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狼と少女の物語  作者: くらいさおら
87/101

第87話

 「お嬢ちゃん、あんたは何を考えてるんだい?」

 最北の民の女が、ルティに訊ねた。

 名乗ることもなく、頑なに会話を拒否していたが、最近では世間話程度には応じるようになっている。


「どういうことですか?」

 ルティは菓子作りの手を休めることなく聞き返した。


「あんたは、ここへ通い詰めてるけど、最北の地のことも、民のことも、何も聞きゃぁしない。

 あんたは情報が欲しくはないのかい?」

 質問に対して質問が繰り返される。

 横では子供役で来ているのだろう、十歳くらいの少女がルティの手を見つめていた。

 アービィが準備してあった砂糖を混ぜ込んでメレンゲをホイップし、これも分量を計ってあった寒天を溶かして混ぜ合わせる。

 淡雪を作りながら、ルティは答えを考えた。


「情報ですか。

 欲しいことは欲しいですけどね。

 あたしは軍人じゃないですから。

 あたしが欲しいのは、あなた方と構えずに話す場というか、雰囲気というか。

 最初に会ったときにも言いましたけど、何であなた方があたしたちを許さないか、それなんですよね」

 アレンジのしようがなければ大惨事を引き起こすこともない。

 アービィは余分な調味料や素材を一切持たせていなかった。


 いつもはできあがった物を持って来るだけだったが、作り方を見せて欲しいと少女がねだったため、アービィは最も失敗が少ないと思えるネタをルティに教えていた。

 卵黄は別の全卵に足して濃厚なカステラにしてしまえばよく、その分の砂糖も小麦粉もアービィはポーションにしていた。


「後のお嬢ちゃんはどうなんだい?

 あんたは私らに何を求めてるんだい?」

 一切のアレンジやチャレンジを許すまいと、ルティを後から監視しているティアに最北の民の女は聞いた。



「あたし?

 あたしは、何も。

 戦がなくなればいいわ、あたしは。

 あなた方を滅ぼそうなんて思っちゃいないわよ。

 何で、戦に訴えるかなぁって思いはするけど。

 たった一、二年よ。

 こんな物ができるようになるまで。

 あなたはまだ信じてないけど、材料は全部北の大地で採れたものだからね。

 砂糖も卵も。

 南大陸から持ってきたら、砂糖はこんなに使えないし、卵は腐っちゃうわよ」

 ティアは冷静にルティを監視しつつ、そう答えた。


 相手が女性であろうと『誘惑』は有効だ。

 だが、ティアはそれを使おうとは思っていない。

 ルティの手助けはしたいと思っているが、相手が心底から協力してやろうと思うことが重要だった。最北の蛮族の組織体系や弱点を探ろうというのであれば、ティアは妖術の行使を躊躇いはしない。だが、信頼関係を築こうとしているルティの手助けとしては、妖術は却って逆効果になることをティアは理解している。


「何回聞いても、北の大地でこんなに物が採れるなんて、信じられない。

 何もないし、何も採れないのか北の大地よ。

 食べ物の選り好みなんかできやしない。

 その日に採れた物を、どれだけ食い繋ぐか、そればっかり考えてるの。

 南大陸の物ばかりなのは、見れば分かるのよ」

 彼女の常識はそうだった。

 横で満面の笑みを湛え、ルティとティアの顔色を窺う少女も同じ考えなのだろう、女の最後の言葉に時折頷いていた。


「どうしようか、ティア。

 ラルンクルス様に聞いてきてくれない?

 畑と砂糖作りを見せられないかって」

 思案していたルティがティアに言った。


「そうね、いいわよ。

 ルティが妙な物作ろうとしないならね」

 淡雪もカステラもここまでくれば、片や冷やすだけ、片や焼くだけだ。アレンジもチャレンジもしようがなく、大惨事も起きそうもない。

 ティアは司令部に行くことにした。


「皆さん、この娘がこれ以上何か入れようとしたら、殴ってでも止めてください。

 食べられなくなるくらいなら、まだいいんですけど、毒ができちゃいますから」

 喉元まで罵詈雑言が上がっているであろうルティを無視して、ティアは司令部へと走っていった。



「酷いと思いません?

 あの娘の言うこと。

 『ウチの人』も、砂糖とか粉とか、全部計って渡すんですよ。

 あたしには任せられないって」

 『ウチの人』と言葉にした瞬間から、ルティは真っ赤になっていた。


「あんた、結婚してたんだ。

 とても、そうは見えないけどね」

 ルティは その一言で撃沈された。


「はい……

 実は、まだなんですけど……」

 打ちひしがれつつルティは答えた。


「そうかい。

 でも、その人はあんたにこれだけのことを教えてくれるんだろ?

 なら、大丈夫だよ。

 私はあんた方は嫌いだけどね。

 お嬢ちゃん、あんたは応援してやるよ

 ……あれ、どうしたんだい?

 そんな、何泣いてるんだい、あんたは?」

 女の言葉にルティの歓喜が爆発した。



 ラルンクスルは何の躊躇いもなく、ティアからの申し出を許可した。

 もちろん、善意が欠片ほど入っていたが、戦略上の利点を考えてのことだった。

 北の大地の可能性に彼女たちが気付けば、それだけ南下の意欲がなくなることはないにしろ、多少なりとも薄れるだろうということだ。


 北の大地は東西の広がりに比べ南北はそれほど長くなく、中央と最北の地で気候の違いは極端なほどは違わない。耕作に適した開墾しやすいと地の広さが、両者における決定的な違いだ。

 それも牧畜が盛んになり、牛馬を使役しての開墾ができるようになれば、人力では手を付けられなかった地も耕地に転用でき中央との差は縮まり、元々人口が少ない最北の地であれば、食料の確保は困難ではなくなる。


 そうなってしまえば、最北の民が南を窺う理由の一つは消滅する。

 だが、暖かい土地を目指そうとする欲求が、消えるわけではない。ならば、最北の地を他の部族に渡したくないと、思わせることが必要だった。困難なことではあるが、最北の民にとってそこが押し込められた牢獄のような地ではなく、出て行く必要などないない地であることを証明しなければならない。農地改良もそのための方策の一つだが、他地域と同じ様なことではなく、そこにしかない付加価値を持たせる必要があった。


 アービィは、最北の近海にカニを始めとする、莫大な水産資源が眠っていることを期待していた。

 この世界では、ラシアスで水産業は盛んになっているが、極限られた地域内の小さい産業でしかない。自給自足に近い集落同士の自家消費と物々交換でしかなく、内陸の中心地では省みられることのない産業だった。輸送技術が未発達なこの世界では、海産物を鮮度を保ったまま中央の地域まで運ぶ術がなかった。せいぜい塩漬けにされた魚が、晩秋から春に掛けて僅かに王都に持ち込まれる程度だった。

 それでも海辺に領地を持つ貴族たちの間では、海産物は珍味であり、美味であり、輸送に氷を必要とすることから財力の象徴にもなっている。アービィは、かつてボルビデュス領で川魚をルイベにした『凍結』の応用は、海産物を内陸に運ぶ技術に転用できると踏んでいた。


 運びたい物そのものに『凍結』を掛けていては、解凍も早く何度も溶けかかってしまい品質の劣化が著しい。

 海産物であれば、運びたい物を海水ごと凍らせ、現地で流水や自然解凍させるのが最も効率も品質も良い。火を通すものであれば、そのまま火に掛ければいい。

 ルティが最北の女から聞いた内容や、ピラムの民から聞く話では、最北の海にはかなりの期待がもてるとアービィは踏んでいた。東西に長い北の大地の地形は、最北の民がその海を独占できることを示してもいる。




 ティアが警備の兵を伴って捕虜収容所に戻ってきたとき、カステラが焼き上がり冷めるのを待つばかりとなっていた。


「じゃあ、ちょっと出掛けましょうか。 あなた方に、この砂糖や卵が北の大地の物であることを、お見せしましょう」

 ティアの一言を合図に、兵たちが最北の女たちに腰縄を打とうとする。


「あ、それはなしで行きましょう」

 ルティが兵士の動きを遮った。


「しかし、ルティ様、万が一のことがあっては、取り返しの付かないことになりかねません」

 若い兵士は軍規に違反することなど、あり得ないという態度で反論する。


「そのときは、あたしたちか全責任を負います。

 ですから、腰縄はなしでお願いします」

 ティアも横から口を挟む。


 兵士は暫く考え込んでいたが、二人の戦闘力であれば騒乱が起きる前に斬り伏せられると判断したのか、ぼやきながらも腰縄を打たずに扉を開いた。



 兵が先導し、ルティが列の中心に、ティアが最後尾について最北の女たちを、先日稼動し始めたばかりの砂糖の加工場に連れて行った。

 砂糖の加工場にはアービィとバードンが待っていて、兵から以後の警備を引き継ぐことをラルンクルスから了解を得ていることを伝えた。


「いかがですか?

 これで信じていただけますか?」

 ルティが最北の女に言った。


 加工場の中は、シュガービートから取った糖液を煮詰める甘い香りが充満していた。

 アービィが工員からシュガービートの搾り汁をもらってきて、最北の女たちに渡した。


「嘗めてみてください。 仄かに甘いでしょう?

 細かい行程は省きますけど、これを煮詰めると砂糖になります。

 南大陸の南端では別の植物から作りますけど、これで作った砂糖は、それと全く同じ物ができます。

 これはストラー北部の狭い範囲で作られていた作物ですが、北の大地の方が生産に適しています。

 北の大地が砂糖の生産地になれば、南大陸の北半分は、迷わずこちらから買うでしょうね。

 そうすれば、北の大地で不足しがちな作物は、南大陸から買うことができます。

 もちろん、主食のほとんどを南大陸に依存するのはいろいろと危険ですから、砂糖だけ作ってるってわけにはいきませんけどね」

 今年はまだたいした量ではないが、早い時期にシャーラが確保されれば、来年は南大陸に売るほどの砂糖が作れそうだった。


 もちろん品種改良を重ねた、二十一世紀の異世界で栽培されているシュガービートとは、比べるまでもない糖分だ。だが、人口が少ないこの世界では、充分すぎるほどの砂糖が作れる収穫が上がっている。

 完全な平和な世界であるならば、北の大地がシュガービートしか作らないという選択もできる。しかし、武力を用いた戦争が起きなくても、将来経済戦争が起きることは確実だ。そのときのために、北の大地で暮らす人々が餓えることがない程度の各種食料の自給率は、上げておかなければならない。

 ルティはそう説明した。


 最北の女は、砂糖の加工作業を不思議なものをみるような眼差しで眺めていた。

 そこでは、南大陸の住人も北の民も、能力に応じた職責を担い、平等な立場で忙しく立ち働いていた。管理職こそノウハウを持つ南大陸の住人が就いているが、現場の作業工程には両者が入り乱れ、工程による偏りはほとんど見られない。


「私には、信じられないんだけど、南大陸の住人と北の民が、同じことをしているように見えるね

 見回りしてるのは南大陸の住人のようだけど、働いてる南大陸の住人は罪人か何かかい?

 身形からはそう見えないけど。

 北の民を、使役しているわけじゃないんだね、これは?」

 最北の女は、信じられないといった口振りで訊ねた。


「はい。

 皆さん、全く同じ立場でこの加工場で雇用されています。

 管理職は、南大陸で砂糖を作っていた方にやってもらっていますけど、これは経験がないと作業が正しく行われているかが分かりませんからね」

 ルティが笑顔で説明する


「ランケオラータ様からのご指示で、北の民の皆さんには、今は加工場の運営や経営を学んでもらっています。

 いずれご自分たちで加工場を建てて、経営してもらうつもりです」

 ティアが補足した。


「じゃあ、次に行きましょうか」

 ルティが先頭に立ち、養鶏場へと最北の女たちを案内した。



 養鶏場は、砂糖の加工場からそれほど離れていない、集落の外れにあった。

 砂糖の加工場から出るシュガービートの葉と搾り滓を家畜や家禽の飼料として利用するためだ。養鶏場に並んで、牛舎や豚舎も建てられていた。どれも泥濘の時期に作業ができなかった工兵たちが、寄ってたかって作り上げた物だった。短期間の急拵えなので、そこここに粗が見えるが、使うには充分すぎる屋舎ができあがっていた。

 囲いの中には多くの鶏が放し飼いになっており、騒がしく鳴き喚いている。ルティはその囲いを通り過ぎ、養鶏場の中へと最北の女たちを案内した。


 一羽ずつに仕切られたケージから首を伸ばし、ケージ全面の樋に入れられた餌を鶏たちが啄んでいる。

 傾斜を付けられたケージの床に生み出された卵は、餌入れの樋の下に作り付けられた受け皿部分に転がり出ていた。床は網になっていて、糞は下におちるようになっている。ここでも南大陸の住人と北の民が、砂糖の加工場同様入り交じって働いている。ある者は卵を回収しつつ樋に餌を撒き、ある者はケージ内の水を足し、汚れた水皿を交換して歩いている。


「もっと水を効率よく上げたいんですけど、いい道具が作れなくて」

 アービィが恥ずかしそうに言った。


 アービィは異世界にいた頃見学で行った養鶏場を、記憶を頼りに再現していた。

 だが、自動給水器の造りがどうしても思い出せず、水皿に手作業で水を足し、汚れたら交換する方式を取っている。小規模のうちはなんとかなるだろうが、規模が大きくなってしまったら給水も水皿の交換も追いつかなくなることは明らかだった。

 現在、誰からでもいいので、給水器のアイディアを募集中だと、アービィは説明した。


 ケージの下から回収された糞は、堆肥へと転用されシュガービートを始めとした作物の育成に利用されている。当然牛舎や豚舎で出る有機廃棄物も同様だ。

 焼き畑で大地の力を奪い取るだけだった北の大地の第一次産業は、循環型へとその形態を急速に変えつつあった。それだけに留まらず、兵による物資の輸送業務に民間の資本が参入し始め、第二次産業もその形態を一気に発展させつつあった。

 南大陸から多くの人々が一旗揚げるために、続々と北の大地へと渡ってきていたのだった。



「参ったよ。

 お嬢ちゃんたちの言うことは、本当だ。

 これを私たちの土地にも作ろうって言うのかい?」

 最北の女は、目を丸くするばかりだった。


「それなんですけど、これと同じじゃ最北の地に利点がありません。

 運ぶための経費が、より多く掛かっちゃいますから。

 最北の地には、違う物が必要です。

 運ぶためにカネが掛かっても、欲しいと思わせる物が」

 ルティがそう言ったとき、それまで感心するばかりだった女が気色ばんだ。


「そんな物がありゃぁ、私たちは苦労しないっ。

 何もないから、南へ行こうとしてるんじゃないかっ!

 なんだい、あんたは期待だけさせて」

 吐き捨てるように言った女の言葉を遮り、アービィが話し始めた。


「ありますよ、最北の地には。

 どこにも負けない、素晴らしい資源が周りにいっぱいあるじゃないですか。

 もちろん、農地や放牧地、今見ていただいたような施設も作ります。

 基本的な食料の自給率が低いと、それだけで戦の火種になりますからね。

 大声出すと働いてる人たちが驚きますから、ちょっと外へ出ましょうよ」

 アービィは、最北の女たちを外へ連れ出し、養鶏場の従業員から見えないところへ連れ出した。下手に最北の民がいるなどと知れたら、余計な騒動が起きかねなかった。


 養鶏場から少し離れた丘を越えた所で、アービィはピラムの民から聞いていた海の幸の話をした。

 南大陸で造船業がかつてない活況を呈していることも、ランケオラータから聞いている。建造されているのは沿岸航路用の輸送船がほとんどだが、それはたいした改造をしなくてもそのまま漁船に転用できる。これを最北の地へ回航し、ラシアスやストラーから腕の良い漁師を招聘すれば、一大産業が築ける。


 アービィは、新鮮な海産物が安定供給できれば、ストラーの人々が後は味付けしてくれると踏んでいた。

 最北の民に水の精霊と契約する者がいれば、保存技術も自前でできる。輸送まで賄うほどの人口を有するのであれば、北海漁業は最北の民の独占も期待できた。後は漁場を巡ってのトラブルが起きないように、南北連合がそれぞれに利益を確保するよう調整すればよい。いずれどの民にも海を目指すもの、大地に根ざす者が特化し始め、北の大地全体での民の再編が起こるはずだ。

 武力ではなく、浸透するように南北大陸の人々が入り交じるのであれば、それは歓迎することだった。



「不死者も、魔法陣も、使い方を間違えなければ、この世界を一気に発展させられる物です」

 アービィは、敢えて誤解を恐れずに言った。

 ルティやティア、そしてバードンが目を剥くが、アービィはそれを手で制して話し始める。


「ピラムの方々に伺いました。

 あなた方は、魔法陣を介して物を送ったり、情報の伝達をしているそうですね?

 僕たちが今できる、最も効率よく物を運ぶ方法は、川や湖を伝って船で運ぶことです。

 それが一番早くて、一番多く運べますが、川も湖もない地方はそのせいで発展できません。

 一番早い情報の伝達方法は早馬ですが、これも例えばここと南大陸の僕たちの故郷とでは、往復で五十日以上掛かります。

 魔法陣は、これを一日で、途中の輸送や伝達に関わる人々や馬の食料も掛からずに、済ませられてしまいます。

 もちろん、限界はあるでしょうけど。

 その技術を持っているというだけで、あなた方は優位です」

 侵略のための戦略兵器としてしか認識されていなかった魔法陣に、そんな使い方があるとは誰も考えていなかった。


 確かに、現状で利用されている魔法陣は、生者を不死者に転生させるための物だが、物資であれば何の変化もないし、死体は死体のままで不死者として復活するわけでもなかった。

 送り手と受け取り手の安全さえ確保すれば、これほど容易で安価な輸送方法はなかった。



「不死者に転生してしまった人たちですが、日光を受け付けないのであれば、夜間の作業を受け持ってもらえばいいんです。

 もちろん結界内には入れませんが、戦をする必要がなければ結界も必要ありません。

 戦が終わった後、自らの民のために不死者に転生した人だけ根絶やしにするなんて、僕は考えたくない。

 生きるために、敢えて日の光を捨て、不死者になったんですから。

 もっとも、人を傷つける意志を捨てないのなら、殲滅しますけどね」

 確かに、施設の修理などは夜間に行った方が、効率は良い。

 もちろん、アービィはこれが理想でしかないことは、充分すぎるほど承知している。


 悪意を以てすれば、物流拠点は侵略拠点に早変わりし、不死者の群れは人々を襲うだろう。

 だが、破壊衝動のみに突き動かされている最下級の不死者はともかく、ある程度高位の不死者は思考力も意志も持っている。侵略や征服の意志さえなければ、充分に和平に辿り着ける可能性をアービィは捨てていない。

 生者同士ですら、殺し合うのが人間だ。逆に生者と不死者が手を結べるのも人間だと、アービィは思っていた。絶対並ぶことなど不可能だと考えられていた人狼と人狼狩りが、共通の目標のために、今こうして肩を並べているように。



「あんた、このお嬢ちゃんが『ウチの人』って呼んでた人かい?

 恐ろしいほどのお人好しか、底抜けの莫迦だ。

 一人、たった一人、悪意を持った者がいただけで、あんたの考えてることは全部ダメになる。

 私は、そうなると断言してもいい。

 不死者に転生した者たちも、それを率いる猊下も、あんたたちなんかと手を結ぶなんてあり得ない。

 もちろん、私もね。

 なんで好き好んで、不死者なんぞに転生するものか。

 あんたたち全てを、最北の民以外全てを、私たちの前に跪かせるためよ。

 長い、長い年月を、食べる物すら満足に作れない、最北の地に押し込められて過ごした、祖先から受け継がれた、血肉に溶けた恨みを晴らすためよ。

 私たちは、あんた方が私たちの前に這い蹲って許しを請うても許さない。

 絶対に」

 アービィたちは、最北の女の叫びを、ただ黙って聞いていた。



「解っています。

 僕が言ったことが夢物語であることは。

 でも、こんな夢物語を現実にしてくれた、この娘のことは、ルティのことは、信じてやってください」

 そう言ってアービィは、その場で獣化した。


 優美な毛皮を持つ殺戮の化身が、最北の女たちの前に立った。

 禍々しいまでの切れ長の眼に、狂気の色は見られない。ありとあらゆる生あるものを、殺し尽くさずにはいられないような荒々しい目つきだが、その瞳は深い湖のように澄んでいた。

 丘を越えた風が、灰色とも白銀とも取れる毛皮を揺らしている。


 最北の女たちは、巨狼の姿に腰を抜かし掛けていた。その眼には絶望の色が浮かび、表情は凍り付いていた。

 あまりにも至近距離に出現した悪魔に、誰もが逃げることも泣くことすら諦めて、風に吹かれるままになっている。


 巨狼がゆっくりと歩を進め、ルティになついていた少女に近寄った。

 無惨なまでに全身を震わせ、眼に涙を溜めた少女の口が絶叫の形に開かれたとき、巨狼はその少女の頬を優しく嘗める。

 次の瞬間、ルティが罵声の限りを巨狼に叩き付けながら、剣を峰打ちに持ち替えて滅多打ちにした。


「あたし以外の女の顔を嘗めるなんて、どういう了見よぉっ!」


 ――ちょっと待って! 落ち着かせようと! ちっちゃい子は対象外っ! いやぁっ! 斬っちゃダメぇっ! 痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ! ごめんなさぁいっ!

 殺戮の化身からは、情けなさ過ぎる念話がだだ漏れになっていた。



「あれは愛情表現みたいなのもだから、気にしないで」

 腰が抜けた最北の女に手を貸しながらティアが言った。


「私は、奇跡を見ているのかい?

 人狼が、あの人狼が、人を見て、喰おうともしていない。

 これは夢かい?

 私も、あんたも、みんな喰われちまって、死んだことにすら気付いてないんじゃないのかい?」

 信じられないものを見たという表情が、最北の女の顔に張り付いていた。


「大丈夫、心配しなくて良いですよ。

 あの狼は、他の人狼とは違います。

 あなたを食べたりはしませんよ」

 魂が空の彼方に飛んでいってしまったような表情で呆けている少女に、バードンが優しく語り掛ける。

 他の最北の女たちも、今生きていることが信じられないといった表情だ。


「みなさん、本っ当に申し訳ありません。

 後で、あの莫迦狼にはよく言って聞かせますから。

 驚かせてしまったことは、許してください」

 ルティは心底申し訳なく思っている。

 十歳くらいの少女の心に、大きな傷を負わせてしまったのではないか、それが心配でならない。


 ――ごめんなさい、驚かせようなんて思っていませんでした。こんな僕でも、人と一緒に暮らせるってことを見て欲しかったんです。

 刀傷を舐めている巨狼から念話が届く。

 見る間に傷が塞がっていくのが分かる、驚異的な回復力だ。


 人狼が人と並び立つなど、最北の民が他の民と和解するよりあり得ないと思われているようなことだ。

 そんなものを見せ付けられてしまっては、この巨狼が言うとおりいつかは全ての民が肩を並べることができるかもしれない。最北の女は、自分の心に小さな、小さな希望が芽生えたことに気付いていなかった。



「宰相、陛下の居室から何やら怪しい波動が発せられていると報告があったが、調べはついたかね?」

 ラシアス摂政エウステラリットが、未だ宰相の任にあるコリンボーサに訊ねた。

 ニムファが引き篭もり始めてから、身の回りの世話の者は女王と気心知れあった者たちが行っている。

 当然、摂政の息の掛かった者も紛れ込ませてあり、その者からはニムファの動向を逐次報告するように命じてあった。


「殿下、現在全力で内偵を進めておりますが、何分地下の抜け道は途中までしか入れませぬ故、なかなか」

 コリンボーサは言葉を濁した。


 エウステラリットとしても、抜け道の途中にある鍵より先に内偵を進められないことは充分承知していた。

 だが、そのために身の回りの世話をする者の中に間者を紛れさせていたのであり、抜け道の中で行っていることを聞き出すことも任務の一つのはずだった。しかし、ニムファは地下迷宮に入っていることを隠しはしないが、そこで何をしているかはどうやっても聞き出せずにいた。ニムファと気心知れあった者はそう多くないが、それだけに結束は固く、紛れ込ませた者がその輪の中に入れないことも、ニムファから核心を聞き出すことを難しくさせていた。


「どうもきな臭い。

 ビースマックの二の舞にならねば良いが。

 武具の祝福法儀式は進んでいるか?」

 エウステラリットは当然ビースマック騒乱の顛末は、全て報告を受けている。

 不死者に通常の武具が通用しなかったことを知り、軍が所有する武具全てを火の神殿に依頼して祝福法儀式を施すことに決定していた。莫大な予算を必要とするが、事が事だけに一括ではなく年単位の分割払いで話をつけていた。もともと祝福法儀式への対価は、儀式を行った神官が精神力をかなり削られてしまい、数日寝込むような事態になるため、その間の補償という形であり、儲けを求めてのことではなかったからだ。

 他の三国が既に同じ様な形で武具の施術を行っていたことも、火の神殿が分割に応じた理由の一つだった。


 騒乱の当事国であるビースマックを含め他の三国は騒乱の直後から施術を進めていたが、ラシアスはかなり立ち遅れている。

 ニムファにその気が全くなかったからなのだが、エウステラリットはその点が気になっていた。北の呪術が関係しているにも拘らず、ニムファは精霊の祝福法儀式を嫌うかのごとく施術には消極的だった。民の支持が篤い神殿に対し、ニムファはもともと良い感情を持っていなかったが、ライバル心のようなものだとエウステラリットは理解していたつもりだった。しかし、祝福法儀式に対する消極さは、何か自分を脅かすものに対する恐怖でも持っているのではないかと感じさせるような異質さを感じさせていた。

 そのため、北の大地派遣軍の武具に対する法儀式は、ヘテランテラの独断でなんとか行われていた。もっとも、ウェンディロフ師団の壊滅と共に、せっかくの祝福法儀式済みの武具は虚しく北の大地に逸散していたが。


「はい、完全な祝福法儀式では、何年掛かるやも知れませぬので簡易でありますが。

 現在、第一、第二近衛師団の武具には、完了しております。

 近日中には常備第二師団の一連隊分も終わる見通しにございます」

 コリンボーサは恭しく頭を下げた。


 完璧な祝福法儀式では全ての武具の施術が完了するまでに、年単位の時間を必要としてしまう。

 このため、エウステラリットは他国の状況を調査し、不完全であっても全ての武具の施術が迅速に完了するほうを選んでいた。同時に北の大地からの報告で不死者が火に弱いことが判明していたため、常備軍から火の呪文の使い手を近衛師団に異動させ、常備軍には新兵として採用していた。


 政治に興味がないはずだった第一王子は、摂政の座に着くやそれまでとは打って変わって積極的な政治家に変貌していた。

 他の三国との協調体制の修復はもちろん、北の大地支援の戦略物資に対する関税の引き下げや、それを主要な収入源にしている領主に対する税収の補填、関税の不足を補うための広く薄い売上税の導入などを矢継ぎ早に実施していた。ニムファの失態も、他の三国に実質的な損害を与える前に収集できたことから、ラシアスに対する経済援助は引き続き行われており、ほぼ無償で入ってくる生活必需品に対する売上税で、ラシアスの国庫はなんとかぎりぎりの線で収支のバランスが取れていた。

 既に退任が決定しているコリンボーサは、先王が政治の舞台から消えて以降初めて、信頼に値する者の下で働く充実感を感じていた。


「いずれにせよ、場合によっては陛下を、いや、姉上を拘禁することも考えねばならぬ。

 その上で地下迷宮の徹底調査だ。

 どうも、私は姉上がよからぬことをしているとしか思えぬ。

 宰相、ビースマックに人をやり、例の魔法陣の詳細な図面を提供してもらえ。

 もちろん、何が起こるか分からぬ故、図面上での結界処理には充分気をつけるように」

 エウステラリットは、そう言ってコリンボーサを下がらせた。



「おじさん、本当に怖くない?

 食べられたり、しない?」

 おずおずと少女がバードンに聞き、恐る恐るといった動きで巨狼に近付いた。


「はい。

 それは、我が神の名に賭けて保証します。

 おい、狼、解っているだろうな」

 バードンは優しく少女に答え、巨狼に注意を促した。


 ――大丈夫ですよ。驚かすようなことはしませんって。

 巨狼から念話が返され、それを感じ取った少女が狼に寄り添った。


 ――乗ってごらん。

 アービィは、少女を極力驚かさないように気を付け、頭の位置を低くする。

 巨狼の念話に頷いた少女が狼に跨った。


 ――しっかり、掴まってて――

「あたしも行く」

 ルティが巨狼に飛び乗り、少女を後ろから抱えた。


 ――何、心配してんの? 大丈夫だよ、危ないことなんかしないから。

 ルティは、巨狼の念話に答えることなく、怒ったような顔で馬に拍車をかけるようにその脇腹を力一杯蹴り込んだ。心なしか、ルティの顔が赤く染まっているように見える。

 ティアが、笑い転げた。


「笑うな、ボケへ――」

 ルティに皆まで言わせず、巨狼が駆けた。


 事の成り行きを唖然と見守るだけだった最北の女たちが、少女の身を案じて追いかけようとするが、巨狼はあっという間に遠ざかっていってしまった。


「大丈夫よ、あの狼は。

 あたしだけ正体を隠してるなんて、公平じゃないわね」

 ティアは、ラミアのティアラを髪に飾ると、アービィ同様その場で獣化する。


「あんたまで、とはね。

 どこの部族の神なんだい?」

 ラミアはそれほど知られていないのか、最北の女に脅えはみられなかった。


「違うわ。

 あたしは神なんかじゃない。

 彼とは違う意味で、忌み嫌われるラミア。

 魔獣よ。

 男の精を喰らい、喰らい尽くして殺してきた、魔獣よ」

 少しだけ、悲しげな表情を浮かべ、過去を悔いるようにティアが言う。


「もし、私が南大陸の軍に魔獣が紛れ込んでるって言ったらどうなるのかね

 南大陸の住人全てが、あんたたちを受け入れてるっていうわけじゃないんだろ?

 北の民だって、南大陸の住人が魔獣を先頭に立てて、北の大地を侵略しようとしているって言ったらどうなると思う?

 それを覚悟でその姿になったんでしょうね?」

 心底意地の悪そうな笑みを浮かべ、最北の女が問う。

 弱みを握ったらこっちのもの、そういった雰囲気を漂わせていた。


「そうねぇ。

 今なら、南大陸連合軍は大混乱。

 北の民は離反、かな。

 それで迷ってるのよ、いつ公表するかって」

 あっさりとティアが答えた。


「正気、なの?

 間違いなく、殺されるわよ、あんたたち。

 何で正体を明かそうなんて、そんなこと思うの?」

 人狼もラミアも、人を喰らい、男の精を喰らうため、人に化けて人々の間に潜む。

 それが正体を明かすなど、悪魔狩りを呼び込むか、民衆になぶり殺しにされるか、迫害され追放されるか、どの結末になろうと自殺行為としか思えない。


「魔獣全てが、人に対して害を成したいと思ってるわけじゃないわ。

 彼もあたしも、人の側で平和に暮らすことを望んだの。

 少なくとも、あたしたちの周りにいる人たちは、受け入れてくれてるわ」

 もちろん、全ての魔獣がそう考えているなど、ティアもアービィも思ってない。


 二人を利用して人に近付き、人を喰らおうとする魔獣が出ることも予想された。

 そのような魔獣は、今まで通り討伐すれば良い。その点については、これまでと何も変わらない。


「なんで、そんな面倒を。

 姿を変えられるんでしょう?

 人として暮らせるじゃない。

 無理して魔獣の姿でいる必要なんて、ないじゃないの」

 最北の女は、そこが理解できなかった。

 既に二頭の魔獣は、人の間に溶け込んでいる。

 無理して面倒を呼び込むなど、二頭の気が知れない。


「誤解しないでね。

 あたしは人間になりたいわけじゃないの。

 あの子たちと旅を始めた頃、そう思ってたこともあったけどね。

 あたしも彼も、魔獣として生きたいのよ。

 魔獣であることを、隠さなくていい世の中になって欲しいの」

 バードンをちらりと見てから、ティアは答えた。

 ティアの視線に気付いたバードンは、素知らぬ振りをしている。


「今まで、どれほどの人が魔獣に殺され、喰われたと思ってるの?

 そんな存在を、人間が受け入れるとでも?」

 最北の民の中にも、当然のように魔獣に襲われ、命を落とした者がいた。特に人狼と言う存在は、会えば死を意味するものとして認識されている。


「人間の方が、よっぽど人を殺してるじゃない。

 あなたたちもそうだし、南大陸の住人だって。

 魔獣は戦争なんかしないから」

 理性や思考力を持つ魔獣はラミアと人狼の他、最北の民が転生した吸血魔獣を入れても、それほど多くはない。


 吸血魔獣は悪霊の一形態といってもよく、厳密には魔獣とは違う存在だ。

 かつては人虎や人熊、人兎、人狐等の、所謂ライカンスロープもこの世界に存在したが、大帝国が南大陸を統一していた時代に全てが絶滅していた。


 人狼は人間並みの繁殖力を持ち、人間との混血も可能だが、ラミアはそうではなかった。五、六百年の寿命が尽きる際に、命と引き替えに一個の卵を残すだけだ。遠い神話の時代にラミアという種族がこの世に生まれ、どれほどのラミアが世界に散らばったかは知らないが、現在ティアの他には数個体しかいないと見られていた。

 ティア自身、ラミアの別個体に会った記憶は、遙か昔のことだった。


 ラミアが実質的に驚異とならない以上、魔獣としては寿命の短い人狼の次世代を教育できれば、アービィやティアの存在を利用して人を喰おうとする魔獣は、根絶できるとティアは見ている。

 それ以外のゴブリンやコボルド、オークといった思考力はあっても知性が高くない魔獣に対しては、二頭を利用して人を喰らうより、二頭を利用して人と共存する方が利があると知らしめれば良い。それでも人に害を成そうとするならば、それこそ今まで通り討伐すれば良いだけのことだ。


「あんたは、私たちよりずっと先を見ているんだね?

 こう言っちゃなんだけど、何で魔獣風情がそんなことを考えたんだい?

 あんたにしても、あの狼にしても、わざわざ生き方を難しくしてるだけじゃないか」

 最北の女は、半ば呆れ気味に聞いた。


「じゃあ、聞いていただこうかしら。

 どうしてあたしが、そんなことを考えるようになったか。

 そのためには、あの二人のことから知ってもらわないと、ね」

 そうしてティアは、長い、狼と少女の物語を語り始めた。


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