第88話
火の神殿は、グラザナイに開闢以来未曾有の多忙さの中で祝福法儀式に勤しんでいた。
当然のことながら、祝福法儀式だけに人員を割いていて良いというわけではない。精霊との交感のための祈りや、日々訪れる人々が精霊と契約する際の依り代としての役割といった基本的な神事から、それぞれが抱える神秘的な事象や真理の探求といった精神性や知性を高める自己研鑽、さらには神殿運営に係るカネ勘定まで含めた雑事など幅広い業務が山のようにある。
だが、両大陸の平和に関ってくる武具の祝福法儀式は現在最優先事項になっており、普段であれば精霊との交感こそ最優先の役割であるはずの最高神祇官までが祝福法儀式を行っていた。
そこへ、予告も事前に面会の約束を取り付けることもなく最高神祇官を訪ねて来た者がいた。
遠見の術を精霊の加護により身につけた火の最高神祇官は、既に来訪者を数日前に見通しており、この日の祝福法儀式を他の者に委ね居室でしばしの休息を取っていた。ところが、予想していた時間になっても来訪者は姿を現さず、不審に思った彼は再度遠見の術を行使し、そして頭を抱え込んでいた。
やがて、最初に見通したときより少ない人数、五人だったはずが一人になった来客が、火の最高神祇官が待つ居室の扉を叩いた。
「ええい、騒々しい。
もっと静かにできんのか、そなたは」
火の最高神祇官の呆れ果てたような叱責に動じることなく入ってきた来客は、完璧な所作で挨拶した後、進められる前に傍らの椅子を引き、火の最高神祇官の前に腰を下ろした。
「いやいや、これは大変申し訳ございません。
いい加減、お耳が遠くなっているのではないかと思いまして、よくお聞き取りいただけるようにと。
本日はお忙しい中、お時間をいただきまして誠にありがとうございます。
旅立ちの前に、一つご挨拶に伺おうと思いまして、こうしてまかりこした次第でございます」
四十半ばに見える男は、丁寧な口調ながら細かいことは気にしないという雰囲気を漂わせている。
「結局、そなたを止め切れなかった、ということじゃな。
ひとつ聞きたいのじゃが、五人で参ったと見ておったが?」
無礼さは相変わらず、と諦めの表情の火の最高神祇官は、分かっていることを敢えて聞いた。
「おや、ご存知でございましたか?
他の者には、用を言いつけ、戻ってもらいました」
悪びれる様子もなく、男は答える。
見ていたなら聞くまでもなかろう、という雰囲気が全身から滲み出ていた。
「これは異なことを……
……今しがた、こちらに運び込まれたようじゃが。
あまり、手荒な真似をするでない」
暫く双眸を閉じ、遠見の術を行使した後、火の最高神祇官は苦々しく言った。
「実力を以って止めようとして者を、実力を以って排したまででございます。
暫くお預かりいただき、後日帰還するようお伝えください。
あ、もう一言。
『悔しかったらここまでおいで』と」
しれっとした表情で男は答えた。
「全く、飽きもせずそなたらは。
何故、そなたの元に人が集まるか、儂には理解できん。
して、そなたが抜けて不都合はないのか?」
信じられないという表情で答えたあと、心配していたことを火の最高神祇官は聞く。
「ご心配には及びませぬ。
それも併せてお願いに上がりました故。
五人ばかり、こちらに派遣していただきたい」
直後、風の最高神祇官エンドラーズは、火の最高神祇官の血管が千切れ飛ぶのではないかと思えるほどの罵声を背に浴びながら、居室を叩き出された。
「さて、お戯れはこれくらいでよろしゅうございましょうか」
最高神祇官居室に舞い戻ったエンドラーズが言った。
「やはり、そなたが行かなければならんほど、状況は良くないということか?」
火の最高神祇官がエンドラーズに問う。
「既にお見通しの通り、アルギール城の地下迷宮を邪悪な気配が通っております。
間違いなく、最北の地より参ったものでありましょうな、御老のお見立て通り。
おそらくは、いえ、ほぼ間違いなく、その者の目的は、狼の彼に滅し去られた合成魔獣を再生産するためでありましょう」
エンドラーズの元には、北の大地へ派遣された風の神官から、逐次詳細な報告が届いている。
もちろん、遠見の術を持っていないエンドラーズの元に報告が届くのは、現地を使者が発ってから二十日近くを経過しているが。
「そうであろうな。
人を攫って魔法陣を通してしまっては、不完全な不死者しか作れぬ。
死体なら通せるが、死体からでは高位の不死者は作り出せぬ。
せいぜい、合成魔獣の材料といったところじゃろうて。
かといって、南大陸で不死者の群れを作ることは、我らが見逃さぬ。
せいぜい、数十体の不死者を作った辺りで、我らに殲滅されよう。
今、邪悪な気配の主がどこにいるかは見通せぬが、魔法陣を敷けばたちどころに居場所は見通せる。
アルギール城の地下迷宮のように、な。
マ教も頭を下げてきたこと故、聖水を渡しておいた。
不完全だが、祝福法儀式済みの武具に準じたものが作れよう。
悪魔狩りどもを各地から呼び寄せ、聖水を配っている頃じゃろう」
火の最高神祇官はアルギール城の地下迷宮で、魔法陣の発動があったことにはすぐに気付いる。だが、そこに湧いた邪悪な気配の主は、遠見の術で魔法陣周辺からアルギール城内を見渡したときには、既に城外へ出ていたのか視界に捉えることはできなかった。
だが、南大陸で不死者を生産しようと魔法陣を新たに敷けば、その気配はすぐに捉えられる。場所が特定できれば、手近な神殿かマ教教会から神官なり悪魔狩りを送り込めばよい。 せいぜい数十体の不死者を作った辺りで魔法陣を破壊できるはずだ。
「合成魔獣であれば、死体からでも作れますな。
獣を狩り、死体を手近な魔法陣から最北の地へ送れば、おそらく、そこには合成魔獣を作る準備が整えられていましょう。
まず間違いなく、ビースマックの山奥か、インダミトの南部で獣狩りをするはず。
あまりにも辺鄙なところでは、御老が遠見の術で捉えていても、こちらの手の者は追い切れません。
死体を最北の地へ送った後、魔法陣は使い捨て、自身は『移転』で跳べば、なかなか捕まえられるものではございませんな。
相当数の合成魔獣が、最北の地で作られるでしょう。
そうなれば、狼の彼や蛇の彼女が正体を隠し通したまま戦うのは、ちと厳しいかと存じます」
自らの出番ができることが楽しみで仕方がないという表情で、エンドラーズが答える。
「そなたはいつも儂のことを『御老』と年寄り扱いするが、そなたとて儂と十ほどしか違わぬ『老』ではないか。
しかし、何故その狼の彼や蛇の彼女に、そなたはそこまで肩入れするのじゃ?」
憮然とした表情から興味津々といった表情に変えながら、火の最高神祇官が聞いた。
「年寄りを年寄り扱いするは世の習いにございますれば。
それより、齢は重ねましたが、この若々しい肉体のどこが『老』でございましょうや。
彼の二頭は、我ら人間の未来を握っております。
このまま人間同士醜く争い続けるか、魔獣ですら共存できると気付き、全ての者が繁栄できるか。
彼の二頭の魔獣が人と並び立てば、自ずと未来を指し示しましょう。
私は、人々の安寧のため、精霊に身を捧げ仕える者にございますれば」
いけしゃあしゃあと、そして決然とエンドラーズは答えた。
エンドラーズがアービィやティアの正体に気付かないはずはなく、アマニュークの一件以来、魔獣が人と共存する様を楽しく見守っていた。
だが、二頭の魔獣が正体を隠し続けるには、北の大地の状況は厳しくなりそうだった。どこで二頭が人の前で獣化しなければならないか予断は許さず、そうなっては人として生きようとしている二頭がどのような不利益を被ることになるか、エンドラーズには手に取るように分かっていた。
二頭の正体が露見する前に、エンドラーズは全精霊神殿が二頭を祝福すると宣言し、二頭の存在を人間に認めさせる気でいる。
もし、人外の存在を許さないというのであれば、これも人外の存在である精霊はその加護を人間に与える理由が消失する。精霊自体は人間がいなくなろうと、何の痛痒も感じない。だが、人間から見ると、もし精霊が消え失せてしまうと、マ教と精霊信仰が微妙なバランスを取っている南大陸に、一気に戦乱の渦が巻き上がりかねない危険性を秘めていた。教会への従属と喜捨という名目の私財の提供を求め、他宗派の存在を基本的に認めないマ教に対し、何ら強制力を持とうとしない精霊神殿は、南大陸の住民の精神安定に欠かせないものだった。
精霊の加護が消え失せれば、後はマ教による宗教的な大陸統一が始まることは、火を見るより明らかだ。
それぞれの四国家の王族から民までは、そこに存在する神殿の属性に無意識に準じていたが、マ教に対する信仰の度合いは人によりまちまちだった。
教会の行事等で信仰の篤い者が優遇され、薄い者は冷遇される程度ならまだしも、マ教が大陸を統一しマ教への忠誠を求めるようになってくると厄介なことになる。宗教の上での優遇と、社会生活における法の上での平等は別物だ。宗教の戒律と法は倫理的な部分で一致することも多く、その二つが並立共存しているなら問題は少ないが、政治の上に宗教が置かれてしまうと、神のお告げといった不確実なものが人々の命を左右することになりかねない。行政のサービスは法を守っている限り平等だが、宗教への信仰心という恣意的に判断できる物差しでサービスに差をつけられては堪ったものではない。
王が特定の宗教を深く信仰するということは、為政者より法王が上位であることを意味する。四国家の王に対してマ教の法王が強い影響力を持ってしまうと、王の挿げ替えやマ教にとって都合の悪い人物の弾圧が始まる。表面上は四国家の王家が政治を行っていても、実質はマ教による大陸独裁と化してしまう危険性を孕んでいた。
独裁は民への猜疑心を生み、次第に独裁を脅かすものへの警戒から密告社会が形成され、親と子が、夫と妻が監視し合い、自由のない社会ができあがる。そのあとは革命という名の暴動から内乱、全大陸を巻き込んだ戦乱の世が始まることは、エンドラーズだけではなく精霊に仕える者全ての共通認識になっていた。
今の時点でエンドラーズは、アービィとティアが魔獣として生きることを選んだことは知らないため、そのように判断していた。アービィとティアにとっては渡りに船というものだが、エンドラーズはどうやって二頭に魔獣として生きることを納得させるか頭を悩ませていた。
もっとも、エンドラーズが悩むなど、数瞬のことでしかなかった。エンドラーズは、二頭の魔獣が姿を偽らずに生きることを選ぶと、何の根拠もなく確信した。
アルギール城を抜けたグレシオフィは、迷うことなくビースマックへ向かう駅馬車のチケットを買い求めた。
人跡未踏の山が多いビースマックは野生動物の宝庫とも言え、インダミトとの国境沿いの南部山脈には多くの大型獣が生息している。これまで作り出してきた合成魔獣では、あの忌々しい人狼に対抗できないと考えたグレシオフィは、さらに強力な合成魔獣を作り出すため、熊、狼、虎といった大型獣や、ゲイズハウンドといった野生の魔獣を狩るために南大陸に来ていた。
もちろん、何でもかんでも合成してしまえばよいとは思っておらず、それぞれの動物にない部分が補い合うようにする必要がある。熊の強力に虎や狼の跳躍力を合わせれば互いの長所が補完しあうが、狼と虎では長所が被り合って却って効率が悪くなる。ゲイズハウンドのような鈍重な魔獣に対しては、これも虎や狼の持つ俊敏さが必要だ。熊も俊敏ではあるが、力強さのほうが際立っており、それであればゲイズハウンドが優れている。ゲイズハウンドと熊を合成するのであれば、それぞれを別個に強化した方が良い結果が得られると、グレシオフィは考えていた。
『移転』で跳ぶことも可能だったが、アルギール城の地下迷宮を抜けた後グレシオフィが見た物は、数年前とは別物のように発展した町並みだった。
場合によっては跳ぶ先がイメージと違っているかも知れず、そうなっていては時空の狭間に弾き飛ばされかねない。安全に『移転』を行使するために、一度目的地までは呪文を使わずに移動することにしたのだった。
馬車の中は行き先を同じくする者同士の奇妙な連帯感に包まれ、決して居心地の悪い空間ではない。
退屈しのぎにそれぞれが故郷の話を始め、皆がそれに様々な質問をするというのが、駅馬車の旅の一日目に良くある恒例行事ともいえた。
南大陸の住人などと話などしたくはないのだが、無用な騒動は起こさないに越したことはないとグレシオフィは考え、人々の話に適度に相槌を打っていた。
無口ではあるが決して愛想が悪いというわけではない人物を装い、グレシオフィは人々に喋らせるだけで、自らは最小限の言葉しか発せず、南大陸の情報収集に努めていた。この場で全ての乗客の血を吸い、吸血不死者に転生させて下僕と化すことは可能だが、陽の光の下では転生した瞬間に灰と化してしまう。駅舎に宿泊している夜にそうしても、朝になれば灰と化し、馬車を操る者がいなくなってしまう。下手をすれば祝福法儀式済みの武器を携えた討伐隊を呼び込む羽目になりかねない。
いつしか話題は北の大地の状況に移り、グレシオフィは身を固くした。髪と瞳の色は南大陸で一般的な栗色に変え、北の民であることは隠していたが、顔立ちまでは変えられず、見ようによっては混血と取れなくもなかった。グレシオフィの認識では、南大陸の住人から北の大地や北の民について、好意的な話題などあり得なかった。当然嘲りや罵り、口汚い言葉が飛び交うことが予想でき、激昂しないように心を落ち着ける努力を始めた。
ところが、彼の意に反して人々の口から飛び出す言葉は、北の大地の活況に関することや、北の民への今までの見方を改めさせられたといったものが多かった。
もちろん、その場にいる全ての人々が北の大地や民を手放しで褒めているわけではなく、中には今まで通りの見方から疑義を呈する者もいる。褒めている者も、全てを褒めちぎるということではなく、ここは良いがあれはまだダメだ、こちらはこうすればもっと良くなるのに、といったことも多い。好意的な立場の者は北の大地で一仕事して故郷に戻る者たちで、疑義を呈した者は北の大地に渡ったことのないラシアスの民たちに多かった。そして、疑義を呈した者の中にも、いずれ北の大地へ渡り一旗挙げたいと言う者や、そのために今から故郷に戻り商売を整理するという者が何人もいた。
グレシオフィは体中から力が抜けるような感覚とともに、人々の話を聞いていた。
好意的に北の大地を語る者の言うことは建設的で、両大陸の繁栄を考えていることが読みとれる。四百五十年に亘る南大陸の長い平和な世の中に慣れた人々は、北の民が南大陸を侵さないのであれば、それなりに手助けして共に繁栄しようと考え始める者が多いようだ。
インダミト第三王子パシュースを始めとした南大陸連合や、四国家の王と摂政が積極的な北の大地との融和政策を発表していたこともあり、南大陸の住人の間では徐々にではあるが意識改革もなされていた。最北の蛮族に対しても、手を結べば共に肩を並べられるものをと、惜しがる声さえ聞かれた。
山脈以南の安全地帯にいる南大陸の住人にとって、最北の蛮族など南大陸のどこにでもいる野盗程度の認識でしかなかった。
北の民の多くも、南大陸が領土的野心を持たないことを理解して以来、ターバ以南では多くの者が南大陸の住人と交流を持ち、共に働くようにまでなっている。
だが、会話の途中で南大陸の住人が何気なく漏らした『いままでしてきたことを、這い蹲って許しを請えば、仲間に入れてやるのに』という言葉は、グレシオフィの心をささくれ立たせ、誇りを傷つけ、憎しみを増幅させるには充分すぎた。こう話した男に悪意など全くなく、中央以南の北の民から聞いた話が元になっていただけだ。しかし、グレシオフィには、南大陸の住人の言葉に酷く莫迦にされた気がしたうえ、全ての民が最北の民だけを繁栄から置き去りにしようとしているように感じられてしまった。
超人的な精神力で魔力の解放を辛うじて堪えているグレシオフィと、両大陸の繁栄を願い希望を胸に秘めた人々を乗せた駅馬車は、表面上は和やかな雰囲気のまま、順調にビースマックへの行程を消化していた。
獣化したアービィは、ルティと最北の少女を背に乗せ、ターバの北を大きく迂回し、かつて結界を敷いた西の山地へと駆け抜け、基準点を敷いた崖の上に立った。
ほぼ全力疾走だったが、いいかげん乗り慣れたルティが少女を抱えるようにしていたため、なんとか振り落とされずに済んでいた。それでもスピードへの恐怖からか、少女は強ばった表情のまま、巨狼の毛皮をしっかりと握りしめ自ら振り落とされない努力を欠かしてはいなかった。
「アービィ、そこに、臥せっ!」
巨狼の背から少女を下ろしたルティが、にこやかに呼びかけ、次いで怒鳴りつけるように命じた。
反射的に巨狼が臥せの姿勢を取る。
そこへルティが剣を峰打ちに打ち下ろした。岩石と金属を力一杯ぶつけ合う音が響き、巨狼がのたうち回わる。
「お姉さんは、神様なの? 悪魔なの?
人狼が従うなんて、私には信じられない」
見てはいけないものを見てしまったという顔で少女が言った。
「失礼しちゃうわね。
神様でも悪魔でもないのよ。
あなたと同じ人間ですからね」
ルティが笑いながら答える。
――悪魔……
ぼそっと巨狼の念話が届き、目を吊り上げたルティが振り向いたとき、巨狼はひとっ跳びに跳び退る。
そして、崖っぷちまでの目測を誤った巨狼は、着地の姿勢を保ったまま崖下へと消えていった。悲しげな遠吠えがドップラー効果で音程を下げながら遠ざかり、鈍い衝撃音に食いちぎられるように途切れた。
「――!」
声にならない悲鳴が少女の喉から押し出された。
「大丈夫よ。
あのボケ狼は死なないわ、この程度じゃ」
呆れ返ったルティが乾いた笑いと共に言った。
「でも、でも、こんなに高い……
助けに行かなきゃ……」
少女が半泣きになって崖下を覗きこみ、ルティへ振り向く。
「大丈夫。
そろそろ帰ってくるから。
ここで待ってましょ」
少女を安心させるようにルティが話していると、背後から何事もなかったかのように顔で巨狼がさっき通ってきた道を登ってきた。
――ごめんね、驚かせちゃって。
傷一つない巨狼が少女の前に立った。
凶相だが、狂気の影も見えない瞳に少女は安心し、巨狼の首に抱きついた。
「あんたたちも大変だね」
長い物語を聞き終え、最北の女が呟いた。
「同情して欲しいわけじゃないわ。
あたしたちが人間に甘えてるって事は充分承知してる。
魔獣として生きたいなら、無理して人間と暮らす必要なんかないのよね。
でもね、あの子とあの人狼が並んでるのを見てるとね、人間同士で争ってるのが莫迦みたいに見えるのよ」
ティアが呟きに答えた。
「同情なんかするもんかね。
共感はするけどね。
人間が、文明を持って両大陸のほとんどを占有しているこの世界じゃ、あんた方も暮らし辛かったろうって思うだけよ」
最北の女は現状を打破しようとする思いは一緒でも、方法論が異なる魔獣に親近感を持ち始めていた。
「あなた方には感謝しているのよ。
昔からずっと見ているとね、人間って共通の敵があると、昨日までいがみ合っていた同士があっさり手を組むの。
今のところ、あなた方がいてくれたお陰で、平野と中央が手を組んだわ。
後はあなた方だけ。
別に仲良しなんかじゃなくていいのよ。
必要なことは、正式に交渉して決める。
普段からべたべたと馴れ合う必要もないわ。
利害の衝突はどうしたって生まれるの。
今は手を組んでいる平野と中央、南大陸の中でもね。
でも、殺し合いまでする必要はないと思うわ。
そのために、口と言葉と、心があるんじゃないの?」
ティアは解っていた。
最北の民が何故不死者まで作り出して、自分たちより南に住む民に挑んでくるのか。
復讐だ。
千年を越える虐げられた記憶が、復讐へと駆り立てている。
食料の確保が目的であれば、現状で充分だ。
不死者などに転生する必要など、欠片もない。南大陸が北の大地を市場にしようとしていることは承知のうえで、それに乗れば経済的な支配は受けるかもしれないが、生きることは格段に楽になっている。現に、中央以南の民は、南大陸の文化を受け入れつつあり、そこから自分たちに合ったやり方を編み出そうと猛勉強を始めている。
生きる楽しみを、太陽の下で生を謳歌する愉悦を、子を成し子孫を繁栄させる喜びを捨てるほど、不死者としてこの世に残ることに魅力や喜びはない。
僅かに残された生者も、日中の警護のためだけに転生していないだけだった。
仮に、最北の民の侵略がなければ、中央以南がそれぞれ南下する緊急性も生まれず、今までどおり地峡を挟んで両大陸が対立するだけだった。
不死者という強大な軍事力を持った最北の民が南を窺ったからこそ、南大陸は目を覚まし、北の民は団結した。後は最北の民との融和が成れば、両大陸に仮初めかもしれないが平和が訪れる。ティアはそれを説いた。
「そうねぇ、復讐よね。
一時恥を忍んであんた方に頭を下げれば、食べ物はもらえるだろうしね。
アンタ方から技術を学んで、道具を買うっていうのかい?
道具を手に入れれば、最北の地だって豊作になるんだろ?
そうなれば、少なくとも土地の奪い合いは起こらないわよね。
南の温かい土地に住みたいって気持ちはなくならないけど、少なくとも他の民を殺してその土地を奪おうってことはなくなるわ、きっと」
最北の女は北を眺めながら言った。
だが、最北の民は不死者への転生を選んでしまった。
既に、人間の食料を必要としない身体だ。気が向いたときに生者の生血や肉を喰らえば、それで済んでしまう。グレシオフィに従わず、最北の地に抑え込まれている不服従の最北の民は、不死者の餌として生かされているようなものだ。それとて、無理して補充するほどのことではない。生者がいなければいないで、人間以外の野生動物で代用の利くものだ。今更食料援助や耕作地の分割では、最北の民が復讐心を抑えるには意味合いが違ってしまう。
「復讐を諦めろなんて、あたしには軽々しく言えないし、そんな偉そうな立場じゃないんだけど。
それを承知で敢えて言う。
復讐より、明日どうやって食べていくかよ。
アービィたちが連れて行ったあの子まで、不死者にするつもり?
きっとあの子は受け入れちゃうでしょうけど、復讐をあの子の世代にまで押し付けるの?
あなた方が親世代から押し付けられたからって、次の世代に押し付けなきゃいけないなんて決まりはないはずよ。
悲しい連鎖は、食いちぎっても良いと思うんだけどな」
ティアの言葉が、最北の女の心に食い込んだ。
押し黙ったままの最北の女を見て、ティアは言葉を続ける。
「あなたたちの世代は肉親を殺されている人が多いのは解るし、復讐をただ押し付けられたわけじゃないことも解るけど。
どちらかと言えば押し付けられたより、受け継いだってところかな?
あの子の世代にもいるでしょうけど、これから産まれてくる子供たちに、負の遺産が初めからあるなんて、それは可哀想じゃないの?
それとも、もう子供を産まない気?
生まれたそばから不死者にするの?
不死者という兵器を作るために子をもうけるの?
違うでしょ?
愛する人と、血を残すためよね?
南大陸は、あなたたちとの和睦を望んでるの。
もちろん、平和だけじゃなく金儲けのためよ、どんな綺麗事を言ったってね。
それでも、カネがこの地に落ちれば、少なくとも餓えることは減るわ」
餓えを克服しても復讐心を捨てるはずはないと、ティアは解ってはいるが、それでも言わずにはいられなかった。
復讐に燃える大人たちは、それでいい。 だが、純真な、疑うことを知らない子供たちに、会ってもいない者への復讐心を植え付けるのは、洗脳と同じことだ。いま話している最北の女や、収容所にいる男たちと戦場で剣を交えることになるかも知れないが、ティアはその覚悟はできている。しかし、アービィたちが連れていった少女と、戦場で出会うなど絶対に許せない。不死者に転生した子供も、あの少女も、戦場の露と消えるなど大人たちのエゴでしかない。
そんなことをし続けていては、最北の民は遠からずこの世から消えてしまう。
次の世代を担う者まで戦場に投入するなど、国家や民族の末期症状だ。ファナティックな悲壮感に酔いしれ、全ての民を道連れに滅びようとしているのなら、ティアは最北の『蛮族』を許すことはできない。
「解っていて言うなら、私も敢えて承知で言うわ。
私たちが復讐心を捨てるのは、あんたがた全ての民が私たちの前に這い蹲って許しを請うたときよ。
そう簡単に殺しなんかしない。 生まれてきたことを後悔するまで、苦しみ抜いてもらうわ。
そうじゃなきゃ、私たちの虐げられた千年を超える怨みは消えるもんじゃない
両大陸の民を、未来永劫私たちの足下で這い蹲らせてやるわ」
悲しそうな顔で最北の女が言う。
「復讐心を捨てることになってないじゃないの?」
ティアが場にそぐわない口調で言い返した。
「あら、そう言われてみれば、未来永劫だなんて、その通りね」
思わず最北の女は笑い出した。
「そんなの虚しいだけよ。
全ての民を殺し尽くして、不死者だけが残って、その後はどうする気?
考えてないでしょ、どうせ。
不死者だって永遠の存在じゃないわ。 永遠なんか、この世には存在しないのよ。
生者がいなくなって、動物すら狩り尽くして、あとは長い長い時間を無為に過ごして朽ち果てるだけ。
生者は死ぬから一所懸命に生きるの。
そして次の世代に世界を渡すのよ。
いつまでも生きてちゃ、邪魔なのよ、どんな生き物もね」
笑いを収め、ティアは表情を厳しくして言った。
「そんなに、人間が大事なの?
こう言ってはなんだけど、あんた魔獣でしょ?
餌じゃないの?」
最北の女はそれが解らなかった。
所詮魔獣にとって人間は餌。そう認識していた。
それを必死に守ろうとしている。敵でさえ。
「そうねぇ。
あたしたちラミアは、人間に依存して生きてきたからかしら。
なんたって、主食が男の精だし。
人間がいなくなるなんて、ラミアにとっては死活問題よ。
実は、いなけりゃいないで普通に飲み食いしてればいいんだけどね。
そうなると今の人間が占めているところはあたしたちラミアと、アービィたち人狼のものになるだけよ」
事実、アービィたちと旅を始めてからというもの、ティアは男の精を喰っていない。
アービィもルティも相手を死なせないという条件付きであれば、禁止する気はさらさらない。だが、ティアはなんとなく遠慮しているうちに、その必要を感じなくなっていた。
「もし、和睦したとして。
私たちはどうなるの?
不死者たちは?」
最北の女は問う。
奴隷として南大陸に売られるならまだいい。
形こそ違え、悲願といってもいい、南の土地に住めるのだ。しかし、中央以南の北の民に隷属するなど、真っ平御免だ。それならば、いっそ戦って華々しく散った方が、民の誇りは守られる。
「そうねぇ。
まずは、基本的な境界線の決定のため、南北連合への代表を決めてもらうわ。
もちろん、立場は対等。
境界が決まれば関税や通行税の取り決め、社会基盤整備や運営、南大陸を含めた中央以南との交易、野盗や魔獣から民を守る軍の設立、整備、運営、他にも山ほどやることはあるわ。
戦なんかしてる暇すらないわよ」
ティアの言葉の羅列を、最北の女が理解するには多少の時間が必要だった。
てっきり、戦後処理の一環として、見せしめ、または鬱憤晴らしの処刑や、略奪、暴行、奴隷として売り払うなり使役するなりという、苛烈な制裁が待っていると思っていた。
「良いことずくめじゃない。
裏がありそうね」
訝しげな顔が並んでいた。
「そうかしら。
裏があるかどうかはともかくね。
今、ターバにはピラムの民が避難してきているわ。
あなたたちの中にも、いがみ合ってる部族は多いんでしょ?
親子兄弟のように仲良くなれとは言わないけど、それなりに話し合いができるようになっていて欲しいわね。
南大陸の四国家だって、表面上は協調路線を取っているけど、裏に回れば命の遣り取りまで含めた暗闘はあるの。
それぞれの国の中だってそうよ。
政治の実権を握ろうとする権力闘争から、商人同士の足の引っ張り合い、農民同士でも土地の境界線を巡っての係争なんかがあるわ。
でも、そんな諍いを調整しながら、村や町、国、大陸連合を一つに纏めている。
あなたたちにも、最北の民を纏めてもらわなきゃ、和睦すらできないわ」
共通の敵があれば、国家や民族は一つに纏まる。
だが、権力闘争や商業が絡むと、他勢力への内通者も出る。
部族単位で纏まっていた北の民に、国家という概念を持たせるのは、それなりに苦労が伴うだろう。
そのために平野と中央の指導者の血縁者であるヌミフとオンポックが南大陸へ『留学』しているのだが、ここに最北の民からもそれなりの人物を加える必要がある。
「纏めるにしても、力で服従させることはするな。
そういうことね?
力が全ての北の大地で難しいことを言うわね、あんた。
最北の民の中でも殺し合いはあったわ。
下手をすると、南の部族に対する怨みより、深い怨みを持ってる者もいる。
特に、今、不死者を以て服従なり抑圧なりされている部族と和解するのは、あんた方と和睦するより大変かも知れないわ」
最北の女はため息混じりで答えた。
「でも、それをやってもらわなきゃ困るし、調停はするけど最北の民の問題は、あなたたち自身で解決しなきゃいけないことよ」
突き放すようにティアは言った。
直接干戈を交える同士であれば、和平交渉もできるが、最北の民同士の問題に判定を下す立場ではない。
「どうして、そこまで平和を求めるの?
わざわざ最果ての地まで来て。
面倒ごとを抱え込むより、地峡を閉じていれば済むことじゃない。
南大陸の住人は、底抜けのお人好しか、嫌になるくらいのお節介焼きの集団?」
他人事に身銭を切るだけでなく、血まで流して介入する理由が、最北の女には解らない。
「南大陸は北の大地にある燃える石や水、金銀銅といった貴金属や宝石、鉄なんかが欲しいの。
でも、北の民を皆殺しにして奪うなんて、費用対効果が悪すぎるのよ。
軍の派遣、それに伴う人件費や物資に掛かる経費、輸送費なんかがね。
敵地じゃ食料も買えないでしょ。
略奪なんかしたら、それ一回切りで後に何も残らないし、敵が増えるだけだもの。
だったら、正当な取引をして北の大地の資源を南大陸へ運び、そこで製品にして北の大地へ売ればいい。
いずれ北の大地に製造業が根付いて、両大陸規模での交易が始まれば、今以上に経済は発展するし、良い物が安く作れるようになるわ。
これが南大陸連合の公式見解よ。
その本心は金儲け。
それ以上でも、それ以下でもないの。
アービィが言うにはね、燃える石と水があれば今より良い鉄が作れるようになって、鉄の道の上を走る馬の要らない荷車が、馬車千台分の荷物を一日で大陸の端から端まで運べるようになるって。
彼のいた世界では空を飛ぶ船が馬車百台分の荷物を、十万台分の荷物を鉄の船が運んでるんだって。
空を飛ぶ船は、最北の地から南大陸の南端まで、半日で行ちゃうらしいわ。
そうなったら国境も、大陸もなくなる。
行きたい所にいつでもいけるようになるわ。
もっとも、あと数百年は掛かるだろうって言ってたけどね」
ティアはアービィから聞かされた異世界の話をした。
自分が生きているうちに、見られるかどうかは判らない。だが、アービィからイメージを念話で送られ、ティアはそれが嘘でも夢物語でもないことを知っている。
もちろん、アービィは技術の発展がもたらす、戦争の悲惨さも見せていた。
火を噴く丸太や、『爆炎』でさえ火花にしか見えないような爆発を起こす黒い玉。丸太を積んだ自走する荷車や船が火を噴き、人間が紙屑のように吹き飛び原形を留めぬまでに引き裂かれ、空を飛ぶ羽のある船がその黒い玉で市街を焼き払う。この世界でも飢饉の折りには見ることもあった栄養失調に腹だけを膨らませた人々が、虚ろな目で火を噴く丸太を見つめている。
ティアは、続けざまに見せられた恐ろしい光景に、涙と震えが止まらなかった。
アービィが生きていた世界は、科学技術が発展し、平和に満ちた世の中だとティアは思い込んでいた。
それだけの科学を持ち、世界には人が溢れているのであれば、統治方法も優れたものに進化し、人々はなんの不満もなく繁栄を謳歌しているものだと、アービィの話を聞くうちはそう思っていた。この両大陸が、この世界が、アービィが見せたような地獄の劫火に包まれるなど、ティアは許容できない。科学や技術の発展が戦争を呼び起こすのであれば、そんな発展はいらないとまで、ティアは思っている。
魔獣である前に、この世界の生物であるティアは、この世界を愛していた。科学技術の発展は歓迎するが、あんな地獄がこの世界で展開されることは、絶対に受け入れることはできなかった。だからこそティアは、最北の民がしようとしていることを止めたい。何故、恩讐を超えて手を結ぶことができないのか、それがもどかしくてしょうがなかった。
男の精を喰らうためエクゼスの森にある泉に住み着いたとき、ティアはまさか自分がこんなことを考えるようになるとは思ってもいなかった。旅慣れていない少年と少女に出会うまで、自分がこのような信念を抱くことになろうとは思ってもみなかった。
ティアは戦争の悲惨さを、熱っぽく最北の女に説き続けた。
人狼の子供たちの社会参加支援施設を作りたいと、バードンに説いたときと同等、あるいはそれ以上の情熱が溢れている。復讐は復讐を呼び、戦争が繰り返されるだけで、征服者と被征服者が入れ替わるだけだ。
四百五十年前に終結した、南大陸全土を巻き込んだ戦乱の時代も、平和などあり得ないと思われていた。
事実、戦乱終結直後は、それぞれの国同士にわだかまりが残り、国境を超えることをはばかられる時代が暫くは続いていた。しかし、南大陸の住人はそれを克服している。温暖な気候に恵まれた南大陸は、戦乱に荒れ果てた広野を短い期間で復興させた。
他国との殺し合いに熱中していたエネルギーを、国土復興に振り向けたのだった。
食糧を始めとした物資に余裕ができるに従い、南大陸の住人の心にも余裕が広がった。次第に国境の監視が緩くなり、人々の交流が大帝国時代のレベルへと回復する。そして、戦乱終結から十年と経たず、現在に通じる南大陸の平和の基礎が築かれたのだった。
もちろん、政治レベルでの血の滲むような折衝から、民間レベルの交流まで、時の為政者たちによる巧みな努力があったことは言うまでもない。
幸い南大陸は温暖な気候という条件に恵まれたため、たいして発達していない昔の技術でも、大きな収穫をあげることができた。
それに対し北の大地は、寒冷な気候という不利がある。だが、南大陸で発展した技術と、ストラーとビースマック北部やラシアスの寒冷な気候にも適応できるように選別という品種改良された農作物は、北の大地の気候という不利を補って余りある。南大陸の住人にできたことが、北の民にできないはずはない。現に食糧を始めとした物資に余裕ができた中央以南は、平和的な融合を果たしている。
後は、あなたたちだけ、とティアは話を締めくくった。
「あんたの言いたいことは、よく解るわ。
そうあるべきってこともね。
でも、私が首を縦に振っても、他の最北の民がどうするか、私は保証できないの。
それに、昨日まで殺し合っていた相手と、明日から笑顔で肩を抱き合うなんて、そんなすぐには……」
最北の女は寂しそうに微笑んで言った。
彼女は、捕虜の女性の中では指導的立場ではあったが、最北の民の指導者ではない。
和平の交渉権を持っているわけではなかった。彼女がティアに共感し、和平を望んだとしても、それは個人的感情なだけであって、最北の民の意志とは言えなかった。
「いいのよ。
そう言ってくれるだけで充分。
南大陸が完全に平和になるのだって、戦乱終結から何年も掛かってるわ。
今すぐなんて言わない。
あの子たちが大人になる頃、両大陸の人たちが自由に行き来できる世界になっていればいいのよ。
あたしたちは、そのためにしなきゃいけないことがたくさんある。
いい? あたしたちっていうのは、あなたもそれに入ってるの。
仲良く馴れ合いながらじゃなくて、ときには喧嘩したって良い。
それがより良い世の中にするためだったらね」
いつしかティアは涙ぐんでいた。
「そろそろ、あの子たちも戻ってくる頃よ。
そうしたら、あたしたちも帰りましょうか」
涙を隠すように、巨狼が走り去った方に向き直り、背中越しにティアは言った。
やがて、砂塵の彼方に、ルティと少女を背に乗せた巨狼の姿が見えてきた。
陽は傾き始め、初夏へと季節は移り掛けていたが、夕闇の訪れとともに急速に肌寒くなり始めていた。
女たちの話に入り込もうとせず、いつの間にか姿を消していたバードンが、人数分の外套を養鶏所から借り出し、それを担いで歩いてくる。
「お話はお済みでしょうか、皆様。
収容所に着くまでには、かなり冷え込みましょう。
蛇、狼に言ってあれを作らせろ。
以前、釣りに行く前の晩に喰ったやつだ」
バードンは女たちに外套を渡しながら、ティアに言った。
冷え切った身体を暖めるには、収容所の食事より鍋物の方が良いと判断してのことだ。さらに、同じ鍋をつつき合うことで、さらに打ち解けやすくなる。それは自身の経験からも言えることだった。
甘い者を食べながら喧嘩はできないのと同様に、鍋には連帯感を醸成する効果があった。
その日、捕虜収容所は、深夜まで喧騒に包まれていた。