっしゃるのか。
ラシアス女王の、何がご不満なのか。
それほど、『両大陸の覇者』などという称号を望まれるのか」
コリンボーサの思考が口から漏れる。
「陛下のご本心は、水の媼でもなければ解りませぬ。
ですが、思い通りにならなかったことが多かった。
陛下のお望みになったことを、叶えずにいた者に対する怨み。
お助けしなかった者への八つ当たり、といったところでしょうか」
神官が、あくまで個人的な推測ですがと前置きしたうえで、自身の考えを述べた。
諮らずもコリンボーサが感じていたことと、神官は同じことを考えていた。
突然、生者である侍女の一人がコリンボーサの居室を訪れた。
何事かと身構えるコリンボーサと神官に、侍女は冷たく一瞥をくれた。そしてニムファの前にいたときよりさらに傲岸不遜な態度で、重々しくニムファの命令を伝える。
「宰相、性的に成熟した処女を十名、明日の朝陛下のお部屋によこしなさい」
反論どころか質問すら受け付けないという態度で、侍女はそれだけ言うとコリンボーサの部屋を出ていった。
怒気を孕んだ目で侍女を見送ったコリンボーサとは対照的に、神官の爆笑が夜気を切り裂く。
涙まで流して笑い転げる神官を、コリンボーサは気でも触れたかという心配げな表情で見つめている。
「これは、これは、たいしたご使者だ。
討たれる恐怖が全身より滲み出ていましたな。
いつ声がひっくり返る、ハラハラしてしまいました。
虎の威を借る狐どころか、鼠。
いや、あのような者に例えられたらば、鼠が憤慨しましょうか。
鼠に対し、失礼でしたな。
仮にも、自ら命を長らえるために、必死に生きる者に対して」
突然、表情を厳しく改めた神官が、コリンボーサに威儀を正して向き直る。
「宰相閣下、大変失礼をば致しました。
幾重にもお詫び申し上げます。
閣下のご認識通り、今やラシアス、南大陸ばかりでなく、北の大地を含めた全世界が存亡の危機。
幸い北の大地には、閣下が陛下と共に異世界より召喚した勇者殿がいらっしゃる。
お任せしていれば、あちらは心配ありますまい。
勇者殿とお仲間には、全精霊の祝福とご加護がございます故。
勇者殿の異世界での暮らしを叩き壊した罪滅ぼしの機会でございましょう。
こちらはこちらで対処するべきでございます。
いえ、しなければなりませぬ。
ただいまの陛下のご命令は、十名を喰らうためでございましょう。
彼の不死者は処女の生き血を、何よりも好みます故。
閣下、陛下のご命令を聞かぬとは申さず、しばし時間をお稼ぎください」
早急に手を打たねばならない。
性成熟している処女十人を要求したニムファの望みは、生き血を飲むことはもちろんだが、その生き血を浴槽に満たし浸かってみたいというものだ。アービィが生まれた異世界の史実にある、エルゼベエト・バートリ伯爵夫人の伝説をニムファが知るはずもないが、処女の生き血には美貌や若さを保つ神秘的な力があると思わせていた。
そのような裏事情をコリンボーサや神官が知る由もないが、侍女を通して告げられた命令に、二人は同時に焦臭いものを感じていた。
冷静に考えれば、ニムファを討たなければならないのだ。
王家どころか国や大陸を存亡の縁に立たせるような者は、討つしかない。不死者への転生も、服従もコリンボーサは拒絶していた。理屈では分かっているが、コリンボーサはかつて敬愛していた女王を討つ決断を下せずにいる。家臣が主君を討つ勇気は、生半可なものではなかった。
幼少時には、自分の娘同様に可愛がっていた女王だ。父が娘を討つなど、そう易々と決断できるわけがない。
それでも神官の言葉に従い、侍女が礼を失した態度で退去した後を、遅れてコリンボーサは追った。
女王に取り次ぐ、取り次がないの押し問答を繰り返しながら、ニムファの居室前までコリンボーサはやってきた。取り次ぎに関しては最初から望みはないと判っていたが、ニムファに声を聞かせることが重要だと考えてのことだ。
「陛下、ご命令の内容は承伏致しかねます!
何分にも急すぎます!
暫くのご猶予をっ!」
侍女二人が追い返そうとコリンボーサを引き摺り剥がそうとするが、それだけ言うと彼は踵を返す。
「陛下に対し無礼でありましょう、宰相。
身分を弁えなさい!」
ヒステリックに叫ぶ侍女に、コリンボーサは一瞥をくれた。
「己の吐いた言葉、そのまま返してやろう。
何をほざいたか、忘れぬことだ」
背中越しにそう言って、コリンボーサは自身の居室へと歩き去った。
ニムファが居室から出てこないのであれば、コリンボーサにとって歓迎すべきことだった。
先の命令など、のらりくらりとかわせばよい。世俗や政治に疎い侍女を誑かすことなど、政争に明け暮れ権謀術数の中に身を置き続けたコリンボーサにとっては造作もないことだ。だが、処女の生血が手に入らないことに苛立ったニムファが、城内の侍女たちを手に掛け始めたら。
そればかりか、命令に従わない者たちを手に掛け始めたら。
自身や重要閣僚には、影の者が人知れず付き従っている。
焦りに囚われエウステラリットのように、ひとを遠ざけるというエラーを犯さなければ、そう簡単に命を奪われる危険はないと考えて良い。しかし、実際に国を動かしている官僚全てに、護衛が陰にまで付き従っているわけではない。自身だけが生き残っても、権力を振りかざす相手がいなくては何の意味もない。
コリンボーサは、国や民のためではなく自分自身だけのため、ニムファを討つことなく、封じ込める断を下した。
北の大地の短い夏は、急ぎ足で通り過ぎようとしている。
朝晩の空気にひんやりとした肌寒さを感じ始めた頃、シャーラ奪回の大きな歯車が動き始めた。
戦局は、全体的な形勢自体は南北連合に傾いているが、夜を主戦場にする不死者を攻め倦ねている状況だ。日中に拠点を制圧しても、夜間哨戒の緩みを衝かれ一進一退の攻防が続いている。夜行性ではない人間という生物は、いくら日中に充分な睡眠を取ったとしても、夜間に十全な活動ができるわけではない。昼夜が逆転することで、あからさまな能力の低下や情緒不安定などの弊害が目立ち始めていた。
その弊害を解消するため、昼夜の担当を定期的に入れ替えているが、その交替直後に大きな事故が発生するようになっている。
最北の蛮族との戦線の膠着は、昨年以来緊張続きだった兵の間に目に見えない疲労を蓄積させていた。
変化のない毎日に、その歪みが一気に噴き出してきているようだった。シャーラ奪回は戦略大方針に基づく作戦だが、ラルンクルスたち司令部やランケオラータやルム、プラボックを始めとする指導部は、怠んだ雰囲気を一掃する効果を期待していた。
アービィとルティの家でエンドラーズが酔い潰れた翌朝、東西に伸びる河川流域での小競合いで捕虜にした者たちに尋問するため、ティアは司令部に出頭していた。
アービィたちも当然同行しているが、その中には当たり前のような顔をしたエンドラーズもいる。昨夜はバードンの家へ行ったものの、いくら呼んでも中から反応がなかったため、早々に引き上げていたのだった。言うまでもなく、バードンは在宅でティアもいたのだが、外からのノックなど耳に入っていなかった。もっとも、耳に入っていたところで、対応に出る気など欠片もなかったのだったが。
結局エンドラーズは尋問の直前まで、ティアからの了解を待たなければならずにいた。
司令部に入った五人は作戦参謀と簡単な打ち合わせの後、尋問を行う部屋に通された。
殺風景な部屋の中心には長テーブルが一つ置かれ、その両側にはイスが五個ずつ並べられていた。壁際には事務机が一つ置かれ、記録を取る係官のための席が設えられている。その他に事務机の並びにはイスが五個置かれ、アービィたちの席が用意されていた。
ティアを中心に、両側に作戦参謀と情報参謀が副官を伴って陣取ったところで、捕虜が五人兵に先導されて部屋に入ってきた。
このとき、既にティアはラミアのティアラを髪に飾っている。
テーブルを挟んで捕虜たちと対峙したとき、ティアは『誘惑』の詠唱を開始した。
「しかし、お前の妖術は恐ろしい。
側にいるだけで、強大な魔力が伝わってくる。
長いこと悪魔狩りをやっているが、お前ほどの魔力を感じたことは、そうそうないぞ、ティア。
あれでは、俺も抗しきれないかも知れん」
尋問が終わった後、司令部の一室に五人は集まっていた。
バードンは、ラミアの妖術を使った捕虜尋問を思い返している。
『誘惑』の詠唱が完了した瞬間、憎しみや悪意に満ち満ちた捕虜の顔から、一気に悪感情の一切が消え失せた。
惚けたような表情の捕虜に、満を持した武官が質問したが、その声に捕虜は答えず頑なな表情に戻るだけだった。『誘惑』はラミアに対して一切の警戒心や敵意を抱かせず、ほぼ完全な服従を強制する効力を有しているが、他の者に対しての感情までは変化しない。武官の質問に答えさせるには、ティアからの命令が必要だった。
ティアは焦り気味の武官を制し、名前や住んでいる集落などの簡単な質問をいくつかする。捕虜の緊張を解きほぐした後、武官からの質問に包み隠さず知る限りのことを答えるように命令し、尋問を武官と交替した。
そして尋問は順調に続き、夕方まで掛かることなく全ての捕虜が尋問を終えていたのだった。
「あなたにそう言われると、気味悪いわよ。
最強の人狼狩りともあろう者が、ね。
でも、何も聞き出せなかったしなぁ。
あんまり役に立ってないね」
最北の民の情報統制は、思ったよりしっかりしていた。
ティアはそれを思い出して溜息をつく。
有用な新情報は皆無。
これまでに判明していたこと以上の収穫はなく、過去の事実に裏付けが取れただけだった。捕虜たちは、口を割らなかったのではない。ラミアの『誘惑』に、抗する術などないからだ。
捕虜たちの尋問に対する回答は、大きく分けて二つ。
知らない。分からない。
つまり、攻撃目標と日時だけが伝えられただけで、それ以外はどの集落がどこの拠点をいつ襲撃するかはもちろん、攻撃終了後の処理すら指示がなかった。南北連合の拠点をの攻撃し、その後は集落に引き上げようが占拠しようが、略奪しようが現地の判断次第。攻撃方法や兵力の規模も、現地で指揮を執る集落の指導層に一任。敗走した場合のみ、全員低位の不死者へ転生という脅しがあるだけだった。
吐くべき情報がなければ、ラミアの『誘惑』を以てしても無駄だ。
結局南北を縦貫する街道周辺に敵勢力は少なく、東西には依然有力な敵勢力が展開しているものとして行動するしかない。
陽光下で不死者は行動できないとはいっても、必ずしもこれまでいくつもの集落で見た、社のような日光を避ける施設が必要なわけではない。指揮官がいれば夜間に穴を掘らせるなり、天然の洞窟などの地形を利用することも可能だ。日中警護当たるに生者の疲労が莫迦にできないため、拠点を集落に築き不死者を収容するのに社が適切だったというだけだ。
もし、自然の中に拠点を巧妙に隠されては、これを完全に掃討することは困難と司令部は見ている。
だが、不死者はともかく、生者に対する補給は必要なはずだ。最北の地からわざわざ危険を冒して戦略物資を補給するとは思えず、食料は自給自足と推測されている。
集落のほとんどは位置が判明しているため、この周囲の哨戒を密にして補給線を断ち切れば、潜伏のための拠点は遠からず自滅させられるものと期待できていた。魔法陣による物資の移送をすれば、エンドラーズが北の大地にいる以上見逃すはずはない。
魔法陣発動後に拠点を移動しても、移動距離はだいたい掴めるので捜索範囲も絞ることが可能だった。
結局、ラミアの『誘惑』による尋問は、ティアの能力を司令部に示しただけに終わり、尋問そのものは作戦を有利に進めるためには、今のところ役に立っていない。
しかし、ティア本魔獣、アービィやルティ、そして誰よりもバードンは、ティアが受け入れられたことを、何よりも喜んでいた。アービィとティアという二頭の魔獣は、戦略兵器として認識される危険性を孕んではいたが、司令部や職務上正体を知る立場にある者たちから、好意的に受け入れられていた。結果的に尋問自体が役に立たなかっただけで、ティア自身が役立たずではないと証明されたからだった。
悪意を持たない魔獣は、畏怖と共に改めて仲間と認識された。
捕虜の尋問が不調に終わった後、アービィの正体を知った腕自慢の将兵が、その実力を見たいと立ち会いを求めてきた。
「あんまり、見せびらかすようなもんじゃないんですけど。
それに作戦前に怪我でもしちゃったら、拙くないですか?」
将兵からの希望を伝えに来た戦務参謀に、アービィは戸惑いながら言った。
「ご心配は理解致します。
ですが、将兵からはアービィ殿たち四人でシャーラ攻略が可能か、不安視する声が挙がっております。
作戦が不首尾に終わることを恐れてのこともありますが、アービィ殿たちに護衛を付けなくて大丈夫かという危惧でもあります。
もちろん、試合であります故、祝福方儀式済みの武具は使用いたしません。
是非、人狼のお力をお見せいただきたい。
こちらの安全にも留意いたします故、手加減など無用でお願いいたします」
戦務参謀は、アービィが獣化した際の戦闘力を見ていない。
アービィが消極的な理由を、大きく見間違えていた。
「いや、祝福方儀式済みの武具でもいいんですけど。
どうしよう?」
獣化する事は構わない。
行動を共にしてきた将兵が、掌を返したとも、立ち会いの結果返すとも思わない。それでも、作戦前の大事なタイミングで、万が一にも将兵に怪我でもさせたらと思うと、アービィは乗り気になれなかった。
「いいじゃないか。
今後の人狼対策の一助にはなろう」
困惑顔のアービィに、バードンが助け船を出した。
「そうですね、バードンさん一人に任せ切れることじゃないし。
一人でも人狼の動きを見ておいた方がいいか」
ようやくアービィは、将兵との立ち会いを承諾した。
陽が落ちた闘技場には、篝火が赤々と燃えている。
アービィと対峙する十名の将兵が、祝福方儀式済みの武具ではなく、防御に重点を置いた通常装備に身を固めていた。アービィはさすがに全裸で人前にでるわけにもいかず、薄手のローブだけを纏い闘技場の端に立っていた。
司令部要因の他、ターバ駐留の将兵で手空きの者は、一人残らず闘技場に集まっていた。
「一人ずつでも、十人同時でも構いません。
皆さんがお持ちの武器が通常の物であることは聞きました。
最初、僕は避けません。
人狼の防御力がどんなものか、実感してください。
次は避けながらやります。
一太刀でも当たれば、皆さんの勝ち、ということで」
そしてアービィは、傍らに控えているバードンとルティ、ティアに耳打ちする。
通常の剣を正面から受けた後の立ち会いでは、ある程度の力を解放するつもりだ。
将兵が打ち倒された後まで闘技場に放置されていては、適切な防御ができず巻き添えを喰った際に大怪我になりかねない。そうなる前に、三人には倒れた将兵の確保を頼んでいた。
「じゃ、始めましょうか」
アービィの言葉が終わったとき、重武装兵十名の前には、禍々しい巨狼が立っていた。
――最初は、存分にどうぞ。
十名の頭の中に巨狼の念話が響く。
音声としては認識されないが、間違いなくアービィの声だ。
リーダー格の青年将校が、巨狼に向かって真一文字に駆けた。
巨狼の真っ正面に肉薄した彼は、既に抜刀し、大上段に振りかぶっている。剣戟の間合いに入ったと見えた瞬間、裂帛の気合いと共に打ち下ろされた彼の剣は、巨狼の眉間へめり込んだ。ように見えた。
微動だにしない巨狼の前で、彼は剣を取り落とし、衝撃に肩まで痺れが走った両腕を、信じられないという面持ちで見つめていた。
次いで一人の古参兵が、剣を正眼に構えたまま巨狼に突撃する。
眉間に吸い込まれたかに見えた剣は、重い金属音と共に大地に落ち、古参兵は突進の運動エネルギーが反作用となって弾き飛ばされた。
闘技場の土の上で呆然と天を仰ぐ古参兵の両側を、四人の若い兵士が駆け抜けた。
戦闘開始から一歩も動いていない巨狼に駆け寄り、四本の剣が雨霰と降り注ぐ。一頻り巨狼を殴り続けた兵士たちが肩で息をし始めたが、巨狼は毛一筋すら切られていない。
残り四人の将校が、それぞれ得意とする得物を振りかざして突入したとき、兵士たちは失意の表情で道を開けるしかなかった。
最後に残された将校四人は、二人が槍、一人が薙刀を思わせる長柄の長剣、一人がハルバードを巨狼に叩き付ける。
最初の一撃で槍が一本と、長剣の柄がへし折れた。ただの棒きれに成り下がった得物を手に、呆然と立ち尽くす二人を尻目に、残された槍とハルバードが巨狼の脇腹に突き立てられた。
だが、膂力の限りを尽くして突き立てられた柄は、たわみの限界をあっさりと超え、乾いた音を残して折れ跳んでしまった。
――純銀の武器か祝福方儀式済みの武器じゃないと、僕を傷付けることはできません。バードンさん、お願いします。
巨狼の念話を受けたバードンが、腰に佩いた純銀の剣を抜く。
無造作に巨狼に近寄り、肩から胸へと袈裟懸けに剣を振り下ろす。
肉を切り裂く鈍い音が響き、巨狼の肩から血飛沫が上がった。だが、どう見ても致命傷としか思えない裂傷が、十も数えないうちに塞がっていく。噴き出す血飛沫の勢いがみるみる治まり、やがて流血が止まる。傷口からは泡と湯気のような煙が上がり、百数える前に何もなかったかのように全てが再生してしまった。
「皆様、ご覧の通りです。
人狼を倒すには、心の臓を突くか、完全に切断するしかございません。
この人狼は特に強力な再生力を有しておりますが、通常であれば先程のような傷を負わせれば苦痛にのたうち回るでしょう。
その隙にとどめを刺せば、さしもの人狼であっても倒すことができます」
剣を腰に戻しながら、バードンが将兵に説明した。
――バードンさん、斬り過ぎ。できれば手加減してくださいよ。思いっきり斬ったでしょ?
傷口だったところを嘗めている巨狼から、抗議の念話が届く。
「やかましい。
全力で斬らなきゃ、貴様の毛皮に刃を通せん。
見本にならんだろうが」
全力で斬っていたが、心臓まで刃は届かなかった。
自分如きが挑んで良い相手ではないということを、改めて思い知らされていた。そして、バードンははっきりと悟った。
この人狼は寿命以外で、死ぬことはない、と。
――次、始めましょうか。祝福法儀式済みの武具でいいですよ。太刀が入っちゃっても、さっきの通りですから。殺す気で来てください。
巨狼が将兵たちに、念話で新たな武具を取るように促す。
殺す気で来いということは、絶対に死なない自信の裏返しだ。つまり、将兵がどれほど奮戦しようと、巨狼に一太刀すら浴びせることは適わないと言っているようなものだった。
闘技場の空気が一変した。
巨狼を殺すことが可能な武器を手にした将兵から、揺らめく陽炎のような闘気が立ち昇る。通常の武器で人狼を傷付けられないことは、先刻承知のことだった。それ故に先程までは、殺気の欠片も両者から感じることはなかった。しかし、巨狼の念話もあってか、将兵から遠慮がちだった態度が消失していた。
試し合いではなく、殺仕合の空気が闘技場に充満した。
将兵の発する殺気を受け、巨狼が闘気を発散する。
津波が押し寄せたかのような圧迫感が将兵を襲い、彼らは思わず一歩後ろへと下がった。だが、下がったくらいでは巨狼の闘気から逃れられるはずもなく、北の大地の戦場でも感じたことのない恐怖感を掻き立て、将兵たちの心胆を縮み上がらせる。
ほどなく、一人の兵が恐怖を克服できずに、剣を構えたままへたり込んだしまった。後の戦闘に巻き込まれることを恐れたバードンが、慌てて首根っこをひっ掴んで闘技場から連れ出す。連れ出された兵は、顔を蒼ざめさせ、歯の値も合わないほど震えていた。
今回の試合に誰よりも先に名乗りを上げ、人狼を倒して名を上げることを目論んでいた男だった。
兵が闘技場から連れ出されると同時に、巨狼が跳躍した。
充分な間合いを取っていたと思っていた将兵は、着地後の巨狼の動きが予測できず、そのまま跳躍の軌跡を目で追ってしまった。そこに隙が生まれ、さらに巨狼の跳躍力は将兵の予想を遙かに上回っていた。二重の隙を巨狼が衝き、将兵一人ずつの喉笛に、切り裂かない程度に牙を当てていった。
ルティが十数える間もなく、九人の将兵全てが唖然として立ち尽くしていた。
仲間の喉に巨狼が牙を立てる瞬間は、目が捕らえきれなかった。
いや、自分の喉に牙を当てられた瞬間も、殺気を喉元に感じ、死を意識したまま何の対処もできずにいただけだった。
――まだ、やります?
立ち尽くす将兵の脳裏に、アービィの声が響く。
九人の男たちが、闘技場に膝を付き、両手を衝いて項垂れた。
「皆様、これにて終了でよろしゅうございますかな?
私であろうと、瞬殺でございます。
対処など、考えるまでもなく無理。
目では追いきれませぬ」
エンドラーズが場を収め、この日は解散となった。
ティアによる捕虜尋問、巨狼と将兵の試合の翌日、作戦発動を翌朝に控えたこの日は、ほとんどの将兵は完全休養日になっていた。
もっとも、完全休養とは名目ばかりで、兵舎の片付けや私物整理、遠征に必要な私物の整備とやるべきことは山ほどある。
私室を与えられている将校と違い、分隊単位の大部屋に起居する兵士の私物は、身の回りの日常品に非番時に着用する数組みの私服くらいの物だ。しかし、個人の空間がベッド周辺だけとはいえ、百日近い時を過ごしていればそれなりに私物も増えてくる。兵舎は公共の施設であり、自分が出ていった後は別の人間が起居するようになる。その者が気持ちよく入れるように、自分が使った場所は入ったときより整備して出ていくというのが、この世界の兵士のたしなみだった。義務ではないが、発つ鳥が後を濁していけば、少なからず良くない噂となって人物評に悪影響を与える。とりもなおさず、勤務評定に影響し、後々の出世にまで響いてくる。
兵たちは申し合わせたように兵舎を磨き、破損した部分の修理や足りなくなった公共物の調達と、朝から忙しく立ち働いていた。
宿舎をきれいにして明け渡すという点においては、将校たちも同様だった。
こちらは副官や従卒が付いているとはいえ、ベッド周辺だけしかプライベートな空間がない兵とは違い、小さいながらも居室が与えられているため、かなりの大仕事になっている。下級将校は数人で相部屋になっているが、それでも兵とは専有面積が大きく違う。日常においては身の回りの雑事は従卒が担当しているが、当然のことながら従卒たちは自らの居住スペースの整備に忙殺されている。階級が上がれば上がるほど、片付けなければならないスペースは増えていく。
この日ばかりは雑事の量が、将校と兵で逆転するという珍事が出来していた。
アービィたちにとっても同様で、ターバ解放以来百日以上を過ごしてきた家の大掃除に、朝から汗を流していた。
一つだけ助かっていたことは、機動性重視の作戦のため持ち物を限界まで減らしていくため、家財道具などは後発の輸送部隊に委ねていけるので、荷造りなどに輸送部隊の兵が助っ人として動員されていることだった。その中には昨日獣化したアービィと立ち合った兵が一名混じっており、作業の合間に何かと話しかけてきていた。
あれほどの力を持ちながら、決して自らの欲望のために力を行使することなく、そのうえ底抜けなまでにお人好しなアービィに、その兵は心酔していた。
「アービィ様、あなたほどのお力があれば、この世界など簡単に手中に収められると思うのですが、何故、そうなさろうとはお考えにならないのでしょう?
何より、私たちの常識では、人狼が人と平和に暮らそうと考えているなど、理解し難いのです。
どういった経緯か、もしくは契約があってのことなのでしょう?
差し支えなければ、お聞かせ願えないでしょうか」
兵の疑問は、この世界に生きる者ならば、誰でも抱く疑問だ。
死と恐怖、そして悪魔の代名詞ともいわれる人狼が、人間の側に立ち、人間と変わらずの暮らしをしている。話だけ聞いたなら、俄には信じられないことだった。
「まずですね、制圧だったらできるかもしれませんけど、僕に統治なんて難しいことは無理です。
全ての民の幸せを背負い込むなんて重圧、僕にはとても耐えられません。
力で抑えつける統治は、遠からず破綻しますよ、反乱が起きて。
そのたびに粛正なんかしちゃったら、統治する相手がいなくなっちゃうじゃないですか。
仁政を敷くなら、今の王族の方々が既にやっていらっしゃる。
それを破壊して同じ状態に戻るなんて、無駄な血が流れるだけですよね」
兵の問いにアービィは考えることなく答え始めた。
「では何故、あなたは人狼でありながら、人間との平和な暮らしをお望みに?」
納得し難いという表情で、兵はもう一つの疑問を口にする。
「僕は、ルティの家族に拾われました。
今から十二年前くらい前のことです。
僕自身、人狼であることに気付いていなかったんです。
もちろん、ルティも、父も母もです。
それからずっと、僕は人間として育てられてきました。
バードンさんが言っていたことなんですけど、人狼として差別され、忌み嫌われ、迫害され続けているうちに、人間に対する怒りや怨みを心に育ててしまうんじゃないかって。
僕は、差別も、嫌悪されたことも、迫害されたこともありません。
人間として育てられましたから。
だからかもしれませんが、人間に対する怒りも、怨みも持っていないんです。
普通に育ち、ルティと暮らしているうちに……
これ以上は恥ずかしいから勘弁してください」
アービィの顔が真っ赤になっている。
年齢は充分大人なのだが、ものごころ付いてから十年ほどしか経っていないアービィは、まだ精神年齢が肉体年齢に追いついていない。そのせいか、どこかしら年齢不相応の幼さが残っている。
「では、もし、アービィ様がルティ様のご家族に拾われなかったとしたら?」
兵の疑問は止まることがなかった。
決して悪意から聞いているのではないことは、その表情から窺い知れる。
「そうですね、多分、今頃は人間を喰らう生活だったかもしれませんね」
答え難そうだが、真摯にアービィは答えた。
「しかし、捨て子や迷子など珍しくもないのに、よくアービィ様を拾ってお育てになろうと思われましたね。
もしも、アービィ様が野に放たれていたら、今頃私たちは生きていなかったかもしれません。
言ってみれば、ルティ様とそのご家族様は、人間の救世主だったのでしょうか。
思えば、ティア様もそうですね。
ルティ様が人と魔獣の間をお繋ぎになっている。
北の民との間も、皆様がおいでになってからというもの、急速に親密になっています。
これなら、最北の蛮族と呼んでいる人々とも、そう遠くない未来に和解できるのではないか、私はそう思います」
最北の蛮族を滅ぼしたいと思っている者は、皆無に等しい。
経済的な支配こそ目論んでいるが、それ故に最北の民を絶滅させてしまえば購買層が消えてしまう。
五十年に亘る戦乱の時代を経てようやく得た太平の世を、南大陸の住人は何よりも大切に思っている。
日常的な貧困や飢餓、無法者の略奪などはあるが、国家が総力を上げて他を絶滅または支配抑圧搾取しようという戦乱が起こる気配は、南大陸にはない。今後北の大地に南大陸の住人が移住するのであれば、この地においても彼らが戦乱を望むはずがなかった。広大な市場が待っているのだ。怨みを買うような方法で支配してしまっては、市場の拡大など夢のまた夢だ。
「何恥ずかしい話をしてるんですかっ!
アービィ、余計なこと言わないで。
それ以上こそばゆいこと喋ったら、後でどうなるか覚悟しなさい」
行李を抱えたルティが、照れのためか顔を赤らめて通り過ぎた。
「照れないの、ルティ。
なんだかんだ言って、あんたのお陰なんだから。
あのとき、あんたがお父さんとお母さんに訴えかけなきゃ、アービィはここにいなかったんだし。
そうなれば、あたしもここにいないし。
アーガスの莫迦踊りで、ランケオラータ様が囚われて、そのままだったかもしれないし。
バードンが来ていたかも知れないけど、あの合成魔獣に襲われたときに、全てが終わってたかもね。
そしたら、あたしはあのひとと会えなかった」
ティアは、このところバードンの家に入り浸りになっていた。
そのため、遠征に持って行くような身の回りの物はバードンの家にほとんど移動していた。それでも後から運んでもらう物や処分する物、官品の返却など、居室の片付けはそれなりの量があったので、アービィたちの家に戻っていたのだった。
「あ、今、呼び捨てにしたっ!
そう呼んでるんだ?
そのうえ、『あのひと』?」
照れ隠しか、ルティが混ぜっ返した。
確かに、『あのひと』という呼び方だけ見れば、それほど特別なことではない。だが、ルティはティアが『あのひと』と呼んだとき、頬を赤らめたのを見逃さなかった。
出陣前の慌ただしいひとときは、平穏な雰囲気の中ゆったりと過ぎていった。
「さあさあ、皆様、ご準備はよろしいですかな!?
払暁を期して作戦発動でございますぞ!
夜が明けてから動き出すのではございません!
夜が明けたときには、既に動き出していなければなりません!
払暁を期して作戦発動とは、そういうことでございます!」
まだ真っ暗なアービィの家の庭に、エンドラーズの大声が響いた。
背後には四人の風の神官たち、バードンとティアが眠そうな目を擦っている。
その声量には、作戦の秘匿性も何もあったものではない。
もっとも、司令部は秘匿性など、最初から考えてもいない。河川流域制圧のためには、シャーラ奪回に最北の蛮族の目が向くことは歓迎すべきことだった。
「まだ真っ暗じゃないですかぁ。
いえ、いつでも出られますけど、夜明けまでにはまだかなり時間がありますよ、エンドラーズ様」
上半身裸のアービィが、バードンやティア同様に目を擦りながら出てきた。
「準備はできているんですけどぉ。
ベッドが離れたくないって」
ルティは不満げにブツクサ言っている。
「ルティ、ベッドがじゃなくて、アービィとじゃないの?
その格好じゃ説得力ないわよ」
いかにも慌てて身支度をしてきたというルティの服装を見て、ティアが茶々を入れた。
「余計なこと言わないで。
あんたがそうだったからって、他の人全部がそうとは限らないのっ!」
図星を指されてルティが真っ赤になる。
「その言葉、そっくりお返しするわよっ!
この、先天性胸部未発達症!」
ルティの言葉にティアも真っ赤になっていた。
「何よ、後天性年齢過多!
ちょっとは年の功ってものも見せてみなさいよ!」
最も言われたくないことに触れられ、ルティが暴発する。
「いい加減にしろ」
ティアの首根っこをバードンが掴む。
「莫迦やってないで支度するよ。
僕たち待ちじゃないか」
ティアに向かって牙を剥くルティの首根っこを引きずり、アービィは家に戻っていった。
やがて、東の空が白み始める頃、ターバを囲む結界から、九つの影が出て行った。
そして、陽が昇り始める直前、九人を追うように小規模な集団が、ひっそりと人目を避けるようにターバを後にした。