第84話
雪解けが本格化し始め、川のせせらぎが強い流れへと変わってきた。
アービィたち四人は、ターバとシャーラのほぼ中間に位置する集落ジャーウ進出していた。ここまで二つの集落を偵察してきたが、最北の蛮族の生者が展開している気配はなく、日光を完全に遮ることのできる家屋の中に不死者の影を見ただけだった。合成魔獣はおろか、普通の魔獣や、通常の野生動物が魔獣化したものも見られず、四人は少なからず拍子抜けといったところだった。
ジャーウに入っても状況は変わらず、不死者が巣喰う家屋を急襲し、全てを灰に変えている。
後発の神官を含む結界敷設部隊と補給部隊は、特に妨害を受けることもなく集落に結界を敷き、シャーラへの足掛かりを確実に築いていた。それなりの戦闘を覚悟していた将兵は、あまりの呆気なさに物足りない想いを抱えつつ、街道上の拠点構築に汗を流している。
ターバ解放の武勇伝は連合軍の中に流布されていたが、伝言ゲームのように大げさになりつつあった。若い将兵の中にはこの戦で武功を立て、軍における出世の足掛かりを掴みたいと思う者も少なくない。最北の蛮族を嘲る気持ちから、剣を交えれば鎧袖一触と思い込んでいる者が多かった。
局地戦に勝利を収めた結果だけが独り歩きし、なぜ勝てたのかという戦訓調査は極一部の上層部だけに留まり、下級兵には最北の蛮族への謂われのない嘲りが蔓延し始めていた。同時に早く国許へ帰れるのではないかという根拠のない楽観的な見通しが将兵の間に広まり、連合軍の士気は少しずつ緩み始めていた。
ラルンクルスはその危険な風潮に気付いてから、なんとか将兵の士気を維持し、危機感を持たせようと腐心している。
祖国ラシアスが疲弊した原因が北の民の南下であり、攻め込んで南下を食い止められるのであれば、過去にこれほどの苦労はしていないはずだ。南大陸に比べ遙かに面積は小さいとはいえ、北の大地の懐は深かった。食料の当てのない北の大地で、大軍が長期間行動できるわけがない。徴発しようにも、山岳地帯の集落は小さく、師団規模の腹を満たすことは無理だった。
そして、無謀な突撃をした結果、アーガス率いる軍勢がなす術もなく北の大地に潰え去ったことは記憶に新しい。
それでも連合軍は今のところ最北の蛮族との直接戦闘では負け知らずで、アーガス軍の壊滅は指揮官の資質によるものと若い将兵は考えていた。ラルンクルスやプラボック、ルムやアービィたちに対する信頼の表れといえば聞こえは良いが、将兵の間に最北の蛮族に対する侮りが広まっているのは好ましくない。この冬に起きた山脈の拠点襲撃の被害は、不幸な偶然の積み重ねと考えているものが多く、結果的に拠点は維持できていたので原因を突き詰めて考える将兵はほとんどいなかった。必要以上に敵を恐れては戦などできはしない。敵を呑んで掛かることも時には効果的だ。だが、不必要な侮りは、思わぬところで足を掬われかねない。
平野に留まり後方部隊の様子を見ていたランケオラータとレイは、連合軍がどこかで大敗を喫するのではないかと気が気ではなかった。
「貴様がいれば食い物には困らんな、狼。
しかし、よく食えるな、そんな物が。
ルティ殿、あまり顔色がよろしくないようですが?」
焚き火で炙ったカリブーの肉にかぶりつきながら、バードンがアービィとルティに声を掛けた。
その横では巨狼が無心にカリブーの腸を貪っていた。鼻面を血で真っ赤に染め上げ、腸を食いちぎり、骨を噛み砕き、咀嚼することなく呑み込んでいく。
ルティは巨狼の摂餌を見るのは初めてで、さすがに顔色が良くない。動物の腸など見慣れたものではあったが、巨狼の食事マナーは決して洗練されたものとは言い難かった。血を舐めとり、骨を噛み砕く耳障りな不協和音は、普通の神経を持つ者の食欲を失わせるには充分だった。
「この、あほ狼っ!
今後はその姿での食事禁止!
見てみなさい、ティアなんか震えちゃってるじゃないの!」
カリブーを平らげ、満ち足りた表情を浮かべた巨狼の側頭部に、ルティの蹴りが食い込んだ。
ティアは血に染め上げられた巨狼の姿に、遺伝子に溶け込んだ恐怖を呼び覚まされたのか、真っ蒼な顔で肉を前に震えている。 アービィが襲いかかってくることなどないと解ってはいたが、人狼に対する恐怖はやはり根深いものだった。
「い、いいのよ、ルティ。
アービィも、き、き、気にしないで」
ティアは二人に気遣わないように言ったが、ひきつった笑顔が痛々しい。
ティアはアービィたちと行動をするうちに、人狼に対する恐怖心は克服できたと思っていた。だが、本能を剥き出しにした人狼の姿に、アービィを知る以前の食われかけた記憶と、数多の祖先が食い散らかされた始原の記憶を呼び起こされてしまったのだった。
近くの小川で血を洗い流した巨狼が、申し訳なさそうにお座りする横に、ティアも申し訳なさそうに腰を下ろした。ティアが巨狼に何かを囁き、しょぼくれた巨狼が小さく頷く。そんな二頭を尻目に、バードンとルティは新たに焼き上がった肉の塊に挑んでいた。
「まあ、ルティ殿、そこら辺にしておきましょう。
残りの肉は薫製にでもして、持っていけるようにでもしますか?」
二頭の様子を気にも留めず、バードンは空き家へと入っていった。
家屋の裏に積み上げてあった薪をチップに砕き、鍋に入れて火にかける。
焼き網を鍋に敷き、その上に肉を並べた。もう一つ拾ってきた鍋を蓋として被せ、火加減を見ながらバードンは酒瓶を取り出した。
陽は既に傾き始め、次の集落を目指しても到着するのは夜もかなり遅くなってからになりそうだった。
不死者と無用の戦闘を避けるため、無理してまで夜に集落に入る気はバードンにはない。当然他の三人も同様で、今夜はジャーウで夜を過ごすつもりでいた。ルティは誰も使わなくなった居間の埃を払い、三人が寝る場所を確保し始めている。
その後、火加減を見ているバードンの傍らにルティは腰を下ろし、笑顔でシェラカップを差し出した。
ほどなくして巨狼とティアが民家に入ってきた。バードンが無言でティアにシェラカップを渡し、土間に鍋を置いて酒を満たす。ティアも巨狼も、特に異を唱えることもなく、大人しく呑み始めた。
ティアとバードンの間に、以前以上のギクシャクした雰囲気は見られなかった。
「貴様がいれば、最北の地まで簡単に行けそうだな、狼」
バードンは酔いと共に饒舌になり始めている。
既にターバを発って七日が経過しているが、酔うほどに酒を用意できたのはアービィが荷車を曳いたからだった。
ターバから暫くは、アービィとバードンが二人掛りで曳いていたが、ターバが見えなくなったあたりでアービィが獣化して荷車を曳き始めていた。十日分の食料と酒が積み込まれる予定だったが、主食のみ積んで残りの積載量は全て酒に替えていた。
イーバに滞在していたときに、バードンはこの地に食用になる野草が多く自生していることを見ていた。人が減った今は、野生動物が増えていることも期待できる。不死者に襲われ放棄された畑は、野生動物にとって何よりの贈り物になっていた。その年に草食獣が増え、翌年には肉食獣も増えている。
そして、自生する食用になる野草を採る人々がいなくなった結果、中央は野生動物の天国となっていた。
ターバの西を駆け巡ったアービィは、当面の食料の心配はないと判断し、主食となるパンや小麦粉を多めに積んでターバを出ることにしたのだった。
神官が随行する結界敷設部隊はそうもいかず、補給部隊を随伴しての行軍になっている。 神官が三人と、護衛と敷設作業のために一個小隊が派遣されていた。この三十三人の腹を満たすため、二個小隊が補給部隊として行動している。
ターバから四日の行程にある最初の集落をアービィたちが落とし、その集落とターバの中間地点に宿営地を築いていた。簡単な柵を張り巡らせ、結界でそれを囲んでから頑丈な天幕を張る。いずれは工兵が進出し、木造や石造りの倉庫や兵舎が設営されるはずだ。将来、最北の蛮族との戦が終われば、ラシアスにあるような駅馬車の駅として活用されることになっていた。
ターバからシャーラまでの街道は、水確保の観点から幾筋かの川に沿って切り開かれていた。 ターバの西から流れ出る川は、シャーラをかすめて東に流れを変え、そのまま海へと流れていく。この川を利用すれば物資の輸送は格段に楽になるが、そのための施設を整備する必要があった。雪解けが川を氾濫させ、北の大地を泥濘に沈める時期に、どこまでが危険区域かを見極めてから設置しなければ、無駄に資材と労力を川に流すだけになってしまう。それまでは、荷車を利用した補給に頼らざるを得なかった。
河川を輸送に利用できるようになれば、その輸送料は飛躍的に伸びる。
拠点構築の資材を筏に組み、食糧等の戦略物資を満載して流せばいいからだ。当面は資材の運搬も兼ねるため、遡上することは考える必要はない。もともとターバ以北はなだらかで平坦な地形になっているため、遡河もそれほど苦労はなさそうに見えた。東西に流れる川が多く、それが人々の南北方向の動きを阻害しているが、河川が輸送路になってしまえば、その障壁も取り払われたと同じだった。
河川同士が離れていても、半日も歩けば次の河川に辿り着く。途中大規模な湖やクリークがあれば、物資の輸送路は街道に拘る必要はない。
荷車が五人掛かりで500kgを運ぶのが限度であることに対し、筏は荷車より大きくする事が可能で1t以上積み込むことができる。さらに一双の筏は、熟練者が操れば二、三人で運用可能だ。いずれ輸送船が建造されれば帆走も可能になり、輸送速度も飛躍的に速くなるだろう。
帆走でなくとも、満載した荷車を曳くよりは圧倒的に早い。川筋のどこにでも停泊することができるなら、一日の移動距離も集落を無視して考えることができた。
流れの中に停泊できるなら、不死者がそれを越えて攻撃することはできず、生者と魔獣だけに備えれば良いことも、メリットの一つだ。どちらの撃退も容易ではないが、対象が三つと二つではその負担は大きく減らされる。
輸送部隊は、ターバから最初の集落とその中間の宿営地に、実験的に水運を利用して大量の物資を運び込んでいた。
この二つを基点に、一度街道から離れる川がどこを流れているか、それを調査する必要があると、補給部隊の指揮官は考えていた。
彼は、長年インダミト軍に奉職していたが、武芸は他の者に劣ることを自覚していた。
それ故か、華々しい決戦を求めがちな軍にあって、冷静に兵站の重要性を見極めていた希有な存在だった。インダミト師団の司令部は、そんな彼を最前線で剣を振るわせるのは人材の有効活用ではないと判断し、輸送大隊の指揮官に抜擢していた。
各連隊から抽出された大隊構成員は、決戦部隊から干されたと悲嘆を囲っていたが、彼はそんな者たちに親しく声を掛け、大隊の志気を高く保つ努力を怠らなかった。
生来学者肌でもあった彼は、輸送の効率化を研究するとともに、輸送路の開拓にも余念がない。大隊構成員にも中隊レベル、小隊レベルの調査研究課題を与え、各級指揮官には末端の構成員一人一人にまで責任ある調査研究を行わせるように命じていた。
彼は、今回の水運を担当している二個小隊に、近隣の河川の流域調査を命じることを決めていた。
大隊長自らが、小隊レベルに随伴して最前線視察に赴いた理由はそのためだった。
ジャーウを出たアービィたちは、一日行程の次の集落を前にしていた。
一日行程とは、日の出から日没まで移動した距離だ。半日であれば、その半分が目安になる。当然季節や移動手段によってその距離は変動するが、昼夜の比率がほぼ等しいこの時期は、平均的な時間と考えて良い。
アービィが荷車を曳いていたため、純粋に徒歩だけで移動よりは、かなり早く次の集落まで辿り着いていた。
――さて、どうします? ここと次を偵察すれば、その後はシャーラです。
一旦戻って食糧を補充しなければ、シャーラから戻る途中で飢えることになる。いくらアービィが野生動物を狩るとはいっても、毎日都合良く目の前に現れてくれるわけではない。
「そうだな、ここを落として一度戻るか。
さすがに腹が減っては戦はできん。
手早く済ませるとしよう」
バードンはそう言って集落内に踏み込んだ。
「そうよねぇ、あんたは良いけどさ、肉しかないと、ちょっとね……」
「まあ、それですぐ死ぬってわけじゃないけどね。
お肌には、よろしくないわ」
生鮮野菜が不足していることから、便秘気味になっていたルティとティアが、言葉を濁しながら二人組みで集落内に入っていく。
いくら食用可能な野草が自生しているとはいえ、どこにでも大量にあるということではない。保存の利かない物も多く、食用にするにはかなり手間を要する物も多かった。ここまでは持参したタマネギ等の長期保存が利く生鮮野菜も残っていたが、最初に落とした集落までの帰路は、肉食ばかりになりそうだった。
アービィは、魔獣の襲来を警戒し、集落の周辺を哨戒し始めた。
ほどなくして、ティアから制圧完了の念話が届き、アービィは緊張を少しだけ解き、集落に入っていった。
「本当に、大変だったみたいね、この逃げ方は」
荒れ果てた民家に入ったルティが、誰にとはなしに言った。
大きな家財道具は放棄され、当座の物だけ掻き集めて行ったのだろう。
その家財道具も荒らされ、使えそうな物は何も残っていない。古来より戦場と化した集落では、よく見られた略奪の後だった。もちろん、アービィたちは戦を経験したわけではない。物語の中だけでしか知らない知識でしかない。
だが、こうして見ると、戦に負けるということがどれほど悲惨か良く理解できた。
残敵掃討のため何軒かの民家を回るうち、ルティは嫌な気配を感じていた。
陽の光を避けて社に集まっていた不死者は、完全に滅し尽くしたはずだった。窓と扉を破壊して陽の光を呼び込み、不用意に暴れる不死者は、それだけで灰になった。意志を持ち、直射日光を避けつつ襲い掛かる高位の不死者を斬り捨て、灰と化した後には入念に水を撒き、二度と復活できないようにしていた。
だが、怒りと脅えがない交ぜになった、濃厚な殺意を含んだ気配が、集落の中を支配している。
「嫌な気配だな。
もう一度、社を調べてみよう」
バードンが全員を促し、社へと入っていった。
「これを見落としていたのね」
ティアが地下倉庫と思しき床の跳ね扉を見つけた。
「この中からよ。
物凄い殺気だわ」
ルティが剣を構え、扉の前に立つ。
「正面は、私と狼にお任せいただきましょう。
ルティ殿と蛇は、扉を引き上げていただきます」
バードンがそう言って、巨狼と並んで扉の前を占位した。
アービィとバードンに場所を譲ったルティと、ティアがその扉に手を掛け、一気に引き開ける。
次の瞬間、爆発するかのような勢いで、小さな影が飛び掛ってきた。
「僕の、お父さんと、お母さんを、返せっ!」
小さな影はそう叫ぶと、手近にいたバードンに爪を突き立てようと突進した。
咄嗟にバードンが太刀筋を変え、自らの剣に空を切らせる。
巨狼は、小さな影が吸血不死者特有の蒼白い顔をしていることを見て取り、直射日光から守るように横合いから覆い被さり、そのまま押し潰した。
小さな影は、巨狼に爪を、牙を突き立てようとするが、しなやかな毛皮は吸血不死者の攻撃をそよ風のごとく受け流していた。せめて一太刀浴びせようと必死にもがく小さな影は、体力の温存など考えることもしないように叫び続けている。
「どうして、お前たちは僕たちの邪魔ばかりするんだっ!
暖かい土地に住みたいだけなのにっ!
僕たちが住む場所くらい、いくらでもあるじゃないか!
少しだけでもいいのに、どうして、どうして僕たちを追い返すんだっ!?
僕たちは、お前たちを許さない!
絶対にだっ!」
北の民全ての想いが、小さな影の叫びに凝縮されていた。
アービィたちはその気迫に圧倒され、小さな影が巨狼の下で暴れ続けるのを、押し黙ったまま見ているだけだった。
僅かに巨狼がたじろぎ、押さえ込みに隙ができた。
小さな影は巨狼の束縛を逃れ、適わぬまでも最後の抵抗のために立ち上がる。だが、非情にも扉と窓を通して差し込んだ直射日光が、小さな影を照らしてしまった。
灰と化して崩れ去る小さな影は、最後に『お父さん、お母さん』とか細く泣き声を絞り出し、一陣の風に吹き散らされていった。
「あたしたちは、一体、何をしているの!?」
吹き散らされた灰を追うように手を伸ばしたルティが泣き崩れる。
「今の不死者、『お父さん、お母さん』って言ったわ。
あたしたちが滅し去った中に、その二人がいたのかしら」
悄然とした面持ちでティアが言う。
「間違いないだろう。
ルティ殿、仕方のないことでございます。
戦とは、こういうもの。
どちらかが正義で、どちらかが悪ということなどございません。
敵対する者は全て、悪なのです。
何が正しくて、何が間違っているかなど、それぞれが拠って立つ場所によっていくらでも――」
「嫌っ!
嫌よっ!
もう分からない。
あたしには、分からないわっ!」
慰めようとするバードンの言葉を遮り、ルティは叫んでいた。
ルティの心は折れていた。
純粋に生きることのみを求めた子供が、何故吸血不死者になどなったのか。遥かな昔から続く、北の民と南大陸の住人の間で続く争いの犠牲者であることは間違いない。南の地を奪い取ろうとしたこともあっただろうが、北の民が求め続けていたことは移住だった。
やっと両大陸の人間が手を取り合い始めたというのに、何故、これほどまでに憎しみが渦巻いているのか。
何故、最北の民とは手を取り合うことができないのか。
何故、こんな小さな子供まで不死者に転生し、殺し合いに入り込んでいるのか。
どうすれば、両者が和解できるのか。
最北の蛮族を打ち倒す意義は、正義はどこにあるのか。
ルティは分からなくなっていた。
「猊下、一大事にございます」
珍しくオセリファが色を失っている。
「どうしたというのかね?」
それに対しグレシオフィはあくまでも柔和な双眸と、柔らかい物腰を崩していない。
「はい、ピラムの部族が――」
「逃げたのだろう?」
オセリファに皆まで言わせず、グレシオフィが言葉を被せた。
「はい。
監視の目を打ち倒し、白昼堂々と。
集落は蛻の殻にございます」
オセリファは悔しさからか、整った顔立ちを歪めていた。
最北の民は、決して一枚岩ではなかった。
いくつかの部族はグレシオフィに反旗を翻し、長い闘争の歴史を捨てずにいた。もちろん不死者の群れで力攻めに徹すれば、か細い抵抗などひとたまりもないのだが、グレシオフィは敢えて放置していた。気が向いたときに反攻する部族から若い女をかっさらい、喰らうためでもあった。
反攻する部族同士にも相剋があり、連携することなく絶望的な抵抗を続けていたのだった。
敵の敵は味方ということは、部族同士にもグレシオフィにも当てはまり、反攻する部族は別の部族に不幸があれば、それは自らの身代わりとなってくれたとして、救援に赴くなどあり得なかった。
真綿で首を絞められるような状況に、どの部族も隙あらば中央に逃れようとしていたが、監視の目は厳しく、狩りに出る以上のことは阻止されていた。ラーニャをグレシオフィに押さえられていては、それ以上南に逃亡することも適わなかったのだった。
グレシオフィはターバを落とされてから反攻の機会を窺っていたが、自らにまつろわぬ民を使って一計を案じていた。
ラーニャをわざとがら空きにし、どれかの部族がそれに気付くのを待っていた。ほどなくして、反攻する部族の中では最も優勢なピラムの部族がそれに気付き、与しやすい生者が監視に就く日中に、その囲いを破って逃亡した。
グレシオフィは、監視の生者たちには適度に戦い、頃合いを見て取り逃がすように命じてあった。
ピラムの部族が逃亡したとの知らせは、グレシオフィとオセリファにそれぞれの子飼いの間者から同時に届いた。
オセリファが状況把握に努める間に、グレシオフィは既に退路を断つように間者に命じていた。ラーニャに生者の部隊を展開させ、不死者の灰を持ち込ませた。日中の防備を固めるため、数に余裕のない中から数体のコッカトリスをラーニャに送り込んでいた。
「許せよ、オセリファ。
計画に絡む者が増えれば、それだけ漏れやすくなる。
南の間者が潜り込んでいるようなのでな。
さて、ターバをどう落としたかは覚えておろう?」
グレシオフィにオセリファを出し抜く気など更々ない。
だが、最近周囲を探ろうとする影の気配を感じていたため、敢えて知らせずにいたのだった。
「はい、猊下。
逃亡したと見せかけた生者に灰を運ばせ……
なるほど、ご慧眼、感服いたします」
オセリファは凄艶な笑みを浮かべた。
「さすがに察しが良いな。
奴らを疑心暗鬼に陥れてやろうと、な。
追い払えば敵が増え、取り込めば内部に亀裂が入ろう。
殲滅されるなら、こちらの手間が省ける。
ピラムたちとて最北の民。
むざと皆殺しにはされまい。
少しでも敵の兵力が減るなら、それで良い。
そのうえで、残る反攻を続ける者共に、喧伝してやればよい。
南大陸の者共は、やはり我らを滅ぼす気だ、とな」
グレシオフィは、この程度で戦況をひっくり返せるとは思っていない。
討ち減らされた合成魔獣の補充が済むまでの、時間稼ぎになれば充分と見ていた。間もなく南大陸との、魔法陣を介した連絡路が完成する見通しだった。
そうなれは、暫くはこの地をオセリファに任せ、自分は南大陸へ渡ることにしている。グレシオフィは、魔法陣の連結を心待ちにしていた。
ラシアス女王ニムファは、アルギール城の地下にいた。
南大陸四国家の王城には、万が一落城の危険が迫った場合に備えて、王族の居室から外部へ落ち延びるための極秘の通路か掘られている。特に北の民の脅威に晒され続けたラシアスの王城には、他国には見られないほど緻密なトンネルが造られていた。万が一出口を見つけられ、外部から入られても複雑な迷路になっているうえ、途中には様々なトラップや内部からしか開けられない扉が設置されている。
追っ手を逃れるため、王族は途中の扉の鍵も常時携帯しており、入浴時や就寝時も肌身離さずにいた。
ニムファが自室に籠もり始めてから、百日ほどが過ぎていた。
自室の扉がニムファによって開かれることはなかったが、食事を運ぶ侍女や入浴等の身の回りの世話をする侍女たちからは、ニムファが時折姿を消しているという報告は、現摂政エウステラリットに上げられていた。極秘の通路の存在は、エウステラリットも当然承知している。最初に報告を受けた際に間者を出口に派遣したが、ニムファが脱走したという形跡はなく、数刻後には居室に戻っていることが確認されていた。
エウステラリットは、ニムファが国政に口出ししないのであれば、大概のことは黙認するつもりだった。
亡命でもされて兵を挙げるようなことがなければ、極秘通路の中でなにをしていても放置で構わないと、間者に監視だけ命じている。それでも王族だけが持つ鍵で扉を越えられてしまえば、それぞれは専用の鍵しか持たないためそれ以上の監視はできなかった。
ニムファは自室内にある物をフル活用して、監視の目が届かない避難路内に魔法陣を敷いていた。
北の民を討ち鎮め、王宮内や四国家間での立場を回復するには、起死回生の策に走るしかなかった。ドーンレッドが開発した勇者召喚の呪法の源になった神の使いを呼びだし、それに縋るしかないとニムファは思っていた。
グレシオフィは、ニムファの前に姿を現したとき、髪と瞳の色を変え、北の民であることは隠していた。
そのうえで、魔王を討ち果たすための物資を運ぶという名目で、合成魔獣の材料となる動物が、人売組織の手によって地峡を通ることを黙認させていた。少し考えれば辻褄など合いはしないのだが、勇者を召喚した魔法陣に降り立ったという事実がニムファの目を完全に曇らせ、正常な思考力を奪っていた。山羊がわざと目立つように運ばれ、食料輸送に見せかけてライオンと大蛇が隠されて地峡を越えている。人売組織への見返りとして、南大陸に戻る際には北の民の女が連れてこられるが、もともと北の民への蔑視が強いラシアスで、それを咎めようとする者は皆無に等しかった。
それ以降、居室に安置した黒山羊の頭を持つ神像が背負う魔法陣を介し、ニムファはグレシオフィと度々連絡を取っている。
彼女は神に縋りたいという気持ちのまま、グレシオフィに自らの窮状を語り、助言と助力を求めていた。グレシオフィがこれを逃すはずもなく、自らが移転するための拠点とするべく、ニムファに魔法陣を敷くように唆していた。いつの間にか、立場を回復させることから、このような境遇に自らを落としたものたちへの復習に目的がすり替わっていたニムファを誑かすなど、グレシオフィにとっては赤子の手を捻るより簡単なことだった。
「お待ちしておりました、お使い様」
ついに完成した魔法陣に降臨したグレシオフィに、ニムファは頭を垂れる。
「大儀であった、女王。
そなたの忠誠、しかと受け取った。
我らが神もお喜びだろう。立つがよい、ニムファよ」
当然のことながら、グレシオフィは髪と瞳の色を変えている。
「まだ、不死の身体への転生はお許しいただけないのでしょうか?」
不安げな表情でニムファは立ち上がった。
両隊陸の覇者になっても、いずれ死んでいくのであればたいした意味を成さない。永遠に両大陸に君臨することを、ニムファは望んでいた。不死者へ転生したいという望みは、言葉巧みにグレシオフィが唆した結果だった。
だが、グレシオフィは申し訳なさそうな表情を作り、ことさら重々しく首を縦に振った。
「そなたの願いは、いつでも叶えられる。
だが――」
「では、何故!?」
グレシオフィの言葉を食いちぎるように、ニムファは叫んだ。
「不死の身体に転生すれば、陽の光に背を向けねばならぬことは存じておろう?
まだ、我らが神はそなたに陽の光の下で成すべきことがあると、そうお望みになっておる。
我が神の忠実な下僕として励み、その成すべきことを成し遂げた暁には、必ず不死の身体へと転生させようぞ」
ゆっくりとした口調で、諭すようにグレシオフィは言う。
「ですが、私の身体は既に老いが始まり――」
「神の言葉が聞けぬと言うか?
案ずるな、今暫くだ。
別命あるまで、今まで通りの生活を続けよ」
まだ二十五歳になったばかりのニムファに、老いなど訪れているはずもない。
確かに十代の頃のような肌の瑞々しさこそ失われ始めていたが、これからはそれを補って余りある成熟した美しさが顕在化する年齢だ。だが、自室に引き篭もり、陽の光を浴びることなく続けた不摂生な生活は、ニムファから美しさを奪い取り、老いさらばえたかのような外見に変貌させていた。
「畏まりましてございます、お使い様」
慌ててニムファは平伏した。
グレシオフィにしてみれば、ニムファを不死者に転生させるメリットは大きい。
上手くいけば、王都アルギールを第二のターバと化し、不死者の王宮を築くことすら可能だろう。そうなれば、北の大地に展開している連合軍を挟撃することも、南大陸を攻め下ることも思いのままだ。
だが、グレシオフィはニムファの人となりに不安を抱いている。
まず、抱えている野望が大きすぎる。不死者としての能力をあまり与えすぎては、後々の手綱捌きが面倒になりそうだ。また、暴走癖も捨て鉢になりやすい性格も、グレシオフィとしては戦略に組み入れて計算するには不安が大きいと考えていた。
それ以上に、不死者の能力に目が眩み、転生させた途端に公言してしまいかねなかった。
雪中に潰え去ったラシアス師団の生き残りから、不死者に対する戦い方は近衛師団にも周知されていると見てよい。
確実ではないが、甘い見通しはしないほうが身のためだ。万が一にもニムファが不死者であることを公言でもしようものなら、たちどころに祝福法儀式済みの剣が突き立てられる。ニムファを惜しいとは欠片も思っていないが、南大陸に築いた拠点が惜しかった。
この頭の中身が足りなそうな女王を不死者に転生させるのは、もう暫く飼い慣らし、絶対の忠誠心を植え付けてからでなければ、デメリットのほうが大きいとグレシオフィは判断していた。
「解れば良い。
今暫くの辛抱ぞ。
さすれば、そなたはかつての美貌まで取り戻すことができよう」
それだけ言って、グレシオフィはニムファから合い鍵を受け取ると、アルギール城の地下迷宮を迷うことなく外へと歩を進めていった。