第83話
ターバには、連合軍司令部とプラボックが残ることになった。
当初はルムとランケオラータもターバに滞在する計画だったが、南大陸との交易事業や街道の舗装など、ターバにいては管理が滞る事項も多かった。ルムは平野を留守にするわけにいかないという事情もあり、ランケオラータにレイを伴って最前線に行けというのも酷だった。
ターバの管理はターバの民に任せれば良く、農業指導には神官がいれば話は済む。経済については、ランケオラータの専任事項のはずだが、ティアに任せておけば充分と見ていた。
軍の管理運営や戦線の維持、結界の守備はラルンクルスという専門家がいるので安心だ。
軍の独断専行については、ラルンクルスの人と成りからその心配はないと判断されていた。大方針だけ首脳が決めておけば、それに従ってラルンクルスは幕僚たちを駆使して、戦略を立て戦術を練るだろう。しかし、戦略を立て、戦術を練るうえで、現地に展開する実働部隊にある程度の自由裁量権を与えておかなければ、組織の運営は硬直化するだけだ。首脳三人は、ラルンクルスであれば、心配の必要などないと全幅の信頼を寄せていた。もちろんプラボックが同行している以上、独断専行の余地などなく、平野中央連合の最高権力者と、南大陸連合軍の総司令官同士の協議で物事は進められるはずだった。
司令部のターバ移動に伴い、山脈の哨戒任務師団から抽出された一個連隊が、戦略物資を満載した新編成の補給大隊を伴って、ターバ一帯の守備隊として赴任していた。
山脈は哨戒線としての機能は維持しつつ、ターバまでの街道整備の拠点としての整備が進められている。ウジェチ・スグタ要塞からパーカホまでは、間もなく石畳による舗装が完成する見通しで、工兵が大挙して山脈へと移動できる状況だ。後方の安全がある程度確保された地域では、南大陸の資本が北の大地開発に参入し始め、南大陸の民間人や現地採用の北の民が、舗装作業や物資の輸送といった業務に汗を流していた。
もちろん、良いことばかりがあるわけではない。
平野に避難していた、ターバの民の全てが新天地を望んでいるということではなかった。だが、ターバへの帰還を望む者は、周囲の雰囲気に押され、ターバに戻りたいとは言えなくなっていた。愛する者が待つ町に戻りたい者と、愛する者が灰となって消えてしまった者では、世間の同情はどちらかといえば後者に集まり、前者には自制が求められる雰囲気が醸成されていった。
ターバに残った人々にしても同様で、苦しい時期を乗り越えたというにも拘わらず、ターバに残りたいと言える雰囲気ではなくなっている。ある者は愛する家族の帰還を心待ちにしているが、ある者は愛する家族が不死者と化し、挙げ句の果てに灰になって消えてしまった町からは、一刻も早く出て行きたい。こちらも後者に同情が集まるのは当然の成り行きで、前者は発言を封じられることが多かった。両者の間には積極的な主導権争いは起こらなかったが、徐々に目に見えない溝は深まっていた。
ターバに進出したプラボックも、パーカホに残ったルムとランケオラータも、目の前に山積する日常の問題に追い立てられ、ターバを巡る人々の心に潜んだ諍いの火種にまだ気付いていなかった。
アービィたちはそのままターバに残り、機を見てシャーラまでの強行偵察を敢行する予定になっている。
シャーラまでは、徒歩であればほぼ十日の行程で、途中にも様々な規模の集落が点在している。最短のルート上にも五つの集落があり、網の目のように発達した側道に点在するものも含めれば、その数は二十に近い。もちろんシャーラ周辺にもターバ同様に衛星集落が存在し、北の大地中央部では最も人口密度が高い地域の一つだった。
シャーラを確保できれば、その周辺でもそれなりの収穫は見込めるので、最北の蛮族に対する前線を大幅に進められると期待されていた。
北の大地全土を、虱潰しに解放していく必要はない。
中央に位置するシャーラを押さえ、ここをターバ同様聖域化すれば、東西に広がる地域は放置して構わない。どれほどの集落が最北の蛮族に抗がっているかは不明だが、その数は限りなく零に近いと見られていた。もし、こちらに利する者があれば、シャーラ守備に組み込んで、互いを守り合った方が補給を行うより遙かに効率がよい。
父祖の地を離れさせることに抵抗はあるが、感情だけで方が付くほど甘い状況ではなくなっていた。
アービィたちの任務は、ターバ以北シャーラ以南のどの程度が最北の蛮族に押さえられ、どれほどの集落が生き残っているかを偵察することでもあった。
当然、食糧の現地調達は望めないため、ターバとシャーラを結ぶ街道上の集落を結界に収めながら前進し、アービィたちへの補給基地を確保しつつ、偵察を進める計画だ。万が一、協力的な集落が生き残っていたとしても、自分たちが食うのに精一杯なはずで、アービィたちに食糧を提供できるとは考えられなかったからだった。
シャーラ集落群から一日の行程までを確保できれば、あとはターバ解放と同様の手段でシャーラを取り戻せばよい。
ターバと違ってシャーラ集落群には、中央の民は残っていない。最北の民侵攻時に一敗地にまみれたとはいえ、プラボックの指揮の元残存兵力を纏めて見事な撤退戦を演じ、山脈地帯に避難を完了させたのだった。従って、シャーラには合成魔獣と不死者、そして最北の蛮族の生者しか展開していないはずだ。そうであれば、ターバ攻防戦よりは敵兵力は少ないはずだ。また、結界の敷設妨害を、実力で排除することに躊躇う必要もない。
夏までにシャーラを奪回できれば、秋までには僅かとはいえ収穫も期待できる。育成に時間の掛かる麦類は無理としても、ビースマック高地やストラーとラシアスの北部でも栽培されている芋類などの主食となりうるものは収穫可能なはずだ。
シャーラを過ぎればそこから十日ほどの行程で、中央部の南北中心線上の三大集落群の一つであり、中央部最北で最大の集落群ラーニャがある。
ここを過ぎれば、小規模な集落をいくつか経て、最北の蛮族が統べる地へと続いていた。
ラーニャは遙かな昔から最北の蛮族の脅威に晒され続けており、北方の土地の奪い合いと、その合間を縫っての南進を繰り返していた。ラーニャの戦略は、南方の土地を奪取して、最北の蛮族から逃れようとするのではなかった。
最北の蛮族への長年の怨みから、彼らに何一つ良い目を見させてやるものかという想いに凝り固まっていた。
このためかラーニャの民は頑強に最北の蛮族を追い返し続けていたが、プラボック率いるシャーラに対しては積極攻勢に出る力は残されていなかった。
二面作戦で疲弊気味だったラーニャは、最北の蛮族が一昨年に起こした大規模攻勢に、ひとたまりもなく蹂躙され、多くの民が不死者に転生させられ、最北の蛮族の尖兵と化していた。
それまでは、不死者と生者の戦いは、日中の行動が完全に制限される不死者の方が、交代で夜もかろうじて行動可能な生者に対しては多少なりとも不利だった。そして、幾度かの戦いの中で、不死者は通常の武器では倒すことができないが、火が弱点とラーニャの民は気付く。その優位性があったからこそ、最北の蛮族の多くが不死者と化した後も、ラーニャの民は十年に亘って頑強に抵抗し続けられていた。
だが、その均衡を破ったのが、グレシオフィが大量に作り出した合成魔獣だった。
太古の昔より、キマイラやマンティコア、サイクロプスやギガンテスといった魔獣は知られていた。
それは禁呪に手を染めた魔道師によって作り出されていたが、大量に作るには南大陸にしか生息しない原料となる動物や、人生を捨てることになる人間を確保する必要があり、物理的にも人道的にも無理のあることだった。動物たちを北の大地まで生かしたまま運ぶ困難さや、人でなくなることを納得しない人間をだまくらかすなど、そう簡単に解決できない問題が山積していた。
グレシオフィは、不死者の優位性を活かせば、ラーニャなど一捻りと楽観していたが、その抵抗は予想以上の頑強さだった。
ラーニャを潰すため、合成魔獣の大量生産を思い立ったが、南大陸で活動するには資金が必要ということも知っていた。そのために、ラーニャ近郊ばかりではなく、各地の抵抗の少なそうな小集落を襲い、年頃の女を片っ端から南大陸の人売組織に売り飛ばした。アービィたちと旅したメディが南大陸に売り飛ばされたのは、ちょうどこの時だった。
そうして築いた資金と人脈とを活用し、グレシオフィは南大陸から合成魔獣の材料となる動物や人間を、密かに北の大地へと運び込んでいた。
合成魔獣の生産は、最初の数年は失敗続きだったが、三年目の夏からは徐々にではあるが軌道に乗り始めた。
だが、一度に運べる材料はそれほど多くなく、大規模攻勢に出るためには、まだ数年を要するとグレシオフィかは冷静に分析していた。それからも、各地の集落を襲っては女を南大陸に売り飛ばし、時には自らも南大陸に渡って材料集めや、合成魔獣の効率の良い生産や運用の実験を繰り返していた。
ラシアス第一王女ニムファが、グレシオフィが不死者に転生した直後に偶々火の精霊神殿に詣で、その際に魔王が降臨したとの信託を受けていた。世界を救いたいというニムファの命を受けたドーンレッドが異世界人を召喚したのが、ちょうどこの頃だ。
グレシオフィは、転生呪法に連なる譜系の呪術が発動されたことを、黒山羊の頭を持つ神が背負う魔法陣を通じて知った。そして、それが自らの脅威になると直感し、召喚呪術に干渉して異世界人を召喚の道から弾き飛ばした。消滅させることは適わなかったが、この世に落ちても人としては生きられぬように、合成魔獣の材料集めの際に何度か見ていた人狼に、その魂を封じ込めたのだった。
上手くいけば最北の民に仇成すために召喚した存在が、召喚した者に対して仇成すという、痛快な因果応報が見られるはずだった。
そして、三年前の初秋に充分な数の合成魔獣を生産し、その確実な操縦法を編み出し、満を持してラーニャに襲いかかった。
ラーニャの民は今までにない最北の蛮族の大攻勢に、周辺集落の協力まで仰いでこれを迎え撃った。しかし、異常なまでの戦闘力を有する合成魔獣が戦列に加わったとき、最北の蛮族とラーニャの均衡は一気に崩れた。
不死者の群れに対し、互角に戦っていたラーニャの民に、合成魔獣が群れを成して襲いかかり、数刻も経たないうちに勝負は決していた。ラーニャの民も死に物狂いで戦い、合成魔獣の半数を倒した。だが、彼らにできた抵抗は、そこまでだった。
その時点で戦いは、最北の蛮族による残敵掃討の段階に移っており、夜明けが近くなった時点で投入された無傷の生者と、手負いとなり却って凶暴性を増した合成魔獣の総攻撃に、ラーニャの組織的な抵抗は潰え去った。
グレシオフィは、オセリファにラーニャの戦後処理を一任し、討ち減らされた合成魔獣の補充のため、何もできない北の大地の冬を逃れて南大陸へと渡っていった。
一気に減らされた合成魔獣の材料集めは、予想より多くの資金が必要だった。ラーニャの女を売り飛ばしただけでは資金に不足を来したため、材料となる動物が多く生息するインダミト南部の村を襲うことで、それを効率よく補うことにした。
配下に収めていた野盗団と、急遽現地で作り出した合成魔獣を率いて村を一つ壊滅させ、その村のカネを奪い、女を売り飛ばした。もう一つ村を襲うつもりだったが、警戒が厳しく百日近くは材料集めと次なる襲撃準備に費やした。インダミトだけではなく、他の三国家にも足を運び、妖術指南や女を売り飛ばすことの見返りに、幾ばくかの資金援助を引き出していた。ビースマックのハラやキリンドリクス、プルケールが転生呪法に興味を示したのは、ちょうどこの頃だった。
そして、それらの資金もいよいよ底を衝き、南大陸南部でも厳冬期が訪れる頃、グレシオフィは二つ目の村を襲う決断を下した。
深夜、村の表口に立つ警備兵を合成魔獣が殺害し、村の裏口からは野盗団が雪崩込んだが、たった一頭の巨狼がこれを阻止してしまった。
合成魔獣を操るために村の入り口に立ったグレシオフィは、そこで巨狼と対峙した。このとき彼は、凶気に染まりかけた巨狼の双眸に、ラーニャの大軍勢を前にしても感じたことのない恐怖を、生まれて初めて感じていた。本能が告げるままに『移転』でその場を脱し、巨狼への復讐を誓いながら北の大地へと逃げ帰っていった。
一度北の大地で態勢を整えたグレシオフィは、南大陸で魔獣の材料を集めるに当って新たな拠点を築く必要性を痛感していた。ビースマックにはハラたちというシンパが存在していたので、しばらくはそこを拠点に資金集めや魔獣の材料集めに努めていた。レヴァイストル伯爵がアービィたちを護衛にして自領へ戻る際、キマイラの襲撃を受けセラスがさらわれかけたのは、ちょうどこのときだ。
資金や魔獣の材料集めはビースマックに拠点があればそれで済むが、それを北の大地運ぶには地峡を扼するラシアスをどうするかが問題だった。極秘の抜け道を持っていた野盗団は、狼に壊滅させられてしまっている。新たに野盗団を配下にするには手間が掛かる。抜け道を熟知し、官憲の及ばない隠れ家とカネになる人売組織とのコネクションの両方を持ち、且つ騙しやすい集団などそうそう転がっているものではない。
しかし、異世界人を召喚した呪法が、自らの神が操る転生呪法の譜系にあったことをグレシオフィは思い出し、その使用者に手を伸ばしてみることにした。
その時点でドーンレッドは既に行方を晦ませており、召喚に使用した魔法陣の前にニムファの姿を見出すことになる。
アービィに袖にされた後、ニムファは時間があるときは魔法陣の前で己が非力を悔やみ、悲嘆にくれる毎日だった。ドーンレッドが王宮を去って七日の後、ニムファは魔法陣が妖しく鳴動しているとの報告を受け、その前に立っていた。老人の姿が魔法陣の中に浮かび上がり、その柔和な相貌に神の使いと勘違いしたニムファを騙すなど、グレシオフィにとっては造作もないことだった。
召喚の神だと黒山羊の頭を持つ神を偽り、ニムファにマ教の信仰を捨てさせたグレシオフィは、野盗団が地峡の間道を抜けることを黙認させただけに留まらず、南大陸進攻の足掛かりまでできたことを確信していた。
グレシオフィは、ニムファが北の民を討ち鎮め、北の大地を平定しようという野望を抱いていることは承知していた。だが、平野と中央を討たせ、最北の民の前に立ったときに自らの正体を明かせば、そのままニムファが南大陸進攻の尖兵になると、グレシオフィは踏んでいた。それほど勇者を失ったニムファは、グレシオフィに心酔していたのだった。
当然、この時点ではグレシオフィは髪と瞳の色を変えており、ニムファは彼が最北の民だとは知る由もなかった。
その後、南大陸連合軍が北の大地に侵攻した際に、ラシアスが暴走したときにはグレシオフィは肝を冷やしたが、司令官が無能であることはニムファを通じて知っていた。
これをオセリファに誑かさせれば災い転じて福となり、連合軍を同士討ちで葬り去り、中央と平野を席巻した勢いで、南大陸を一気に衝けるとほくそえんだものだった。しかし、ウェンディロフのあまりの無能ぶりは、ラシアス師団を消滅に追い込み、自らの命も散らす結果に終わっていた。
グレシオフィは、武勇だけは優れたウェンディロフを不死者に転生させ、自らの忠実な近衛兵として利用することにしていたのだった。
シャーラを強行偵察しようとしているアービィたちは、プラボックからシャーラやラーニャがどのような運命を辿ったかは知らされていたが、その裏では自分に関ることが静かに進行していたことなど当然知る由もなかった。
「この辺りは、どんな作物を作ってました?
狩りの獲物は?
川や湖では、どんな魚とかが採れてます?
それから、周辺の鉱山とかは?」
ティアがターバの民に、矢継ぎ早に質問している。
事実上ランケオラータからターバの経済発展を、全面的に任されているようなものだ。
主食となる穀物はともかく、それ以外の農作物は他の地域と全く同じでは、小さな経済圏しか作ることができない。平野とは違う特色が必要だった。
本来であれば、ターバ以北の特色を調べ、北の大地全体を見渡して考えなければならないのだが、シャーラ以北の情報がない。さらに最北の地が敵地である以上、確保した地域を優先して考えるしかなかった。
「この辺りは土地が痩せています。
あまりたいしたものは採れてなかったんです」
ターバの民は言葉少なに答える。
実際、大麦と小麦、ライ麦の耕作地はそれなりに多いのだが、野菜はキャベツやカブ、ビートに似たものくらいで、組織だった農業が行われていたわけではなかった。
麦粥やパンが主食で、主な蛋白源は狩猟に頼っている。大きな湖が少ないからか漁業の従事者は多くなく、それほど大きな割合は占めていない。寄生虫による被害が多発し、いつしか廃れていったようだった。
石炭の巨大な鉱脈が発見されており、ほそぼそと露天の採掘が行われていた。
その他には金銀のそれなりの鉱脈が点在するが、シャーラや他の集落群との境界になっている山脈や丘陵地帯に集中しており、開発は進んでいなかった。
「どう思う、ティア?」
プラボックが訊ねた。
「そうですねぇ、農業は神官様たちにお任せするしかないですね。
あたしには、ここの気候にどんな作物が適しているかなんて判りませんから。
シャーラの辺りがどうかも神官様に見ていただいてから、どう特色を出すか決めましょうよ。
今は、作れるものをとにかくたくさん作る方向で。
何となく、本当に何となくなんですけど、耕作地の半分くらいは酪農に切り替えちゃった方が良いような気がしますけどね。
何よりも、土地を痩せたままにしておけませんから、下肥とか堆肥をちゃんと作ることです」
特産物があれば、それを使った料理なりをアービィに考えてもらおうとティアは考えていたが、まだそれは望めないようだった。ボルビデュス領やラガロシフォン領のように、元から社会基盤がある程度整備されていたなら、ティアは見聞きしてきたことからいろいろと改善案を出すことはできた。
しかし、全く何もない状態から始めるとなると、経済の専門家ではないティアには、どこから手を付けていいのか判らないというのが正直なところだった。
「あの、いいですか?」
アービィがターバの民に尋ねる。
「確かに大きな湖は少ないようですけど、川は多いですよね。
それも、かなり大きな川が多い。
海まで流れているのが、どれくらいあるかは分かりませんけど。
秋に大きな魚が上がってきたりしませんか?
アービィが念頭に置いているものは、サケマス類だ。
アービィがいた異世界同様、両側回遊をするサケマス類がいるのなら、巨大な市場を形成できる。アービィはターバの西側を走り回っていたときに、腐敗しきっていないサケのような魚の死骸を見かけていた。
「はい、秋にはかなりたくさん上がってきてます。
ただ、味があまり良くないし、当たる者が多くて、あまり採りませんけど」
役にも立たないものをと吐き捨てるような口振りで、ターバの民が答える。
「それ、火を完全に通すか、塩漬けにして干すと当たりませんよ。
塩漬けの干物は味も良くなるし、日持ちも良いですから、今年の秋には騙されたと思って作ってみてください。
それから卵は、旨いですよ。
塩漬けにしても最高です。
あと、完全に凍らせても当たらなくなりますから」
そう言ってからアービィは、板に炭で梁やエリの作り方を描き始めた。
イクラを思い浮かべ、アービィの口からは『醤油』という一言が漏れていた。
「それ、何の絵」
ルティが聞いた。
「魚を捕まえる罠
こんなのは作ったことはありませんか?」
前半はルティに、後半はターバの民に向けてアービイが言った。
「ありませんね。
どうなるんです?」 ターバの民が口々に聞いた。
「これは、魚の習性を逆手に取った罠なんです。
網を持って追い回すより、よっぽど楽ですから。
秋に来る大きな魚もこれで採れますし、春から夏にかけてもいろいろ採れますよ」
アービィが説明していたのは、簗とえりだった。
簗は、川の流れに向かって竹や木材でいかだのようなものを斜めに組み、水は通るが魚はいかだの上に残されるというものだ。えりは、魚の通り道に竹や木を並べて立て、奥にある袋網へと誘導する。どちらも竹や木の組み方に適度な隙間を作っておけば、一定のサイズ以下の魚は素通りするため、資源を根こそぎ採り尽くす心配もない。
多くの人々が興味を示し、泥濘の時期が過ぎ去ったら実際にやってみようということになった。
アービィは北の大地の気候風土から、サケマス類は必ずいると踏んでいた。
この他にもザリガニや、モクズガニといった甲殻類や、シシャモやワカサギ、チョウザメのような塑河性魚類、コレゴヌスやパイクのような一次淡水魚も期待できるはずだ。
一足跳びに養殖事業までは無理としても、かなり大きな市場を作ることは可能だと、アービィは考えていた。
塩漬けの干物であれば、真夏以外であればかなりの距離を運ぶことは可能だ。
北の大地を流れる川の水温や気候を考えると、初秋にはサケマス類の遡上が始まるはずだ。そうなれば、冬越しの食糧に余裕が出るし、翌春以降交易の材料にすることができる。魚卵はアービィのいた異世界では、古来地元民のスタミナ食でもあり、現代ではモノによっては同じ重さの宝石同等の経済価値を持っている。保存方法を改良できれば、莫大な利益を挙げることもできそうだった。
アービィは、あまり行ったことのない海の様子が気になっていた。
「最北の地へ、行くことになるのかなぁ?」
仮の宿に戻ったルティが不安げに言った。
産業復興の話し合いが終わった後、アービィたちはラルンクルスと強行偵察作戦の詳細な詰めをしてきていた。
ルティとしては、作戦に不安や不満があるわけではなかった。
レヴァイストル伯爵やプテリスに剣技を習い、日々鍛練を重ねるうちにそれなりの技と自信は得ていた。何よりもアービィが同行するのであれば、戦力的な不安も、精神的な不満もない。
だが、これまでルティは『人間』を斬った経験がない。
魔獣や不死者であれば、数え切れないほど斬り捨ててきた。
しかし、最北の地へ乗り込むとなると、そこでは最北の蛮族の生者、つまり『人間』と剣を交えなければならないかもしれない。その『人間』が、悪意の塊で邪悪な存在というのであれば、剣を振り下ろすことにルティは躊躇いを感じない。綺麗事だけで生きていられるような、現代日本とは全く違う価値観をこの世界の住人は持っている。
アービィにしてもそれは同じで、召喚される以前の価値観は、その記憶を封じられて育つ間に得たこの世界の価値観に取って代わられている。もちろん、すべてが代わったわけではなく、アービィなりの折り合いを付けていた。
だが、最北の蛮族が生存圏を求める気持ちが、ルティには良く解ってしまった。
南育ちのルティにとって、雪は年に数回しか見ることのない一大イベントでもあった。空から氷が降るなど、それに悩まされていない地域で、且つ仕事をまだ持たない幼子にとっては、非日常の楽しい出来事でしかなかった。
見慣れた風景が白銀に染め上げられたとき、幼いルティの心は躍り上がったものだった。もっとも、ある程度育ってから雪掻きに駆り出されるようになってからというもの、雪に対して怨嗟の感情を持ったことも確かだったが。
雪に対する認識がその程度のルティにとって、北の大地の雪は常識の範囲を超えていた。
これでは凍らない土地を求めたくなるという欲求は当たり前だと、ルティは思ってしまっている。贅沢のために民を虐げ、領地の拡大を図る貴族には嫌悪感しか抱かないが、生きるために南下しようとしている最北の蛮族と呼ばれる中にいる生者に対して、ルティは殺し合う意義を見出せていなかった。
「行くことになるよ。
僕は、行かなきゃいけない気がする。
呼ばれてるような気がするんだ。
そのときは……」
その後どう続けるか、アービィは言葉を飲み込んでしまった。
一緒に行きたい。
だが、これまで感じたことがない圧迫感が、北から伝わってくる。おそらく、危険度は相当高いと見ていいだろう。ビースマックで、アービィが一度倒されている相手の本拠だ。今度こそ、生きては帰れないかもしれないのだった。そんなところへルティを連れて行っていいのか、アービィには解らなかった。
飲み込んだ続きの言葉は、『一緒に行こう』と『待っていてね』の二つだった。
「あたしは、嫌よ。
夏ならともかく、この調子じゃ最北の地に着くのは冬になりそうじゃない。
凍えながら不死者と斬り合いなんて、ごめんだわ」
溜息をつくようにティアが言った。
しかし、よく見れば、目は笑っている。
実際のところ、ティアにしてみればここまで来たら、どこへでも行ってやろうという気分だった。
そして、最北の地へ行くのは、魔獣だけで良いとも思っている。相手は不死者や合成魔獣。けりは魔獣同士で着け、魔獣が人に害を成すばかりではないことを、ティアは証明したいと考えていた。その後に続く人狼を人間社会に溶け込ませるという目的のためには、最北の不死者を討ち鎮めることが必要だというのがティアの考えだ。
だが、ラミアにとって北の大地の冬は厳しすぎる。
この冬はできる限り外へは出ず、室内に篭っていたが、それでも体調を崩すことが多々あったのだった。幾度かスキーの実験などで外へ出た後は、決まって風邪のような症状が暫く続いていた。ようやく春めいては来ているが、今でも本調子とは思えない。
そのような状態の者が最北の地を衝こうとしても、足手纏いになるのではないかとティアは心配していた。
「だいたい、ここより厳しい環境で、厳冬期にまともな作戦行動など取れるわけがないだろうが。
心配するな。
シャーラかラーニャを落として、そこで冬篭りだ。
蛇は冬眠でもしていろ。」
呆れ顔でバードンが吐き捨てた。
作戦計画では、秋までにラーニャを確保するということになっている。もちろん、それは希望ということでしかなく、相手がいる以上、全てが計画通りにいくとは、誰も思っていない。
現実的には、シャーラを確保して拠点化するのが良いところだろうと、誰もが考えていた。
中央に春が訪れ、雪解けが山から流れ出し、泥濘が大地を覆いつくすのはそう遠くない。
それまでにシャーラを押えられるとは思っていないが、できる範囲の偵察を進めておきたいところだった。一気にシャーラを目指せば、泥濘が大地を覆いつくす前に確保だけはできる。だが、その後、食料調達の全く当てがない状態で、その地に留まることはどう考えても無理だった。歩くだけでも精一杯で、運が悪ければ泥濘に沈み命すら落としかねない状態で、物資を満載した荷車の運用など考えるまでもなく、補給など望むべくもない。
現状でできることは、偵察と一つでも先の集落を結界に収める程度のことしかなかった。
「失礼しちゃうわね。
冬眠だなんて。
でも、言い得て妙、かな。
雪で動けなければ、冬篭りも冬眠も同じかしらね。
あたしの働きどころは、春からってことでいいかしら」
いずれにせよ、冬の間は軍事行動も、経済活動も極端にその活性を低下させてしまうのだ。秋までに進められるところまで進んだ後は、一度パーカホに戻るのも手かもしれない。
「あら、随分と素直じゃない、ティア。
以前だったら食って掛かってたのに。
どうしちゃったのかしら?」
珍しくバードンの言うことに納得したティアを、ルティがからかう。
「そうかしら?
何から何まで否定するなんて、子供のすることよ、ルティ」
今までアービィとのことをからかい続けてこられた仕返しでもあったが、ティアはどこ吹く風といったように軽くかわしていた。
「ティアは、ここに残っててもいいんだよ。
ターバの産業復興を見られるのは、ティアしかいないんだしさ」
アービィは、ランケオラータがパーカホに戻った理由を聞かされていた。
南大陸からやってくる人々の相手をしなければならないというのが一番の理由だが、ターバ復興はティアが適任と見ていたのだった。
「蛇が経済だと?
おい、狼、冗談も大概にしておけ。
男の精を喰らうしか能のない魔獣だぞ」
バードンが目を剥いた。
「あら、バードンさんはボルビデュス領やラガロシフォン領の経済発展はご存じありませんでしたか?
あれって、かなりの部分かティアの意見なんですよ。
特に税制改革とか。
男の人の精を喰らうってことは、否定できませんけどね」
ルティは笑いながら、バードンに言った。
ボルビデュス領もラガロシフォン領も、関税や通行税の大幅な引き下げで、良質な商品を安く購入できるようになっていた。
領主の収入は、確かに一時的に激減したが、半年も過ぎる頃には租税や売り上げ税、人頭税がそれを補ってあまりあるほどの増収になっていた。良い品を安く購入できるため、周辺の貴族領から人が買い物に流れ込み、そのまま住み着く者すら出始めた。人口が増えれば人頭税も当然増え、労働人口が増えれば租税や売り上げ税が増収になるのは当たり前だ。
口さがない近隣の貴族たちは、レヴァイストル伯爵やセラスが苛烈な税制を敷いていると王宮に讒言もしたが、調査官は僅かな瑕疵すら見出すことはできなかった。
「確かにランケオラータ様やレイ様から伺っておりましたが、まさか蛇の言い出したこととは」
ティアやアービィが助言した事項が効果を現した頃には、バードンは既に北の大地に渡って来ていた。そのため、ボルビデュス領やラガロシフォン領の改革の成果は見ていなかった。
「あなたねぇ、ずっと蛇、蛇ってあたしのこと呼ぶけど、獣化してないときはティアって名前があるんだからね」
ターバ衛星集落の民が押し寄せたとき、バードンが説教中に『ティア殿』と言い難そうにしていたのが、ティアには面白くて仕方がなかった。
「やかましい、獣化していようがいまいが、貴様は貴様だ。
考え方や信条までが変わるのか?
魔獣が人として扱われたいのか?
ラミアとしての誇りがないのか?
貴様のような奴は、蛇で充分だ。
解ったか、蛇」
怒りを含んだバードンの言葉が、ティアの心を抉った。
「『人狼だって、真っ当に生きていれば認められる世界であって欲しい』
貴様はそう言った。
それは人狼が人狼として認められるということだろう?
ならば、貴様はどうなんだ?
ラミアとして、ラミアが認められたいのではないのか?
『人の姿』であるならば、名で呼べ?
己に誇りを持てない者が、どうして人狼の子に誇りを持たせられると言うんだ?
笑わせるんじゃない」
言葉もなく立ち尽くすティアに、バードンは畳み掛けた。
面白半分にからかおうとしただけなのに、なぜバードンがそこまで怒りを顕わにしたか、ティアは最初の言葉では理解できなかった。
しかし、後に続く言葉で、ティアは己が浅慮を思い知らされていた。決してバードンはティアやアービィの存在まで、否定しているということではなかった。不死者の集落を焼き払った前夜までのバードンであれば、蛇も狼も蔑称としてそう呼んでいた。だが、その夜に聞いたティアの心からの叫びは、バードンの人生観や価値観を大きく揺るがせていた。
人間世界に存在を認められたいと思うなら己に誇りを持てと言いたいがために、それからも改めることなく頑ななまでに蛇、狼と呼び続けているのだった。
もちろん、バードンはむやみに正体を明かせだの、性急に事を運べと言ってはいない。
どちらの魔獣も、人々からは恐れられている。正体を明かすにしてもタイミングを間違えれば、即、迫害や弾圧、排除といった事態を招くであろうことは想像に難くない。最北の蛮族と相対する今、無用な混乱は避けるべきだということくらい、バードンは承知している。
既に信頼を置ける者たちには正体を明かせているならば、慌てることなく徐々に広げていけば良い。二頭が自由気ままに獣化できない世の中で、どうやって人狼の子に誇りを持たせられるというのか。
己の価値観を変えさせてしまった二頭に対しての、バードンにできる最大のエールだった。
ティアは唇をかみしめて、バードンの言葉を反芻していた。
いつの間にか、涙が滲んでいる。それは、悔しさからだとティアは思っていた。
嬉し涙でもあったと気付いたのは、バードンが自室に戻ってしまった後、暫く経ってからのことだった。