第82話
「蛇、貴様、どういう了見だ。
事と次第によってはただじゃ済まさんぞ」
怒気を孕んだバードンが吼えた。
「あら、あんまり気持ちよさそうに寝てたから、起こしちゃ悪いって思ったのよ。
あんだけ戦った後ですもの。
感謝の一つもして欲しいわぁ」
涼しい顔でティアがぬけぬけと言う。
「まあまあ、バードンさん、あの二人だったら普通のことですから。
軽く流してやって下さいよ」
ティアは涼しい顔をしているが、バードンの剣幕にアービィが取り成そうとする。
ターバを囲む大結界が完成した二日後、深夜に帰還したバードンとアービィは、ターバの民が藁を貯蔵していた小屋に潜り込み、泥のように眠った。
二人に人並みの部屋は用意されていたが、案内してくれるはずの者は深い眠りの世界に遊びに行っていた。アービィもバードンも、今は一秒でも早く体を横たえたく、手近にあった藁小屋に吸い込まれるように入って行った。
そのまま藁に潜り込んだ二人は、剥き出しの地面に比べて圧倒的な寝心地の良さに、再度深い眠りの中へと落ちていったのだった。
アービィはともかく、バードンは結界の中で眠った際に、直接地面に転がった寝心地の悪さに幾度も眠りを破られていたが、『催眠』のせいで覚醒することができず、却って疲れが増している部分もあった。
「貴様も貴様だ、狼。
何故、起こさん。
いつまでも寝こけやがって」
ティアがあまりにも平然としていたせいか、毒気を抜かれたバードンは怒りの矛先をアービィに向けた。
「そんな無茶な。
バードンさんの方が先に目を覚ましてたしぃ」
実際、バードンが四、五回力任せに蹴り飛ばしても、アービィは目を覚まさなかった。
「次は切り刻んでくれる。
蛇、貴様はその前に生きてることを後悔するまで――」
「じゃぁ、今回のはいいんだ」
皆まで言わせず、ティアはバードンの言葉を食いちぎる。
「――ッ!
今回だけだ。
次は無い」
バードンの慌て振りに、ルティは笑いを堪えるのに必死だった。
「ルティ殿、付き合う相手は良くお選びになることですっ!」
そう言うなりバードンは部屋を出ていった。
その際、ルティの耳元で、ティアとアービィには聞こえないように囁いてから、盛大な扉の開閉音とともにバードンは去っていった。
「もう、本当に素直じゃないんだから、バードンさんは」
当人がいなくなったところで、ルティの我慢は限界を突破する。
笑い転げながら、ルティはバードンの言葉を反芻していた。呪文には感謝しています、か。直接言えばいいのに。
「猊下、大変好ましくない事態でございます」
無表情なまま、一切の感情を捨て去ってしまったかのような、抑揚のない声でオセリファが報告した。
「分かっておる。
以前、陣を破壊されたときとは、異なる波動を感じた。
そう、破壊されたときは、組み上げた石壁が崩れるような。
今回は、塩の塊が水に溶け去るかのような波動だ。
それ以降、陣の様子が見えなくなっておる。
大方、結界か何かで陣を封じ込めよったのだろうな」
グレシオフィは自らの見立てを語った。
何から何まで、こちらの思い通りに行くとは思っていない。
敵も必死の抵抗をするからだ。生活圏の奪い合いに負ければどうなるか、その程度のことは子供でも分かる。
「しかし、猊下。
陣が使えなくなったということは、進攻するうえで非常に不都合かと。
未だ山脈に陣は敷けておりませぬ故。
これは私めの不手際でございますので、何なりと罰をお与え下さいませ」
不死者の集落をアービィたちに破壊された後、オセリファは必死にその再建に努めていた。
その甲斐あって連合軍の足が止まった厳冬期には、三つの集落は魔法陣で囲まれ、再度『移転』のための拠点として利用可能になっていた。
同時にグレシオフィは、山脈の各所に魔法陣を敷くようにオセリファに命じていた。
だが、風雪を避けられる構造物が点在する集落とは違い、殴りつけるような吹雪が荒れ狂う山脈地帯では、いかに不死者といえど行動することはできなかった。生者とは違い、凍死や餓死の心配は当然ないのだが、物理的に吹き飛ばされ、雪に埋められてしまっては、魔法陣の敷設など無理な話でしかない。仮に吹雪を衝いて陣を敷いたとしても、地表に記号を敷設できなければ、雪解けと共に陣は崩れ去ってしまう。
このため、オセリファは春の訪れを待ち、雪解けが大地を泥濘に沈めるまでの僅かな隙を衝いて、魔法陣の敷設を行うつもりでいたのだった。
だが、連合軍の反攻は思ったより早く、春の訪れと同時にターバにその魔の手が伸びてきた。
もちろんグレシオフィはターバを明け渡す気などなく、防衛の手は打っていた。
西区域には生者を配置することは適わないため、意志を持つ中位の不死者を送り込んであった。万が一、あの忌まわしい狼が出張ってきたときのために、魔獣としての強さに不安はあるが石化能力を持つコッカトリスとバジリスクも付けてあった。
北から東周りの区域には、恭順を誓ったターバの衛星集落があったため、これらに徹底した妨害を命じてあった。
しかし、西区域はあっさりと狼に食い破られ、東の区域も韜晦に惑わされ、そればかりか一集落に逃亡を許していた。
南区域は不死者の集落に襲わせればよいと考え、北区域の妨害にようやく仕上げたキマイラまで投入し、あと一歩まで追いつめたが、これも忌まわしい狼に排除されていた。
そして、最後に残された砦だった不死者の集落も、日中の無防備な隙を衝かれ結界に取り込まれてしまった。
こうなってはいくら不死者を送り込もうと、陣の中に実体化した瞬間に灰化してしまう。
魔獣であればその心配はないが、現在は狼に食い荒らされた損害が回復しきっておらず、送り込めるだけの数に余裕はない。コッカトリスもバジリスクも、制御する者が付いていなければすぐどこかへ逃げ散ってしまい、そうなってはせいぜい出会い頭に会った者を石化させるくらいで戦略的には何の役にも立たない。生者を制御のために付けようにも、陣をくぐる際に不死者に転生してしまうため、これも結界内に実体化すると同時に瞬時に灰化する運命だ。
これでは、漸く地表が顔を出した山脈に陣を敷こうにも、『移転』で跳ぶための拠点がなければ、そこは歩きで行かなければならない。ターバを大きく迂回して歩いていては、山脈への到着は早くて初夏が過ぎる頃になってしまうだろう。
食糧の補給を要さない利点を活かし、一気に山脈から平野を攻め落とし、不死者の軍団を補充して南大陸へ攻め込むつもりだったが、今後の大方針の変更を余儀なくされていた。
「気にするでない、オセリファ。
戦に多少の齟齬は付き物だ。
相手あってのことだからな。
それに、少しは楽しませてもらわねばな。
反攻成ると信じ込んだ希望を踏みにじってこそ、我らが怨みも少しは晴れようというものだ」
グレシオフィ自身の見通しの甘さもあったことは自覚しているため、オセリファを罰する気はさらさらない。
それに、オセリファの存在は、グレシオフィにとって何ものにも代え難いものがあった。
例え、全軍を壊滅に追いやることがあろうと、オセリファだけは別格の存在だった。
ターバさえ抑えてあれば、連合軍の攻勢を抑え込むことは容易なはずだった。
食糧を必要としないグレシオフィだが、補給の重要性は熟知している。碌な耕地のない中央部に、千、万の軍で侵攻されたところで、喰う物がなければ自滅を待てばいいだけだ。後背地にいくら食糧の備蓄があろうと、補給線が延びれば延びるほど、前線に運べる戦略物資の量は目減りする。補給部隊は帰路の食糧も必要とするからだ。
ある一点を超えると、運ぶ物資より運ぶための物資の量が多くなる。基地からの距離と運べる量は反比例の関係にあった。
現状ではターバまでが連合軍の攻勢臨界点であることを、グレシオフィは冷静に見抜いていた。
しかし、ターバを落とされた今、連合軍の攻勢臨界点は大きく伸びている。
全盛期には、万に近い人口を養っていたターバと、その衛星集落だ。ターバ周辺の大地は、大人数を養うだけの力を持っている。そこに南大陸の農耕技術が加われば、収穫の上昇はいかほどか。ターバ出身の者はそれほどいなくとも、この地を前から狙っていた部族は多い。このチャンスに北征を名目として、多くの者が入植して来ることは間違いがない。そうなれば、食糧を始めとした様々な物資の生産力は必然的に増え、ターバは連合軍の一大反抗拠点と化してしまう。
己を含めた不死者が結界に触れることすらできないのであれば、ターバを落とすには周辺地域の穀倉化が進む前に、山脈以南との補給路を断ち、兵糧攻めにするしかない。だが、喉元に打ち込んでおいた不死者の集落まで潰されてしまっては、ターバを孤立させることは困難だ。
あとは結界を苦にすることのないグレシオフィに忠誠を誓う最北の民の生者と、魔獣を全面に押し立てるしかないが、どちらもその数は多くなかった。
もともと人口の少ない最北の蛮族にとって、中央以南の連合軍と正面からぶつかり合うことは自殺行為に他ならない。いかに不死者が死を恐れる必要も、食料の補給も必要ないとはいえ、永遠に存在できるわけではない。破壊されてしまえば一握りの灰となり、吹き散らされてしまう存在だ。
最北の蛮族に残された戦力として計算できる総人口は、不死者を含め二万に届かない。ここまで集めた情報では、中央以南の連合軍が総力を結集すれば、四万に近い軍勢を集められそうだ。そうなれば戦力比は一対二。仮に全ての者の戦闘力が均一だとして、ランチェスターの自乗均等法則に従えば、実質の戦力比は一対四。最北の蛮族が全滅するまで戦っても、連合軍はほぼ八割以上が生き残っている。これでは勝負とはいえない。
現実的には、ターバで養える将兵の人数は一個連隊二千五百が限度だろう。それに対して、グレシオフィに用意できる生者の数は、最北の地の洗い浚いをつぎ込んで五百が限度。戦力比は一対五。公式に当てはめれば一対二十五だ。不死者を含めれば戦力比は逆転するが、結界を破壊するか連合軍が結界から出てこなければ、不死者は戦力としては計算に入れることはできない。もちろん、この世界でランチェスターの法則など知られていないが、一人当り五人を倒してこちらは無傷、などという奇跡が起きるとは、グレシオフィがどんなオプチミストであっても考えられるはずもない。
グレシオフィが生まれる以前の遙かな昔から、北の民同士で行われてきた戦の目的は生存圏拡大であり、収穫の期待できる土地を奪うことだった。
元はといえば、各地での勢力争いに敗れたが故に、痩せた最北の地へ押し込まれた者たちの集合体が最北の民だった。少ない収穫物を分け合って暮らしていた彼らにとって、少しでも収穫が多い南の土地は憧れでもあり、いつかは取り戻すべき父祖の地でもあった。
だが、中央での抵抗は頑強で、幾多の命が散らされていった。最北の民は中央以南の民に比べ、純粋に人数という戦力が足りていなかった。正面からぶつかった幾度もの戦で、中央に進むこともできなかったが、最北の地を奪われるようなことはなかった。幾度か中央の土地を掠め取ることもあったが、少ない人口で守りきることはできず、すぐに奪い返され貴重な命も失われていった。それでも中央以南の民が、最北の地に攻め込むことはなかった。何故なら、最北の地はわざわざ勢力圏に収めるほどの魅力がない、打ち捨てられた土地だったからだ。
過去の戦で敵将から投げられた嘲りの言葉に、全ての最北の蛮族は慟哭した。
出てこなければ命までは奪わぬ。
蛮族には蛮族に似合いの土地がある。
豊かな土地に出てくる資格など、最北の蛮族にあると思うな。
大人しく雪に閉ざされていれば良い。
中央以南の民は土地を奪い返した際に、最北の民の勢力圏の寸前まで迫るが、決して境界を越えようとはせず、そう言い捨てて去っていくのが常だった。
存在まで否定されては、中央以南の民への怨みが生じても不思議ではない。そうやって積み重ねられた千年以上に及ぶ長い時間は、そのまま怨みの積み重ねでもあった。
グレシオフィは、最北の民を率いるようになったときから、既に不死者に転生していたわけではない。
グレシオフィも当初は生存圏の拡大を目指し、中央への進攻を企てていた。だが、中央最北部の小さな土地を奪い合いが繰り返えされ、次第にグレシオフィの目的は、土地の奪取から中央の民を殺すことへと変化していった。
北の民の戦の目的はあくまで土地の奪い合いであり、生命のやり取りはその手段でしかなかったはずだった。徹底的なジェノサイドは周囲の民に恐怖を撒き散らし、防衛のために団結を促す。そうなっては却って自らの部族に危機を招くことになるので、集落の皆殺しなど珍しくはないが、そうそう頻発することではなかった。
だが、最北の民はその一線を越えた。土地に住む民を皆殺しにして代わりに居座っても、中央部から弾き出された民に奪い返される。ならば、殺し尽くしてしまえばいいとグレシオフィは考えのだった。そして血で血を洗う凄惨な抗争が続く中、十五年前の秋にオセリファが戦の中で命を落としたとき、グレシオフィの中で何かが弾けた。
グレシオフィにとって、オセリファは子供のような存在だった。
共に肩を並べて中央の民と戦った盟友が、妻を失った後に男手一つで育て上げた娘だ。収穫物が少なく、栄養状態が劣悪な最北の地では、出産は命がけだった。妻は慢性的な栄養不足に悩まされる中、最愛の夫の血を残すため、命と引き換えにオセリファを産んでいた。
戦で盟友が命を落としたとき、オセリファは七歳になったばかりだった。父の亡骸に縋って泣き叫ぶ少女を、子のいないグレシオフィは引き取り、我が子同然に育て上げてきた。 グレシオフィに、家族がいなかったわけではない。愛する妻も子もいて、指導者として忙しく走り回る傍ら、家庭では良き夫であり、良き父親だった。
中央の民から奪い取った最前線の土地に率先して入植したグレシオフィの一家は、翌年の反攻でグレシオフィを残して惨殺されていた。グレシオフィが、偶然留守にしている間に起きた悲劇だった。
既に奪い返された集落に入ることもできず、妻と子の亡骸を葬ることすらできなかったグレシオフィを、オセリファの父であった盟友は慰め、励まし、絶望の淵から救ってくれた。その彼が戦の中で命を落とすことになり、グレシオフィは恩に報いるためにオセリファを我が手で育てる決心をしたのだった。
妻子を惨殺され、盟友を失った時点では、グレシオフィに理性は残っていた。
それからの十五年間は積極的な攻勢は控え、最低限の略奪に留めていたが、最北の民は南下への欲求を失ったわけではなかった。
グレシオフィの安定政策は民の反発を買い始め、圧力に抗しきれなかった彼は、大々的な進攻を行う決断をする。オセリファが成長し、彼の完全な庇護から離れ始めていたという安心感もあった。
だが、十五年振りの進攻は、最北の民から戦の勘を奪い、その間も戦に明け暮れていた中央の民との差を大きく広げていた。
いとも簡単に撃退され、最北の地へ撤退する殿を、オセリファが買って出た。
全軍壊滅の危機にあった中、グレシオフィが決断に迷っている隙に、オセリファは子飼いの部下を引き連れ敵の前に飛び出し、そして二度と還らなかった。
最北の民の勢力圏に命からがら逃げ込んだグレシオフィは、すぐさま軍を再編するとオセリファの救出へと急行した。
だが、時既に遅く、オセリファの部隊は文字通り全滅していた。陵辱の跡がありありと残るオセリファの死体に取り縋り、妻子を失った時よりも、盟友を失った時よりも悲嘆に暮れるグレシオフィに、理性は残されていなかった。
死化粧を施したオセリファを連れ帰り、彼は禁呪に手を染めた。
邪悪な波動が辺りを圧し、オセリファを不死者に転生させた彼は、自らも完全なる不死者へと転生した。そして、最北の民以外の全てを眼前に跪かせ、その罪を償わせることを黒山羊の頭を持つ禁呪の神に誓った。
最北の地に、魔王が降臨した瞬間だった。
「問題は、ターバへの入植者の選定と、食糧増産が安定するまでの補給だな」
南北大陸連合軍の司令部移動を明日に控え、パーカホを始めとした平野の集落が喧騒に包まれる中、プラボックとルムはまだ頭を悩ませていた。
もともとターバは、中央でも突出した人口を抱えた集落だ。
衛星集落も全て数に入れれば、人口は二千に届こうとしていた。それだけ基礎生産量が高いということで、この地を狙う部族もまた多かった。ターバから避難した人々が優先されることは当然だが、それ以外をどうするか悩ましい問題だった。
衛星集落の民にしても、中心地は欲しい。
ターバの民は避難を良しとせず、最北の蛮族にあらがってそのほとんどか不死者に転生させられ、今回のターバ攻防戦で灰と化してしまった。避難した一部の人々は、それに対して忸怩たる思いを抱えてしまっている。実際には、中央を席巻した最北の蛮族の脅威に対し、部族の絶滅を防ぐため半ば無理矢理避難させたのだが、実情を知らない衛星集落の民やターバの生き残りのなかでも一部の若者には、敵前逃亡とも受け取られ非難の対象になっていた。
避難した人々もそれは充分に理解しており、ほとんどの者は平野かターバ以北に新天地を求めるつもりでいる。だが、感情だけで片付くほど、事は甘くはなかった。
ターバを新しい住人に委ねるとしても、周囲の土地の特性はそこに住んでいた者でなければ解らないことが多い。どこで何が採れ、何が狩れ、どこが何の耕地に適しているか、いきなり入り込んだ者に判るはずがなかった。先の攻防戦の生き残りには若者が多く、それらの知識がまだ不足している。どうしても避難してきた人々の、特に老齢者の知恵が必要だった。
他にも問題はある。
市街地の約1/4は完全に破壊され、残った部分も多かれ少なかれ何らかの被害を蒙っていた。それとは別に、不死者にとっては無用の長物と化していた、穀物などの備蓄食糧が大量に残されている。無秩序な新規入植を行えば、快適な住居と食糧の奪い合いが起きることは、火を見るより明らかだった。南北大陸連合の中が、決して善人ばかりというわけでもない。
最北の蛮族という共通の敵がいるから、やむなく纏まっているという部分もあるのだった。 軍事力を背景に、南北連合軍がターバを統治するしかないのだが、ターバ入植にあぶれた者たちの不満を解消する手だてがない。
人々は現状を鑑み、表立って不満をぶちまけることはしないだろうが、ターバには入れると期待して裏切られた人々の怨みは、後々の火種となることは確実だ。実際には勝手に期待を抱き、叶えられないからといって怨むなどお門違いもいいところなのだが、一度思い描いた空想は当人の中では既定路線になっている。それが叶えられなかったとき、人々は政体に不満を抱き、反乱やクーデター、下克上の温床と化す。
「ターバの民は平野が引き受けよう。
だが、暫くの間は、ターバ復興に力を尽くしていただく。 その後は、平野に移住だ。
乱暴かもしれん。
だが、ターバは最北の蛮族に対する一大反攻拠点だ。
軍の行動を優先させてもらう。
あとは、あなたの部族をどうするかだ」
ルムが自らの案を述べた。
「心配には及ばん。
俺たちは、シャーラを取り戻す」
プラボックは答えは簡潔だった。
ターバの入植に係る問題で、周囲が最もその動向を気に掛けているのが、プラボックの部族だった。
周囲の人々は、プラボックが現在保持している権力を使い、自らの部族を優先的にターバへ入植させると見ていた。プラボックの部族がターバを狙っていた過去は、誰もが忘れていない。権力は使うために存在するというのが、北の民にとっては一般な考え方で、プラボックの部族がターバを優先的に占拠することも、当然のことだと周囲の人々は捕らえていた。
乱世に超法規は付き物だが、それが通用するのは乱世のうちだけだ。
世の中が安定した時点で既得権化してしまっていては、必ず不満が渦を巻く。功績は、別の形で報いるべきだった。ルムが心配していた点は、ターバ内で勢力争いが起きた際、プラボックの部族が集中攻撃を受けるのではないかということだ。
もちろん、プラボックの部族に対する妬みや嫉みも、連合軍を瓦解に追い込みかねない要因で、こちらの方が現時点では恐ろしい問題になる可能性が高い。
しかし、プラボックにとってのターバは、魅力的な土地ではあるが根拠地があってこそだった。
プラボックの生まれ育ったシャーラはターバからさらに十日行程北にあり、中央のそのまた中央に位置していた。ターバほど大規模な集落ではないが、比較的肥沃な土地に恵まれた豊かな集落で、ターバと中央の覇を競い合った集落の一つだ。最北の蛮族が最も警戒していた集落でもあった。それ故に、戦乱の緒戦で落とされ、完全に破壊し尽くされている。これを奪い返し、復興させることがプラボックにとって至上命題であり、ターバを手中に収めたところで心が満たされるわけではなかった。
「それを聞いて安心した。
あなたの部族が良いとこ取りをしてしまっては、示しが付かんと考えていたんだ。
もちろん、あなたにはターバに入ってもらうが、それは住み着くためではないということを、満天下に示す必要があるな。
あなたの部族の方々には、当分の間平野か山脈に留まってもらうことになる」
ルムは、ほっと一息つくと、考えていた案を話し始めた。
ターバ入植は、公開抽選とする。
これであれば不公平は生まれない。引く人間に作為があると疑いを持たれないように、それも無作為に抽出する。いっそ、代表者を決めて阿弥陀籤でも良い。恨みっこなしの一発勝負で、入植する部族を決める。決定後の辞退は認めない。これを認めると、裏でどのような取引が行われるか、判ったものではない。脅迫、恫喝、果ては殺し合いまで起きかねない。もともとそういう性質の集団なのだ。
入植する部族には、権利と同時に義務も課す。
ランケオラータと話すにつけ、南大陸における権利と義務の考え方を、北の大地にも根付かせなければとルムは考えていた。やりたい放題の北の民にも、義務という概念を持たせたかったのだった。
「いいだろう。
俺は賛成だ。
ターバの民にも、抽選に参加する権利はあるのだろう?
それを辞退するかどうかは、彼らの自由だ。
住み慣れた集落を捨てるのは辛いだろうが、後ろ指を指されながら生きるのも辛いし、失ったものが大きすぎる。
家族、血のつながりのある人々、愛する人たちを失って、たった一人取り残されてしまった者もいるだろう。
それを乗り越えてターバを復興させたいというのであれば尊重すべきだし、新天地を求めるというのであれば、それも尊重すべきだ」
プラボックは賛意を示した。
誰もが納得する解決策などありはしない。
百点満点の回答を書き上げたいと思うのが人情だが、六十点で合格というのであればそれでも良い。百の問題のうち、一つだけ百点を叩き出してもあとの九十九が零点では話にならない。百の問題全てに六十点なら、まだ現実的だ。
言い換えれば、百人の集団があったとして、百人全てが満足できるとは限らない。六十人が満足できる回答を、常に出せるようにするべきだともいえる。だが、その六十人がいつも同じ者たちというのでは、偏りが出ているというものだ。六十人の内訳は、常に流動的であるべきだろう。
プラボックもルムも、このやり方が最良だとは思っていない。だが、時間を掛け、人手も掛け、議論百出すれば最良の回答が出るとも限らない。
今は時間も人も足りないのだ。巧遅より拙速を取るべき秋であった。
「では、俺はランケオラータに話をしてくる。
あなたは、あなたの部族を納得させておいて欲しい。
余計な火種は抱えたくないからな」
ルムはそう言ってランケオラータの家へと向かった。
ターバに残ったアービィたちは、四人にあてがわれた仮の住居で来客に面会していた。
アービィも、ルティも、バードンも困惑の表情を浮かべていたが、最もその深刻度が高いのはティアだった。
「ですから、何度も申し上げている通り、あたしは神でも、その使いでもないんです。
あの時は、非常事態でしたから躊躇っている余裕がなかっただけで、本来であればあの姿は人様に見せるものじゃありません」
半ば凍りついた表情で、ティアは同じことを何度も繰り返している。
「ですが、あのお姿は我らが崇める神としか思えません。
どうか、この地にお留まりいただき、我らをお守りください」
こちらは必死の形相で同じことを繰り返していた。
ティア隊が解放した衛星集落の民たちだった。
あの時、惚けていた民に正気を取り戻させるため、咄嗟の判断でティアは民の前で獣化していた。効果は絶大で、神の言葉であれば、避難する際の危険性など考えるに及ばないと、人々は一斉に集落を後にしていた。その後、無事ターバが解放され、落ち着きを取り戻した人々が礼を言いに来ただけと思い、気軽に対応してみればとんでもない話だった。
衛星集落の民が、ティアに対して心の底から感謝しているのは解る。
だが、その向こう側には、ティアを利用してターバの衛星集落からターバ圏の中心にのし上がりたいという、野望が透けて見えていた。ターバを中心とした集落群には、蛇を神としている部族が多い。複数の部族の集合体であるターバにも、当然蛇を祀る部族がいた。
今回の争乱で、目に見える形で人々を救ったのは蛇と狼だが、アービィはどさくさまぎれで正体を明かさずに済んでいた。そうなると、目に見えた神はティアだけだ。それも人前に立ち、人々に対して声を掛けた。その唯一声を掛けられた集落の民が、神に選ばれし者に準えたくなるのも無理はなかった。
ティアが衛星集落の民に手を焼き、『誘惑』で切り抜けるか『透過』で姿を眩ませるか悩み始めたとき、思いも寄らぬ所から助け船が出された。
「皆様は、神という者に対して、大きな思い違いをしていらっしゃるご様子。
こちらのティア殿に、ここに留まり守りをとおっしゃいますが、神は人事を尽くした者に初めて救いの手を差し伸べるものでございます。
我が神も、これは同様。
安易な助けや守りを求める者には、却って強くあるように試練をお与えになられるものでございます。
皆様は、もし、ティア殿がここに留まると成ったときは、どうされるおつもりでございましょう?
都合の悪いこと、思い通りに行かないこと全てをティア殿に押しつけ、自らは願うだけで何もなさらぬおつもりか?
願いさえすれば、全てが思い通りにいくとお考えでございましょうか?
そして、それが成らねば掌を返すおつもりか?
それとも、ティア殿のお姿を利用して、他の部族に対し優位を確保しようというおつもりでございますか?」
それまで黙って両者の遣り取りを見ていたバードンが、横から口を出した。
それは見事なまでに、衛星集落の民の思惑を言い当てていた。
図星を指された格好の人々が言葉を返せなくなっているのを見て、バードンはさらに畳み掛けていった。
「私はマ教の神父でございます。
異境の神に対しては、幾分か利く鼻を持っております。
ティア殿とはずいぶんと長い付き合いがございますが、この世界にいる数多の神の一柱ではないことは、我が神の名において保証いたします。
もちろん、私はあなた方を教化しようなどという、大それた考えは持ち合わせておりません。
あなた方がどのような神を信仰し、祀り上げようと、それは人の自由というものでございます。
ですが、都合良く誰かを神に祀り上げ、それを後ろ盾として勢力を伸ばそうなどということは、あなた方の神に対する冒涜なのではございませんでしょうか?」
バードンの説教に、言葉を返せる者は誰もいなかった。
ある者は純粋に神と崇めたいだけだったが、それを否定されたことに落胆の色を隠せない。
神を詐称したという怒りがないわけではないが、あの状況を収拾するにはあれしかなかったと、落ち着いた今は理解できる。茫然自失に陥り、自ら判断する能力を失っていた人々を正気に戻したのは、ティアのとっさの判断があったお陰だ。考えてみれば、衛星集落の民たちの口から、ティアの正体が流布されてしまえば、一歩間違えれば迫害の対象になりかねなかった。
それを覚悟で蛇の姿を見せたティアの勇気には、感嘆するしかない。
ある者は、バードンに図星を指され、恥入るばかりだった。
さすがに神父の言うことだけあって、一々もっともであり、反論のしようがない。あそこまではっきりとティアを利用しようとしていたことを指摘されては、この後何をいっても信用など得られるわけがなかった。引き留められなかったことに対し、腹立ち紛れにティアが神を詐称した不埒者だと言い触らそうものなら、命の恩人に仇で報いた恥知らずな部族として、どこからも相手にされなくなるだろう。
目の前の利益のためなら離合集散が常であった北の民でも、名誉と信用は重要だった。生き残りのためなら裏切りも肯定される場合もあるが、このケースでは非難の声しか出ないであろうことは、子供にでも解ることだった。
「お分かりいただけたようでございますな。
お引き取りいただけましょうや?
数々の無礼な物言いの段、平にご容赦願えれば幸いでございます。
皆様に蛇神様の御加護と、我が神からも御加護がありますよう、この神父及ばずながらお祈り申し上げます」
うなだれる衛星集落の民たちの背後に回り、バードンは丁寧な態度で扉を開けた。
「あの、何て言って良いか分かんないけど。ありがとう」
素直にティアは頭を下げた。
「礼など言われる筋合いはない。
貴様が神だと?
そんなふざけた話があるか」
バードンは素っ気なく答えただけだ。
だが、ルティの笑い声に満更でもない表情で一礼すると、バードンはそそくさと自室へと入って行った。
「しょうがないわね、バードンさんは。
本っ当に素直じゃないんだから。
ねぇ、ティア、市場に行かない?
アービィ、久し振りに何か作ってよ、異世界の食べ物」
ティアは、何故ルティが笑い転げていたか解らず怪訝な顔をしていたが、言わんとしている意図は理解できる。
三人は連れ立って、ターバの中心にある市場へと出かけていった。
最北の蛮族に占拠されていようと、生者には生者の生活があった。
虐げられようが、飯は食わなければ生きてはいられない。ターバの民は周辺地域の哨戒の合間に、僅かな機会を捕らえて狩りを行い、衛星集落と協力しながら食糧の確保に努めていた。
厳冬期は保存食だけで凌いでいたが、吹雪の回数が減り始めた時期には、積極的にカリブー等を狩りに出ていた。
自分たちの食い扶持もそうだが、不死者を運んできた最北の蛮族の生者にも食わせないわけにはいかなかったからだ。
遠慮なく保存食を食い荒らす彼らに眉を顰めつつも、不死者の戦力を背景にした恫喝には抗しきることは不可能であり、ターバの民たちは不満を飲み込みつつも食糧確保に奔走していた。
ターバ一帯が結界に囲まれ、不死者が滅し去られたときに、最北の蛮族の生者たちは皆殺しの瀬戸際だった。
ターバの民のほとんどは、身内や友、恋人や師といった大切な人々を失ったことで激昂し、最北の蛮族の生者を生きたまま八つ裂きにしても飽き足らないほどだった。だが、何人かの目端の利く者がそれを思い留まらせ、最北の蛮族の情報を引き出すため、集落の中心にある不死者が占拠していた社に監禁していたのだった。
貨幣経済が発達していない北の大地では、物々交換が主流だったが、貴金属との交換として南大陸の貨幣が浸透し始めていた。
ターバにおいても進駐してきた連合軍が貨幣を持ち込んでおり、随伴してきた避難していたターバの民が生活必需品との交換の橋渡しをしていた。もちろん、ターバの民たちが貨幣を使う機会はそれまではなかったが、連合軍が運んできた物資と貨幣を交換するようになっていた。最初から物々交換にすれば面倒もないのだろうが、それではいつまで経っても貨幣経済が根付かない。手間は承知でそうするようにとの、ランケオラータからの命令に将兵は従っていた。
その甲斐あってか、ターバにも徐々にではあるが、貨幣経済が浸透し始めている。
アービィたち三人は、ターバの中心にある市場で買い物をしていた。
彼らがターバ解放の立役者であることは既に知れ渡っており、最初は誰もがカネもモノを受け取ろうとはしなかった。ターバの民たちはそうすることでアービィたちへの感謝の意を表していたが、三人は逆に申し訳なくなってしまい、いつもカネを押しつけるように置いていた。
ターバ解放から数日が経ち、ようやく人々に落ち着きが出始めた頃に、避難していたターバの民を通して説得してもらい、普通に買い物ができるようになってきていたのだった。
人口が激減してしまったため、保存してあった穀物などの主食は潤沢にあったが、生鮮食品はまだ不足気味だった。
結界を敷設するために来ていた地の神官たちは、早速農地改良に奔走しているが、数日で結果が出るようなことではない。連合軍は、不足しがちな副食の材料を中心に、生活必需品の輸送を続けていた。最も重量と場所を食う主食が輸送品リストから外されたため、暫くすれば様々な物資が市場に流れ込むはずだった。減ってしまった労働人口も、入植する部族が決定するまでは連合軍将兵が肩代わりするので、農地改良も滞ることはないはずだ。
今のところ市場に並ぶものは、主食の小麦粉や芋類のような穀物とパンなどの製品、長期保存が可能なチーズ、干し肉、乾燥させた根菜や芋柄がほとんどで、狩りの獲物とタマネギや成長の早い葉物といった生野菜が僅かにあるだけだった。
アービィは小麦粉とチーズ、生肉とタマネギ、香りの強い葉物や南大陸から持ち込まれた保存の利く香味野菜と香辛料を買い込んだ。
家に戻り、ルティとティアがアービィの指示通りに食材の下拵えを始める。
その間にアービィは簡単な石釜と、蒸籠を作り上げた。破壊された家屋が其処此処にあるため、材料には事欠かない。
やがて、ラガロシフォンで好評を得たピザと、グラザナイでラシアスの近衛第二師団特編中隊に振る舞った餃子を作る準備が整った。
ルティに言われ、バードンに声を掛けに行ったティアの足取りが軽やかだったことは、決して気のせいではないとアービィは思っていた。