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狼と少女の物語  作者: くらいさおら
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第80話

 アービィ組とルティ隊が順調に結界を敷いている頃、ティア隊とバードン隊はそれぞれ苦闘の最中にあった。


 アービィが進出したターバの西は、せり出した高地が食いちぎられたような断層があり、人々の通行を妨げている。アービィ組が初日に野営していた場所がそれであり、その両側には人跡未踏に近い樹海が広がっている。今の時期は樹木の葉が生い茂る前で見通しもまだ良いが、夏になればアービィが獣化していても踏破を躊躇うような地だった。


 それに対してティア隊とバードン隊が進んだターバの東側は、平坦な地形で森林も少なく、間道は細いとはいっても小隊規模であれば隊列を組んでの行進も不可能ではなかった。

 だが、その分人々の居住にも適しており、比較的豊富な水資源もあったことから、ターバの衛星集落が点在していた。それらのうちのいくつかは、ターバが吸血不死者に乗っ取られた後滅ぼされていたが、ほとんどは生き残りの代償として、最北の蛮族に忠誠を誓わされていた。不死者への転生は強制ではなく志願者だけで、生者が皆無では日中の防備と魔獣の制御、そして哨戒に支障を来たすためだった。


 アービィに前線拠点を焼き払われて以来、日中の哨戒の重要性に改めて気づかされたオセリファの進言を、グレシオフィが容れたため実現した処置だ。

 このため、日中も衛星集落の民と接触しないように気を遣い、志願してこの征途に同行した元ターバの民の先導で、かなりの遠回りを強いられていた。七十名近くの行軍はそれなりに大規模で、斥候に出ている元ターバの民と将兵の連携が絶妙でなかったら、容易く衛星集落の民に発見されてしまったことだろう。


 もう一つの苦闘は、それはバードンの自業自得に等しいものだった。

 普段から物腰柔らかく礼儀正しい神父の見本ともいうべきバードンだが、ティアに対しては正体を知っているが故にアービィに対する態度同様に横柄になってしまいがちだった。理由を知っているランケオラータやルム、プラボックたちは既に気にもしないが、普段行動を共にする機会の少ない将兵の前では、あまり出すべき態度ではなかった。ティアの正体がいきなり露見することも歓迎できないが、バードンが裏表がある人物と見られることも拙かった。


 精霊神官の中には、四百五十年前の南大陸四国家成立時に聖地ベルテロイを譲り渡した経緯から、マ教を毛嫌いしている者も少なくない。

 まさか作戦行動中に仲違いするほど子供ではないと思うが、バードンの人格が誤解されるようなことがあっては、真北まで進出しなければならないバードン隊が瓦解しかねなかった。今回派遣されてきた神官たちは、バードンがいるということを聞かされていたためか、極端なマ教嫌いは送り込まれていない。ベルテロイを押えている『勝者』の余裕からか、マ教側は精霊神殿の敵意を意識していないというより相手にしていない。特に布教活動が主任務ではないバードンは、四国家の身勝手な意向で聖地を追われたうえに、分割された精霊神殿に対して、同情とは言わないが、その立場や思考に対して理解を示している。


 無理矢理下手に出たり余計な気遣いなどしていないが、精霊神官に対しても他の人々と同様に丁寧な態度で物腰柔らかく接するバードンは、彼等からも一定以上の評価を得ていた。

 ティアに対する攻撃的な態度が、バードンに裏表のある人物という評価を与える素になってしまえば、神官たちからの評価は正反対になる危険性を含んでいた。バードンもその点は充分理解しており、ティアに対して人々と同じように接することを心がけてはいた。不死者の集落を焼き払いに行ったときの経験から、それほど敵意を抱かなくてもいい相手と認識が変わりつつあったことも、辛うじて紳士的な態度でいることを可能にさせている。


 それでも時折出てしまうぶっきらぼうな態度は、誰に対しても丁寧なバードンが気遣いしなくて済む相手がティアであり、ティアがそれを窘めたりしないことからそれを許容していると認識されている。随伴している将兵に、そういった別の意味での誤解をさせるには充分だった。


 ティアもバードンの態度かあからさまに変わっていることが却って気味悪く、時々からかうような発言でバードンの神経を軽く逆撫でしていた。

 それがさらに将兵の誤解を招き、バードンが野営時に将兵から余計な問いかけをされる原因になっている。そして、それがティアの悪ふざけを誘発し、バードンの素の魔獣に対する態度が顔を覗かせ、それがさらに将兵の想像を掻き立てていた。それでも自分の正体を暴露しようとしないバードンに、ティアは頼もしさと感謝の念を抱いていた。



「蛇、貴様どういうつもりだ?

 人を莫迦にするにも程がある。

 作戦中でなければ、切り刻んでるところだ」

 アービィ組、ルティ隊と別行動を採ってから五日目の野営時、明日は両隊が分離するという夜に、バードンはついに我慢できずティアを結界の外に連れ出している。将兵たちは、明日から別行動だしと、二人が闇に消えていくのを生温かく見送っていた。


「他意はないわよ。

 ただ面白いだけ。

 いいじゃない、別に」

 ティアはバードンの怒りや苛立ちなど、どこ吹く風といった感じだ。


「そんなに人の神経を逆撫でするのが楽しいか?

 やはり……魔獣の品性など高が知れたものだな」

 魔獣という言葉を口に出す前に、バードンは辺りを窺っている。

 それがティアには可笑しくて堪らない。


「あなたのその態度。

 みんなに隠れて逢い引きしてるみたいよ」

 笑いがこみ上げてきたティアは、からかわずにはいられなかった。


「貴様、あくまでも愚弄する気か?」

 バードンの声が地鳴りのような怒気を含んだ。

 傍目にはバードンの方が歳上に見えるため、べた惚れになっている小娘に手を焼いているようにしか受け取れない。しかし、実際にはティアは二百年近く生きており、そのほとんどを男の精を喰らうことに費やしてきている。その過程で男の思考など裏の裏まで知り尽くしており、バードンを手玉に取るくらい雑作もないことだった。


「そんなことないわよ。

 その気になればあたしの正体なんて、いくらでも暴露できるのに、それはしようともしないじゃない。

 そんなあなたを、あたしは信頼してるし、感謝してるわ」

 これはティアの正直な気持ちだった。

 手玉に取ろうとして、言葉を弄しているのでは決してなかった。


「ふん、何と言われようと、貴様を利用しているだけだからな。

 人助けになるのであれば、魔獣だろうが精霊だろうが利用してやる。

 それだけのことだ」

 それだけ言い捨てると、バードンは結界へ戻るためティアに背を向けた。

 ティアに対しての口先ではそう言ったが、実際のところバードンは精霊神官に対して悪感情は持っていない。

 そして、そのまま去っていくことはせず、途中で足を止め、振り返ることなくティアに声を掛けた。

「貴様も早く戻れ。

 合成魔獣がうろついていないとも限らん」


「解ってるわ」

 ティアはそれだけ言って、バードンの後を追い始めた。

 ちゃんと心配なんかしてくれちゃうのね、と、これは声に出さず口の中だけで呟いていた。


 結界に戻ると、中にいた将兵が口々に、どこへ行っていたとか、心配させるなとか言ってきた。もちろん、バードンをからかうためであり、二人の安全については信頼しきっているようだった。

 どの将兵もバードンがマ教の神父で、悪魔狩りを生業としている猛者であることは知っている。ティアについては、正体は判らないが、インダミトが送り込んだ王室直属の間諜や特殊任務に従事する影の軍人、それも折り紙付きの腕利きなのだろうと、漠然と考えているようだった。そうでなければ四人で不死者の集落を焼き払い、無傷で凱旋するなど説明のできないことだ。アービィとルティも同様に考えられており、間諜相手に正体を探るなど自殺行為でしかないことを知り抜いている軍人たちは、彼らの正体を詮索するようなことはしていなかった。



 就寝にはまだ早く、それぞれは結界の中でくつろいでいた。

 神官たちは地の精霊を介して周囲を探り、敵意を持った気配がないことを確認している。同時に地の精霊と感応することで、真南の結界を敷いているルティ隊の様子や、真西の結界を担当しているアービィ組の状況は把握していた。

 それぞれの隊が抱える状況の違いは理解しており、結界を敷く作業の進行状況に違いがでることは、既に織り込み済みだった。それ故か、まだ担当区域に到達すらしていないバードン隊にも、遅れが出ているなどという焦りは見られない。


「バードン殿、いいのですか?

 随分と早いお戻りではないですか」

 古来、軍隊の中で話される内容に、それほど違いはない。

 健康な男子の集合体だ。それが日常から隔絶された戦場に来ている。


 おのおの将兵は、イーバを出立して暫くは作戦の見通しや、今後の戦況の変動などを話し合っていたが、すぐに話の内容は女のことに集約されていった。当初こそティアに遠慮してかこそこそと話していたが、ティアが欠片も気にしなかったので、いつの間にかあけっぴろげな雰囲気が醸成されている。ティアにしてみれば、自らの食事の話をしているようなものだし、誰と誰がくっついていようと取るに足りないことでしかない。

 バードンのことを突っ込まれようと、敢えて思わせ振りな否定の仕方をすることで、若い将兵の反応を楽しんでいる節もあった。


「何を仰いますかな。

 ティア殿に失礼というもの」

 殿という敬称に僅かに表情を歪めながら、バードンは若い兵を窘める。

 その表情が、兵士たちの笑いを誘っていた。

 ティアに面と向かってからかいの言葉を投げる者はいなかった分、バードンがそれを一手に引き受ける羽目になっていた。もちろんバードンは、若い男だけの集団の会話が、その方向へ行くことを否定しなければ、そういった話題を拒絶もしない。

 バードン自身潔癖というわけでもないし、潔癖であろうと考えたことなど一度もない。長い修行や人狼殺しに従事する生活の結果、自身をある程度コントロールできるようになっていたし、必要なら南大陸に一度下がって女を買うことも考えていた。



 今のところ、北の大地に娼館は存在しない。必要がなかったといえばそれまでだが、小規模な集団の中では作りようがなかったということもあった。

 さらに、一集落皆殺しの後、性的に成熟している女は南大陸の娼館に売り飛ばされることがほとんどで、娼館という施設に対する否定的な感情があったことも確かだ。


 そうはいっても健康な男子が、入れ替わり立ち代りでも延べにすれば約三万人が、北の大地で生活するようになった。相手を見つけられた者は良いが、そうでなければローテーションでリジェストに戻ったときに娼館に飛び込むしか、生理的欲求の解消はできなかった。

 もちろん、南大陸連合軍に女性の将兵がいないわけではないが、多くは後方支援部隊や、幕僚として勤務することが多く、腕に覚えのある者は裏の仕事に回されることがほとんどだ。純粋な力を必要とする前線に、女性の歩兵が配属されることはまずないといって良い。


 南大陸の軍で教典されている過去の戦で、華々しい決戦の舞台は物理的な力と数が支配する暴力の空間だった。いかに技にすぐれていようと、個人技など数の暴力の前には塵ほどの抵抗も生じさせることはできない。昨日今日徴兵した素人であっても、数に任せて押し包んでしまえば、如何な技といえど発揮するまもなく槍衾に押し潰されてしまうのが道理だ。寡兵を以って大軍に勝つ戦法はあり得るが、一人が戦況をひっくり返せるなど、英雄譚の中でしかあり得ないことだった。

 それであれば、女であることすら武器として遣える諜報活動の方が、女性兵の使い所も多く、かつ生存率も高いというのが為政者たちの判断だった。


 南大陸連合軍が北の大地へ進出してから一年も経っておらず、後方支援としての娯楽施設などの建設は現在急ピッチで進められている。

 兵舎や訓練場、物資の集積場の他、将兵の慰安のために南大陸の食材や酒を取り揃えた食堂や酒場、訓練も兼ねたフィールドアスレチックのような運動施設が続々と立てられており、娼館も建設計画に入っていた。軍にとっての食は重要な問題で、量と質共に兵を満足させられなければ、反乱にさえ繋がりかねない。それだけにランケオラータやラルンクルス、司令部幕僚たちは南大陸からの補給を重視している。北の大地の食料を食い荒らさないようにという配慮も当然あるが、食べ慣れた食材があるとないでは満足度に大きな違いが出てしまう。酒にしても同様で、民の嗜好はそうそうすぐに現地に慣れ親しめるものではなかった。



 娼館の建設について、レイは反対していない。

 確かに性を売り物とすることに、女性として反発する部分は大きいのだが、ラガロシフォン領経営の経験からなくてはならないものだと直感で理解していた。適度なガス抜きができなければ、性欲を持て余した者が性犯罪へと走りかねない。ましてやここにいるのは武具を携行することが常の軍人だ。

 もちろん、娼婦は南大陸からの希望者だけにする予定だが、南大陸へ売り飛ばされてきた北の民の扱いに苦慮している。


 売り飛ばされた者の中には、この期に故郷へ帰ることを夢見る者も多かったが、南大陸でどのような生活をしていたかは周知の事実だ。後ろ指を刺されないとも限らないし、売り飛ばした者に対する怨みを晴らそうと目論んでいるかも知れない。北の大地に、南大陸から余計な揉め事の種は持ち込みたくないというランケオラータの意向もあって、当面の娼婦は四国家の住人を両親に持つ者という括りをつけるつもりでいた。


 以前、南大陸に売り飛ばされた北の民救済をアービィとランケオラータは話し合っていたが、北の大地に娼館を作るという事態になって、その難しさを改めて痛感していた。北の大地で生まれ育った北の民が、南大陸資本で北の大地に作られる娼館に勤めることの是非もそうだが、南大陸からやってくる南大陸の住人だけが娼館に勤め、昨日までの同僚が別の施設に勤められるという不公平と矛盾も出る。



 これをどう解決するかは、難しい。

 娼婦全てを救済すれば、娼館自体が存在し得なくなる。家族を食わせるために、意志と誇りを持って、文字通り身体でカネを稼いでいる娼婦の立場を貶めるだけにしかならない。そして、その裏側に潜む貧困の根本的な解決を見ない限り、最も手っ取り早く金を稼ぐ方法である娼館に女が身を沈めることはなくなることもなく、裏世界での人身売買と売春が横行するだけだ。

 どのような世界でも裏社会は存在し、一般人はそれを迷惑と感じつつも、娯楽の多くを裏社会に依存している面は否定できなかった。


 町から町を渡り歩く芸人や、それを使って興行を行う興行師といった者たちは、縄張りや利権が複雑に絡み合い、いつの間にか血の抗争を展開することも増えていた。興行にはそれを打つ場所が重要であり、舞台に乗せる芸人が重要だ。その二つを多く抱えた者が興行戦争に勝利するのは自明の理で、いかに場所と芸人を確保するかが興行師の腕の見せ所でもあった。芸人からしてみれば、良いギャラを保障してくれる興行師は、なくてはならない存在だ。

 自らが住む町に良い興行がやってくることは、娯楽の少ない時代では民衆にとっては重要なことで、良い興行を打てる人物が民衆の支持を集めることも自然だった。


 自らが剣を振るって興行のライバルを打ち倒してしまっては、民衆は支持などするはずがない。いきおい社会から落ち零れた、いてもいなくても関係ないような破落戸が雇われ、ライバルに対する嫌がらせから直接の危害を加えることを担当し始めた。

 当然、興行師が直接指示を出し、失敗した際に尻尾をつかませるようなことをするのではなく、興行師の支持者や世話になっている者がその役を担うようになる。そして、裏社会が形成され始め、人々は暗黙の了解の下、それらが提供する娯楽で日々の憂さを晴らしているのだった。



 北の大地に進出する娯楽産業にも、当然裏社会の資本が入り込んでくる。

 そして、少なくないカネが裏社会へと流れることも、否定できない事実だ。それが非合法な娼館、賭博場の経営や、世界に蔓延し始めた麻薬産業の資金となることも、また事実だった。

 ランケオラータやルムが日々面会する民間人の中に、裏社会の者がいることは少ない。公式の場に彼らは姿を出すことは、ほとんどないからだ。しかし、裏社会の意を受けて、北の大地での活動資金を見返りに、商売の利権を優先的に得ようとする者は後を絶たない。


 ランケオラータは、献金は丁寧に辞退し、あくまで公平な判断の元に商人や興行師との付き合いを決めていた。当然その中には、裏社会の意を受けた者も入り混じっている。ランケオラータは過去に政務の経験を積んでおり、清濁併せ呑む必要は理解していたし、インダミトの政治中枢が潔癖だったなどとは欠片も思っていない。それ故にランケオラータは、彼らの全てを廃除しようとは考えていなかった。目に余るような悪辣なことをするようなら容赦はしないと考えていたが、毒も少量であれば薬にもなるのだった。

 だが、特定の者を重用することだけは、今のところ避けようとしていた。


 いずれにせよ、現在目の前に転がっている将兵の性欲をどうするかという問題は、そう簡単に解決できる問題ではないことだけは確かだ。性欲だけについて考えれば娼館を作れば済むのだが、そこに働く者の感情にどう折り合いを付けるか、名案が早々出るはずもない。

 公娼制度を実験的に導入するか、ランケオラータは迷っていた。



 結界内の喧騒は収まることなく、両隊が共同で過ごす最後の夜は楽しげに更けていく。

 バードンは若い将兵の人生相談に乗り、ティアは同じように女心についての相談に乗っていた。

 最北の蛮族と戦うと聞かされ、南大陸の危機を救うと意気込んで北の大地に乗り込んできた若者の中には、いざ最前線に出てみると怖気付く者や、戦の名の下に人を殺すことが正当化されていることに疑問を持つ者も出ていた。そのような者にとって、聖職者であるバードンは、人生の疑問について相談を持ちかけるにはうってつけの相手だった。


 将兵の中には北の民の女と良い仲になりかけている者もいた。

 彼らは民の性質の違いに戸惑いつつも、女心を掴むための涙ぐましい努力を重ねている。そのような者にとって、バードンに手を焼かせているような女に見えるティアは、女心の深淵を探るための相談を持ちかけるにはうってつけの相手だった。


 バードンは、それが仕事の一部でもあり、別段対処に困ることはなかったが、ティアはそうもいかなかった。

 男など食の対象でしかなく、男心を掴むためには『誘惑』を使うだけでよかった。女心などというものには全く無関心で、男から言い寄ってくる理由は作り上げた容姿と適度に磨いた話術だと思っていて、自らに女心というものがあるなどとはまるで気付いていなかった。

 毎日横で見ているアービィとルティは互いに抱く感情を隠すこともなかったため、恋の駆け引きを間近で目にする機会にも恵まれていない。過去においても、そういったことにはほとんど無関心で、唯一の例外が百年ほど前の出来事だけだった。

 こうしてみると、ティアは自分が恋愛については初心なのではないかと思い始めていた。


 夜も更け、結界内の喧騒はさらに大きくなっていく。

 中には戦闘行為が生起しないことを願う者や、剣を振るいたくて仕方のない者が混在し、時には仲違いも見られたが、概ね平穏な隊内の雰囲気だった。



「では、皆様。

 健闘をお祈りいたします」

 バードンが真東に残るティア隊に声を掛ける。


「バードン殿こそ、ご武運を。

 ここからも、まだまだ衛星集落の側を避けなければなりません。

 彼らとて、好きで最北の蛮族に従っているわけではありません故」

 ティア隊の小隊長が答えた。

 ティア隊はここで結界の敷設作業に入るが、バードン隊はまだまだ敵中を進まなければならない。だが、最北の蛮族や、望んで不死者へと転生したターバ民はともかく、生者として残された衛星集落の民に対しての殺戮は望むところではなかった。


「ありがとうございます、小隊長殿。

 お言葉は賜りました。

 言うまでもなく、生者との戦闘は望むものではございません。

 結界が完成した暁には不死者どもも一掃され、彼らも解放されることでしょう。

 もしも、彼らが我々に剣を向けようと、神の慈愛の御心さえあれば恐れるものではございません」

 涼やかな目でバードンは真北を見た。


「気を付けてね。

 まだ、いろいろと言いたいことは一杯あるから」

 ティアがバードンに声を掛けた。


「ああ。

 貴様もな……切り刻むのは俺だ……

 ……ティア殿も充分にお気を付けください。

 では、後日イーバでお目に掛かりましょう」

 前半はティアにしか聞こえないように、後半は全員に聞こえるように言ってからバードン隊は分離して行った。


「全く、あの人は素直じゃないんだから。

 ま、だからこそだけどね」

 そう言ってティアは、周囲の気配を探り始めた。



 まずは、大雑把に結界を敷き、精霊が指定してくれた地点を大きく囲む。ターバの中心から真東の地点に結界の基準点となる記号を置き、小さな円で囲み、その円周上に結界と同じ配置で記号を置いていく。それを何度か繰り返せば、真東の基準点が完成する。その後は同じ要領で、ターバの中心から見て15°の間隔に、円周上に記号を配置していけば良い。


 真東の基準点が完成した後、神官が15°刻みに残る結界を五ヶ所設置したところで、陽が暮れ始めている。

 担当区域内で最も南にある結界を窺う、不審な気配をティアは感じていた。陽が高い頃から結界を仮設置している小隊をつけ回す、小規模な集団だった。当然地の精霊を解して、神官もその気配に気付いている。日中から不死者が襲ってくることはないし、魔獣であれば躊躇わず突っ込んで来るであろうことから、衛星集落の生き残りが斥候に出されたものと判断した。

 二人は小隊長にそれを伝え、警戒を厳重にすることと、こちらから戦闘を仕掛けないで欲しいことを付け加えた。


 戦闘をこちらから仕掛けない理由は、もともと生者は最北の蛮族に反旗を翻していた立場であり、ターバに巣食う不死者の群れを灰化すれば共闘できる立場だからだ。万が一突っ掛けて来たとしても、極力無傷で捕らえ、敵の兵力の数を減らすことになるので、それで充分だ。



 衛星集落の生き残りにしてみれば、自らの命だけではなく家族の命を盾にされては、最北の蛮族に従わざるを得ない。ましてや、いくつかの集落が皆殺しになっているのを間近で見てしまっては、怯えるなというほうが無理な相談だった。戦士としての経験を積んだ男たちだけであれば、敵わぬまでも一戦を挑み、華々しく散るということも選択肢の一つだったかもしれないが、子供たちにそれを求めることはあまりにも酷過ぎた。

 集落に巣食った吸血不死者が眠る社を日中に襲撃したとしても、それが他の集落に救う不死者たちに知られたら、即報復で皆殺しだ。彼らにはどうすることもできず、集落周辺の哨戒を黙々とこなす毎日だった。


 そこへ平野から山脈を越えて、最北の蛮族に歯向かう者どもが進入したという。

 当然日中の警備と、機会を見て撃退することを命じられた衛星集落の生者たちは、ティア小隊とバードン小隊を遠巻きに見守っていたのだった。そして、この日の朝、バードン小隊が分離し、七十名近い兵力が分割され、それぞれは三十余名の兵力になっている。

 もう暫く待ち、半日の行程の距離が開けば相互支援は不可能になり、寡兵を以ってしても各個撃破が可能になると生者たちは判断していた。


 日没を待ち、不死者たちの活動が可能になる時間帯を待って、衛星集落の民は行動を開始した。

 数人が集落へ戻り、眠っていた吸血不死者に状況を報告する。その間、現場に残った者たちは、結界の敷設作業の妨害を始めていた。最初に作り始めたときに妨害行動を起こしてしまっては、一気に殲滅される危険性もあった。そのため、六ヶ所の仮結界が完成し、警備のため兵が少数に分散された結界を一つずつ襲撃する案が採られていた。



 六ヶ所の結界は、基準の真東の結界に小隊長が直率する一個分隊、他の四ヶ所を小隊から抽出された一班五名ずつが警備に当たり、最も襲撃の可能性が予想された南の仮結界はティアと神官で警備に当たっている。

 ティアと神官が残った結界は、衛星集落の一つからは半日も掛からない距離で、ここが最も危険と判断されていた。

 不死者は結界に触れることすらできないが、生者であれば結界の破壊は容易だ。結界内にいる限り不死者を恐れる必要はないが、今の場合は生者の方が厄介な存在だ。

 ティアは、既にラミアのティアラを髪に飾っている。もちろん、不死者に効果があるとは思わないが、生者に対してであれば『誘惑』でこちらの支配下に置くことができる。そうなれば結界内に生者を取り込み、ここを襲撃してきた不死者を殲滅することで集落を解放することも不可能ではない。


 小隊長はそのような個所に二人だけ残すことはできないと主張したが、強引にティアが説き伏せている。

 小隊長の主張はもっともだが、一般人のいる前でラミアの妖術を行使するわけにはいかなかった。神官は、アービィの正体を風の神官から既に知らされており、それであればティアも自らの正体を明かしたところで問題はないと判断してのことだった。


「そろそろ来ますかねぇ」

 のんびりとした口調でティアが言う。


「ええ、精霊からは、危険な気配が充満していると知らされております。

 しかし、楽しみですな。

 私は初めてです。

 ラミアの妖術を目の当たりにするのは」

 心底楽しそうな表情で神官が応じる。

 神秘的な事象に対する好奇心を、神官は抑え切れないようだった。


「そんな、たいしたことじゃないですよ。

 じゃあ、始めましょうか」

 ティアは、そう言って焚き火を消して獣化した。

 微かな星明りの中に艶かしくも優美な曲線を描く裸体の上半身と、紙一重で禍々しさに傾く危険な美しさを秘めた蛇の下半身を合わせ持つ、ラミア本来の姿が現出した。尻尾の一部に火傷の跡があることはご愛嬌だが、神官にとってそれはどうでも良いことだった。


「あなたなら、北の民の神になれますな。

 男の精を喰らうことを放棄したラミアであれば、もうそれは神でしかない」

 神官が感嘆の言葉を漏らした。


「そんなに褒めたって、何も出ませんからね」

 ティアは音もなく結界を滑り出す。

 結界の周囲を衛星集落の生き残りが取り囲んだとき、ティアは『誘惑』の詠唱を完了していた。

 合わせて『透過』で姿を消し、風の白呪文『加速』も重ねて掛ける。


 手に武器を携えて結界内を窺っていた集落の男たちは、突然灯りが消されたことに奇襲の失敗を悟っていた。

 僅かな星明りの中、女の銀髪だけが揺れたと思ったら、それはすぐに掻き消える。

 何かが頬を撫で、脳裏に逆らい難い強制力を持った何かが侵入して来るのを、集落の男たちが気付いたときには全てが終わっていた。


 ティアの『誘惑』に捕らえられた男たちは、手にしていた武器を取り落とすと、まるで酒に酔ったかのような足取りで、結界の中に入り込んできた。

 神官は、彼らに害意がないことを感じ取り、そのまま縛り上げて結界内に放置した。そして、メイスを手にして結界を出る。


「さて、今度は私の番だ。

 悪霊に捕らえられた哀れな者どもよ、掛かってくるが良い。

 見事、解放してくれようぞ」

 一振りされたメイスが伸び、三節棍へと形態を変化させた。


 振り向きざまに一閃された棍が不死者の側頭部を捉え、鈍い音とともに粉砕する。

 音もなく灰化した不死者には目もくれず、神官は次の獲物に棍を振り下ろした。的確に不死者の四肢を叩き落し、首を跳ばす。突き、引き、払い、戻しが流れるように繰り返され、一指しの舞のようにも見える。

 ティアも負けじと不死者を切り伏せる。

 姿は見えなくとも殺気までは殺していないので、ティアの存在は感知されている。だが、『加速』で移動速度を上げているティアを、不死者も、能力に勝る吸血不死者も捉えきれない。


 程なくして、仮結界を襲撃した一団は、夜の闇の中に潰え去った。

 獣化を解いたティアが結界内に戻り、不死者たちの灰に聖水を掛けて完全に滅し去っていた神官が少し遅れて戻ってくる。

 仮結界内に残された男たちは、未だに何が起きたのか理解していない。ティアの妖術が途切れるか、ティア自身が打ち切るまでは、夢うつつのままだ。ティアが『誘惑』の効果を打ち消すと、漸く男たちは正気を取り戻した。

 何が起きたのか、まるで理解できていない男たちは、自分たちが縛り上げられていることに気付き動揺を隠せない。ティアは『誘惑』が効いていた間の記憶も、効果と同時に消し去っていたからだが、神官が適当な嘘をでっち上げていた。即ち、男たちは悪霊に利用され、不死者に従っていたに過ぎない。そして人に害を成そうとしたときに、良心の呵責と悪霊の支配がせめぎ合い、気を失ってしまったのだ。そのときに悪霊の支配力が一時的に強まり自傷する危険性があったため、心ならずも縛り上げてそれを防いだ。真に以って申し訳ない、非礼の段幾重にもお詫びする。ティアが聞いていて呆れるほど、神官の嘘は澱みなく口から流れ出し、そして見事だった。


「何てことをしてくれたんだ。

 これで、集落に残った俺たちの家族は皆殺しだ。

 貴様らが大人しく殺されていれば、俺たちの家族は助かったんだ」

 血を吐くような慟哭が、夜の森に響いた。


「ご安心召されよ、皆々様。

 これより、我ら二人がご家族を解放してまいりましょう。

 それまでは、この結界内でお待ちいただきます。

 何、我が精霊のご加護があれば、悪霊に魂を売り渡した不死者など、物の数ではございません。

 不死者を滅し去れば、後は集落をこれと同様の結界で囲みましょう。

 さすれば、二度と、不死者どもは集落に一歩たりとも入り込むことは適いませぬぞ」

 神官が諭す間、ティアが『透過』を唱え、再度『誘惑』を掛けて回る。


「ちょっと教えて欲しいの。

 集落に不死者は後何体残ってる?

 生者で最北の蛮族に通じている者はどれくらい?

 あと、小麦粉の袋はどこに貯蔵しているの?」

 ティアの問いに、男たちは抵抗などできるはずもなく素直に答えた。


 誰一人として最北の蛮族に心酔しているものはいない。ターバや滅ぼされた集落の悲劇を恐れているだけだった。集落内に残る不死者は、指導的立場にある高位の吸血不死者二体と、その護衛の低位の不死者十体ほど。小麦粉は、不死者が眠る社に隣接した倉庫に、まだ二十袋は残っていたはずだ。

 必要な情報を引き出した後、ティアは男たちに『催眠』も重ね掛けして、淫靡な夢の世界へと誘った。


「これで明日の昼くらいまで、目を覚ますことはありませんわ。

 じゃあ、陽が昇ったら、ちゃっちゃと片付けちゃいましょうか」

 そう言ってティアは荷物から酒瓶とコッヘルを二つ取り出した。


「何とも見事なものですな。

 話に聞く自白剤など必要もない。

 そのうえ、自白させられたことすら記憶に残らないし、後遺症も全く心配ない。

 あなたと、狼の彼だけは敵に回したくないものです」

 つまり、一番敵に回したくないのはルティ殿ですと笑い、神官は受け取ったコッヘルに満たされた酒を一気に煽った。



 陽が昇るまでに再度の襲撃はあったが、地の精霊が逸早く知らせてくれたことや、ティア自身が気配を感知したことで、待ち伏せに等しい状態で迎撃することができた。

 襲撃者たちは、不死者は一体も随伴しておらず、集落の男たちだけだった。

 待ち伏せであれば獣化する必要もなかったのだが、久し振りの獣化はティアに高揚感をもたらしていた。再度獣化し、『透過』と『誘惑』、『催眠』の詠唱を済ませたティアは、男たちの襲来を闇の中で迎え撃ち、一人の怪我人も出さずに結界内に連れ込んでいた。


 夜明け前、目を覚まさない男たちをそのままにして、ティアと神官は集落へと急いだ。

 男たちが戻らないことを集落に残された家族たちが不審に思い、捜索に出る前に片を付けなければならない。


 黎明になり、不死者たちは社に戻る。その期を衝いてティアと神官は集落に入り込み、倉庫から小麦粉の袋を運び出した。そのまま社の扉を大きく開け放ち、内に小麦粉を撒き散らす。光を恐れた不死者の群れが物陰に隠れた瞬間、燃え上がる松明を社に投げ込み、扉を乱暴に閉めた。

 扉が閉じられる勢いに小麦粉が舞い上がり、社の中に充満する。松明の炎が小麦粉に燃え移り、連鎖的な燃焼が開始された。燃焼が次の燃焼を呼び起こし、一瞬で社の中は炎で満たされ、大爆発に発展する。扉を閉められたことで爆発エネルギーは水平方向の逃げ場を失い、そのほとんどを垂直方向、天井に向けて力を解放した。


 粉塵爆発は、轟音とともに屋根と窓を吹き飛ばし、不死者たちの身体を爆散させた。爆風に舞い上げられた不死者の身体は、朝日を浴びて瞬時に灰化し、そのまま爆風と共に飛散していく。低位の不死者も、高位の吸血不死者も、ひとしなみに爆風に切り刻まれ、朝日に灰化され、入り混じったまま吹き飛ばされてしまっては、いくら月光を浴びようとも再生など適わない。



 何事かと集落の人々が集まり、ティアと神官を取り囲んだ。

 少なくとも、この集落を脅かしていた不死者たちが、滅んだことは理解できた。だが、そうであっても、それは次なる災厄を呼び込むだけでしかない。叛意ありと判断されたなら、申し開きなどする間も与えられず、皆殺しにされるだけだ。ひと思いに殺されるならまだ良い。生きながらにして、不死者たちの餌にされるなど、想像を絶する苦痛が待っている。


 これから我が身を襲うであろう災厄を想い、呆然と立ち尽くす人々にティアの叱責のような声が飛ぶ。

「あなたたち、何呆けてるのっ!

 不死者はもういないわ。

 今すぐ逃げる用意をしなさい。

 ターバはあたしたちが解放する。

 あなたたちは、早く山脈のイーバに行きなさい。

 途中にここの男たちが待っているわ。

 さあ、早くっ!」

 何気なく破壊された社の中を覗いたティアは、そこに大蛇の神像と覚しき崩れた石像を見つけていた。ならば、ラミアの姿は役に立つ。

 昨晩の男たちの反応から慰撫は通じないと見て取ったティアは、人々が呆然としているうちにこちらの掌に乗せてしまった方が得策だと瞬時に判断していた。次の瞬間、ティアは獣化し、人々の前に立ち、叱り飛ばすように叫んでいた。



 ティアの声に我に返った人々は、その姿を見た途端、慌てて平伏する。

 思惑通りに事が運べたと見て取ったティアは、人々に家に戻り持ち出す荷物を纏めるように言った。

 大した荷物があるわけでもなく、程なくして当座の食糧を抱えた人々が、集落の外れに集まってきた。ティアは結界の位置を教え、まだ男たちは眠っているはずだから、叩き起こして状況を説明するように言う。

 人々は状況を理解できてはいなかったが、ティアの言葉は神の言葉だ。無条件で信じるしかなかった。


 その間に神官は集落を結界で囲み、二度と不死者たちがこの集落を利用できないようにしている。

 中央を席巻している最北の蛮族が不死者だけならば、これで人々が避難する必要はなくなるはずだった。だが、魔獣は結界を踏み越えることができるし、他の集落には生者も残されている。どちらも結界を破壊する能力は持っていた。魔獣は自らの思考と意志で、結界を破壊する意義を見出すことはできなくとも、使役者が指示すればその対象を破壊する。


 不死者にとって結界は見えもしないため、そこに何もないと同義であり、そこにあることにすら気付かない。つまり、魔獣にとって結界は、自らの価値観によって破壊するということはあり得ず、不死者には結界の存在そのものが認識できないため、破壊を指示することはできない。

 だが、生者には結界は見える。他の集落の生者は、昨夜襲撃してきた男たち同様、家族を盾に結界の破壊を命じられてしまえば、逆らうことなどできはしない。そして、この集落が消えてしまえば、捜索を命じられることは明白だ。

 この集落の人々は、災厄から逃れるためにはティアが神であるかどうか以前に、その言葉に従うしか選択肢は残されていなかった。


 自分の姿は他言無用と固く誓わせた人々の背を見送り、ティアは周囲の気配を探り始める。

 幸いなことに、魔獣は集落内に配置されていなかった。この集落にはもともといなかったのか、外をうろついているのかは判らないが、気を抜くわけにはいかなかった。神官が結界を完成させたら、すぐ人々の護衛に就かなければならない。ティアは周囲に気を配りながら、集落の中を巡回し始めた。

 やがて、結界を張り終えた神官が合流し、二人は急いで人々の後を追い始めた。



 その頃、イーバでは食糧を満載した荷車隊が、ターバ南の結界目指して進軍を始めるため整列していた。

 荷車一台は、五人で曳く構造で、約500kgの物資を積み込むことができる。だが、仮に往復で十日の行程とすると、そのうち約 125~175kgは四人分の食糧だ。一般的に一人の兵は、一日に2~2.5kgの食糧と0.5~1リットルの水、計2.5~3.5kg の生命維持に係る物資を必要とする。四人で12.5~17.5kg、十日で125~175kgの計算だ。それを差し引いた 325~375kgが前線に届けられる分になり、三十人編成の一個小隊であれば、荷車一台で三日半から四日分の食料と水になる。

 数値だけ見ると、現代日本で普及しているリヤカーが積み込めるだけ積んで、約400kgを一人で運べることに対して人数が掛かり過ぎるように思える。だが、ゴムタイヤや、軽量の金属フレームがない時代では、荷車の強度や重量、木製車輪の抵抗の大きさを考えるとこれが限界だった。


 山岳地帯から平野部、そして山脈地帯までのように、食糧が生産と集積が可能な地域であれば、食糧を現地調達することも可能だった。しかし、山脈以北は最北の蛮族に席巻され、生者の人口は極端に減っている。自家消費する分の食糧を生産調達するのが精一杯で、とても遠征軍が現地調達する余裕はなかった。


 アービィたちも当座の食糧は持参しているが、一人当たり十日分25kgも担いでしまうと、かなり行動が阻害される。重量もさることながら、その容積も馬鹿にならないからだ。各自が携行する食糧は、五日分12.5kgが限度だった。

 そのため、アービィ組を除く三個小隊は食糧を満載した荷車を、小隊毎に三台用意していた。一個分隊に一台の計算だ。

 これで各隊は食い伸ばせば各自の携行食が12.5kgで五日、十人当り荷車一台に500kgで二十日、計二十五日分の食糧を持っていることになる。



 各隊が分離した、ターバから一日の地点まで五日。そこから真北の地点までは韜晦路を辿るため六日から八日。結界の敷設作業に六日から八日。ルティ隊とアービィ組はともかく、ティア隊はギリギリ、バードン隊は途中で食糧が不足する。これを補うため、ランケオラータは五日遅れで補給隊を出す予定だったが、荷車の集積が単純な連絡ミスから遅れを生じていた。

 その結果荷車隊の出動は、各隊がイーバを出てから八日目になってしまっていた。


 荷車隊は、人数割りは通常の小隊と同じ編制で、三個分隊がそれぞれ二班を擁し、一班が一台の荷車を曳く六台編成が三個小隊。それに護衛の一個小隊が随伴する一個中隊規模だ。輸送できる物資の総量は9,000kg。もちろんそこからは輸送に携る者たちの分を引く必要があり、仮に往復で十日として中隊各将兵が携行する食糧五日分を除くと、その分が2,100~3,000kg。残量は6,000~6,900kg。一個小隊のおよそ六十五日から九十二日分、現地に展開している三個小隊であれば、単純計算でおよそ二十一日から三十日分だ。


 まずは、一日一個中隊が、ターバの南に位置するルティ隊が築いた物資の集積基地を目指す。そのうち一個中隊は集積基地に留まり、ティア隊とバードン隊への補給を続ける。これにより不足するイーバと集積基地間の荷車中隊は補充する予定だった。もちろんバードン隊のように輸送距離が伸びれば、その日数は極端に減っていく。

 ターバ以北は、前線を進めれば進めるほど補給に無駄が増えて行く。ある一点を越えれば、補給部隊の食料すら足りなくなってしまうのだ。ここが、現時点での南大陸連合軍の、攻勢臨界点といえた。


 実際に食料の現地調達が可能な地域までしか進軍していなかったランケオラータやラルンクルスは、現場指揮官からの報告書を見て顔を蒼ざめさせていた。充分な補給部隊をつければ、前線はどこまでも伸びていくものだと、何の疑問もなく考えていたのだった。実際の戦を経験していない、南大陸の住人の限界でもあった。

 それ故に、ターバを奪回することの重要性が、俄かにクローズアップされている。


 ターバを奪回すれば、周囲の土地で食料を作ることができるようになる。

 今のままでは、補給だけに兵力を割かれ、拠点としての活用も、防衛も適わないことだ。何を置いてもターバ周辺の土地を甦らせなければならない。もちろん、今では吸血不死者となってしまったターバの住人たちも、かつてはその土地で鍬を振るい、汗を流して作物を収穫していた。昨年来放置されてしまっているが、泥濘の時期を過ぎてすぐに土地改良を始めれば、夏にはそこそこの収穫量が期待できると見られている。

 平野では農地改良が進み、春以降の収穫は今までの倍では済まない量が予想されている。いきなり魔法のように収穫量が上がるなど信じ難いことだが、それまでがあまりにも悲惨だったことの裏返しでもあった。それと同じことが中央部にも当てはまると、ランケオータやレイは考えている。

 最北の地まで軍を進め、蛮族を討ち果たすにしても、和睦を持ち掛けるにしても、ターバの拠点化は絶対に必要だった。



 ルティ隊は、山脈に最も近い区域を担当したため、移動のための時間をそれほど必要とせずに済み、六日間で結界の敷設も早く完了していた。

 だが、ターバの衛星集落に生者が残っている以上は、結界を放置して撤収というわけにはいかない。ターバを囲む結界が完成するまでは、担当区域内の六結界に一班ずつを張り付けておく必要があった。当然、その間の食糧は補給しなくてはならない。自力で食料を調達できるアービィ組と違い、ティア隊もバードン隊も食料の補給は必要だった。そのための集積基地が、この結界を利用して建設されている。結界自体だけでなく、集積基地のための守備隊も必要だった。


 バードン隊が真北に達し、担当区域に結界を敷いた瞬間にターバを囲む大結界が完成する。

 それは地の精霊が知らせてくれるため、伝令やバードン隊の帰還を待つ必要はない。結界完成の時点で、アービィ組とルティ隊はイーバへ撤収して構わなかった。アービィ組の担当区域は、生者では進入不可能な場所ばかりで、魔獣と不死者しか結界周辺をうろつく者はいない。ルティ隊と別行動になって三日後に、アービィ組は西の基準点に辿り着き、それから六日間で担当区域の結界を完成させ、さらに三日経った昨日に南の基準点に戻ってきていた。


 だが、アービィは南の基準点から動いていない。

 以前焼き払った不死者の集落に、魔法陣が再建されていると、到着した補給部隊からルティに報告があったからだった。

 魔獣の気配は感じられなかったため、周囲を偵察だけしてきた補給部隊からは、不死者の気配も感じられないという報告も上がっている。それでも魔法陣が完成しているのであれば、それを通して魔獣を送り込んでくることも可能だった。アービィが西区域で戦ったコッカトリスやバジリスクが、どういった経路でターバまで来たのか分からない以上、魔法陣から送り込まれた可能性は捨てるべきではない。万が一、敵が大兵力を送り込んできたとき、ターバの南に築いた結界は危機に晒される。至近距離で前後に敵を抱えることになるからだ。アービィは、ターバ側はティア隊とバードン隊に任せ、自分は南から来るかもしれない新たな敵に備えるつもりでいる。

 魔法陣は、今後の補給作戦に、重大な影を落としていた。


 アービィは、ターバを取り囲む結界が完成したら、ティア隊とバードン隊に先行して帰還する途上で、魔法陣は破壊していくつもりだった。

 神官が同行しているので、集落を結界で囲み、二度と魔法陣を築かせないようにしておくことが可能なのであれば、放置しておく理由はない。相手が不死者だけであれば、魔法陣を破壊する必要もなかった。魔法陣ごと結界で囲んでしまえば、そこに送り込まれて不死者は実体化した瞬間に灰化してしまうだけだ。だが、魔獣を狂乱状態で転送したり、生者を送り込まれたら、結界を破壊することは容易だった。

 補給線上からそう遠くない地点に、三つも敵の矢が突き刺さっている状態は、決して放置していて良いものではなかった。



 二人の神官は交代で瞑想に入り、ティア隊とバードン隊からの結界完成の報告を聞き逃すまいと、全神経を精霊との感応に集中させている。

 ルティは、時折何かが頭の中に話しかけてくるような、不思議な感覚に襲われていた。

 それは、決して不快ではなく、かといって全面的に心地よいものでもなかったが、どこか安心させてくれるような感覚だ。誰とはなしに、ティア隊が結界を敷いたと知らされた気がした。いや、解った。

 たった今、ティア隊が、東の担当地区に結界を敷き終えたと、全身で解っていた。

 数日前にターバの衛星集落から避難してきた人々を見て、ティア隊の成功を予感していたが、それが今確信に変わっていた。


 やや遅れて、神官たちからティア隊の任務完了が告げられた。

 ルティは、最初は半信半疑だったが、神官たちから告げられて自分の感覚は正しかったと知った。そういえば、アービィ組が結界を敷き終えた日にも、なんとなくそんな感覚があったことを、ルティは思い出す。そのときは、アービィの念話が届いたのだと思っていた。ルティも返事を思念で送ってみたが、距離がありすぎるのかアービィからの返答はなかった。

 アービィが南の基準点に戻って来たときに、ルティはそのことを聞いてみた。

 しかし、アービィは距離が距離だけに念話が届くとは思わず、何もしていなかったとのことだった。



 フォーミットを出てから二年が過ぎたが、十二日という長い期間二人が離れたことはなかった。

 基準点でアービィの顔を見たときには、ルティは泣きそうになっていた。もっとも本当に泣いていたら、随伴している小隊の将兵がどんな荒れ狂いようをするかは容易に想像できたため、周囲に気付かれる前に涙を拭っただけだったが。

 そして、アービィが念話を送っていなかったという事実がルティに知れた後、朝まで正座させられているアービィの姿を見た将兵の数は、三十に近い数だった。


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