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狼と少女の物語  作者: くらいさおら
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第90話

 「エンドラーズ様、相も変わらずご壮健のご様子、恐悦至極にございます。

 過日のお取り計らいのお陰様をもちまして、道中ご覧いただきました通り、北の大地も豊饒の地へと生まれ変わりつつございます」

 パーカホにあるランケオラータの家を改装した平野中央連合の政務室で、風の最高神祇官エンドラーズの来訪を受け、主だった面子が集まっていた。


 ランケオラータが丁寧に挨拶し、レイやリンドリク元公爵、元ラシアス財務卿がそれに続く。

 そして武人であることを誇示するかのようなきびきびした動作で、ルムが一礼した。ルムに付き従うパーカホの重鎮たちも、ぎこちない動作ではあるが、感謝の念に溢れた礼をした。


「いやいや、これほどに大地を生まれ変わらせたのは、皆々様のご努力の賜物。

 私のしたことなど、苗や種を多めに用意しただけに過ぎません。

 我らに手柄があるとすれば、それは先にこちらに渡った神官たちのもの。

 そのような御礼は、私には過分にございます。

 お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたしましょう」

 エンドラーズか返答する。


「して、最高神祇官様がわざわざおいでになるほどの理由は、如何なるものにございましょうか。

 我々はこれからシャーラ奪回の作戦を実施いたします。

 確かにそれに当たりまして、結界の構築に神官殿の派遣を依頼しておりました。

 ですが、最高神祇官様のお手を煩わせるような任務ではございません。

 エンドラーズ様のお考えを、教えていただけますでしょうか?」

 ランケオラータが訊ねた。


 結界の構築は、わざわざ最高神祇官が出てくるような、特別な作業ではない。

 それこそ、一人前と認められる神官であれば、誰でも務まる程度のことだ。それに、先に派遣された神官たちは、それぞれに仕事を抱えており、シャーラ奪回後の農地改良まで手が回らない。北の民もそれなりに技術を身に付けつつあるが、結果が出るまでに時間の掛かる農業は、その検証や過ちの修正にも同様に時間が必要だ。来年までは、現在受け持った区域を離れることは、やりっ放しになってしまうためできなかった。

 最高神祇官に農業指導などやらせるわけにはいかず、本音で言えば多数の神官を派遣してもらいたいところだった。


「私などが独りで参ってしまい、大変申し訳ない。

 ところで、アービィ殿とティア殿は、こちらにはいらっしゃらないか?」

 エンドラーズもその辺りは理解している。


 しかし、神官は後から派遣すればよいが、今はエンドラーズの権威が必要だった。もっとも、神官たちを同行させてもよかったのだが、気ままな独り旅を楽しみたいがためにエンドラーズは他の神官を置き去りにしていた。『悔しかったらここまでおいで』と言ってある以上、さほど日を置かず火の神殿に預けてきた神官たちは、追いついてくるはずだろう。使命を果たすためと、エンドラーズに一矢を報いるために。


「アービィ殿たちはシャーラ奪回のため、プラボック殿とラルンクルス殿を始めとした司令部共々ターバに進出しております」

 ルムが答えた。


「エンドラーズ様、アービィたちにご用が?」

 レイがただならぬ雰囲気を感じて訊ねた。


「如何にも。

 今、こちらには北の大地の主だった方々がおいでですな?

 ならば都合がよいと言うもの。

 本来であれば、アービィ殿とティア殿に一言言ってからにすべきことではありますが、わざわざ呼び戻したり、ターバまで往復するような面倒は省きましょう」

 エンドラーズはそう言って言葉を区切る。


 レイだけでなく、その場に居合わせたすべての者がただならぬ雰囲気を感じ取った。

 エンドラーズは、わざわざアービィとティアの二人だけを名指しにしている。二頭の正体を知るランケオラータ、レイ、ルムの背筋に冷たいものが流れた。



「我ら全精霊神殿は、アービィ殿と、ティア殿を」

 エンドラーズは再度言葉を区切り、厳かな表情を作ってランケオラータたちを見渡した。


「彼の人狼とラミアを祝福することといたしました」

 その場に居合わせた人々の間に、どよめきが走った。


 ある者はこの日が来るのを待ち焦がれていた安堵から、ある者は予想もしなかった事態に、ある者は恐怖から、ある者は正体を謀っていたことへの怒りから。理由は様々だが、部屋全体が大きく動いたようにも感じられた。



「冗談ではございません!

 精霊神殿は、気でも狂いましたか!?

 そのような悪魔と、肩を並べろと仰るのですか!?」

 半数の人々が、人狼への恐怖を隠せない口調で詰問する。


 口汚く人狼を罵り、ラミアを罵る。

 あまりにも当たり前の反応だった。しかしエンドラーズは、このような反応など折り込み済みとばかりに、平然とした態度を崩していない。


「皆々様の反応は、極々当たり前にございます。

 ですが、思い返していただきたい。

 彼の二頭が、あなた方に仇成すような真似を、したことがありましたでしょうか?

 アービィ殿が、人を喰らっておりましたか?

 ティア殿が、男の精を絞り尽くしていたでしょうか?

 精霊は、全てを見通しております。

 全く、そのようなことはございません。

 彼の二頭より、邪悪な気配など、一切、感じ取ることは、ございませんでした」

 怒りと困惑に表情を歪める人々を見渡し、エンドラーズは一言ずつ確認するように言った。


「精霊神殿が、すべての責任を持ちましょう。

 彼の二頭に弓引く者は、精霊神殿に弓引くとお心得願いたい!」

 裂帛の気合いを込め、しかし、口調を荒げることなくエンドラーズは言い切った。

 尚も数人が何か言い募ろうとするが、ランケオラータがそれを遮るように話し始めた。


「彼らが正体を隠していたのは、私たちが止めたからだ。

 既に、昨年北の大地に渡った時点で、彼らは正体を公表する気でいた。

 しかし、無用の混乱を避けるため、私たちが止めていたのだ。

 諸君が人狼やラミアを恐れる気持ちは、よく解る。

 私とて、最初は恐怖したものだ。

 レイに至っては、旧知の仲であるにも拘わらず、その姿を見たときには卒倒している。

 だが、私たちが彼らを怖がっているように見えるか、諸君?

 人狼やラミアを恐れる気持ちは、正しい。

 しかし、アービィとティアを恐れる必要など、私たちには全くない!

 彼らは友人ではないのか?

 共に戦い、苦楽を共にする戦友ではないのか、諸君!?」

 ランケオラータの頬には涙が流れていた。


 北の民はともかく、南大陸でそれなりの地位にいた者、つまり、この場に同席を許されるような立場の者は、当然ラシアスやアマニューク、ビースマックでのことは知っている。

 アービィたちがヒドラ殺しの英雄、アマニュークの英雄、ビースマックの英雄と呼ばれていることも、ラシアスのニムファによって、勇者として異世界から連れ去られた人物であることも当然知っていた。思えば、アービィが悪事を働いたという例は聞いたことがない。そして、アービィやティアがいなければ、ターバ奪回どころではなかった。いや、ほとんどのことが上手く行ってはいないだろう。

 これまで、アービィが人狼としての本性を現したことも、ティアがラミアとしての本性を現したことも、人々の記憶にはなかった。


 振り上げた拳から力が抜け、きまり悪そうな表情を浮かべて、人狼とラミアを罵った人々は声を収めた。

 決して彼らの感情は悪意ではない。この世界に生きる人々として、当然の反応だ。エンドラーズもランケオラータも、それを責める気など全くない。


「皆々様、よくよくお考えいただきたい。

 北の民と南大陸の住人は、手を結ぶことができたのです。

 悪意を持たぬ魔獣と、人間が手を結ぶ。

 新しい時代ではありませんか。

 魔獣に肉親や友を食われた方々もおりましょう。

 その方々の悲嘆は想像に余りあるものでございます。

 ですか、ですが、よくよくお考えいただきたい。

 魔獣による被害より、人間の戦争による死者の方が圧倒的に多いのです。

 日々暮らす人々を脅かしているのは、魔獣よりも野盗や人攫い、奴隷狩りの方が圧倒的に多いのです。

 魔獣を憎むのであれば、人間をも憎まなければなりません。

 仮に、親子兄弟、友、愛する人を野盗に殺されたからといって、奴隷狩りや人攫いに連れ去られたからといって、人間そのものを憎むでしょうか?

 その犯人が他国の者だったとして、その国の民全てを憎むのでしょうか?

 いいえ、野盗や奴隷狩り、人攫いという犯罪者やその個人を憎むことはあっても、人間そのものを、国民全てを憎むことはありません。

 魔獣であっても同様です。

 悪意を捨て、悪意などそもそも持たぬ魔獣に、他の魔獣の罪を着せ、手近にいるからといって迫害することは正しい行いでしょうか? それは人の道に外れると、私は、最高神祇官としての立場を離れ、そう考えるのでございます」

 詭弁であることは百も承知でエンドラーズは人々に語りかけた。


 だが、言われてみれば、確かにそうだった。

 アービィの、底抜けのお人好し加減は、演じてできるようなものではない。ティアにしてみても、あの開けっ広げな裏に企みを持っているとは、到底思えない。

 ルティの存在が、それを裏付けている。年相応の子供っぽさが演技であれば、この世には悪魔しかいないと言ってもいいくらいだ。ルティが二頭を認めているなら、何よりの保証になる。一時怒りや恐怖を露わにした人々も、そう思い直し始めていた。


「まだ、この場で聞いたことは他言無用。

 諸君の反応を考えれば、兵や民がどう動くか想像に難くない。

 いずれ、時来たれば公表するが、今はまだ早い。

 諸君の胸のうちに収めておいていただきたい」

 ルムが言った。

 やはり、性急に事を進めるべきではない。


 シャーラ解放の暁には、アービィたちの正体を公表しても構わないと、ランケオラータは考えていた。

 シャーラが解放されたなら、後は一気に最北の地を衝くだけだ。シャーラからさらに十日ほどの中央部最北最大の集落ラーニャが事実上最北の蛮族の出城となっている現状では、シャーラ以北の拠点を築くことは難しい。やってやれなくはないが、師団単位を磨り潰す規模の会戦を覚悟しなければならないだろう。夜を主戦場とする不死者と、日中でしか大規模な会戦ができない生者とでは、どう考えても夜目が聞く不死者が有利だ。

 大規模な会戦は、極力避ける必要があった。


 シャーラを結界で要塞化しラーニャとの間に拮抗状態を作り、隙を衝いてターバ解放と同様にラーニャを結界で囲むか、いっそラーニャを抜いて少数精鋭を最北の地に突入させるか、難しい判断に迫られている。


「ランケオラータ殿、私が危惧しているところは、戦場で兵が今の皆様のような反応をしてしまうことでございます。

 ラシアスのアルギール城地下迷宮に、邪悪な魔法陣が発現いたしました。

 おそらくは、不死者、それもかなり高位の者が南大陸に潜入しております。

 南大陸では既に各国が祝福方儀式済みの武具にて武装しておりますれば、不死者が群れで攻めようと脅威ではございません。

 彼の者の目的は、アービィ殿に討ち減らされた合成魔獣の補充と見られております。

 もし、合成魔獣の群れを結界内に放り込まれれば、大混乱は必定にて、二頭の魔獣が獣化せねばならぬ事態が起こりましょう。

 その際のさらなる混乱を防ぐため、私が参ったのでございます。

 仮にも最高神祇官にござりますれば、その権威を以て混乱を最小限に留められましょう」

 エンドラーズが本来の目的を話した。


 如何に火の最高神祇官が遠見の術を身に付けていようと、所在不明の者まで捜し当てることは困難だ。

 魔法陣の発動は、精霊とは対極の邪悪な気配を振りまくため、どこであろうと感知はできる。だが、発動していない魔法陣は感知しようがないため、合成魔獣の材料となる野生動物や魔獣を北の大地へ送った後でしか場所の特定はできない。場所さえ特定できれば、火の最高神祇官と精霊を介して視界を共有したうえで『移転』で跳び、数日以内にそれを破壊することはできる。しかし、どうしても後手に回ってしまうのだった。それ故、北の大地には大量の合成魔獣が溢れかえると、覚悟しておかなければならない。

 如何にアービィといえど、数百の合成魔獣相手に、獣化せず戦うことは不可能だ。


「先ほどの皆の反応を見れば、それも難しいことかと存じます。

 如何でございましょうか、私が彼の人狼に命を救われたと噂を流しては。

 段階的に不死者の集落を焼き払ったことや、ターバ解放も彼の二頭の手柄であると、噂にしてみては如何でしょう。

 もちろん、ご同行いただいた神官殿たち、ターバの皆さん、将兵諸君の手柄でもありますが、戦闘詳報を読んだ限り、彼の二頭の功績は突出しております。

 私が南大陸へ戻る際の、二頭の功績につきましては言うまでもありますまい」

 ランケオラータが話を締めくくった。



「では、そのようにお取り計らいいただきましょう。

 私は、これにて。

 数日もすれば、風の神官が四人こちらに到着しましょう。

『悔しかったらここまでおいで』と、お伝えいただきたい」

 碌に休息も取らず、エンドラーズはターバ目指して発っていった。



 ビースマックに潜んだグレシオフィは、野生動物や魔獣を狩り、急造の魔法陣で最北の地へ獲物を送りつつ、精霊神官やマ教の悪魔狩りの手を逃れ転々としていた。

 魔法陣を発動させればすぐに精霊神殿に探知され、精霊を介した地形イメージが神官や悪魔狩りに伝えられ、早ければ数刻、遅くとも二、三日以内に追っ手が差し向けられている。未だグレシオフィの面貌が割れておらず、魔法陣発動後は、すぐ『移転』で離れた集落近くへ跳んでいるため、追っ手も特定の人物を追跡するまでには至っていない。


 集落の側に移転する度、グレシオフィは情報収集のため人々と接することに努めていた。

 一気に不死者を大量生産することも可能ではあるが、夜間しか移動できない不利を突かれるのは確実だった。それに、簡単に不死者にしてしまっては、苦痛や悲嘆を与えることができず、怨みを晴らすという目的を果たせない。不死者への転生は、忠実な配下だけに留めると、グレシオフィは戦略を換えていた。



 ビースマックに生まれ育った南大陸の住民と、北の大地から売り飛ばされてきたり、どさくさで移住してきた北の民との関係は、ビースマックの国民気質からそれほど険悪ではない。

 ビースマックに起居する北の民の多くは、社会を底辺から支える奴隷や娼婦として重要視されている。奴隷は大切な働き手であり、娼婦は性犯罪を防ぐための大切な緩衝材と認識されている。長い間北の民の脅威に晒され続けたラシアスとは、根本的に付き合い方が違っていた。かつて、今回同様合成魔獣の材料集めにこの地を訪れた際も、にこやかに言葉を交わすビースマックの民と北の民を見て、不思議な感覚に囚われたことはあった。しかし、今回はそのときよりも、さらに両者の距離が近くなっている気がする。

 奴隷や娼婦としては歳を取り過ぎた北の民が、違和感なく地域のコミュニティに溶け込んでいた。


 何にはどう見ても若い北の民が、奴隷や娼婦という立場以外で、ビースマックの民の間を自由に泳いでいる。

 商店の売り子であったり、飲食店の接客であったり、商品の輸送に携わる者がいた。若者も、歳を取った者も、『生業』を得て、生計を立てていた。


 はっきりと明言されたわけではないが、アービィたちの残した影響だった。

 アービィがビースマック騒乱を解決した後、その時点では別れていたが、メデューサがアマニュークの英雄の一人であることが知れ渡った。北の民にも、英雄足りうる人物がいる。メディの存在は、南大陸の住人の目を開かせ、北の民の希望になった。そして、メディの義父はギーセンハイムの重鎮の一人であり、人物を保証するにしても充分すぎる立場だ。

 メディが義父の元で治癒師として開業したことも、北の民にとってプラスに働いた。


 これまでの治癒師は、水の白呪文しか使わない者が多く、疾病に対しては対処療法の域を出るものではなかった。

 怪我はそれでも良かったが、最近やウィルス、真菌やリケッチャ、寄生虫による病は、受けたダメージこそ回復できるが、根本的な病根を取り除かない限り何度でも再発していた。もちろん、ダメージを回復することで抵抗力も回復し、病根を克服できることもあったが、それは軽微な細菌症に限られていた。この時代はまだ細菌やウィルスなどの存在は知られておらず、微細な生物由来の毒素によって病が引き起こされたり、人体の免疫防衛反応で発熱するという事実は知られていなかった。

 アービィから疾病の基本的な情報を得たメディは、火の白呪文と組み合わせた治癒を行い、目覚ましい成果を挙げていた。


 治癒を求める患者が当に門前市を成しといった状態で、メディが過労で倒れてしまうのではないかと両親が心配するほどだった。

 それでもメディは北の民の社会的な地位向上を目指し、最低限の休みを取るだけで治癒に当たっていた。中にはその繁盛振りに嫉妬し、北の邪法で患者を作り出していると、ありもしない誹謗中傷をしたり、北の民如きに完璧な治癒など無理と決めつける商売敵も多かった。

 しかし、それらのほとんどは、火の白呪文の使いどころが見当も付かないか、火の白呪文そのものを使えないかのどちらかで、中には患者を囲い込むためにわざと不完全な治癒しかしない者すらいた。


 メディ自身は北の民への誹謗中傷など慣れたものであり、全くと言っていいほど気にしていない。

 ビースマックの民の気質は、すぐれた技術者であれば出自や立場に囚われることなく尊敬の対象としている。メディの義父が社会的に上位であるだけでは、メディまで尊敬の対象とはなり得ない。だが、メディの持つ治癒師としての技術は、尊敬を集めるには充分すぎるほどのものだった。メディに対して誹謗中傷や嫌がらせを行う者たちは、嫉妬にまみれた信用ならざる者共として、社会的な信用を急速に失っていった。


 もちろんメディは、治癒師としての目の付け所は、アービィからの知識であることを自覚している。反対勢力を駆逐してしまっては、後々手酷いしっぺ返しが北の民全体に降りかかることも理解していた。メディの両親は、南大陸連合から各国王室を通して発布された特許や意匠登録を利用し、低位の水の白呪文だけで対処可能な疾患に関しては、商売敵へ紹介し批判を反らす努力もしていた。

 いずれにせよ、今のところはメディの謙虚な性格と、両親や三人を取り巻く人々のお陰で、メディの存在そのものが北の民の社会的地位向上に非常に役立っていた。



 もちろん、メディのような成功例は稀で、多くの北の民は虐待や迫害にこそ遭わないが、社会の底辺から脱出することはまだ困難だ。

 日々の糧を得る手段が奴隷としての単純労働や、娼婦として性を売り物にするしかないのでは、別の職に就くための保証人すら見つけらない。結局、奴隷や娼婦から解放しても、今度は合法的に元の立場に舞い戻るしかなかった。


 彼らを使役する所有者にしても、入手の契約の時点ではあくまでも合法であり、無償で手放すことは認め難いことだった。

 国が補償するにも数が多すぎ、騒乱で疲弊しているビースマックにはその余力がない。

 ギーセンハイムにも余裕などあるわけないのだが、メディは時間の許す限り、奴隷の持ち主や娼館の主人と面会し、彼らの自立を促す方策について検討を重ね続けていた。


 非合法な手段で現在の立場に身を落としている者たちについては、奴隷にせよ娼婦にせよ使役者も承知のうえで買っている以上、公式に解放すると言われたら断りにくい。

 だが、奴隷や娼婦に対する賠償責任までは、使役者に負わせることは難しかった。無償で解放させられてしまえば、ある程度稼ぎがあったところで丸損になってしまう。自由を奪う代わりに、最低限とはいえ衣食住の保障をしていたからだ。特に娼婦は不健康な体型では客も付かないため、食に関してはかなり恵まれたものでもあり、その分多大な経費が掛かっていた。

 何よりも使役者の多くは、北の大地から連れてこられた経緯はともかく、合法的に奴隷や娼婦を入手していたからだ。


 賠償責任の拒絶はもとより、購入代金の補償を求める声が挙がることは、当然の成り行きだった。

 流民として南大陸に渡り、貧困から合法的に奴隷や娼婦に身を落とした者たちも、貧困を解決できなければ何度でも元の立場に舞い戻ってきてしまう。インフラストラクチャーの整備ばかりではなく、社会全体のリストラクチャリングが必要だった。

 解決にはまだまだ道程は遠いが、道筋は朧気に見えており、誰も絶望はしていなかった。


 グレシオフィによって最北の民の勢力拡大のために南大陸に売り払われた少女が、結果的に南大陸における北の民の社会的地位向上に貢献しているなど、彼には想像も付かないことだった。

 同様に、勇者として召喚された現代日本人のアービィを、役立たずにするために人狼に封じ込めていたが、アービィの行動もまた結果的に北の民の地位向上に役立っていた。北の大地に光臨した魔王を倒し、北の民を討ち鎮めるはずの勇者が、悪魔の化身と化し北の民と汗を流している。しかし、悪魔の化身に封じたはずの勇者は、却って大きな力を身に付け魔王の前に北の民と南大陸の住人のため立ちはだかった。召喚した者とそれを妨害した者の行為は、不十分な形でそれぞれ成功していたが、各人の思惑を外れ世界を一つに纏め上げようとしていた。

 世界の覇者となり、世界を一つに纏めて手中に収めようという野望は、皮肉な形で前半だけが実現しようとしている。



「えっと、ご公務は大丈夫なのですか?」

 困惑の表情に固まるアービィたち三人の前で、風の最高神祇官エンドラーズは満面に笑みを湛え、静かに茶を喫していた。


「大丈夫と思えば、大丈夫なのですぞ、そのようなものは。

 いえ、大丈夫か、ではなく、大丈夫にする。

 この意志こそが、重要なのでございますっ!」

 無駄に力強く、エンドラーズが言い放つ。


「でも、ご公務の代行は、お残りになっている神官様たちで――」

「気合いと根性!

 どうにかなるものでございます!

 どうにもならないことがあったなら、それは既にどうにでもなっていいことでもございますっ!」

 ルティの問を食いちぎるように、エンドラーズが言葉を被せる。


「なんて無茶苦茶な……」

 ティアは、残された神官たちの苦労を想い、他人事ながら頭を抱えた。


「それにしても、慌てると碌なことにはなりませんな。

 こちらにいる神官と精霊を介して感応し、途中何ヶ所か間を置いて『移転』を行使しましたが、明確な光景が伝わる前に発動してしまいましてな。

 危うく時空の狭間に弾け飛ぶところでした」

 そう言ってエンドラーズは豪快に笑った。

 アービィたちはどう答えていいか解らず、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。


 パーカホを出た後、エンドラーズはターバに滞在している神官と精霊を介して道中のイメージを共有し合い、『移転』の呪文を使って一気にターバまで跳躍を繰り返していた。呪文の使用回数が尽きた後は、触媒と回復薬を併用し、無理矢理使用回数を元に戻して僅か半日でターバに辿り着いていた。イメージは記憶から精霊が映像として取り出すため、神官の記憶が曖昧でも精霊の補正があるので、どこかに弾き飛ばされる心配はない。

 だが、先を急ぐエンドラーズは、精霊から明確なイメージが伝わる前に『移転』の詠唱を終え発動させたため、危うく時空の狭間に落ち掛けていたのだった。



 茶のお代わりを運んできたバードンも、困惑の表情ではないものの苦笑いを浮かべている。

 マ教嫌いで鳴らす最高神祇官の顔は、直接面識はなくとも知っている。これから共に闘うことになる戦友に喧嘩を仕掛ける気など全くなかったが、こちらを嫌っている相手にどう声を掛けて良いか迷っていた。

 初対面でどれほどの罵声を浴びせられるか、ある程度の覚悟はしていたが、拍子抜けするほど友好的な態度に毒気を抜かれていたのだった。


「いや、ご心配なく。

 公務に関しては、火の神殿より応援をいただいております故。

 ストラー国常備軍の武具への祝福法儀式も粗方片が付きましてな。

 それほど仕事は溜まってはおりません」

 涼しい顔でエンドラーズは答え、バードンが持ってきた茶を悠々と受け取り、丁寧に頭を下げてから口を付けた。


「お口に合いますでしょうか。

 北の大地では南大陸のような茶が育ちません。

 これは、最高神祇官様がお通りになってきた路傍にも生えている、笹を干して煎じた物。

 旨みが南大陸の茶とはまるで違いますが、私は病みつきになっております」

 エンドラーズから頭を下げられ、毒気を抜かれたバードンが笹茶の説明をした。


「何ともいえぬ旨みですな。

 神父殿が病みつきになるのも分かりますぞ。

 しかし、あなたがアービィ殿と肩を並べているとは」

 バードンの顔をしげしげと見ながら、エンドラーズがにやりと笑った。


「私をご存知で?」

 バードンが聞いた。

 神殿の奥深くに起居する最高神祇官が、聖職者でありながら汚れ仕事を生業とし、裏街道を歩き続けたバードンのことなど知っているとは思いもよらなかった。


「申し訳ございませんが、一方的に。

 あなたも私のことは一方的にご存知だったのでは?

 私が、あなたの所属する教団を、徹底的に嫌っていることを、ね」

 そう言ってエンドラーズは爆笑した。

 高らかに笑うのではなく、バードンが反応に困ることを期待しての、爆笑だ。原理主義者であればここで殴り合いの喧嘩にでもなるのだろうが、布教からは一歩引いているバードンは苦笑いを浮かべるだけだった。


「えっ?

 エンドラーズ様、いつ、僕の?」

 アービィがエンドラーズの言葉の意味に気付くには、少しだけ時間が掛かった。

 ティアもその意味に気付き、顔色を蒼ざめさせている。


「アービィ殿、私とて伊達に最高神祇官などやっているわけではございません。

 クシュナックでお目にかかったときから。

 ティア殿、どうされましたかな?」

 エンドラーズは、嫌味も悪意もない笑顔で二頭の魔獣を見て言った。


「この度、私が北の大地へ渡ったのは、このためです。

 あなたがた二頭の魔獣を、全精霊神殿の名において祝福する。

 こちらに来る前に、ランケオラータ殿にもそのようにお伝えしてございます。

 あなた方は、もう暫くすれば正体を隠す必要はございません」

 エンドラーズの言葉に四人が息を呑む。


「ランケオラータ様は、なんと仰っておられましたか?

 僕たちの正体を明かすには、時期尚早ではないでしょうか?

 迫害を恐れるわけではありません。

 いずれ、近いうちにとは思っていましたし。

 あと、僕たちを利用したり、名前をかたり人間を喰らおうとする人狼やラミアが出ないとも限らない、そう思うようにもなっているんです」

 アービィがいくつかの危惧を挙げた。


「おそらく、それを利用しようという、悪辣な人狼やラミアが出ましょう。

 ですが、精霊神殿の告知であなた方の居場所は大雑把ではありますが、民に知らされることになります。

 作戦の機密には触れずにですが。

 差し当たり、今ならターバにいるといった程度にです。

 あなた方と志を同じくしようという魔獣がいれば、水の最高神祇官が審査に当たります。

 彼女は読心の術を水の精霊の加護により身に付けておりますのでな。

 つまり、あなた方を祝福することで、そちらの神父殿の仕事もしやすくなる。

 炙り出しですな。

 お気を悪くしないでいただきたい」

 エンドラーズは、最高神祇官自ら北の大地へ渡った理由を説明した。



「一体、それはどういうことでございましょう!?

 仮にも人々の信仰を集める精霊神殿ともあろうものが、魔獣を祝福するなど!」

 エンドラーズの言葉に、断じて許し難しとの気合いを込めたバードンの叫びが重なった。


「おや、これは神父殿、ではマ教で祝福なさると?」

 バードンの叫びなど意に介さぬとばかりに、エンドラーズは平然と答える。


「冗談で済む話ではございませんぞ、最高神祇官様。

 人を喰らう人狼を、男を喰らうラミアを、我らが祝福などするはずもございません。

 例え精霊神殿であろうと、民の敵を祝福するというのであれば、我らは黙って見過ごすことなど、できようはずもございません!」

 一言ずつ、自らに言い聞かせるように、バードンは叫んだ。


「その人狼とラミアと、神父殿は肩を並べていらっしゃる。

 この二頭に害がないことは、神父殿、あなたが一番ご存知のはず」

 バードンの心を見透かすように、エンドラーズは静かに言った。


 バードンも理解している。

 アービィもティアも、魔獣として人間と肩を並べて生きることを望み、人間に害をなす可能性は皆無であることを。決して人間になりたいというのではなく、魔獣を魔獣として、共に歴史を紡いでいくことのできる仲間として認められたいと願っていることを。精霊の祝福に何の問題もないことも、バードンは理解している。だが、それを認めてしまうと、自分の人生を否定されてしまう。

 そんな予感が、精神の防衛本能が、必死に否定していたのだった。


 バードンの葛藤を解すように、エンドラーズは言葉を続ける。

「こちらの人狼、アービィ殿からは人の生き血の臭いなど痕跡すら感じられませんな?

 つまりは、生まれてよりこの方、いえ、異世界人の魂が狼の子に封じられてより現在に至るまで、一度たりとも人を喰らったことがない、と。

 こちらのラミア、ティア殿が男を喰らい尽くすことを放棄すると決心なさったことも。

 人を喰らわぬ人狼と、男を喰らい尽くさぬラミアは、もはや害をなす魔獣ではございません。

 二頭が魔獣の姿を封じて人として生きるもよし、何時如何なるときでも望む姿で生きるもよし。

 精霊神殿は、誰がどう仰ろうとも、この二頭の魔獣を祝福いたします」

 バードンの心を見透かし、念を押すかのようにエンドラーズは言った。


「精霊神殿は、我らとこと構える、そう仰るのでございましょうか、エンドラーズ様?」

 地鳴りのような低い声が、バードンの喉から漏れた。


「それをお決めになるのは、教皇猊下でございましょう?

 神父殿は『これまで通り』、アービィ殿と肩をお並べになればよろしい。

 神父殿のこれまでの行動自体、我ら同様の行いですぞ?」

 柳に風とばかりにエンドラーズは受け流し、バードンにとっては痛い所を突いた。


 どう言い繕おうと、一年以上に亘って神父が人狼とラミアと行動を共にしているなど、教会に知れたら譴責どころの騒ぎではなかった。下手をすれば人狼やラミアに荷担する者として、悪魔狩りの対象にすらなりかねない。

 別の見方をすれば、マ教が人狼とラミアの存在を、認めたとも受け取れる状態だ。


「さようで、ございますか。

 精霊神殿は、教会を敵に回すお覚悟と、受け取ってよろしゅうございますな?」

 そう言ってバードンは、エンドラーズの言葉を待つ。


「覚悟も何も、教皇猊下の御心は、那辺にございましょうや?

 マ教による、南北両大陸の思想統一をお望みか?

 まつろわぬ者たちを根絶やしにする、戦乱の世をお望みか?

 それ以前に神父殿、ご自分の心を偽り続けるのは、いかがなものでございましょうな?」

 これがとどめになった。


 エンドラーズの視線が、涙ぐむティアに向けられたことを、バードンは気付いた。 ティアは目に涙をいっぱいに溜めながら、不安げな視線でバードンとエンドラーズの論争を見守っていた。その視線に気付いたバードンは、ルティからも同様の視線を送られていることにも気付き、長い、長い沈黙へと沈んでいった。 



 当事者であるアービィもティアも、バードンの言葉を待って沈黙している。

 バードンが口先はどうあれ、二頭の魔獣に対し好意を抱いているのは、ルティを含めて解っている。しかし、公式な場となってしまった状態で、公式の立場からものを言わなければならないとなると、本心だけを言っていればいいというわけではない。マ教の神父が、悪魔狩りが、対人狼の最終兵器が、ラミアを愛し、人狼を友と呼ぶなど、到底認められるはずもない。

 やがて、永遠にも感じられた静寂を破り、一言一言を自らに言い聞かせるように、バードンが静かに言葉を紡ぎ出す。


「私も、教会の一部に蔓延る原理主義には、ほとほと嫌気が差しておりました。

 猊下の御心は全ての民の融和にございます。

 猊下の御心は、神の大御心をお映しになられたもの。

 なれば神の大御心は、全ての民の融和。

 我がマ教は他を、他の神を、他の存在を認めましょう。

 私は、マ教の神父として、猊下の、神の大御心に従うのみ。

 この二頭を排斥しようと刺客を送る者は、猊下の、神の大御心に背く者として、私が排除いたしましょうぞ。

 何も心配する必要など、ない!

 ティア!」

 長い沈黙のあと、晴れやかな表情でバードンは言い放った。


 次の瞬間。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしたティアが、バードンに抱きついた。同時にルティがアービィに、こちらも涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま飛びついた。

 バードンもアービィも、泣きじゃくる二人を抱き締めている。アービィの両目にも光るものがあった。

 結局、バードンは二頭の存在を、既に認めていた。あとは感情に整理が付けばいいだけだった。誰かに背中を押してもらいたかったことに、バードンは気付いていた。


 既にティアもルティも、しゃくりあげてしまって言葉にならない。

 バードンとアービィの名を呼び、その後に何かを続けようとするが、言葉としての呈を成していない。幼子のように、二人の胸に顔を埋め、ただ泣くだけになっていた。


 バードンは、人狼に肉親を喰らわれて以来、初めて他者を愛しいと感じていた。

 二度と失いたくない他者。父を、母を、兄弟姉妹を失ったときの悲しみを、二度と繰り返したくないからこそ、他者を拒絶していたことにバードンは改めて気付いた。そして、頑なな心をいつの間にか解きほぐしてくれていたラミアに、限りない愛しさを感じている。

 魔獣であることなど、些末な問題でしかない。愛する者、守るべき者を、バードンは遂に手に入れていた。



「年寄りには、刺激が強すぎますな」

 エンドラーズの満足げな言葉は、四人の耳に届いていなかった。

 そして年嵩らしい配慮を見せ、四人の邪魔にならないように、そっと用意された宿舎へと戻っていった。



 その夜、ティアの部屋のドアが開く音が聞こえ、足音が遠ざかり、戻ってくることはなかった。


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