第86話
「ごめんください、アービィ殿はいらっしゃいますか?
ラルンクルス総司令官より、お願いの儀がございましてお訪ねいたしました」
戦務参謀がラルンクルスの副官を通しての命令に従い、自身の副官を連れてアービィたちの家を訪れたのは、ラルンクルスとルティがそれぞれに仮宿舎と収容所を訪ねている最中だった。
「はーい。
おや、お久しぶりです。
どうされました?」
作戦会議や打ち合わせで戦務参謀とは顔見知りになっていたアービィは、彼らを家に気軽に招き入れる。
「はい、お忙しい中大変申し訳ないのですが。
先程、総司令官がルティ殿とばったり道でお会いしまして、羊羹、ですか、菓子の作り方をアービィ殿に教わるようにとのルティ殿からのご教示をいただき、それを受けてお招きに上がった次第であります」
戦務参謀は最初に言われたときには、軍務とどのような関係があるのかと訝しんだ。
しかし、副官から菓子をピラムの民に振る舞いたいこと、いずれターバの民と彼らを引き合わせる際の緩衝材として使いたいことを聞かされ、即座に事の重大性を理解していた。
そのままティアを伴い司令部へ行き、給糧班の指揮官に面会した。
「初めまして。
ラルンクルス様から、こちらでいくつか菓子の作り方を説明するように、と仰せつかりました。
素人のやり方でお恥ずかしい次第ですが」
アービィはそう挨拶した。
「よろしくお願いいたします。
総司令官閣下のお墨付きであれば、素人も玄人も関係ないと思慮するものであります。
至らない点がございましたら、何なりとご指摘くださいますよう、お願い申しあげます」
給糧班の指揮官は、背筋に金棒でも入っているかのような姿勢で挨拶を返し、見事な動作で敬礼した。
「そんな、たいしたものじゃないですから。
じゃ、今から言う材料を揃えていただきます。
それから、一つだけお願いがあります。
実際に作るときは、材料を必ず北の大地で採れたもので揃えていただきます
特に砂糖。
これは、何をさておいても最優先で」
アービィが気にしていることは、北の大地は南大陸に劣らない豊饒の地であると証明することだった。
「畏まりました。
ですが、今は手持ちの物で代用することを、お許しいただきたくあります。
もちろん、不足している物は、至急北の大地産の物を揃えて参ります」
指揮官は答え、アービィが挙げる材料を一つずつ確認し、部下に調達リストをその場で作らせている。
「理由も聞かないのね。
かなり使える人材じゃない」
ティアが呟く。
やはり、入手困難と考えられていたのか、砂糖は南大陸産の物しか在庫がない。
これは至急買い揃えてもらうことにして、その間にアービィは水の黒呪文レベル2『凍結』を使える兵を集めてもらった。材料が届くまでの間に、保冷庫を充分に冷やしておきたかったのだった。
保冷庫の準備が整ったところへ、砂糖を始めとする材料が届けられた。
原料が北の大地で作られているビートだろうと、南大陸では一般的なサトウキビだろうと、砂糖の品質には関係ない。アービィが特に砂糖を北の大地産に指定したのは、指揮官も気付いているが、甘味が贅沢品であるという認識は北の大地でも同様で、砂糖をふんだんに使った料理や菓子は、豊かさの象徴になるからだ。
とりもなおさず、北の大地産の砂糖をふんだんに使った菓子は、北の民が豊かになったことの象徴といえる。そして、それだけの砂糖が生産できるということは、北の大地の豊穣の証明になると、アービィは考えたのだった。
餡子はすぐにできるものではないので、まずは下拵えを説明し、その間に持参した餡で ラルンクルスからの注文通り、最初に水羊羹を作る。次いでカステラやプリンを作り、保冷庫に入れて冷やし始めた。その間に餡子の作り方の注意点を説明しながら仕上げたときには、兵の夕食作りが始まった。アービィとティアも手伝い兵食を作り終わった頃に、ラルンクルスが司令部に帰着し、相前後してルティがバードンと一緒に給糧班の調理場に顔を出した。
四人はどさくさで兵食をご馳走になり、その後の片づけを手伝った。そして、あんみつと大量の小麦粉ぜんざいを作り上げたときには、夜も更け始め就寝時刻が近付いていた。
アービィは専務参謀を通して、ラルンクルスに司令部と給糧班全員に試食をしてもらうように願い出た。給糧班と司令部要員を合わせるとかなりの人数になるが、多くの人々に試食してもらった方が良いと考えたからだ。さらに大量に作ったぜんざいを、兵の夜食に出してもらうようにも願い出た。
将校用食堂で、ラルンクルスを始めとした司令部要員や給糧班の要員が唸り声を上げたとき、兵舎からは爆発するような歓声が聞こえてきた。
「ねぇ、アービィ。
あたしにも、お菓子の作り方教えて」
唐突にルティが言ったのは、捕虜収容所に通い始めて三十日も過ぎた頃だった。
その間、アービィは毎日のように記憶を頼りに菓子を作りルティに持たせていたが、いい加減ネタ切れとなっている。
もともとアービィは料理が趣味だったというだけで、本格的に修行をしたわけでも菓子作りが趣味だったわけでもない。プリンから始まって、カステラ、羊羹、あんみつ、粟餅、小麦粉ぜんざい、杏仁豆腐もどき、手抜きシフォンケーキや葛桜あたりでネタが尽き、あとはカステラやシフォンをベースにしたデコレーションケーキに逃げていた。
「最北の民のみんなへ持っていくの?
やめとこうね、毒の差し入れは」
ワカサギのフライすらまともに揚げられないルティに菓子作りなど、そこら辺にいるキマイラに菓子を作らせるより難しい。
「なんて失礼な。
あたしは、自分の誠意を見せたいの」
顔を真っ赤にしてルティが怒る。
「だって、ルティにやらせるとさぁ。
入れちゃいけない物、入れまくるじゃない。
で、後で後悔するんだから」
アービィは根本的な問題点を指摘した。
発想することはいいのだが、想像力が決定的に不足している。
どの調味料をどれほど入れたらどんな味になるか、どの調味料を組み合わせたらどんな味ができるか、どの素材とどの調味料が合うかは、何度か料理をしているうちに自然と覚えるものだ。
どうやらルティは、そこに一捻り自分らしさを入れないと気が済まない性質のようだった。これは料理の中でも、最も危険な行為の一つで、もちろんこの世界にそんな言葉はないが『アレンジ・チャレンジ・大惨事』『地雷戦隊アレンジャー』と言われるやつだ。
そしてもう一つ、ルティがやらかす危険行為がある。
隠し味や香り付けに使う材料を、これでもかと入れてしまう癖だ。少しで美味しいなら、たくさん入れればもっと美味しいはず、というのがルティの主張だが、アービィは『大匙はお玉じゃねぇ』と何度心に叫んだか、『隠し切れない隠し味』ほど恐ろしいものはない。
ルティに言わせれば『レシピどおりに作ったら負けかと思ってる』そうなのだが。
「つべこべ言わない。
何でもいいから教えなさい」
ルティがアービィに迫った。
「ダメよ、アービィ!
ルティに食べ物作らせちゃ!」
アービィから血の気が引き、後少しで首を縦に振りそうになったとき、不穏な気配を悟ってキッチンに乱入したティアが止めに入った。
「狼、それだけは阻止しろ!」
まさかのバードンまで止めに入る。
「どういうことよっ!
そんなにあたしが信じられ――」
「ないっ!」
「ないわよっ!」
「ませんっ!」
心の叫びが、四者四様に響いた。
「とりあえずね、アイスクリームを固めに作っておくから。
あと、衣も妥協する。
これ持って行って。
油は、これね。
あと、薄く切ったカステラと。
衣をひとつまみ落として、さっと走ったら大丈夫。
ほら、こんな感じ」
本気で泣き出したルティに、さすがに申し訳なくなったアービィが妥協した。
見た目の演出ができ、その場で調味料を一切使わないネタを考え出していた。
「ほら、よく見なさいっ!
こうだからね、こうっ!」
ティアが必死の形相で、ルティの首根っこを押さえつけ、アービィの実技を見せつける。
薄く切ったカステラでアイスクリームを包み、衣を薄く付けて手早く揚げる。これだけのことだが、周囲が熱く中が冷たいというギャップが楽しい菓子だ。異世界にいた頃、テレビで見て以来やってみようと思っていたことだった。
「いい、ルティ?
これはね、冷たいものと熱いものが一瞬で融合するんだからね。
長く揚げてると、中が溶けちゃうから。
表面だけ、衣が固まったらすぐ上げて。
溶けて流れ出したら、本気で爆発するからね」
くどいぐらいに念を押すアービィ。
だが、ルティは何か考え込んでいる。
「ルティ殿、何か足すなどお考えになってはいけません。
このような菓子は、単純であればあるほどいいのです。
いろいろ入れるのは、あのデコレーションケーキだけとお考えください」
バードンの表情が、子供をあやすときのそれに近くなっている。
まだ、この菓子は食べたことはないが、いろいろ入れては素朴に味わうべきものが台無しになるであろうことは、容易に想像ができていた。
「あ、分かった。
ルティ、あとで良いこと教えてあげるから。
とりあえず、それ試食してて」
そう言ってアービィはプリンを作り始めた。
「いいじゃない、これ」
ティアは大喜びで食べている。
さり気なくバードンがティアに半分渡しているのを、アービィは見逃さなかった。
「じゃあ、ルティ、もう一つ。
カステラを薄く切ったら、餡子はさんでごらん。
餡子だけだよ。
これは揚げちゃダメ。
解ったね?
解ったら、行ってらっしゃい。
ティア、ルティ一人じゃ全部は持っていけないから手伝ってあげてよ。
話を聞くと、僕たち男は入らない方がよさそうだし」
アービィが前半はお使いに行く五歳児に対する口調でルティに、後半はティアに言った。
「構わないけど。
持って行くだけでいいの?」
ティアの目は何か言いたそうな不安を物語っていた。
「作るときもさ、手伝いってことで監視に付いててもらえる?
収容所で大惨事引き起こすわけにはいかないからね。
僕じゃルティは言うこと聞いてくれないし」
ティアの視線に気付いたアービィが付け加える。
ルティが再びふくれ上がった。
ルティが出かけた後、プリンを型に入れ冷やしている間に、アービィはバードンと連れ立って市場へ行った。
春というには暖かいが、初夏というにはまだ涼しいこの時期、市場には種類こそ少ないが果物も並んでいた。昨年に採れたベリー類や桃をシロップ漬けにした瓶詰めも、南大陸産、北の大地産の両方が並んでいた。
アービィは、生鮮のイチゴや桃、ベリー類をいくつかと、北の大地産の果物の瓶詰めを幾つか選び購入していた。
「どうするんだ、それ。
ジャムにでもするのか?
当たり前過ぎて面白くないんじゃないのか?」
アービィが買い込んだものを見たバードンが言った。
「いや、これは、そのまま使います。
ルティの好きなように『飾れば』いいんです。
調味料なんぞ一切使わず。
さすがに僕もネタ切れで、あとは演出で見て楽しむほうにしてもらいます」
そう言ってアービィは雑貨屋へと歩き出した。
北の大地でも陶器加工は昔から行われており、それなりに味のある皿が作られていた。
中には南大陸へ輸出され、良い値で取り引きされている窯元もある。アービィは果実の原色とクリームの白が映えるであろう皿を人数分探し出し、それを纏めて購入した。
バードンは、今現在の状況を不思議な感覚で認識していた。
二年前に出会ったときには殺すことしか考えていなかった相手と、今はこうして肩を並べて歩いている。
それどころか、旧来の友人のように交わっている。友というものを積極的に持とうとしなかったバードンにとって、心のどこかで初めて友と認識しようとしている相手が人狼だったということは、何と言う皮肉だろうか。修行と悪魔や魔獣殺しに明け暮れた毎日は、当然恋愛などというものとも無縁でいた。異性と話す機会を求める努力をするくらいであれば、自身の技を磨く努力に振り向けていた彼にとって、初めて構えずに話せる異性がラミアだったということも、これも途轍もない皮肉だ。
自身の矜持が崩れてしまいそうで、共通の敵と戦うための手段だと言い聞かせていたが、最近では自身から望んで接触を保とうとしている。
それすら逃がさないためと自身には言い聞かせていたが、バードンは人生で初めて他者との交流を楽しんでいた。
「飾るだけか。
ルティ殿の美的感覚次第、というわけか。
それなら大丈夫そうだな」
バードンは大きく笑った。
「後は、これが大事なんですが、最北の民の皆さんにもやってもらえる、ということなんです。
一緒に何か作るって、結構打ち解けるんですよね。
できれば、もっと手の込んだ物の方が良いんですけど、ルティですから」
辺りを見回す振りをしてから、アービィも笑った。
アービィは家に戻ったらバードンにどんな物を作ろうとしているかを、見てもらおうと考えている。一緒に何か作ると、打ち解けやすい。これを実践するつもりだった。
二人が家に帰り着くと、プリンはちょうどよく冷えていた。
「じゃあ、バードンさん、ルティにやらせようとしていることなんですけど」
そう言ってアービィは生クリームをホイップし始めた。
買い込んできた器にプリンを開け、周囲をホイップクリームで飾り、果物を並べ立てる。
「いかがです?
クリームの泡立てから飾りつけ、これをみんなでやれば楽しいんじゃないかと。
砂糖は予めクリームに見合った分を包んでおけば、大丈夫……ですよね?」
アービィはそう言って、バードンにボウルと泡だて器を渡した。
「これは、楽しそうだ。
失敗ということはないだろうな。
だが、狼、お前の美的感覚は、異世界に置いて来たのか?」
それから暫くの間、大の男二人でああでもない、こうでもないとプリンの飾り付けに興じていた。
その後、ホイップクリームで何かを思い出したアービィは、今度はメレンゲを作り始めた。
充分にホイップした後、寒天を溶かしメレンゲに足しては撹拌する。全ての寒天液を混ぜ合わせ、型に入れてそのまま保冷庫に入れた。同様に試しに作っておいたクリームチーズと生クリームを混ぜレモン汁を足して撹拌し、砕いた焼き菓子とバターを混ぜ合わせたものを敷き詰めた型に入れ、これも保冷庫に入れる。前者は淡雪かん、後者はレアチーズケーキだ。
「これのおかげで二つ、お菓子の作り方を思い出しましたよ。
最初に作った方なんですけど、寒天の代わりにゼラチンで作ると、また違った感覚のものができるんです。
それは炙ってとろとろにして食べても良いんですよ。
そろそろ、二人が帰ってくる頃ですかね。
ちょうどできあがってると良いんですけど」
かなり満腹の二人は、南大陸から持ち込まれたお茶を啜りながら、ルティとティアの帰りを待っていた。
「ただいまぁ。
ねぇ、聞いてよ、アービィ。
すっごく、喜んでくれてね、初めて話が弾んだの。
他愛ない世間話だけだったけど。
あたし、もうそれだけで嬉しくて」
ルティが半泣きで鼻を啜りながら訴える。
「まあ、ヘマはしなかったから。
いいんじゃない、あたしは大変だったけどね。
最北のみんなも喜んでくれたから、良しとするわ。
全部、最北の地でも手に入る物っていうのが、一番嬉しかったみたいよ」
ルティの暴走を止めるのに、精根尽き果てたという表情のティアが言った。
「よかったじゃない、ルティ。
本当にお疲れ様、ティア。
とりあえず、座りなよ。
新しいお菓子用意して待ってたから。
バードンさん、クリームをホイップするのを手伝ってください」
アービィは、生や瓶詰めの果物をテーブルに並べる。
「ルティ殿、おめでとうございます。
お話が弾んだということは、いずれは聞きたいことも聞けるようになるということ。
狼にその手助けとなりそうな案があるそうです。
今から準備いたしますので、お楽しみにしていただきたい。
蛇、ご苦労だったな」
バードンはアービィからボウルを受け取り、一心にクリームをホイップし始めた。
アービィは、バードンの一言でティアの表情が安心感に包まれたことを見逃さなかった。
人口の少ない北の大地では、放牧に適した場所がいくらでもあった。
ターバの衛星集落で放牧を主に営んでいるところがあったため、そこから牛乳や生クリームといったものは、かなりの量入手することができた。ターバ自体の人口がまだそれほど多くないため、アービィたちで生クリームを独占してしまっても、今のところ問題はない。このところ菓子作りによく利用していたため、衛星集落に依頼して作ってもらっていたのだった。エイジングの期間を利用して、保冷庫を預け冷蔵した状態で運んでもらっていた。
「なになに?
楽しそうなことしてるじゃない。
で、プリンを皿に開けて……
やらせてっ!」
ルティが即座に飛びついた。
「なんで、それにしてくれなかったのよ。
それだったら、あたしも楽しめたのにぃ」
ティアがバードンからクリーム絞りを受け取り、嬉々としてデコレートし始めた。
「狼、これの方が良かったみたいだな。
お前と違って、二人とも美的感覚は大丈夫そうだ」
笑いを噛み殺しながらバードンがアービィを肘でつつく。
「いや、美的感覚に付いては、バードンさんにだけは言われたくないなぁ」
苦笑いしながらアービィもつつき返す。
「どうしたの、二人とも。
なんか、随分と仲良いんじゃない?」
ティアは不思議そうに二人を見ていた。
あれほど殺したくてしょうがなかった相手と、楽しげに話すバードンは始めて見た気がする。
「そう?
二人でこれ作ってたからかな。
新作もあるからね」
アービィは心の中で、それが目的だったんだよ、ティアに呟いていた。
ルティとティアのプリン・ア・ラ・モードが完成する頃、程よく冷えた淡雪かんとレアチーズケーキも並べられ、四人は濃いお茶と共に甘味を楽しんでいた。
南大陸にいた頃は、ここまで甘い物を食べる機会はなかった。
ほとんどのサトウキビはフォーミットより南にある小島で生産されていたが、輸送費を始めとして諸経費や関税などで値段が上がり庶民には高嶺の花だった。シュガービートもストラーの一部で生産されていたが、砂糖への加工はほとんど行われていない。
この世界、この時代の人間として当然のように甘い物には常に飢えていたため、バードンが甘味に対して抵抗がないのは当たり前のこととして、アービィは異世界にいたときとは比べ物にならないほど、甘味に対して貪欲になっていた。
シュガービートの苗を風の神官が北の大地に持ち込んでいたのだが、余程気候が適合したのかストラーとは比べ物にならないほどの生産量になっていた。そのおかげで、北の大地では南大陸に比べ砂糖の入手が容易になっている。輸送に掛かる経費はないに等しく、関税も北の大地内では発生しない。庶民が気軽に買える、または等価交換できる物として認識されつつある。いずれは南大陸向けの主力輸出品になると、ランケオラータやレイは考えていた。
ラルンクルスは、緊張していた。
仮宿舎から歩いて数分の集会所には、ターバの民の主だった者たちが集められている。長いテーブルの片側にターバの民が付き、反対側はまだ誰も座っていない。
周囲の集落が不死者に席巻された後も踏みとどまり、同胞を不死者に転生させられその最後を見届けた者たちと、集落の根絶やしを避けるため心ならずも平野に避難した者たちからの代表が、最北の民との面会に臨んでいた。ある者は瞳に憎悪を滾らせ、ある者は諦念を漂わせ、ある者は反抗のきっかけにできることを期待し、ある者は和平を期待しながら、最北の民の到着を今や遅しと待ち構えている。
長大なテーブルの頂点にはプラボックとラルンクルスが並んで着席し、その両側を主席参謀と戦務参謀が固める。
その反対側の頂点には作戦参謀と情報参謀を中心にして、両脇に兵科参謀と輸送参謀が座っている。どちらもその背後には、万が一ターバの民が激昂した際の防波堤となるため、軽武装の兵が硬い表情で立ち並んでいた。
やがて、兵に先導された最北の民、グレシオフィたちの迫害を逃れてきたピラムの民の族長と主だった者たちが入ってきた。
射竦められるような視線や、値踏みするような視線、同情や憐れみが入り混じった視線に晒されながら、彼らはターバの民の反対側に言われるまま大人しく席に着いた。
「皆さん、今日は大変ご苦労様です。
こうしてピラムの方々と、ターバの皆さんをお引き合わせすることができて、南北連合軍総司令官としては喜びに堪えません」
ラルンクルスは、普段の軍人調の話し方を控え、ことさら普通を意識して話し始めた。
「我々は、ピラムの方々を歓迎したい。
ピラムの方々がターバに到着以来、我々は丹念にその持ち物を調べ、そしてお話を伺いました。
我々は、一度はターバを陥落させるとここなった不死者の灰や、魔法陣構築に必要な資材、自衛以上の武器防具が携行されていないことを確認しました。
そして、そのお話を伺うにつれ、ピラムの方々は多くの部分で我々と共闘できる条件を満たしていると、判断いたしました。
即ち、中央を席巻し、一度はこのターバを落とした不死者を操る、我々と敵対する者たちを共通の敵とする立場であるということであります」
それでも所々に軍人調の喋りが出てしまうのはご愛嬌だ。
結論を先に述べ、その理由が解らないという者たちに対し、後追いで説明する。これも拙速を尊ぶ軍人の会話の仕方だ。
ターバの民、特に最後まで踏みとどまった者たちの瞳に、怒りの色が濃くなった。
「ターバの皆さんの中には、最北に住むというだけで同胞を灰にした敵と同一視する方々がいることは、私もよく承知しております。
ですが、よくお考えいただきたい。
平野の中にも、中央の中にも相争う集落があったように、最北の地も一枚岩ではありません。
敢えて申し上げれば、我々南大陸の住人と、皆さん方北の民は、これまで長く地峡を挟んで対峙しておりました。
最北の地から不死者の群れを以って侵略を企む邪悪な勢力に対して、千年の恩讐を超え手を結び、肩を並べることができたのです。
聡明な皆さんに置かれましては、これと同じことが最北の地に住まう者であっても、敵を同じくするものとはできる。
私はそう信じております。
今日は、お互いに忌憚なく言いたいことを言い合い、過去の恩讐を水には流せなくとも一時抑えるために役立てればと考え、この場を用意しました。
一つだけ、皆さんにお願いがあります。
それは、相手に最後まで話させる。
途中で言葉を遮らない、ということです。
我々の会議でもよくあることなのですが、自らの主張を通すため、相手に説明をさせまいとしてします。
こうなってしまうと、感情が先に立ち、纏まる話し合いも纏まりません。
相手を否定するためだけの発言に終始してしまうのです。
相手の言うことを最後まで聞くうちに、自分が冷静になれるのです。
では、よろしくお願いいたします」
ラルンクルスは席に座り、ピラムの族長に発言を促した。
「この度は、我々を受け入れるというご決断をいただき、誠にありがとうございます。
もちろん、全ての方々が我々を無条件で受け入れると仰っていただけると思うほど、我々は楽天家ではございません。
この場をお借りして、過去の暴虐についてお詫びをさせていただくと共に、今後に付いてよろしくと申し上げさせていただきます」
手短に挨拶し、ピラムの族長は着席した。
これから襲い来るであろう罵詈雑言は覚悟できている。何があっても激昂しないよう、自身に言い聞かせていた。
「ようこそ、ターバへ。
とは申し上げない。
あなた方の窮状は、こちらのラルンクルス殿から伺った。
我々は、血も涙もない冷酷な集団ではない。
助けを求める者が縋れば、これに手を貸し、助けよう。
だが、血も通い、涙も流すが故に、あなた方を歓迎する気にはなれない。
それは理解していただきたい。
二晩のうちに同胞のほとんどを不死者に変えられ、一瞬でそれが灰になって散り行く様をお考えいただきたい。
あなた方も、不死者の群れと戦っていると伺った。
だが、このターバが一度陥落したときのことをお考えいただきたい。
私はそこにいた。
最北の地から逃れ、ほうほうの態でこの集落に辿り着いた人々を迎え入れ、そして多くの民を失った。
あなた方が、百万の言葉を弄しようと、私は、あの時ターバに残っていた者たちは、あなた方を信じることができない。
信じたくともだ」
ターバに踏みとどまった者の代表が、激昂を辛うじて抑えつつ、血を吐くように心情を吐露した。
「私も同様だ。
こちらにいる方々と違い、私たちは一度ターバを離れている。
あなた方の同胞の攻撃で、中央の集落が壊滅し、ここターバの命運も旦夕に迫った折にだ。
卑怯者の誹りを受けようと、我々の血を絶やすまいと、私たちは平野に逃れた。
未だに後ろ指を差されていることは充分承知している。
だが、遠く平野の空の下で、同胞たちの武運を、無事を、再会を願わなかった日は、者は、一日たりと、一人たりとなかった。
ターバ解放の際、私は外縁の結界にいた。
目の前に襲いくる、かつての同胞が成れの果ての不死者が、爆発四散するように灰と化し、散っていった様を忘れろといわれて忘れられるものではない。
それもこれも、最北の地から逃げてきたという者たちに、手を差し伸べた結果だ。
疑うことをしなかった者たちを責めることは容易い。
だが、我々は、普段殺しあっている部族であろうと、助けを求められたならこれを助けることを矜持としていた。
その矜持を逆手に取り、我々を滅ぼそうとしたあなた方の同胞を許すことはできない。
そして、あなた方は、今全く同じようにしてここへ来た。
どうしてこれを信じられようか」
そう言って、平野に逃れていた者の代表は着席する。
僅かに卑怯者との誹りが含まれた横からの視線を感じていたが、それに対する反論は辛うじて飲み込んでいた。
「仰ることは、ごもっともです。
我らには、その糾弾を跳ね除けるだけの材料がございません。
ただただ、信じていただくことを望むのみ。
それ故、ラルンクルス様からのご指示で、口には出せぬほどの屈辱を甘受し、あらゆる調べを受け入れてございます」
ピラムの族長は、そう答えた。
もっと激しい罵詈雑言を覚悟していたが、ターバを代表した二人の言葉は厳しいながらも自制されている。
「断っておくが、我々はあなた方を指弾する気はない。
もちろん、侵略の意図を持ってここへ来たというのであれば、この世に存在する罵詈雑言全てでも足りぬ。
そのうえで八つ裂きにしても足りぬくらいだが、我々が言いたいとはそうではない。
ラルンクルス殿を信じればこそあなた方を信じたいが、それができぬと言っているだけだ。
敵の敵は味方という言い分があるが、そうであればあなた方とは肩を並べられると思う。
だが、同胞を、家族を、父母や、子供たちを灰にされて、それができるかといわれれば、無理だとしか言いようがないことをご理解いただきたい」
踏みとどまった者のうちの一人が、張り裂けそうな怒りを飲んで、辛うじて叫びにならないように声を震わせて言った。
「皆々様のお気持ちは充分に理解しております。
我らは、ピラムの皆さんを徹底的に調べました。
もちろん、拷問などはしておりませんが、苦痛に耐えかねた者にこちらの望む答えを捏造させたところでそれは真実ではないことが明白だからです。
全ての持ち物は没収し、こちらが用意した物のみで暮らしていただきました。
申し訳ないとは思いましたが、思い出の品であっても全て焼き払い、川に投棄しております。
仮宿舎からは全ての扉を撤去し、監視の目が届かぬ場所をなくしました。
厠も例外ではありません。
さらに、徹底した身体検査を行っております。
万が一、体内に不死者の灰を隠し持っていては、どこに不死者が湧いて出るか分かりません。
言うまでもなく、この集落は結界内ですから、どこに灰を撒こうと実体化した瞬間にまた灰と化します。
不死者の灰を持ち込まれようと、我々には何の痛痒でもありません。
ですが、反意ありと判断するには充分です。
従いまして、口腔内はもちろん、胃の中、尻の中、女性器の中まで、全て調べさせていただきました。
糞壷も同様です。
その結果、不審物は一切発見されておりません」
主席参謀が発言した。
ターバの民の中からどよめきが上がる。
まさか、そこまで非道な検査をしていたとは知らなかったからだ。女性の検査は女性士官が担当したとはいえ、性器と肛門を衆人環視の中まさぐられた屈辱は、普通の神経では耐えられない。担当官の嫌悪感もどれほどのものだったか、それも想像には難くないことだ。糞壷まで浚わされた担当官の苦痛は、言うに及ばずだ。そして、子供にとって無理矢理吐かされるなど、どれほどの苦痛だっただろう、聞いているだけで心が痛んだ。
「我々といたしましては、そこまでしなければ到底ピラムの方々を信じるわけにはいきませんでした。
我々には、ターバを守るという使命があります。
徹底すべきことは、徹底しなければなりません。
そして、我々は身体検査と持ち物検査で不審物が見つからなかった後、言葉は悪いのですが、真実を述べてもらうため彼らを抱き込むことにしました。
打ち解けあい、心を開かせ、不審な思いを抱かせずに真実を引き出すためです。
もちろん、今でこそ言えることですが、その際には我々は自身を欺くことまでして、彼らと世間話から始めました。
その際に、あのアービィ殿からご教授いただいた、これが大きく役に立っております」
作戦参謀が従卒に合図し、アービィが教えた菓子が運び込まれた。
「酒の用意もしてあるが、いきなりではどのようなことになるか、予測が付かんのでな。
甘い物は心を安らげてくれる。
我らは、これまで少し荒みすぎていた。
たまには、こういうのもよかろう?」
ここまで一切発言せず、目を閉じてことの成り行きに任せていたプラボックが初めて口を開いた。
南北連合の北の大地代表の彼であれば、積極的に発言してもよさそうなものだが、過去の恩讐はそう簡単に中立の発言を許しそうになかった。両者の間に座る立場として、偏った発言はするまいと戒めていたプラボックは、最終的に紛糾した場合以外は総司令部に任せる気でいた。
「これは、南大陸の菓子ですかな?
さすが、豊かな土地の物だ」
ピラムの族長が唸り声を漏らした。
「やはり、北の大地ではこのようなものは作れません。
我らとしては、情けない。
痩せた土地、貧弱な作物では、如何せん無理というもの」
ターバの代表は心底悔しそうな表情になっていた。
「おや、ターバの民とは思えぬ発言。
貴殿は市場を見ては歩かないのか?」
プラボックが意外そうな声を上げた。
「いや、見てはおりますが。
南大陸から持ち込まれた品々に圧倒される毎日です。
ああも見せ付けられてしまうと、またぞろ地峡を破りたいという想いが頭をもたげてきますな」
ターバの民は、同じような答えを口々に返す。
「この菓子は、全て北の大地で採れた物で作りました。
皆様が思うほど、北の大地は弱い土地ではございません」
輸送参謀が発言し、ターバの民、ピラムの民から驚愕の声が上がった。
ターバ周辺は、この春の解放後漸く作付けが始まったばかりだ。今出された菓子の材料の多くは、平野から運び込まれたものばかりだった。ランケオラータが捕虜生活をしていたときに撒いた土地改良という種は、二年の時を経て漸く結実しつつあった。以前とは全くといっていいほど、比べ物にならない収穫が上がっていた。
「市場には、確かに南大陸の品々が並んでおりますが、食料品はかなりの量が北の大地の物に置き換わっております。
もう数年もすれば、逆に南大陸に食料を供給できるようになると、我々は考えます。
品質に関しましても、南大陸の物に優るとも劣らないものと、我々は見ています。
平野の皆様の努力の結晶です。
近い将来、中央も、最北の地も、同様に豊饒の地となると我々は信じております」
戦務参謀が発言した。
「だから、南大陸には来るな、と仰りたいか?」
言葉だけ聞けば険悪な雰囲気に包まれそうだが、そう言ったターバの代表の目は笑っている。
「そうです。
こんなに良い土地を放棄するなど、少なくとも私には考えられません。
耕地だけではなく、牧畜に適したなだらかな丘も多い。
周辺の山脈や山岳地帯には、豊富な埋蔵資源もまだまだ眠っている。
鉄、銅、金、銀、光る石、燃える石、そして、燃える空気に燃える水。
南大陸の優越している点は、暖かいというだけです。
それ以外の資源は、既に北の大地のほうが優れている。
平野を調査しただけで、そう結論付けられています。
私は、退役後、北の大地に残り、一財産稼ぐつもりでいます。
総司令官閣下、退役願いを出してもよろしいでしょうか?」
補給参謀の言葉に笑いが弾けた。
それから暫くは他愛のない世間話が続き、ターバの暮らしぶりや最北の地の暮らしぶりがそれぞれの口から語られた。
グレシオフィが狂気に染まるまでは、最北の地もそれなりのコミュニティが形成され、協同して南下の意志を体現しようとしていた。人々は少しでも豊かな土地を窺い、利を同じくする同士の連帯があり、少なくとも最北の地の中では平和が保たれていた。最北の民を一つに纏め上げたグレシオフィという人物は、優れた指導者であることが窺われる貴重な情報だ。
それまでの聞き取り調査で彼の名前は挙がっていたが、その人物に関する評価はほとんど出ていなかった。敵対する人物を高く評価したくないという心根の現われだったが、打ち解けた雰囲気の中ではそれなりに誰もが饒舌なっているようだった。
頃合い良しと判断したラルンクルスが副官に指示を出す。
長テーブルが片付けられ、プラボックは一同に車座に座るよう促した。
酒と料理が運び込まれ、ターバとピラムの民が、長い歴史の中で始めて席を同じくする宴が始まった。
「ラルンクルス様、このまま酒席が進めば、何がしかの結論すら得られなくなると思いますが?」
暫くして、ラルンクルスが何の結論も言い出さないことに違和感を持ったターバとピラムの民から、異音同義に声が上がった。
「何、今日はお互いに言いたいことを言いあう席をご用意したまで。
何を取り決めようというのです。
そのようなことは、また明日にでも考えればよろしい。
今日は、言いたいことを言いあい、楽しめばよいのです。
ご覧の通り、邪魔なテーブルも片付けました。
殴り合おうと仰るなら、審判は引き受けますぞ。
もし、私に挑戦なさるなら、私は受けて立ちましょう」
既に顔を赤くしたラルンクルスが、楽しそうに受ける。
「では、私が名乗りを上げようか、ラルンクルス殿」
これも顔を赤くしたプラボックが応じ、周囲の笑いを誘う。
すっかり毒気を抜かれたターバとピラムの民は、暫くの間それぞれの民同士で酒を酌み交わしていた。
幾つか小さな輪ができ、その間をラルンクルスとプラボックや司令部要員が酒瓶を片手に渡り歩く。そして共通の話題を見つけては互いの民を呼び込み、それぞれの意見をぶつけ合わせさせ始めていた。暫く互いの間を取り持つように発言を促していた参謀は、両者の論戦が酣になった頃合い良しと見れば違う輪に移動していく。険悪な雰囲気になりそうになったときには、警備に付く兵が無言の圧力を加えつつ、どこからか参謀たちが集まり話を有耶無耶にしていった。
作戦の是非を巡って日頃から、掴み合い寸前の会議を繰り返す司令部要員にとって、この場でおきる程度の些細な感情の行き違いから発生する小競り合いなど可愛いものでしかない。もし、憎しみが炸裂したならば、外に連れ出せば済むだけだ。片や全てを受け止める覚悟ができていて、片や理性では受け入れを認めつつ感情がそれを認めていないだけだ。
言いたいことを言い合えば、それだけでしこりは消えていく。
敵を同じくするもの同士、連帯感を醸成するにはそれが一番手っ取り早かった。
適度に座が荒れ始めた頃、わざと潰れたラルンクルスの鼾を合図に宴は終わった。
満ち足りた表情でそれぞれの寝床へと帰っていく人々は、またの機会を約束し、そして笑顔で別れていった。
「お嬢ちゃん、今日はまた、随分と大荷物だね。
今度は、何を持ってきてくれたんだい?」
最北の民の女が聞いた。
その表情は、話して良いことと悪いことは弁えた大人の顔だったが、ルティとティアが運び込む荷物に向ける視線は、横に立っている少女と同じ色に染まっていた。
「今日はですね。
みんなで一緒にお菓子を作りましょう」
弾けるような笑顔のルティに釣られ、最北の少女が笑った。