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狼と少女の物語  作者: くらいさおら
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第100話

 アービィたちと北の民が邂逅した丘から、ニムファがいる集落までは、僅かに半日の行程だ。

 一気に敵本陣を衝くことは充分可能だが、今からでは集落への到着が夜になり、不死者の群れに突入することになりかねない。それならば、今日はここに陣を敷き、夜明けとともに集落に向かった方が安全だ。そう判断したアービィとティアは獣化を解かず、メディも姿を戻さずにいた。

 そしてエンドラーズは巨狼を伴い、結界の敷設を喜々としてこなしていた。


「エンドラーズ様、何かお手伝いすることはありませんか?」

「何なりと、お申し付けいただきますよう」

 ルティとバードンが連れ立ってエンドラーズに申し出た。


「いかがなされましたかな、お二方。

 明日は決戦にございます。

 私の手伝いより、お休みいただく方が重要ではございませんか?

 何も、畑仕事をしようというのではございません。

 この程度のこと、最高神祇官の力を持ってすれば、容易いことでございます」

 嬉しそうな表情を浮かべつつも、エンドラーズは独壇場を渡そうとはしなかった。

 事実、並みの神官が人数を揃え、数日掛かりで敷設する規模の結界を、エンドラーズは僅か数刻も掛からぬうちに完成させようとしていた。

 もちろん移動の速度は人の限界を超えるものではなく、『移転』も回数の限界があるため、基点間はアービィの背に跨ってのことだった。


「それは解っているんですけど。

 エンドラーズ様もアービィも、ティアとメディも働いているのに、あたしたちだけ寝ちゃうのは……

 哨戒はともかく、結界の敷設は手伝えるところは手伝って、みんなで早く終わらせちゃった方がいいんじゃないかと」

 ルティが巨狼を見ながら、おずおずと答える。


「ルティ殿は、狼が心配なのでございますよ。

 エンドラーズ様、そこをお汲み取り下さいませ。

 そうなると、私一人寝ているのも――」

「素直に、ティアを手伝いたい、って言ったらどうですか、バードンさん」

 顔を真っ赤にしてルティが言った。


「いや、私は決して……」

 わざとらしく咳込みながらバードンが取り繕う。


「決して、何よ。

 あたしはほっぽらかしとけばいいって?」

 闇の中からティアが実体化し、背伸びしながらバードンの肩に腕を組んで乗せ、その上に顎を重ねた。


「――っ!

 お前、いつの間にっ!?

 いや、決して放っておいていいなんて、言ってない!」

 慌ててティアを振り払い、取り繕ったバードンに、笑いが弾けた。

 だが、ティアの目は笑っておらず、尻尾をバードンの首に巻き付けた。


「まあ、いいわ。

 後でじっくり聞かせていただきましょう。

 決して、の後になんて言おうとしてたかね」

 凄艶な笑みを浮かべ、ティアはバードンの頬を撫でる。


「後でと仰らず、今からで結構でございますぞ、ティア殿。

 ここの基点は完成いたしました。

 後一つで結界は完成いたします。

 アービィ殿とルティ殿に、お手伝いいただきましょう。

 哨戒はメディ殿とピラムの方々にお任せして。

 ティア殿、男とはか弱きものにございます。

 手加減なさいませ。

 バードン殿、しっかりなされませ」

 エンドラーズは高らかに笑った。

 そして、困り切った表情のバードンと、顔を真っ赤に染め上げたティアを残し、ルティを伴って巨狼の背に乗る。


 ――バードンさん、僕の苦労を少しくらいは知っ――!? だめっ! やめてぇっ! 刺しちゃだめぇっ! やぁめぇてぇっ!

 アービィに皆まで言わせず、ルティの剣が巨狼の延髄にあてがわれた。

 騒ぎに目を覚まし、何事かと辺りを見回した少女が、巨狼に剣を突き立てるルティを見て凍り付く。


「大丈夫よ、いつものじゃれ合いだから」

 少女はティアの言葉に胸を撫で下ろしたが、バードンの首に何が巻き付いてるのか見て、また凍り付いた。


「ご安心、ください、ませ。

 何、たいした、ことで――」

 そこまで言ったところで、ティアが尻尾に力を入れた。


「男とは、かくもか弱きものにございます。 心にお刻み下さいませっ!」

 大笑いしながら少女に言って、エンドラーズは巨狼の背を叩いた。


 それを合図に巨狼が跳躍する。

 大きく後ろに振られたルティが態勢を崩し、巨狼の延髄から剣が外れた。転げ落ちそうになったルティをエンドラーズが抱き止め、巨狼の背をまた叩いた。


「覚えてなさいっ!

 あとで、ぎったぎたにしてや――きゃんっ!?」

 ――舌噛むよ。遅かった?

 ――覚えてなさい、アービィ……

 ――女とは、げに強きもの。

 音声による会話は、巨狼の疾走に遮られた。

 念話と思念が飛び交い、エンドラーズの笑いが闇に消えていった。



「どういうこと!?

 誰か、説明しなさい!」

 薄暗い部屋の中にニムファの叫びが響いた。


 一本杉の丘に展開させた『出来損ない』の合成魔獣を率いさせた生者から、いつまで経っても敵を殲滅したという報告が入ってこない。

 斥候を放とうにも、これ以上魔宮から生者を減らしては日中の防備が覚束ないうえ、切り札として温存してある合成魔獣の制御すら妖しくなってしまう。かといって、太陽光の下を歩くことができる不死者も、僅かしか残っていない。自身の楯として、その数少ない中位の吸血不死者は手放したくないニムファは、外界に対する目を失っていた。もともとの予定では丘の一本杉に魔法陣を刻み、監視の目とするはずだったが、その魔法陣が完成した様子もなかった。


「おそらく、合成魔獣共々殲滅されたか、捕縛されたものと思われます」

 恐る恐るといったふうに、中位の吸血不死者が答える。

 言葉こそ丁寧だが、神の力による強制的な服従だ。決してニムファに心酔し、忠誠を捧げているわけではない。


「役立たずしかいないのですか、最北の民にはっ!

 まさか、寝返ったということはないでしょうね?

 キマイラ制御部隊の締め付けは大丈夫ですか!?

 万が一に備えて、何人か人質を取りなさい。

 子供がいれば、それが一番良いでしょう」

 ニムファは吸血不死者に命じ、邪神の像に向き直った。

 もちろん、ニムファはそれを邪神などとは認識していない。


 自らの望みを叶えてくれる最高神だ。

 小難しい説法ばかりで、何の利益もないマ教などとは違う。不死の身体を与えられ、不死者を生み出す力を与えられ、不死者を操る力を与えられた。

 死なないというだけで、無敵の力だ。

 世界を制覇する力だ。

 世界に、君臨する力だ。

 それを邪魔する者は、すべて滅ぼしてくれる。

 足を引っ張る者も、同様だ。


「神よ、私に力を。

 私の勇者様を誑かした、邪悪な女を排する力をお与えください。

 ご加護を、お与えください。

 ……まだ、そこにいたのですかっ!?

 早く、命令を遂行しなさいっ!」

 ニムファの背に一礼し、このまま太陽光の下に身を晒したいという願望を抱きつつ、吸血不死者は人質を選ぶため魔宮の前庭へと歩を進めた。



「エンドラーズ様、なぜ、あたしに?」

 最後の基点に祈りを捧げるエンドラーズの背後に立ったルティが、怪訝な顔をして聞いた。

 ここまで同行しただけで、特にな何かを手伝ったということはない。


「……

 いえ、充分でございます。

 いずれ、お解かりになるときが」

 いつもの破天荒さを全く感じさせない笑顔で、エンドラーズは振り向いた。


「どういうことです?」

 まったく腑に落ちない、という表情でルティは聞き返した。


「全ての精霊よ、この結界にひと時の安らぎを」

 ルティの問いには答えず、エンドラーズが最後の祈りを捧げたとき、結界を白い光が包み込んだ。

 あちこちからどよめきが上がり、やがて潮が引くように静まっていく。


「お答えいただけないんですか?」

 結界内に満たされた精霊の気配を感じ取りながら、ルティは笑みを浮かべつつ聞いた。

 答えを聞けないことは不満といえば不満なのだが、結界が完成した瞬間から何ともいえない安心感に満たされていた。


「やはり。

 いえ、今はご説明してもお解かりにはならない。

 いずれ、ルティ殿が自覚いたします。

 それまでは、私にもどう説明してよいかわかりません。

 ただ、ルティ殿をここへ連れてこなければならない、そう感じただけでございます」

 一仕事終えたという満足感を漂わせ、エンドラーズは答えた。

 エンドラーズの目には、ルティが白い光を纏ったように見えていた。


「なんだが煙に巻かれたような感じです。

 でも、エンドラーズ様がそう仰るなら、もう聞きはしません。

 なんか、とっても満たされた気分。

 アービィ、戻りましょうか。

 ベッドはないけど、ゆっくり眠れそうな気がする」

 一歩退いた所でお座りしている巨狼に、ルティは声を掛けた。


 ――うん。僕もなんかそんな気がする。ルティが、ふわっとした感じに見えるよ。

 巨狼の瞳が優しくなっている。


「なんか、犬よね、最近のアービィ。

 穏やかな目になってきてるよ」

 くすっとルティが笑った。


 ――犬って言うな、犬って

 口を尖らせたような、ふてくされたような念話が返ってくる。


「はいはい、狼だもんね、アンタは」

 いつか交わした会話を思い出し、ルティは噴き出した。


 思えば、遠くへ来てしまった。

 南大陸のほぼ南端から始まった旅は、北の大地の最北まで来てしまっている。アービィが獣化を自在に制御するために精神力を養いつつ、二人が安心して暮らせる場所を探す旅だったはずが、いつの間にか自由に獣化してもよくなっていた。安心して住める場所も、探す必要などなかった。二人は、帰れば良い。

 だが、その場所に帰るために、終わらせなければならないことがある。


 最北の民の乱。

 今ではニムファの変と呼ばれる争乱を、アービィの手で終わらせなければならない。この世界に異世界から呼んだ者と、呼ばれた者の決着が、まだ残っていた。


 ――ほら、明日に備えて寝なきゃ。今日はお酒はなしだよ、ルティ。

 巨狼はルティが背に乗りやすいようにその場に伏せる。

 気付けばエンドラーズは姿を消していた。


「うん、戻ろうか」

 短く答え、ルティは巨狼の背に乗った。



 払暁。

 結界の中が騒がしくなり、やがて潮騒のように人々の声がうねり始める。


「じゃあ、行こうか」

 獣化を解いたアービィが立った。

 続いてルティが、ティアが、メディが立ち、バードンとエンドラーズが立ち上がる。


「参りましょうぞ、いざ。

 怒りと妬みが渦巻くの魔窟へ」

 エンドラーズが士気を鼓舞した。

 応、と応える声がアービィたちを中心に広がり、結界内を満たしていった。



「どうして獣化しないの?」

 丘を越え、最後の集落を目指す道すがら、獣化したままのティアが訊ねた。


「ほら、僕は獣化してると身体がでかいでしょ。

 もし、ニムファ様のところへ行くときに、扉を通れなかったら面倒じゃないか」

 苦笑いしつつ、アービィが応える。

 以前、避難小屋で獣化した際に、外に出られなくなったことをアービィは思い出していた。


「そうよね。

 私の家に飛び込もうとしたときも、壁に突っ込んでたけどさ、あれ窓からじゃどう考えても入れなかったと思うわよ」

 思い出し笑いが本気の笑いに変わったメディが、苦しそうに言う。


「あれは凄かったわ。

 アービィ死んだかと思ったもん。

 よく壁が壊れなかったわよね、あのときは」

 ルティも笑いが止まらなくなっていた。


「もうちょっと、心配してくれてもよさそうなもんだけどさ。

 なんだよ、あのときの『頭大丈夫』って。

 確かに頭から突っ込んだんだけどさ」

 アービィがふてくされながら言い返す。


 これから死を賭した戦いが待っているとは、とても感じられない雰囲気だ。

 まるで、近所の山にピクニックにでも行くような気楽さが、アービィたちの間に漂っていた。もちろん、それは意識したことであり、合成魔獣や不死者に対して恐怖感を払拭しきれない最北の民たちの気持ちをほぐすためであった。いつどこから合成魔獣が突っかけてくるす判らない状況で、軽口は叩きながらもアービィたちは周囲の気配を探り続けていた。



「あれよ」

 先頭を歩いていた少女が短く言った。


 簡素な柵に囲まれ、切り立った崖を背にしてその集落は沈黙していた。

 人の気配は感じられないが、邪悪な波動が数百mはなれたこちらまで伝わってくる。柵の一部に切れ目があり、そこが集落への入り口だと判るが、両側に立てられた門柱には魔法陣が描かれており、意に沿わぬ侵入者をすべて不死者に変えてしまおうと辺りを睥睨していた。おそらく、門柱以外にも魔法陣が攻撃兵器として描かれているはずだ。魔法陣の射程距離が分からない以上、不用意に近付いては危険であることは誰の目にも明らかだった。


「一気に突っ切るよ。

 僕が、魔法陣をぶっ壊すから」

 そう言ってアービィは獣化した。


 ――通れなけりゃ戻ればいいもんね。

 後肢で首元を掻きながらアービィは念話で言い訳した。


「精霊のご加護と、皆様が信仰する神々の守りは、皆様の下に!

 さあ、南大陸の人々に、最北の民の意地をお見せください!

 我らも、及ばずながらお力添えさせていただきましょうぞ!」

 エンドラーズがピラムの代表に言う。


 鬨の声が上がり、巨狼を先頭に群集が駆け始めた。

 集落の入り口の門柱を、巨狼が全力のタックルで打ち倒し、続いてルティが剣を抜き放ち渾身の斬撃を残る門柱に叩き込む。盛大な衝撃音と共に門柱が倒れ、群集が一気に集落に雪崩れ込んだ。門柱のあった場所から溢れた人々が、簡素な柵を乗り越え、打ち倒し、踏み越えていく。

 誰もが不死者の頚城を振り払い、南大陸と堂々と渡り合うため、この一戦に命を賭けた。


 不意に集落の中から獣の唸り声が響き、十五頭のキマイラが社前の広場に躍り出た。

 社の屋根に十五人の生者が陣取り、魔法文字を刻んだ杖を両手で捧げ、必死にキマイラを制御している。キマイラは社の入り口となる巨大な門扉を守るように布陣し、人々を牽制する。一瞬怯んだかに見えた群集が、部族ごとの集団に分かれてキマイラに襲い掛かる。

 何人かの目端の聞くものが、制御を妨害するために社に向かって投石を始めていた。


 ――制御は止めさせちゃだめっ! キマイラが散ったら大変だっ!

 ゲイズハウンドを狩り尽すのに多大な苦労を要した経験から、却って制御させていたほうが得策とアービィは見抜いていた。

 一頭のキマイラを噛み伏せながら、念話で群集に指示を飛ばす。


「みんな、無理に突っ込まないで!

 牽制していればいいわっ!

 私が、石に変えてやるっ!」

 メディが混乱の巷を駆け巡り、手近にいた一頭のキマイラを石に変える。



 制御者は、キマイラが扉から離れ過ぎないように、意識していた。

 最北の民の群衆にキマイラを突入はさせても、一撃放っては扉の前に戻す。敵を殺傷するよりも、扉に近付けないことを優先していた。いかに合成魔獣といえど、数の力には勝てない。突入させてしまえば、いつかは押し潰されてしまうことは、火を見るより明らかだ。

 それでも合成魔獣の力は強大であり、群衆の中に躍り込めば、三つの首が当るを幸い最北の民を打ち倒していった。


 人々の悲鳴と絶叫が上がり、跳ね上げられた人は地面に叩き付けられ動かなくなる。

 間近にいる人を獅子の首が噛みちぎり、山羊の角が腹を裂き、胸を貫く。蛇の首に毒を打ち込まれた人々が、断末魔の絶叫を放ち地面に崩れ落ち、短く痙攣して絶命する。それでも人々は剣を振るい槍を突き出し、必死にキマイラを討ち取ろうとしていた。

 漸く一頭のキマイラが膝を折り、ゆっくりと崩れ落ちて三つの首が血を吐き出す。損害を出しつつも、最北の民の群集は、キマイラを社の前に追い詰め始めていた。だが、キマイラは当初の目的通りとばかりに、扉を塞ぐ形になり、容易に突入できない状態ができ上がってしまった。

 戦場は、混乱の巷から膠着状態に陥り、両者とも動くに動けず奇妙な沈黙が支配された。



 ――あの扉、やっぱり外開きかなぁ?

 巨狼の念話がルティに届く。


「守ることを考えれば、そうでしょうね」

 最前線でキマイラと対峙しつつルティが返す。


 他の集落との戦いに明け暮れた北の大地では、集落の神を祀る社が南大陸における城や砦と同じ位置付けにある。

 集落に攻め込まれた場合は、ここに立てこもって戦うのだった。扉が内開きでは、外からの衝撃に対してあまりにも脆弱だ。攻城槌にあたる丸太で突撃でもされたら、一発で打ち抜かれてしまう。反撃に際しても、開け放つ勢いそのままに飛び出していける外開きが、圧倒的に適している。


「じゃあ、突っ込むか?

 メディ殿、エンドラーズ様、よろしいですかな?

 ティア、いくぞ」

 バードンが人垣を掻き分けてきた。


「行きましょう」

「望むところでございます」

「一気に飛び込んじゃおう」

 三人に嫌はない。


 ――僕が突っ込むから、もし開かなかったら、閂を斬ってね、ルティ。

 巨狼が突入手順を説明した。


「いいけど、頭打ってひっくり返らないでよ」

 どうせ考え無しに頭から行くんでしょうけど、とこれは声に出さずに呟いた。


 狼の遠吠えが響き渡り、キマイラが一瞬萎縮した。

 群集を割って巨狼が飛び出し、矢のような勢いでキマイラを蹴散らして、そのまま扉に突っ込んだ。盛大な破壊音と木に石を叩き付ける音が響き、扉が大きく撓む。巨狼が開啓したキマイラの隙間をルティたちがすり抜け、扉に身体を叩き付けている巨狼の背後を固めた。

 キマイラが妨害のために突っ込もうとするが、背後から最北の民が、正面からはルティたちが牽制する。


 幾度目かの体当たりで閂の支えが弾け飛び、扉を押さえるものがなくなった。

 だが、外開きの扉を引き開け、一度後ろに下がってから中に入り、それから扉を牽いて閉めるという一連の行動は、いがいともたつく作業だ。ただでさえ巨大で重い扉が、巨狼によって歪められている。

 簡単に引き開けられる、というものではなくなっていた。


 バードンとエンドラーズがそれぞれ左右の扉に取り付き、渾身の力で引き開けようとするが、やはり歪んだ扉は容易に開けない。

 その間、キマイラの妨害を防ぐため、巨狼が先頭に立ち、ルティとティア、メディが左右に展開して牽制する。混戦の中では巻き添えを恐れて石化能力を封印していたメディだが、戦線が整理されたことでその力を開放した。もちろん最北の民の真っ只中に飛び込んだキマイラには使えないが、不用意に突入してきたキマイラをまた一頭石に変えた。

 一瞬で石に変わったキマイラを見て、制御者は他のキマイラを最北の民に突入させざるを得なかった。


「大丈夫じゃない、こんな大きな扉なら獣化したままで」

 巨狼が楽々潜れそうな巨大な門扉の前で、メディは巨狼に振り向いた。


 最北の民とキマイラが入り乱れた状態では、巻き添えが発生しかねず石化能力使えない。

 もし、一気に突っ込まれてしまえば、一頭を石に変えている間にメディは噛み裂かれてしまう。

 背後から最北の民がキマイラを牽制するが、却って手負いになったキマイラは凶暴性を増し、与し易しと見た最北の民を威嚇し近寄らせない。



 バードンとエンドラーズが、やっとの思いで扉を引き開けた。

 巨狼が社の中に飛び込み、ルティとティアが後を追う。バードンが扉の中に滑り込もうとした隙を衝いて二頭のキマイラが躍り掛かる。だが、殿を固めていたメディによってまた一頭が石に変えられた。だが、反対側から同時に突っ込んだキマイラまでは石に変えることはできず、メディは蛇の首に痛撃を浴びてしまった。肩にざっくりと食い込む蛇の牙から、人間であれば即死させてしまう量の毒が注入されていく。


 ――メディっ!

 巨狼がキマイラを弾き飛ばし、メディの肩から牙を引き剥がす。

 蛇の首に吊り下げられるようになっていたメディは、その場に崩れ落ちた。


「ティアっ『解毒』っ!

 エンドラーズ様、『快癒』をっ!」

 慌てて戻ってきたルティが叫び、『蘇生』の詠唱を開始する。


「大丈夫よ、ルティ。

 でも、エンドラーズ様『快癒』だけお願いします。

 私の属性が何なのか、みんな忘れてない?

 私に蛇の毒は、効かないわ」

 肩を抑え、痛みを堪えながらメディは立ち上がった。

 ティアとルティの掌で発現を待つばかり呪文の光が、急速にしぼんでいく。


 『快癒』をメディに発現させたエンドラーズが、メディの目を見て頷いた。

 また一頭突っ込んできたキマイラの首の付け根を巨狼が噛み裂き、三つの頭の息の根を同時に止めた。そして巨狼が振り向きざまに扉に飛び込む。ルティとティア、そしてバードンがその後を追いかけた。バードンが扉を閉めようと振り向いたとき、エンドラーズが扉を蹴り、メディが身体全体で扉を押した。


「何、をっ!?」

 バードンが、信じられないものを見るような目で、二人に叫んだ。


「私、残るよ。

 アービィが決着つけるんでしょ?

 任せて、合成魔獣は。

 全部、石に変えてやるから」

 扉を背中で押しながらメディが言った。

 髪の蛇たちまでが鎌首をもたげ、一匹残らず臨戦態勢に入っていた。


「私も、残りましょう。

 言うだけでは、どなたにも信じていただけません。

 精霊の加護を最北の民の皆様に捧げましょうぞ」

 エンドラーズが、手持ちの聖水を全てルティに投げた。

 アービィたちからの返答を待たず、扉を閉め切ったエンドラーズとメディが向き直り、キマイラと対峙する。


「さぁ、メディ殿、存分にっ!

 いくらでも治癒させていただきますぞ。

 皆々様、後一押しでございますっ!」

 エンドラーズの声に押され、群集がキマイラに襲い掛かる。

 エンドラーズはそのままメディを庇うように前に一歩進み、剣を抜き放って正眼に構えた。



 閉められた扉を見つめ、アービィはメディとエンドラーズに向かって、胸の内で手を合わせていた。

 だが、すぐに社の奥へと向き直る。邪悪な波動が突き刺すように、一層強く伝わってきていた。


 アービィたちが飛び込んだ社は、切り立った崖を背に建てられている。

 扉の内側には大きな広間があり、その奥は崖の岩が剥き出しになっていた。そこに人一人がやっと通れそうな扉がひとつだけある。巨狼の姿では通り抜けられないと見たアービィが獣化を解き、レヴァイストル伯爵から送られた防具を身につけた。

 やがて、その扉が開かれ、中から五体の吸血不死者が進み出てきた。


「ニムファ様は、この奥でその二人をお待ちになっている。

 我らは、二人を案内するように命じられている。

 抵抗せぬなら危害は加えぬ。

 それ以外の者たちは、ここで死んでいただくがよろしいか?」

 吸血不死者は、そう言って四人と対峙した。


「悪いが、それは断る。

 我々は、誰も死ぬつもりなど、欠片もない。

 神の定めた法理に背き、理法を無視する不死者どもよ、貴様らこそ地上に存在してはならない者。

 灰に還るが良い」

 バードンが一歩進み出て、祝福法儀式済みの剣を両手に構える。


 次の瞬間、一気に間合いを詰めた吸血不死者の腕が振り下ろされ、長い爪がバードンに襲いかかった。

 バードンは軽く体をかわし、態勢を崩した吸血不死者を見下ろした。腕を振り抜いた勢いのまま身体を一回転させ、態勢を整えつつバードンに向き直った吸血不死者の視界を銀色の影が過ぎる。大上段に振り上げられた二本の剣は、そのまま真下に叩き付けられた。

 まるで豆腐を切るかのように、何の抵抗もなく振り下ろされた二本の剣は、吸血不死者の身体を縦に三つに切り裂いていた。


「偉そうな口をきいた割には、たいしたことねぇな。

 次はどいつだ、灰になりてぇ奴は!?」

 人狼狩りをしているときの口調に戻った、バードンが吼える。


「汚い口きかないのっ!」

 ティアが窘めるように行って姿を消す。

 程なくして一体の吸血不死者の首が落ち、灰となって吹き散らされる。


 突進してきた吸血不死者を、ルティはすれ違いざまの居合い抜きで斬り捨てた。

 胴を両断され、上半身と下半身がそれぞれ灰化しながら崩れ落ちる。


 残る二体の吸血不死者のうち、手近にいた方に駆け寄ったアービィは、人狼の力を完全開放した拳を振り抜いた。

 野球のピッチングフォームにあるスリークォーターのように振り抜かれた拳は、的確に吸血不死者の側頭部を捕らえていた。弾き飛ばされた吸血不死者が、最後に残った一体に頭から激突し、その腹を貫通し串刺しの状態で停止する。

 そのまま二体の吸血不死者は灰と化し、細かい粒子は入り交じり、例え月光を浴びたとしても二体の身体には復活できなくなってしまった。


「準備運動にもなりゃしねぇ。

 行こう」

 つまらなそうにバードンが吐き捨て、四人は扉に向かった。



 扉を開けると、狭く長い石造りの登り階段が、遙かに伸びていた。

 所々に照明としてランタンのような物が設置され、通り過ぎて行く四人の影を揺らしている。照明の他に通風口なのか、細い穴から風が吹き込んでいた。

 やがて、階段が尽き、広く長い廊下が現れた。その奥には扉があり、それを通して一際強い邪悪な波動が伝わってくる。

 四人は無言で頷き合い、扉を開けて中に入った。



「お待ちしていました、勇者様。

 二年前、ラシアス王城アルギールでお目に掛かって以来ですね」

 ルティとティア、そしてバードンをちらりと見て、僅かに顔をしかめてからアービィに視線を合わせてニムファが言った。


 誰もそれには答えない。

 ニムファが座る玉座の背後には、魔法陣を後光のように背負った黒山羊の頭と踵のない蹄を持つ異形の像が立っている。その手には一人の老人が、即身仏のように座らされていた。それが死体ではないことは、見開いた目に潤いがあることから判断できたが、その目は既に何も写してはいないようだった。

 その人物がこの争乱を起こした張本人であり、アービィの魂を人狼に封じ込んだ人物であることは、オセリファの話から推察された。


「あのときお預けした答えをお聞かせください、勇者様。

 国を、私を、差し上げても構わないと、あのときは申しました。

 今なら、私と手を携えていただけるなら、世界を差し上げましょう。

 私同様、不死の身体を手に入れ、永久に世界に君臨――」

「何も、変わっていないんですね。

 僕の答えも、変わっていません。

 女王様、いや、あなたを尊称や名で呼ぶことすら、僕には我慢できない。

 何故、あなたはそんなにすべてを欲しがる?

 人の幸せを、人の自由を、人の心を、何故そこまで踏みにじる?

 僕は、あなたを滅すると決めて、ここに来たんだ!」

 ニムファの言葉を遮り、アービィは一気に言い捨てた。

 欲望の塊、征服欲の権化、称賛のみを求める暴虐の女王。

 アービィの脳裏を、そんな言葉が通り過ぎて行く。もちろん、最後の女王は尊称などではなく、それ以上の者を知らぬという意味合いだ。


「何故、お分かりいただけませんか、勇者様。

 乱れた世界を救いたいという私の崇高な願いを、何故お分かりいただけないのです。

 生ある者に依る治世は、代替わりに混乱を招き、権力闘争の果てに世界を戦乱に巻き込むこともあります。

 不死の身体を持つ者が、永遠に世界を統治して、初めて世界は救われるのです。

 下等な人間は、導かなければならないのです」

 徐々にニムファの目が狂気に染まりつつある。


「いつか死ぬからこそ、人は生きた証を遺すために必死になるんだ。

 僕は、あなたの存在は許容できない。

 あなたは、世界を破滅させようとしているだけだっ!」

 アービィには我慢ならなかった。


 ニムファにとって民とは、自分を称賛させるためだけに存在する。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。自分を褒めそやし、すべての命令に従順である者だけを求めている。称賛しなければ強制し、従順でなければ虐げる。それでも意のままにならなければ、殺すことに躊躇はない。

 最早、それは治世ではない。



「どうあっても、私と手を携えるのは嫌と?

 その小娘か?

 勇者様を誑かすのは。

 死を以て償うがよい」

 憎しみに満ちた目でルティを睨み、玉座から立ち上がる。


 ルティを指す指先から得体の知れない光弾が弾け、ルティの胸に炸裂した。

 精霊呪文にはない攻撃魔法、マジックアローに類するものだが、全精霊の祝福を受けた防具は貫通されることはなかった。だが、衝撃までは無効化できず、ルティは悲鳴とともに吹き飛ばされた。

 咳込みながらも何とか立ち上がろうとするルティを庇うように、アービィが立ちはだかり、バードンが手を貸し、ティアが『治癒』を唱える。


「それがあなたの本性だ。

 気に入らなければ排除する。

 従わなければ虐げる。

 刃向かおうとすれば、殺してしまう。

 その後に何が残る!?

 そうやって世界にあなただけになって、何が残るんだっ!」

 アービィが剣を抜いて床を蹴る。


 全精霊の祝福は、重力結界を易々と無効化し、ニムファの眼前に立ったアービィが剣を振り下ろす。

 滑るように下がったニムファは剣をかわし、信じられないという目でアービィを見た。


「あなたまで!

 私の意のままであれば、誰も殺さぬ。

 すべてが私の意のままであればいいんだ!

 逆らわなければ、従えば、それだけでいいんだ!

 消えてしまえ。

 私の物にならない勇者など、消えてしまえっ!」

 ニムファが狂ったように叫び、指を振り下ろした。


 突如空間が裂け、ニムファとアービィの間の宙に、黒い亀裂が入った。

 亀裂が広がり、その表面が滴を落とされた水面のように王冠型の盛り上がりを作り、アービィを飲み込んだ。そして、アービィを飲み込んだ亀裂が閉じようとする。

 突然のできごとに、ルティの悲鳴が響いた。


「アービィっ!?」

 ルティが叫び、反射的にアービィを追いかけた。

 そのまま空間の亀裂に、ルティは飛び込んだ。


 危険を感じたティアとバードンが、咄嗟にルティを止めに入る。縋り付き、抱え込もうとするが、ルティは二人の手をすり抜けていた。宙を掴んだ手を呆然と見つめる二人の前で、空間の亀裂は塞がり何もなったかのように元通りになった。

 ティアの悲痛な叫びが木霊した。



 アービィは、どこかで感じたことのある感覚に捕らわれていた。

 真っ暗な中、細いチューブの中をゆっくりと滑り降りるような感覚にとらわれていた彼は、しびれたような頭でルティのことを考えていた。いきなり消えちゃって驚いているだろうな、と考えたとき、チューブの先に光が見え、人影がいくつか見えたと思った瞬間、彼の目の前には元いた世界が広がっていた。


 懐かしい家が視界に入り、その中が透過して見えてくる。父が、母が、仏壇の前に正座し、位牌に手を合わせている。その上の額には、紛れもなく自分の姿が写された写真が納められている。


 ――お父さん……お母さん……

 懐かしい呼び方を、彼は不意に思い出した。


 縁が薄いと思い込んでいた両親は、いなくなった自分のことを忘れることはなかった。

 十数年の時間とは思えないほど、両親は老いていた。自分がいなくなったことによる心労が、両親を過剰なまでに老いさせていたのだ。拗ねていたのは自分だったと、彼は今更ながらに気付かされていた。

 気付けば、彼の姿は日本人に戻っている。



「望めば、戻れよう。

 どうだ、お前は、元の世界に帰りたくはないか?」

 呆然とする彼の背後から、唐突に重々しい声が響く。


「誰だっ!?」

 振り向いた彼の前に、黒山羊の頭と踵のない蹄を持った異形の巨人が立っていた。


「誰だ、てめぇは?」

 日本人の口調に戻った彼が問いかける。


「我に名前などない」

 異形は重々しく言った。


「今、てめぇは『望めば帰れる』と言ったな。

 どういうことだ。

 今さら、どういうことだっ!」

 彼が叫んだ。


「お前の姿が、お前の心を表している。

 異世界での姿でいるお前の、望郷の念を、な

 女を捨て、仲間を捨てたいと思う、お前の本心がその姿だ」

 嘲るような笑いを浮かべ、異形が言った。


「ふざけるなぁっ!

 誰が、ルティを捨てるかっ!

 ティアを、バードンを、エンドラーズを、仲間たちを、誰が捨てるかぁっ!」

 彼は絶叫した。

 気付けばアービィの姿に戻っている。


「ほう、それではそこに見える悲しみに暮れる両親を捨てるというのだな?」

 黒山羊頭にある目を細め、楽しそうに異形は言った。


「親父……お袋……っ!

 てめぇ、人の心を何だと思っていやがる……」

 怒りのあまり、砕け散るのではないかと思うほど、彼は歯を軋らせた。

 姿が日本人に変わりつつある。


「楽しいやつだな、お前は。

 問う度に姿が変わる。

 どうだ、望めば元の姿を取り戻し、元の世界への扉を開いてやろう」

 すっかり日本人の姿に戻った彼に、異形は楽しそうに問いかけた。



「アービィっ!」

 突如空間が裂け、ルティが彼の横に降り立った。


「ルティっ!?」

 ルティが見たことのない人物が、ルティに呼びかけた。


「あなたが、アービィなの?」

 初めて見る大人の姿に、ルティは戸惑いを隠せない。


「ああ、そうだ。

 俺がアービィだ。

 今の姿は、日本人だけどな」

 彼はそう言ってルティに近付く。


「そんな大人だったったんだ。

 あんなに子供っぽいのにね。

 なんか、笑っちゃうな。

 見てたよ、ずっと。

 帰りたい?

 アービィ、ニホンに帰りたい?」

 彼の目を覗き込むようにルティが聞く。

 異形はことの成り行きを楽しそうに、残忍な笑みを浮かべて眺めている。


「……」

 彼は、返答に窮した。


 当然、見てしまえば帰りたい気持ちが湧いてくる。

 だが、ルティを置いて帰るなど、彼の選択肢にはない。しかし、老いてしまった両親を放っておくという選択肢も、また彼の中にはなかった。


「いいんだよ、あたしのことは気にしなくて。

 今までずっと、側にいてくれたんだもの。

 今度は、お父さんとお母さんを、安心させてあげて。

 いいんだよ、帰っても」

 ルティの目から、大粒の涙が零れる。

 被さるような異形の笑い声が響いた。


「貴様……っ。

 人の心を弄ぶのが、そんなに楽しいかっ!?」

 彼が異形に言葉を叩きつけるが、それもまた楽しそうに受け流す。


「怒り、妬み、怨み、苦しみ、悲嘆、どれも我が最高の食い物だ。

 人の心が、我の食い物であり、最高の玩具だ。

 もっと苦しめ、もっと迷え、もっと悲しむが良い」

 異形の高笑いが、空間を占める。


「アービィ、もう悩まないで。

 帰りなさい。

 あなたのいるところは、元の世界なんだから。

 無理矢理連れて来られたところに、いつまでもいちゃダメだよ。

 だから……

 ……行っちゃ……やだ。

 行かないでっ!

 あたしと、あたしと、ずっと一緒にっ!

 あなたをお父さんとお母さんから引き剥がすことになってしまっても、あたしは、あなたにっ!」

 ルティが号泣しながら彼に縋りついた。


 彼は、それでも迷っていた。

 ルティを抱きしめたいのだが、抱きしめた瞬間に日本との縁が完全に切れると直感で解っていた。両腕を広げ、ルティを抱きとめる寸前で、彼の動きは止まっていた。



 ――あなた、あの子はどうしてるかなぁ?

 ――どこかで、元気にやっているさ。死んだことになっているが、俺にはそうは思えない。どこかで元気にしていると、そう信じられるんだ。なんたって、あいつは俺たちの子だからな。それに、もう三十幾つだ。あのときいなくならなくても、今頃はとっくに親元を離れていたさ。いつまでも子供扱いでもないだろう。

 ――いつもそればっかり。でも、私も最近そう思えるの。やっぱり、あの子は生きている。もう二度と会えないけど、どこかで元気にしているって。あの子は私たちの子供だから。



 彼の前から日本が消えた。

 彼の心から、迷いが消え失せた。


「安心して、ルティ。

 僕は、迷わない。

 どこにも行かない」

 力強くルティを抱きしめたアービィが獣化する。


「ほう、親を捨てたか。

 お前は、酷いやつだ。

 狼になってどうするつもりだ?

 我の姿は虚構。

 牙は通用せんぞ?」

 異形が笑いながら巨狼に言った。


 巨狼が低い唸りを発し、異形と対峙する。

 次の瞬間、巨狼が跳躍し、牙を異形に打ち込むが、虚空を切り裂くだけだった。異形は何をするでもなく、笑いを顔に貼り付けたまま巨狼を見下ろしている。延々と続く巨狼の独り踊りを、異形の嘲笑が包んでいた。


「アービィ……。

 あたしは、あたしは、どうすれば、あなたの助けに……」


 ――ルティ……。ルティ、私と契約せし者の子孫よ。

 その声は、重々しく禍々しい異形のそれとは違い、軽やかで神々しさに溢れていた。


「誰、あたしを呼ぶのは!?」

 虚空からの呼びかけに、ルティは叫び返した。

 ルティの焦りとは裏腹に、その声は優しく落ち着き払っている。


「あなたは、一体誰なの?

 よりによって、こんな時に!」

 その落ち着きが、却ってルティを苛立たせる。

 目の前で苦闘を続けるアービィに、手助け一つできない自分がもどかしい。


 ――私は、世界の均衡を司る者。地水火風の精霊たちは、私が使いし者たち。精霊の王と呼ぶものもいます。

 落ち着いた声が答えた。



 かつて、歴史が始まる頃。

 千年帝国が成立する遙か前の時代のことだ。


 人間の数はまだ少なく、各地に集落は点在するが、大規模な町はまだ形成されていなかった。集落はそれぞれが独立した国家であり、狩り場や農地を巡っての諍いはあるものの、北の大地のような殺し合いをするほどには切迫してはいなかった。

 次善は充分すぎるほどあり、交渉と譲り合い、駆け引きで平和は保たれていた。


 人間同士の殺し合いが起きない理由が、もう一つあった。

 魔獣の存在だ。

 当時、呪文や系統立った戦闘術などはまだ確立されておらず、闘いといえば、力任せの殴り合いでしかなかった。その中で剣や槍、弓などの武器が発達し、それを防ぐために立てや鎧、兜が発達した。

 しかし、人間の物理的な力など、魔獣の前には無力に等しかった。


 魔獣の群れの襲来は、天災だった。

 それを防ぐため、防護柵が改良を重ねられ、鉄の利用法が確立された。そして、強大な敵に立ち向かうため、集団戦闘の訓練が始められ、軍隊へと発展していく。

 それでも純粋な、物理的な力の差は圧倒的で、人々は魔獣に脅えながら暮らさなければならなかった。


 南大陸の中心地にある集落に、ベルテロイという錬金術師の家族が住んでいた。

 錬金術の研究の過程で、まったくの偶然から精霊との交感回路を開いてしまった。そして、地水火風の精霊が純化した力を、一定の言葉と共に現世に呼び出すことに成功し、呪文が誕生した。だが、その彼は呪文を一家の占有とすることを、良しとは考えなかった。魔獣から身を守るために呪文が役立つと気付いた彼は、精霊と一定の契約をすれば誰でも行使可能なものであるべきと考えたのだった。

 精霊と彼の子孫の何代にも亘る試行錯誤と、多くの人々の協力と犠牲を経て、いくつかの呪文が汎用化された。

 その過程では、あまりにも強大な力を有するため、封印れた呪文も存在する。その後も彼の子孫は呪文の改良に励み、大帝国成立の頃には現在の呪文体型が完成していた。知識として残された『禁呪』は一子相伝で代々受け継がれたが、その使用は固く禁じられた。

 いつしか、彼が居を構えていた地は、家族の名からベルテロイと呼ばれるようになっていた。


 南大陸を統一した帝王が、その子孫に目を付けたのは当然のことだった。

 既に伝説となっていた禁呪の封印を解けば、最終兵器を手にしたと同然だ。帝王は莫大な報奨金を提示し、呪文の封印を解くことを求めた。しかし、その家族は峻拒した。世界を破壊しかねない強大な力を解放してはならないと、代々いう戒められていた。そして、精霊からもその力の解放は拒絶されている。現実問題として、知識だけを売り渡しても、精霊が拒絶している以上解放は無理だった。

 だが、自身を全能の身と信じていた帝王は、そうは考えなかった。


 叛意あり。

 その家族を反逆者と断定し、大帝国からの追放を公布した。しかし、周囲はその家族の人柄やかつての人々への貢献を忘れていなかった。ベルテロイを逃れ、大帝国の実効支配が行き渡りきっていない、大陸南端に住み場所を求めたのだった。いつしかベルテロイという家名は、大陸南部訛りでバルテリーと呼ばれるようになっていた。

 そして、『禁呪』を封印するため、その子孫は錬金術師を廃業し、商人として生きる道を選んだのだった。



 それだけの情報が、一気にルティの頭に入ってきた。

 いや、始原の記憶が浮き上がってきたといって良い。


「あなたの言うことは解りました。

 それで、あたしに一体、どうしろと?」

 恐る恐るルティは聞いた。

 自分そんな大それた存在だったなど、信じることなど不可能だ。


 ――禁呪を解放します。一度だけ。ここは世界とは異なる空間です。破壊されるものなどありません。ですが、一度だけです。二度は、あなたの身体が持ちません。一度でも、危険なことには変わりはないのですが。

 落ち着いた声が返ってきた。


「あたしにそんな力が?

 やるっ!

 アービィを助けられるなら、何でもやるっ!」

 ルティは即断した。

 今まで、戦いの中でアービィを助けたことなど一度もないと、ルティは思っていた。強大な力を持つ人狼が、すべての障害を噛み裂いてきた。ルティは、ただその後ろをついてくるだけだった。


 アービィにしてみれば、精神的にどれほどルティに助けられていたか解らない。

 だが、それはルティにしても同じことで、それはお互い様だと考えている。それ故に、命の危険に晒されたとき、アービィに頼りっぱなしだった自分が情けなかったのだった。


 ――いいですか、どんな力を以ってしても、あの異形を倒すことは不可能です。何故なら、あれは、人の心。

 穏やかな声がルティに言った。


「人の心!?

 あんなものが、人の心?

 あたしの中にも、いるってこと!?」

 驚愕に顔を歪めてルティが聞き返した。


 ――そうです。人の心です。怒り、悲しみ、妬み、怨み。ありとあらゆる人が持つ負の側面が具現化したものです。あなた方が言う、悪霊の権化と思ってください。ですから、人がこの世に存在する限り、あの異形もまた、存在し続けるのです。

 少しだけ悲しそうな声がルティに伝わる。


「じゃあ、禁呪を解放しても、倒せない?」

 肩を落としてルティが言う。

 こうしている間もアービィは異形に牙を振るっているが、虚空を噛み続けているだけだった。

 異形は一切攻撃せず、腕を組んだまま巨狼を見下ろしている。


 ――ああして攻撃が通用しないことで、狼の怒りを買い、それが異形の力となるのです。そして、いつしか怒りに我を忘れ、異形に取り込まれ、同化されてしまうのです。ですが、そうなる前にわたしの力を一気に叩き付ければ、あの異形とて一時的に散り散りにできるでしょう。その隙にあなたが『雷電』で空間を切り裂き、この異空間を脱するのです。私が空間を閉じれば、あの異形の力を封印することができます。

 落胆するルティに、落ち着きのある声は優しく説明した。


「あたしは、黒呪文を――!?」

 ルティの意識の奥底から、全ての黒呪文が浮き上がってきた。


 ――あなたは、私と契約した者の子孫なのです。生まれたときから、既にあなたの意識下にはすべての呪文が埋め込まれています。禁呪も浮き上がってきていますね?

 ルティの前に光の玉が現れ、それが次第に巨大な人の形を作り始めた。

 脳裏に響いていた声が現実のものとなり、ルティの前に立つ光の巨人から聞こえてくる。


「はい。

 始めます」

 呼吸を整え、ルティは『禁呪』の長い詠唱を開始した。



「ほう、無駄なことを始めたようだな。

 この身を吹き飛ばそうと、打ち砕こうと、人がいる限り我は何度でも蘇る」

 異形は、ルティと光の巨人に向かって吐き捨てる。


 ――そうだ。人がいる限りお前は何度でも蘇るんだろう。でも、お前を生み出すのが人の心なら、お前を押さえ込むのも人の心だ。いつになるか分からないけど、僕たちはお前を飼い慣らす。

 巨狼の脳裏にも、ルティが会話していた内容が聞こえていた。

 一切の攻撃を止め、哀れむような、慈しむような眼差しで、巨狼は異形を見つめた。

 もう、旅立った頃の凶相は、その面影を残していない。澄み切った湖のような、深く静かな切れ長の瞳がそこにはあった。


「なんだ、その目はっ!?

 我を哀れむのかっ!?

 情けを掛けると言うかっ!?」

 それまで嘲笑の形になっていた異形の表情が、怒りに歪む。


 ――哀れんでもないし、情けを掛けてもいないよ。僕の中にもいるんだろ? 僕には解る。同胞の怨み、怒り、悲しみ。それがお前だ。解るんだよ。

 巨狼は静かに言った。

 ルティが始原の記憶を呼び覚まされたとき、同時に巨狼の脳裏にも人狼という生物種の記憶が浮き上がっていた。

 長い長い迫害の歴史は、異形を作り出すに充分だった。

 自分の中にも異形が存在することを、アービィは自覚していた。


「やめろ、そんな目で我を見るな。

 怒りを忘れたか?

 迫害の歴史を忘れたか?

 人間に対する怨みを、貴様は忘れてしまったのかっ!?」

 慌てふためくように、どこか悲しそうに表情を歪め、異形が叫んだ。


「お前もだ。

 祖先が人々に恩を仇で返された悲しみ、怒り、怨み。

 得られるはずの称賛や尊敬を失った失望や怨念を、忘れたとは言わせぬ。

 何故、我を受け入れぬ?

 何故、我と同化せぬのだっ!?」

 黙って澄んだ瞳を向けるだけの巨狼から視線を逸らせ、『禁呪』を詠唱するルティに対し、異形は言い募る。


 ――忘れはしない。でも、しがみつきはしない。前に進むんだ。

「怒りも怨みも落胆もたくさんあったけど、愛も喜びも嬉しさもたくさんあった。

 これからもきっと。

 怒りを感じたり、怨んだり、落胆したり、悲しんだり。

 きっと、たくさんあるけど、愛があって、喜びがあって、嬉しいことがあれば、人は生きていけるわ。

 あなたが何度蘇っても、受け入れてあげる。

 あたしたちが包み込んであげるわっ!」

 長い詠唱が完成し、目を開いたルティが異形に慈愛に満ちた視線を投げ掛け、そして『禁呪』が発現した。


 地水火風すべての精霊が、持てる力を一度に解放した。

 性質の異なる力が互いに衝突し、不協和音のように調和のとれない共鳴を開始する。耳障りな共鳴が一気に高まり、徐々に調和がとれ始め、共鳴音が潮が引くように静まっていく。

 一切の音が消失した瞬間、巨大な破壊が発生した。


 精霊の結界がルティと巨狼を包み込み、破壊からその身体を守っている。

 すべての力をその一身に受けた異形が、痕跡すら残さずに消失した。


 ――ルティ、『雷電』を。空間が不安定になっている今しか、斬り裂く機会はありません。

 結界が消滅し、破壊が荒れ狂う空間にルティと巨狼は放り出された。

 身体全部が軋むような圧迫に、動きを封じられ、思考さえも止まろうとした。


 ――早く、ルティ。空間が安定してしまっては、もう斬り裂けなくなってしまいます。

 慌てたような声がルティの脳裏に響く。


 だが、荒れ狂う破壊の圧力に、ルティの身体は完全に動きを止められていた。

 巨大な圧力に身体をちいさくまるめられ、まるで胎児のような格好になっている。


 ――悔しいよ。アービィ、巻き添えにしちゃってごめんね。死ぬのかな、あたし。

 意識が遠のき始め、視界が暗くなる。

 光の巨人が叱咤するが、指一本動かすことができず、そうする気力も失われ始めた。


 やがて視界が真っ暗になったとき、急に身体に感覚が戻った。

 身体の回りを、しなやかな毛皮が覆っている。巨狼がルティを包み込み、圧力から守っていた。


 ――ルティ、帰ろう。みんなのところへ。

 巨狼から届いた念話に、ルティが覚醒した。


 短い詠唱の後、『雷電』を発現させるため、ルティが身体を伸ばそうとする。

 巨狼がルティを包み込んでいた身体を一瞬弛め、その隙間を衝いて『雷電』が一条の光となってルティの指から伸びた。通常であれば雷光が撃ち出され、一瞬で効果が消失する『雷電』が、ルティの指先に持続されていた。

 巨狼がもう一度身体を弛め、ルティが腕を振り下ろす。


 宙空に一筋の亀裂が入った。



 ティアとバードンは、追い詰められていた。

 アービィとルティが消えたことで生じた動揺を衝かれ、魔矢をしこたま喰らっていた。防具に覆われていない顔や喉といった部分への、致命的な直撃は辛うじて避けていたものの、数え切れないほどの被弾は着実に二人の体力を奪っていた。回復呪文を唱える暇も与えずに襲い来る魔矢に、反撃の糸口を見出せずにいた。


「口ほどにもない。

 這い蹲って許しを乞い、不死者になるなら許しましょう」

 尊大な、卑しい笑みを浮かべニムファが言う。


「やかましいっ!

 誰が貴様なんぞにっ!」

「死んでも御免よ、そんなことっ!」

 次々と飛来する魔矢を叩き落としながら、バードンとティアは同時に叫んだ。


 その隙を衝かれ、ついに魔矢がティアの右腕を、バードンの左太腿を貫通し、どちらも骨を砕いていた。

 腕を押さえうずくまるティアの視界に、もんどり打って倒れ込むバードンの姿が飛び込んだ。気力を振り絞り、『快癒』をバードンに掛けようとしたティアの左上腕に、さらに一本の魔矢が貫通する。

 呪文の詠唱を強制的に止められたティアは、反射的にバードンに覆い被さった。


 無数の魔矢が殺到し、二人の全身に命中する。

 だが、貫通するはずの部位に命中した魔矢は、貫通どころか皮膚を傷付けることさえなく消滅した。ニムファは次々に魔矢を撃ち出すが、どれも二人を傷一つ付けることなく消滅し、ついには宙空で消え失せてしまった。


「何故!?

 何が起きたというの!?」

 慌てふためきニムファが叫ぶ。


 そのとき、ニムファと二人の間の空間に、一筋の亀裂が走った。


「何!?

 そんなことが!?」

 再びニムファが叫んだとき、ルティを背に乗せた巨狼が舞い降りた。


「これで終わり。

 あなたの神は、消滅したわ。

 もう、あなたに力はないの」

 ルティが切っ先をニムファに向けた。


「何故、なんで、みんな私の邪魔ばかり……」

 力が消失したことを自覚したニムファが、か細い声で呟いた。


 突如、背後の神像に亀裂が走り、全身へと広がっていく。

 グレシオフィの身体が灰化し始め、砂の城が波に溶かされるように崩れ始めた。


 ――オセリファ……

 グレシオフィの思念が伝わった。


 ニムファの身体が、グレシオフィと同期して崩れ始める。


「嫌……

 嫌っ!

 嫌ぁっ!

 まだ世界はっ!

 世界は私の物になってないっ!」

 半ば原形を留めていない状態でも、ニムファは世界を望んでいた。


 ――終わりだよ……僕を喚んでくれてありがとう。あなたも、僕を…… 

 巨狼はグレシオフィに目を遣り、その牙をニムファの首に突き立てた。

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