煙草を喫う少年の話
日本の夏というのは実によくない。
うだるような暑さ、だけならまだ何とか耐えられないこともないが、そこに湿気と、加えて言うならエアコンの不調が重なると本当に良くない。
金曜の昼下がり、窓も扉も全て開け放しているというのにまったく空気が動かない下宿。その窓辺で俺は紫煙をくゆらせパソコンを叩き、今週末には提出しなければならないレポートを作っていた。
ふと目前の熱源に目を向ける。
まったくどうして俺は暑い暑いと文句をたらしながら顔の前で火を焚いているのかと忌々しくは思うが、しかしこれがあった方がレポートを叩く指が良く動くのだからしようがない。
大きく息を吸い二酸化炭素とタールとニコチンを肺に落とし、しばし薄い酸欠に酔った後、燻製臭い煙をゆっくりと吐き出す。
こうすると、いささか書いてやろうかという気が起きてくる。
何とも、ろくなものではない。
俺は最近二つほど悩みが増えたのだが、この細い巻紙がその一つだ。
では、もう一つは何なのかというと、
キンコーン
チャイムが鳴った。
時計を見ると、なるほど、もう来てもおかしくない時間だったか。
鍵をかけておいてやりゃあよかったと後悔する間に、まだ何も言っていないというのに勝手に入ってきた足音が聞こえる。
「だめですよ、お兄さん。鍵あけっぱにしちゃ。」
「今閉めようと思っていたところだ。」
この、こいつ。微かに甘い香りをさせるこの小僧こそ俺のもう一つの悩みの種。
チャイムを鳴らす存在ならNHKの集金の方がまだ幾分かましだろう。
本人は高校生だと言っていたが、しゃべり口の子供らしさと顔の幼さからまだ中学生のような印象も受ける。そんなガキになぜか懐かれてしまっているのがここ最近できた悩みの二つ目だ。
こいつを始めて見かけたのは今からおよそ六か月ほど前、まだ煙草を始めていなかったころだ。
俺が下宿の安アパートに帰ってくると、駐車場の隅で座り込んで不味そうに煙草を吸っているこいつを見つけた。
その時は群れずに不良するとは珍しいガキだと流していたのだが、そこからたびたび見かけるようになり、変に猫が居ついたような心持だった。
しかしまぁ、声をかけるほど気に留めていたわけでもない。面倒くさそうな臭いのするガキだなぁと遠巻きに眺める程度で済ましていた。
だが、転機は唐突に訪れた。
まぁ、俺が調子こいて話しかけただけだが。
その日、俺は気分が良かった。コンビニで釣銭が出ないように払えたし、道端で五百円拾えた。競馬でもいささか気持ちよく勝てたし、珍しく追われる課題もなかった。
だから、ほんの少しばかり気が大きくなっていたのかもしれない。
なんせその日は久々にめぐりあわせが良かった。
今日の最後に、こんな日ざらしで不味そうに煙草を吸っている変なガキにちょっと老婆心を出して話しかけてみようとしても責められるものではないだろう。
しかし、これが良くなかった。
こんな一時の迷いで今日まで続く訳の分からん因縁ができてしまうのだから行動というのは慎重を期した方がいい。
ともあれ、俺はそいつに声をかけてしまったのだ。
たしか、お前こんなところで何やってんだ、とかだったか。
その俺の問いかけに奴は極めて嫌そうな顔を見せた。
煙草に混じって甘いミントの香りを漂わせながら、こちらを見る。
「見てわかりませんか」
「タバコを吸ってるように見える」
「そうです。わかってるなら聞かないでください」
「なんでこんなとこでタバコ吸ってんだ」
「お兄さんには関係ないでしょ」
「ないことはないぞ。俺はここのアパートに住んでてな、お前が座り込んでるそこも俺の共益費が一部使われているはずだ」
まぁ、俺が入ってから管理されている様子はないが。
そう言った俺の言葉にいよいよ面倒なやつに絡まれたと思ったらしい。少年は立ち上がると、
「もう行きます。話しかけないでください。」
「まてまて、別に追い出したくて話しかけたわけじゃない」
「じゃ、なんなんですか」
律儀に返事を返すこいつは大概まじめだなぁと思いつつ、俺は見かけてから少しばかり気になっていたことを聞いた。
「なんでそんなマズそうにタバコ吸ってんだ」
「…まずそうでしたか?」
「ん?あぁ、ま、タバコったって嗜好品だろ?だっつーのにそんな嫌そうに吸われたらタバコだって困ろうに、何か理由でもあるんじゃないかと――」
「帰ります」
「あ、おい、」
そう言って煙草を踏み消してすたすたと敷地から出ていく少年を、俺は今度こそ止める手立てを失った。
少年からした甘い香りがタバコの匂いだと気づいたのは、それから数秒立った後の事だった。
もう来ないかもなーなどと思いつつ、翌日下宿に帰ってみると意外な事にかの少年は相変わらず隅っこで煙草をふかしていた。
どうしたものかと頭を悩ませていると、向こうもこちらに気付いたようで、
「お兄さん、ちょっとお話いいですか?」
こう話しかけられ、すわカツアゲかと怯えてついて行った先でされたのは何ともありふれた日常の愚痴だった。
二人して駐車場に座り込み、どこの女は尻が軽いだの、何ぞの教師は時間の管理すらできないだの、どうでもいいような話を少年が話したいだけ話し、俺が適当に相槌を打っているうちに愚痴を終えた少年は吸い殻を二、三本残して帰っていく。
毎日ではないが、こういう関係がしばらく続いた。
俺はいささか面倒な事になったなぁと思いながらも、奴について少しだけ詳しくなっていった。
例えば、奴は未成年で煙草を吸うような不良であるくせに変な所でいやにまじめだった。
話を聞く限り宿題はきちんとやっているようだし、学校をさぼることもほとんどないようだった。吸い殻もきちんと踏み消して行く。まぁ、残った吸い殻は俺が片付けているが。
それから、煙草を吸っている時はいつだって不機嫌そうな面をしているが、というか事実不機嫌だったが、それでもほんの少しマシな時とそうでない時があった。
そうでない時は周囲の人間を酷く罵ったものだが、マシな時は少しだけ彼の私生活にまで話が広がることがあった。
真に上機嫌な時などは、こちらの質問に答えるばかりか、少しだけ眉根を緩ませる瞬間すらあった。
ある時、煙草をどこから調達しているのかと尋ねてみたことがある。
「機嫌がいい時、父がくれるんです。」
そう言って普段よりも柔らかくなる彼の横顔を見て、ろくでもないなぁという感想を俺は喉の奥にしまった。
そんなこんなでこれまで関係が続いてきてしまっているわけなのだが、あの頃からいささか変わった所もある。
まず、奴は俺の部屋に入り浸るようになった。
じきに夏も本格化しようというころ、そろそろ外で喋るのにも限界を感じていた時の事、玄関を開けて下宿に入ったらなぜか当然のように奴がいた。
盗られるものもあるまいと鍵をかけていなかったのが悪いのだろう、いないと思っていたところに人がいた時は実に胆を抜かしたものだ。
そして、その頃から奴が我が家に上がり込む頻度も徐々に増えて行った。
それから俺も煙草を吸うようになった。ミイラ取りがミイラというのか、なんとなく奴の喫煙を止めにくいような気分になる。
いや、俺は別に法律に違反しているわけではないのだから咎める権利は十分にあると思うのだが、なんというか、こう、わかるだろうか。
こうして俺たちの関係は出来上がってきたわけだが、人間関係というものはよく分からない起こりから始まるものだとつくづく思う。
「お兄さん、何してるんですか?」
つらつらと昔の事を振り返っていると、現在の奴がパソコンを覗き込んできた。
「レポート書いてんだよ」
煙草を口先でもてあそびながら答えてやる。
「いつまでなんです?」
「金曜の午後五時まで」
「え、それ今日じゃないですか。間に合うんですか」
間に合う、はずだ。締め切りまでは後一時間ぐらい残っているはずだし、ここからあの教授の部屋までは十分とかからない、はずだ。
打つ内容は大体決まっているのだから変に詰まりさえしなければなんとかなる、という見通しで俺は今キーボードを叩いている。
まぁ、この見通しが狂ったところで俺の評定が一段階下がる程度で、進級にも関わらないしそんなに大事かと言われるとそうでもないのだが。
ふと、覗き込んでいる少年に目を向ける。
昔を思い出していてわかったが、半年前と比べてこの少年も多少は表情が緩むようになってきた。
驚くべきことに、今目の前にいるこいつの眉間にしわはない。
ここ半年の俺の大いなる成果と言っていいだろう。
やがて興味を失くしたようで、少年は机の上から煙草の箱を取っていくと壁際にもたれかかる。
「おい、タバコを取るんじゃない」
「いいじゃないですか、減るもんじゃないですし」
「減ってんだよ、タバコが、明確に。」
箱から煙草の頭を出しつつ、薄っすら笑って奴は抜かす。
愚痴をこぼしていた奴の口元から笑みがこぼれたのは幸いな事だが、それはそれとして俺の煙草を勝手にとるのはやめていただきたい。
俺が煙草を吸い始めてから二週間ほどで奴は父親の煙草から俺の煙草に乗り換えやがった。
最近、また煙草の価格が上がったので本格的にやめて欲しいのだが、奴にやめるつもりはないらしい。
奴は煙草をくわえるとこちらに向けて
「火、貸してください。」
と言ってきた。
このアパートは禁煙だぞとぼやきながら、先輩方の遺してきた壁の黄ばみを横目に百円ライターを取り出そうとする。
すると、奴はそれじゃないとばかりに眉根を寄せて、くわえた煙草の先を指先で軽くたたく。これが奴の最近のトレンドらしい。
全くどこで覚えてきたのか、面倒なものだ。
奴は切りそろえられた穂先を向けてこちらに近付いてくる。
軽く息を吐いて、こちらも薄赤い灯りを向けてやる。
そうしてすぐそばの奴の顔から眼をそらし、深く息を吸って、―――
火のついた煙草をくわえて満足そうに離れてゆく奴の顔をぼんやりと見ながら、これが不器用な奴なりの甘え方なのかもしれないと思う。
人との近づき方も知らない人間なりの精一杯の理由付け。
その相手がよくわからん大学生というのはいささか思う所もないではないが、彼にそう思える相手ができたことは素直に喜ばしい事なのだろう。
時計を見ながら諦めと共にパソコンを閉じて、俺は雲一つない空を見上げる。
少しは曇ればましにもなろうと思いつつ、部屋の壁際に目を移す。
壁際に積んでおいたマンガ雑誌をめくっている、いつも通りな少年の姿に目をくれる。
薄い胸板に骨ばった指。首筋から微かに覗いたあざの痕からは目をそらして、俺は煙を深く吸う。
彼の来訪が増えた理由も俺の煙草を吸い始めたわけも、俺には全く知る由もない。
互いの名前だって知らないのだ。知る気もない。
けれど、この部屋にいるときぐらいは甘い香りに気付かぬようにと、俺はそっと苦い苦い煙を吐いた。
因みに未成年の喫煙は法令により禁止されています。
未成年者に売る行為はもちろん、勧める行為も違法です。
つまり、この話の登場人物は全員犯罪者という事ですね。