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狼と少女の物語  作者: くらいさおら
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第79話

 陽射しが暖かい日が増え、根雪が融け始めていた。

 暫くすれば、雪解け水が北の大地を泥濘の中に沈めてしまう。河川の氾濫は毎年の恒例行事で、山林から僅かだが肥沃な土を平野にもたらしてくれる自然の恵みだった。この世界でも、春は南からやってくる。山脈を季節が越えるのには少々時間のずれがあり、平野が泥濘に沈む頃、中央では雪解けが本格化する。


 アービィがプラボックに依頼した地図は、四日後になって漸く仕上げられていた。正確な地図などまだ望めないこの世界で、プラボックは四苦八苦しながら薄い板に炭で線を引いていた。

 当然知らない土地もあることから、一人で全てを描き切れるはずもない。そこで、中央の民から戦の指揮を執った経験を有する者や狩りを生業としていた者を呼び出して、それぞれの記憶の擦り合わせをしながら地形を描いていた。この間、睡眠時間を極限まで削られ、神経をささくれ立たされていたプラボックは不機嫌の極にあり、地図の作製にあたったメンバーはそのとばっちりをまともに受けるという不運に見舞われていた。


 ルティが差し入れに行ったり、ティアとレイも参加して製図に勤しんだ結果、アービィが地図を要求してから四日目にして初めて、戦略を立てるに能う地形図が完成していた。

 アービィは自分に絵心がないことを自覚していたので、地図の決まり事を二、三注文を付けただけで、後は手を出さなかった。ルティも馬と牛の区別が角の有無でしか付けられない程度の画力だったので、ティアから手出し無用と切り捨てられていた。

 そして、戦略会議を前にして、今日一日の完全休養が実現していた。



「アービィ、獣化して」

 突然ルティが言った。


「いいけどさ。

 そこら辺に誰もいないよね?」

 人から恐れられている自覚はあるので、人前で獣化するようなことはないが、獣化すること自体にアービィは躊躇わなくなっている。


「いないわよ。

 ほら、早く獣化してよ。

 そしたら、仰向けに転がって」

 ルティが急かすが、アービィはそこはかとなくイヤな予感が漂ってきていた。


 今、家には二人しかいない。

 ティアは地図の完成祝いと称した酒盛りに呼ばれ、昼過ぎからプラボックの家に行っていた。

 アービィはいそいそと服を脱いで獣化し、床に仰向けになり、所謂犬の降参のポーズを取る。



 ルティが降ってきた。


「あ~、やっぱりこれ気持ちいいわぁ」

 腹の毛皮に顔を埋めたルティが、頬でその肌触りを楽しんでいる。


「あれ、アービィ、どうしたの?」

 アービィから反応が全くないことを訝しんだルティが顔を上げる。

 アービィは泡を吹いて失神していた。


 どうやら、アービィの後肢側からルティが身体の正中線上に飛び込んだ際に、足の甲がアービィの股間を直撃していたらしい。もちろん、狙ってなどいないのだが、ベッドの上から飛び込んだルティが、少々目測を誤っていたようだった。



「ルティ、アービィ、プラボックさんがおいでって」

 太陽はまだ頭上にあるというのに、早くもほろ酔い気分のティアが二人を呼びに来た。


 部屋の中からルティがアービィを呼ぶ叫び声が聞こえてくる。

 何か、途轍もなく嫌な予感がしたティアが慌てて部屋に入ると、床に長々と伸びた巨狼に泣きながら必死に声を掛け続けるルティがいた。巨狼はまったくルティの呼びかけに反応することなく、小刻みに痙攣を繰り返している。


「ちょっと、どうしたの!?

 アービィ泡吹いて?

 何があったの!?」

 完全に取り乱したルティの肩を掴んでティアが詰問する。


 僅かに落ち着きを取り戻したルティが、しゃくり上げながらここまでの状況をティアに説明する。

 頭が痛くなってきたティアが、ルティをそのままにしてアービィに『快癒』をかけると、巨狼の全身を柔らかな白い光が包み込んだ。そして、意識を取り戻した巨狼がゆっくりとその身を起こす。

 ルティが全身で喜びを表し、巨狼に飛びつこうとしたが、ティアがその首根っこを掴んで引き寄せた。


「ちょっと、そこに座りなさい、ルティ」

 ティアに命じられたルティが正座すると、つられてその横に巨狼がお座りした。


「さぁ、どうしてそんなことしたか話して頂戴、ルティ。

 アービィも、なんでそんなことさせてるの?」

 胸の前で腕を組み、ティアが問い詰める。


 ――いや、獣化して仰向けに転がったらさぁ、いきなり目の前が真っ赤に染まって、そのまま真っ暗になってね、気がついたらルティが泣いてて、ティアが怒ってる。

 アービィが見たままを念話で伝えた。


「あのね、アービィのお腹の毛皮に飛び込んだら気持ちいいだろうなぁって」

 おずおずとルティが答える。

 そして、陽が傾くまでティアのお説教は続いた。アービィは完全に巻き添えだ。



「遅かったな、何かあったのか?」

 すっかり出来上がったルムがアービィに聞いた。


「ええ、特にお話しするようなことじゃないんですけどね」

 気のせいか内股になったアービィが答える。

 既に痛みなどないはずなのだが、思い出すたびに喉元に痛みがせり上がってくるような気がしてしまっていた。だが、それを言うのも情けない気がしたので、アービィは言葉を濁したままグラスを受け取る。


「アービィ、見てくれ。

 俺だけじゃないぞ。

 皆頑張った。

 これが必要だったんだろう?」

 胴間声が響き、プラボックがアービィの肩を叩く。


 背後には、大きな板に描かれた北の大地の地図が置いてあり、重要拠点となりそうな集落やそれらを繋ぐ街道、周辺の地形が細かく描き込まれていた。しかも、地図は炭ではなく塗料で描かれているため、必要に応じてさまざまな書き込みもできるようになっている。測量技術が発達していないこの世界で、地図の正確性など望むべくもないが、それでも戦略を立てるに当って大きく役立ちそうだった。


「素晴らしい出来栄えです、プラボックさん。

 皆さんも。

 これなら充分役立ちますよ」

 アービィは上機嫌でグラスを干す。

 だが、注意すべき点があります、と前置きしてからアービィはインパール作戦やポートモレスビー作戦の悲劇を話し始めた。


 太平洋戦争後期に実施された、補給や現地の自然環境を全く考慮せずに地図上だけで立てられた作戦だった。あまりにも杜撰で上官の権威のみに頼った作戦指導のせいで自滅に等しい歴史的大敗を喫し、日本陸軍が瓦解していく発端となった、無謀な作戦の代名詞だ。

 アービィは地図の上だけで考えられた作戦が、現地の自然に大きく裏切られる危険性を説明し、作戦会議には現地を熟知したものの同席が必要だと説いていた。


 やがて、酒が回り始め、喋る内容が徐々に他愛もないものに摩り替わっていく。

 誰かが父祖の地を取り返した後のことを話し始めれば、誰かが南大陸との交易の夢を語り始める。雑多な話が飛び交い、結論の出ない討論が繰り広げられていた。

 疲れが心地よく酔いの背を押し、其処此処で眠り込むものが出始めた頃、地図完成の宴は終わりを告げた。


「アービィ、みんな楽しそうだったね。

 早く毎日がこうなるといいね」

 ルティがアービィの肩に頭を預けて呟いた。


「そこ、いちゃついてないで手伝いなさいっ!」

 眠り込んでしまった者たちに毛布をかけて歩きながら、ティアが二人を叱り飛ばした。



 春の訪れは皆の心を浮き立たせている。

 これからある者は食糧増産のため畑仕事に精を出し、ある者は戦場へ赴く決意を固めている。現在のところ食料も戦闘要員も南大陸に依存した状態だが、北の民の手で中央を取り戻したいという欲求は当然ある。名誉とは別次元で、最前線で剣を振るうことを望む者は後を絶たなかった。ただ、現状で戦法も、民としての性格も違う両者を、統一指揮することは難しいという判断から、北の民の連合軍参加は見送られていた。別働の遊撃隊が組織されてはいるが、両者が共同で作戦を行うことは、今のところ予定されていない。

 唯一の例外が山脈の哨戒任務だが、先日の拠点襲撃以外に戦闘は発生しておらず、作戦に従事しているという意識はそれほど高くなかった。


 翌日、ルムの家に地図が運ばれ、それまではテーブルと椅子しかなかった作戦室が、それらしく改装された。

 アービィは木材の破片を切り出し、赤と青に色分けし、敵味方の位置が一目で分かるような目印を大量に作っていた。木片には釘を通し、地図の上に固定できるようにしてある。


 アービィの注文で部屋の壁に地図を固定するのではなく、広いテーブルの上に水平に置くことにしていた。壁に吊してしまうと画一的な見方しかできなくなるおそれがあったからだが、水平に置けば自分の立ち位置を変えることにより、敵将の立場になって考えることもできるからだった。


 作戦を練る際には、こうあって欲しいという願望や、自分たちの常識から敵もこう動くはずという決め付けがどうしても出てしまう。劣勢であればなおさらだが、作戦の要諦は敵が嫌がることを第一に考える必要があり、敵も同様である以上敵将の立場で考える必要がある。平面に置かれた地図は、戦場を有機的に見るうえでも、壁に吊された地図より遙かに優れていた。


「なるほど、こうして見ると、敵の意図が手に取るように分かりそうだ」

 北側から地図を眺めたラルンクルスが呟く。

 戦を生業としているが、南大陸は四百五十年の長きに亘って戦自体が起きていない。北の民との争いも、地峡を通り抜けた者を叩くだけで済んでいる。大帝国崩壊後の戦乱の時代に生起した戦が、軍人たちの教典に使われていたがそれを実地で確かめる機会はついぞなかった。


「ここさえ抑えておけば、我々は細い道を行くしかない。

 良く考えられている。

 頭の中で考えていたときでも、なんとなくは掴めていたが、こうして見てみるとそれが良く判るな」

 ルムが唸った。


 ターバは山脈から最北の地へと続く、最短の街道の要所にあった。

 山脈を降り、不死者の拠点とされた三つの集落を経てターバを過ぎると、中央部を木の葉に見立てれば葉脈のように、街道が縦横に走っている。ターバさえ抑えていれば、最北の地を衝こうとしても大軍の行進には適さない細い街道を通らざるを得ない。細い街道は両側を崖に挟まれた隘路や、人一人が通るのがやっとといったようなず、至る所に迎撃ポイントが点在していた。


「正規の軍を通すには向いてませんが、小隊程度を分散させてターバを抜きましょう。

 逆に言えば、これだけ間道が多ければ全てを守るのはお互いに無理です。

 日中の行動を心がけ、野営の場合は街道から外れて結界を敷くようにすれば、被害が出ることは少ないと思います」

 アービィが言った。


 力攻めでターバを落すのであれば、連合軍の戦力全てを叩き付けなければ無理だろうと思われていた。

 ターバの民のほとんどが吸血不死者に転生させられているとして、その数は千を軽く越えている。攻者三倍の法則に従えば最低でも五千名、半個師団の戦力が必要だ。それも要塞や城を落すだけでこれだけの戦力が必要なのであれば、広い市街を完全制圧するにはさらにその数倍が必要と思われた。

 当然こちらの損害をゼロに抑えることなど無理であり、死傷者の後送に人員が必要になり、欠員の補充にも時間が掛かる。ターバを落せば戦が終わるのなら、全戦力を磨り潰しても落としに掛かるのだろうが、まだ緒戦ですらない。四国家の常備軍が近衛二個師団、常備二個師団が標準であることを考えると、戦力の無駄遣いは許されない。

 従って、ターバを直接攻めることはせず、周辺に結界を重ねた巨大な結界を敷くことで、ターバそのものを囲い込み、不死者の群れを灰化する。これが取り得る唯一と言って良い作戦だった。



 アービィがピンに紐を結び、先を尖らせた炭を用意した。

 そして、木片を切り出し、一般的な二個の直角三角形の定規を作った。


「ターバから日の一行程って、どのあたりですか?」

 アービィの問いにターバから避難してきた民が何点かを指差した。

 ターバにピンを刺し、紐の先端に炭を結んで即席のコンパスを作ったアービィが、ターバから一日の行程に円を描く。

 そして、三角定規を使って正確に15°ずつに円周を刻んでいく。


「この位置に結界で囲んだ記号を置いていけば、ターバは無力化できます。

 不死者は全て灰化するはずです。

 一旦不死者と化した人を元に戻すことができない以上、情において忍びないのですが」

 アービィがターバから避難してきた男に向かって済まなそうに言った。


「仕方ないさ、一思いにやって欲しい。

 少しでも苦痛がないように」

 男は平静を装って答えているが、内心では激情の嵐が吹き荒れているはずだ。


「あとは、地図上では分かっても、現地で正確な場所が判るかどうかだが」

 ランケオラータが呟く。


「地の神官様にご同行していただいてはいかがでしょうか。

 地の精霊のご加護があれば、正確な位置を把握できるのではないかと思います」

 考え込んでいたティアが提案する。


「それだと、一気に、というわけには行かないな。

 いずれにせよ、結界を敷けるのは神官様しかいないのであれば、仕方ないか。

 地の神官様を護衛して二十四ヶ所の特定をしてから、それぞれの場所に結界を敷くところから始めるか」

 ランケオラータが頷いた。


「これで見ると、何ヶ所か道がないところが続くな。

 小隊が入って行くにはかなりつらい。

 アービィ、行ってくれるか?」

 南西から北西にかけて六ヶ所、90゜分が、小隊規模で行動するには適さない森林と断崖が連なっている。


「解ってますよ、僕が行きます。

 一人で充分です。

 この地形なら、不死者の動きの鈍さは致命的です。

 神官様自体が、対不死者であれば、並みの兵士以上の戦闘力を持ってることになりますからね」

 アービィは用意していた答えを出した。


「それ以外は三隊に分かれよう。

 地の神官様が四名いらっしゃるから、90゜ずつ担当していただく。

 それぞれ護衛と物資運搬に一個小隊。

 それから、不死者への対応を伝授してもらうために、ルティ、ティア、バードン殿にそれぞれの小隊に随行していただこう。

 他に案があれば、遠慮なく言っていただきたい」

 ランケオラータが決を採る。



 当初北の大地へ渡った精霊神官は、風の神官が大半を占めており、地水火の神官はそれぞれ一人ずつだった。

 だが、春の訪れに合わせて田畑を整備するに当たり、全神殿へ神官の増援を依頼してあった。雪の季節が過ぎるのをリジェストで待機していた神官たちが先日到着し、早速地の精霊の加護の下、作付けの指導に携わっている。


 結界の設置は、可能な限り正確に東西南北を設定し、そこに基点の大記号を設置しなければならない。南北が決まると、そこから東西を割り出し、あとは細かく細分割していけばよい。細分割が多ければ多いほど、結界の強度は上がっていく。この世界、この時代では、普通太陽の位置から南や北を割り出していたが、コンパスに比べ正確性は劣っている。だが、神官たちは精霊の声に従い、方位も距離もほぼ正確に掴むことができていた。


 翌朝、パーカホを出たアービィたちと地の神官一行は、イーバで挺身隊として中央に進出する三個小隊と合流した。

 アービィが粉塵爆発を利用して不死者を焼き払った方法は、今回は使えない。粉末炭が不足しているのではなく、襲撃してくる不死者の撃退が主な戦闘行為になるからだった。粉塵爆発は不死者が閉じこもった閉鎖空間内を焼き払うには適しているが、壁がない開かれた空間では粉末が拡散してしまい、燃焼が連鎖で起きず爆発に至らない。

 それであれば、奇襲に注意を払い、剣や槍で撃退した方が確実だった。



 ターバまで一日の行程を残し、アービィと地の神官の二人組と、ルティを擁する小隊は西へ、ティア、バードンを擁する二個小隊は東へ分かれる。

 アービィたちが真西を、ルティの隊が真南、ティアが真東、バードンが真北のそれぞれを中心にした90゜を担当することになっていた。


 ルティ隊が太陽の位置から大まかに真南を割り出し、適当に結界を敷いて精密な位置を確定するため神官が瞑想に入った。それを基準にターバの中心からの距離と方位を、地の精霊たちがそれぞれに散った神官たちに伝えてくれるだろう。多少の誤差は当然出るだろうが、正確な地図もなくコンパスもないこの世界では、今のところこれが一番精密な測定法方だった。


 ルティは神官が瞑想に入ると同時に、腰の剣に手を掛けて周囲に注意を払った。

 今が奇襲を受けたら最も危険だ。日中に不死者がうろつくことはあり得ないが、合成魔獣の急襲があれば厄介だ。精神を研ぎ澄まし、あたりの気配を探る。


 ふと、ルティは何かに呼ばれたような気配を感じ、神経をそちらへ向けた。

 目には見えないが、近くに何かがいるのが判る。邪悪さは感じないが、襲ってこないという保証もない。そして、人間の身では抗し得ない、圧倒的な気の質量を同時に感じていた。巨大な気が結界の周囲を取り囲み、徐々に圧迫し始めている。結界は半球を伏せたような形になっていて、外からの圧には強い形状だ。それが真上から押され、周囲を締め上げられ、今にも弾け飛びそうな緊張感を漂わせている。


 ルティはこめかみや背中に、冷や汗が流れるのを感じていた。神官がどうなったか心配なのだが、注意を逸らした瞬間に押し潰されそうな恐怖感があった。

 当の神官は、涼しい顔で瞑想を続けていたが、結界への圧迫感が強まってからは少々困惑の表情が見て取れる。

 ルティは視線を結界の頂点に合わせたまま微動だにせず、神官の表情に変化が見られたことに気付いていない。同行した小隊の将兵が、ただならぬルティの表情と、困惑の表情を浮かべた神官を見比べ、何が起きつつあるのか判断できずにいた。



 突然大きく息を衝いた神官が立ち上がり、ルティの肩に手を置いた。

 ルティは神経を結界の頂点に集中していたため、自然体で近づいた神官に気付くことができず、飛び上がらんばかりに驚いてしまった。


「驚かせないで下さいよ」

 心臓の鼓動が早鐘のようになっているルティが、やっとのことで言葉を絞り出した。


「ルティ殿、何故お分かりに?

 地の精霊たちがお越しになったのですが、ルティ殿の殺気に怯えております。

 今暫く殺気を治め下さい」

 神官は困惑の表情のままだった。


 精霊と感応できるのは、それなりに修行を積んだ神官のみだ。呪文の契約も、神官を通してでなければ、さらには依り代となる神殿がなければ無理だった。

 ルティが何故、精霊が近寄ってきたことに気付けたのか、神官には解らなかった。



「あ、ごめんなさい。

 邪悪さは感じなかったんですけど、何て言うか、巨大な固まりって言うか、結界を包み込んでるって言うか。

 押し潰されそうな感じがしたんですよ」

 ルティは慌てて警戒心を解く。

 同時に先ほどまで結界を圧迫していた質量が、自然な感じで結界に浸透してきた。


 地の精霊の性質は『重み』だ。その巨大な質量が持つ、盤石の重みが地の精霊の力でもある。対して水の精霊は『圧力』で、風の精霊は『速度』。そして火の精霊は『熱』だ。

 ルティが感じた結界への圧迫感は、大地から沸き上がった精霊が、入り込める隙間を探し求めて結界上を走査していた感覚だった。


「ルティ殿は神官の修行をされたことは?

 どなたか血筋に神官の者がいらしたか?

 いや、それではあり得ぬはず。

 何故ルティ殿は精霊を感じられたのだ?」

 神官の言葉の前半はルティへの問いかけだが、後半は呟きだった。いや心の中で考えたことが、自然と口を衝いてしまったのだった。


「修行はしたこともありませんし、代々由緒正しい商人の家系です。

 大昔は、南大陸の中心近くに住んでいたらしいですけど、今の四国家成立の頃から少しずつ南に移住して、もう二百年以上フォーミットにいますよ。

 それよりも神官様、精霊から位置を教えていただくのではなかったですか?

 あたしは、今何も関知できていませんが」

 精霊の気配を関知できなくなったルティが、慌てて言う。


「ご心配召さるな。

 既に感応はできております。

 真南の位置は、少々ずらすだけでいいようですね」

 神官の表情には安堵の色が浮かんでいた。


「あの、神官様。

 精霊が位置を教えてくれるって、どんな感じなんですか?

 神官様にだけは目に見えていて、ここって指さしてくれたり、とか?」

 基準点が決まり、結界を修正しつつ、その中を記号で埋めながらルティが聞いた。


「いえ、精霊たちは目に見えません。

 見えたとしても、姿形など意味のないことです。

 明確に一点を指したりはしませんし、複雑な感情を含んだ思考が必要な質問にも、答えてはくれません。

 漠然と、なんとなく、ここ、とか、あちら、とかですね。

 風や水の精霊だと、天気などを予感のような形で教えてくれると聞いています。

 他には河川の増水などでも、知りたいと思えば。

 我が地の精霊たちも、地滑りや火山の噴火、果ては温泉の位置まで願えば知らせてくれますぞ。

 我々は、それぞれが所属する神殿が祀る精霊との交信に特化しておりまして、私などは地の精霊としか感応できませんが、最高神祇官様であれば、全ての精霊の声が聞けるとか」

 記号を細かく修正する手は休めず、神官は説明した。


 エッシンフェルゲンで長雨に足止めされていたときや、グラース河の増水が何時治まるか、何となく知らせてくれていたのは精霊だったというのか。ルティは自分の中の何かが、必要に迫られてその感覚を鋭敏にさせていたのだと思っていた。それが何なのかは判らない。アービィの中に眠っていた狼のようなものなのか、それとも神官の説明にあったように精霊なのか。

 ルティは意識の中で精霊に問いかけたが、答えるものは何もなかった。



「じゃ、いいですね?」

 茂みに消えたアービィから、神官に声がかかる。


「いつでも。

 これでも肝は据わっていると、自負しております」

 神官からの返事を受け、獣化したアービィが茂みから這い出した。


 ――じゃあ、必要な物を僕の背中に括っちゃって下さい。お乗りになりますか?

 巨狼から念話が届いた。


「どうぞお気遣いなく。

 いよいよ人間の脚では踏破できないという場所では、遠慮なく乗らせていただきます故。

 しかし、噂でしか聞いたことのない、人と心を交わした人狼に対面できるなど、またとない機会ですな。

 それにしても、見事な毛皮だ」

 そう言って神官は楽しげに歩き出す。

 その足取りに迷いはなく、何かに導かれるかのように森林に踏み込み、川を越えていた。



 ――神官様、ここへは初めてですよね? どうして、そんな自信満々に歩けるんですか?

 獣化したアービィにとって踏破不能な場所など、果てしなく続く大海くらいのものだ。魔獣に対する恐れもない。いくら精霊の加護を受けているとはいえ、生身の人間にとってやはり魔獣は脅威のはずだ。普通、人跡未踏に等しい山道など、どこを警戒して良いか判らないまま、おっかなびっくり歩くのが関の山だ。

 それが神官は何の迷いもなく、何に恐れるでもなく、気負うことすらなく歩き続けている。


「精霊の御加護があれば、道など無くても有ると同じです。

 魔獣が出ようと、あなたがおりますれば。

 私とて、自分の身を守る程度のことであれば、なんとかなりましょう」

 神官は巨狼に全幅の信頼を置いているらしく、まるで気負いが見えない。


 ――じゃあ、目指す場所は、もうお分かりに?

 アービィが聞いた。


「先ほど、真南の位置が決まったと精霊たちからお知らせをいただきました。

 大地の精霊であれば、ターバの中心からの距離や方位を知らせるなど、雑作もないこと。

 あとは精霊たちのお導きのままに」

 こともなげに答える神官に、巨狼は思わず唸り声を上げていた。


 やがて陽が傾き始め、森の中は急速に暗くなっていく。

 目の前に深い谷が現れたところで、この日は野営することにした。無理して谷底に降りようとしても、途中で闇に包まれ、立ち往生するのが落ちだ。野営中、魔獣に背後から急襲される可能性がないともいえず、上から襲われるより、崖を背後に背負った方が対処しやすいと判断してのことだった。

 手早く火を熾し、神官はレーションを温め始めた。


「アービィ殿、精霊たちは周囲に邪悪な気配はないとお伝えになっています。

 獣化を解かれ、おくつろぎになってはいかがですかな?」

 既に結界を敷き、夜間に動き出す不死者への対策を万全にした神官がアービィに声を掛けた。


 ――いえ、僕はこのままのほうが。

 巨狼の耳まで避けたような口元が歪み、切れ長の瞳に笑みが浮かぶ。


「凄惨と言うしかないですな。

 気の弱い者であれば卒倒するかもしれませぬぞ。

 さようですか、そのままということであれば……

 これの出番というわけですな」

 神官は笑みを湛えて荷物を解き、中から巨大なボウルと蒸留酒のボトルを取り出した。


 ――ちょっと凹みますよ、卒倒だなんて。なんで、そんな物お持ちになってるんですか?

 凄惨という言葉に凹んだアービィだが、ボウルをみて嫌な予感がしてきた。


「ルティ殿とティア殿が持たせてくれましてな。

 狼がそのままでいるようなら、これで酒を飲ませろ、と。

 その手ではコッヘルはお持ちになれますまい?」

 笑いを堪えられないという表情で、神官はボウルに蒸留酒を満たし始めた。



 他愛のない話で夜明けを待ち潰す間、アービィは酒の量を抑えつつ周囲に警戒の思念を張り巡らせていた。

 それは神官も同様で、常時精霊と感応し合い、邪悪な気配を探ることを止めていない。


 ――ちょっと、出てきます。神官様は、何があってもここを動かないでください。

 アービィが巨体を起こし、闇を見据えている。


「承知いたしました。

 崖下に二体、木の上、いや、空に一体。

 そのほか不死者が十体ですか」

 地の精霊が伝える邪悪な気配は、合計十三体。

 そのうち不死者の十体は結界から出さえしなければ、どれほどの脅威にもならない。問題は、崖下に潜む二つの気配と、上空にいるという一つの気配だ。


 ――空を飛んでいるわけではなさそうですね。キマイラが滑空できるとは聞いていません。崖下の気配もこちらを襲う気満々です。多分、この崖くらいは飛び上がれるんでしょう。

 アービィはそう言い残し、闇に消えた。


 巨大な鶏が絞め殺されるような断末魔の叫びが遠くから聞こえ、森の木々が激しくざわめいた。明らかに硬質な物体が倒れる音、砕ける音、動物の断末魔が二度。そして巨狼の遠吠えが一度。



「ほう、無闇と突っ込んでくるほど莫迦ではないようですな。

 アービィ殿からは出るなと言い渡されていますが、遠吠えが聞こえたということは、魔獣は始末できたということでしょう。

 どれ、お相手仕ろうぞ」

 神官は、傍らに置いてあった棍棒と見間違えそうなほど無骨なメイスを取り上げると、一歩結界から出る。


 そして、さらに一歩神官が踏み出した瞬間、メイスが振り出された。

 不死者たちには到底届かないと思われていた距離だったが、メイスの先端は確実に不死者の脳天を捉え、スイカを床に叩き付けたような耳障りな音と共に、不死者の頭部を粉砕していた。


「いかがされたかな?

 届かないと思われたか?」

 また一閃。

 不死者の胴体を深く捉え、振り抜く運動エネルギーが不死者を両断する。

 メイスと思われていた神官の得物は、収納するために縮めてあった三節棍だった。刃物でもないのに不死者を両断したその技は、神官の膂力と反射の速度を物語っている。


 低位の不死者を下がらせ、三対の吸血不死者が前に出た。

 感情を一切感じさせない低位の不死者と比べ、吸血不死者は明らかにその双眸に怒りを湛えている。人間とは思えない蒼白い顔が怒りに歪み、今にも掴みかからんばかりの表情を浮かべていた。


「さあ、遠慮などいらん。

 掛かってくるがいい。

 狼が戻ってくるぞ。

 私の獲物は、渡さない」

 両者が同時に歩み寄り、互いの武器が触れる間合いに入ったとき、三節棍が真横に薙ぎ払われた。


 辛うじて両腕で受け止めた一体の吸血不死者が弾き飛ばされる。低位の不死者と違い、身体を両断されることもなく、目立ったダメージを受けた様子もない。ゆっくりと身体を起こした吸血不死者には目もくれず、神官は別の吸血不死者の脳天に三節棍を振り下ろした。

 水っぽい、嫌な音が当りに響き渡り、吸血不死者の頭が砕け散った。

 糸が切れた人形が崩れ落ちるように地に倒れ伏すと、吸血不死者は瞬く間に灰化する。神官は腰に下げた聖水を口に含み、灰の塊に吹き掛け、そして足で踏みにじる。完全に再生能力を奪われた吸血不死者一体が消え失せ、仇を討つかのような勢いで残りの二体が、五体の低位不死者が突進した。


 神官が三節棍を引き、メイスの形状に戻した。

 華麗な舞踏のように神官が舞い、全ての不死者たちが頭を叩き潰され、聖水を噴きかけられ、一握りの灰と化していく。

 灰を蹴散らし、首を何度か捻りつつ、肩を回しながら神官は結界へと戻って行った。一言、手応えがないと呟きながら。



 結界の周囲に魔獣の気配を感じたアービィは、上空から迫る悪意をまず先に叩くことにしていた。

 甲高い鳴き声と共に舞い降りてきた巨大な魔獣は、鶏の身体に大蛇の尾を持ち、その視線には石化能力を秘めた凶獣コッカトリスだった。


 上空からの攻撃という優位を活かした一撃は、視線による石化だ。おそらく、通常の敵であれば初撃で決していただろう。だが、限りない不死性、呪文や呪い、ステータス変異に対する異常なまでの抗堪性を持つアービィには、ほとんど効果がない。僅かに毛皮に石灰のようなコーティングをしたに過ぎなかった。水から上がった後のように、全身を振るわせただけで巨狼はあっさりと石化を振りほどいた。巨狼が大地を蹴って飛び上がったとき、滑空はできても飛翔能力は持たないコッカトリスの運命は定まっていた。

 避ける術のない落下の過程で、すれ違いざまに首に牙を打ち込まれ、巨狼の跳躍力に引き摺られて首を大きく仰け反らされたコッカトリスは即死していた。


 自由落下に任せて着地した巨狼が首を大きく振り、鈍い音と共に凶獣の死体を大地に叩きつける。

 その音につられ、崖下から二つの鳴き声が響き、八本足の雄鶏が双眸を狂気に染めて飛び上がってきた。死体を一瞥した二頭の魔獣は、口から火を吹き、視線にはコッカトリス同様の石化能力を持ち、そして体液全てが猛毒という、最悪の凶獣といっても過言ではないバジリスクだった。


 巨狼がどちらから料理してやろうかと舌なめずりしたところに、バジリスクの片割れが走り寄る。

 バジリスクが巨狼に噛み付くが、巨狼は微動だにせずその嘴を受けていた。僅かに遅れてもう一頭が駆け寄って、巨狼に炎を吹き掛けた。

 微かに毛皮が焦げる臭いが立ち込めるが、巨狼にたじろぐ気配はない。コッカトリスの石化と同様、唾液に含まれる毒をしこたま打ち込まれ、石化の視線を受け、そして炎を浴びて平気な生物は、この世界であっても存在しない。はずだった。


 巨狼の切れ長の瞳が冷たく光った。発光などするはずもないのだが、バジリスクの吐く炎が反射した。オレンジの熱感を持った炎のはずなのだが、巨狼の瞳はそれを冷たく反射していた。

 何かに怯えるようにバジリスクが跳び退った。

 そして、これが直接の敗因になった。

 跳躍した一頭のバジリスクの落下点に、巨狼が待ち構える。僅かに羽ばたきながら落ちてきたバジリスクの腹を牙の一閃で切り裂くと、振り向きざまに跳躍し、怯えに動けないもう一頭のバジリスクに頭から突っ込み、その首をへし折った。

 巨狼はコッカトリスとバジリスクの死体が喰えないか、暫くは臭いを嗅いでいたが、とても喰えたものではないと諦めたか、結界へと戻って行った。



 アービィが戻ってきたときには、全ては終わり、神官は一人蒸留酒を嗜んでいた。

 巨狼用に用意されたボウルには、何故か酒の量が増えていた。


「ご無事でしたか。

 噂に違わぬ戦闘力。

 いや、敵でなくて何よりです」

 神官は巨狼が座る前に、自らのコッヘルをボウルに打ち当てた。


 ――神官様も、敵でなくて良かったですよ。祝福法儀式済みの武具だと、僕も傷付けられますから。

 アービィが念話で応じ、ボウルの前にお座りをする。


「何故、アービィ殿は人狼の身ながら人との共存をお選びに?

 正直、それだけの力をお持ちならば、喰うに困るようなことはありますまい?

 何故、わざわざ、苦難の道を選ばれた?」

 神官は、悪意なく言った。


 ――では、どうして神官様は北の大地へ? 神殿にいらっしゃれば精霊と人との架け橋という、危険を冒すような仕事はせずに済みます。どうして不死者や魔獣が闊歩する、危険な大地で人助けのような苦難のお仕事をお選びになったのですか?


 確かに、風の神官たちもそうだったが、北の大地へ渡ろうという希望者は多く、どの神殿でも人選は難航したと聞く。なにしろ最高神祇官からして名乗りを挙げていたくらいなので、その微笑ましい難航ぶりは想像に難くない。

 地水火風の理を詳らかにしたいという、知的欲求が強い人種でもあるためなのだが、南大陸ではほとんど目にすることのない、北の大地特有の呪法を研究してみたいという欲求が最も強い。そのためであれば、危険や人助けの手間など、何ほどのことでもなかった。


 アービィは、ルティと暮らしたいという素直な欲求を口にするのが、なんとなく気恥ずかしかった。

 神官は、知的欲求だと言い切ってしまうことに、なんとなく罪の意識を感じてしまった。

 どちらともなく、問いには答えず黙り込み、黙々と酒を喉に流し込んでいた。


「既に今夜中にこの周辺に到達できる魔獣や不死者はいないと、精霊が知らせてくれています。

 夜はまだまだ長い。

 ひとつ、ゆっくりと飲みませんか」

 神官の言葉に、巨狼がボウルを鼻面で押す。


 金属同志を軽く打ち付けあう涼しげな音が響き、神官の笑い声と狼の遠吠えが、夜の谷間を渡っていった。


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