チュパカブラ令嬢は牛伯爵の夢を見ながらビーフジャーキーを食べる
その日、チュパカブラ令嬢こと【カブラー・真紀】は眠れぬ夜を過ごしていた。
頬に打たれた平手の痛みよりも熱く、あの牛伯爵の凛々しくも逞しいマスクが彼女の体温を上げていた。
手にしていたビーフジャーキーが、体温で少し臭い始めていた。
「この娘──太閤殿下のお召し物にクソ不味い青汁を……!!」
「チュ、チュチュパパァァ!!」
真紀は不注意から手にしていたグラスを傾けてしまい、深緑のエメラルドブルースープを太閤殿下の脚にこぼしてしまった。
年に一度の晩餐会。太閤殿下の息が掛かった者達だけが招待される、権力者の集いである。
「太閤殿下!! 娘がとんだ不躾を……!! 申し訳ありません!!」
直ぐさま、真紀の父親である【カブラー・小西】が取り繕いを持とうとしたが、太閤殿下は機嫌を悪くなされ、自室へと引っ込んでしまった。
「真紀!! お前という奴は……!!」
「チュチュパパァァ……!!」
──パチンッ!!
「いくら謝っても取り返しなんぞ付かぬ事! 謹慎を申し付ける! 追って沙汰があるまで控えておれ!!」
「……チュパァ」
カブラー家の離れの小さな屋敷に通された真紀は、二階の日当たりの良い角部屋にて、深くため息をついた。手にはグラスを持ったままであった。
──カンッ。
「……ブモゥ」
「チュパッ?」
真紀の居る部屋の窓ガラスに、何かが当たる音がした。家畜の鼻に着ける輪っかだ。
真紀が窓を開けると、下に牛伯爵こと【エーゴ・ランク】が見えた。真紀が粗相をする直前に話していた相手だ。
「ブモブモ、ブモブモ」
「チュッ!? ……チュチュチュパ!」
真紀が粗相をしてしまったのは自分に非があると、ランク伯爵が神戸を下げる。真紀は直ぐさまそれを否定し自らの非を認めたが、伯爵は申し訳なさそうにポケットから一枚のビーフジャーキーを取り出し、真紀へと投げた。
「チュパパ……!」
あたふたとビーフジャーキーを取りこぼしそうになるも、何とか掴むことが出来た真紀。
その意図を伺おうと窓から顔を出すが、既に伯爵の姿は無く、真紀はビーフジャーキーに書かれた『間もなくお迎えにあがります』の文字に首を傾げた。
翌日、カブラー家の本屋敷は騒然としていた。
太閤殿下への謝罪の準備をしていた小西の耳に、デスペラント家との間で内密に進めていた真紀との縁談を破棄するとの話が入ってきたのだった。
「太閤殿下の一件でデスペラント家から見切りをつけられた!! このままでは我がカブラー家は……!!」
小西は足音酷く地面を踏み付け、真紀が居る離れへとやって来た。
「支度をしろ!!」
「チュパッ!?」
お家存続の危機。小西の顔は鬼と化していた。
馬車に乗り、真紀とデスペラント家へ。しかし、デスペラント家側に取り付く島もなし。
「カブラー家の生き恥晒しが!! このっ! 育ててやった恩を仇で返すような真似をッッ!!」
デスペラント家からの馬車の中、小西は持っていた杖で真紀を二度三度殴打した。
「チュパパァァ……!!」
うずくまり謝罪の意を表す真紀であったが、小西にそれでもなお、真紀の背中を強く、何度も殴打した。
「太閤殿下へのお目通りは?」
「五分だけ、とのことです」
「十分だ」
小西は太閤殿下の御殿に着くまでの間、爪を噛んだり、腕を組み忙しなく貧乏揺すりを頻繁に行っていた。お目通りが叶う事は取り付く島が辛うじてあると言うこと。太閤殿下のご機嫌を取り戻せればデスペラント家へ真紀を売れる。
今度こそしくじれない。小西の身体を酷い緊張が包んでいた。
「殿下、先日は御無礼を致しました」
「…………」
真紀は土下座をしていた。いや、させられていた。
太閤殿下へのお目通りの直前、小西から土下座をするようにと言われていたのだ。
「このような事しか出来ませぬが、どうかお許しを頂ければ……!!」
真紀の隣で、小西もまた土下座をした。
「カブラーの」
「はっ!」
名を呼ばれ、小西は面を上げた。太閤殿下の顔色は芳しくない。
「好きな物を選べ」
と、側近が数人小西の傍へとやって来た。皆、一様に棒のような物を持っている。それぞれ形や材質こそは違えど、そのどれもが刑罰や拷問で使う打擲用の物であった。
「…………」
「選べ」
「は、はっ……!」
殴られる!
小西は額、全身から噴き出る汗をどうしようも出来ず、思考が鈍り、そして想像し難い痛みに恐怖し、歯が震えてだした。
しばらくの葛藤の末、小西は木製の丸棒を選んだ。
鉄製の打擲棒もあったが、流石に鉄で殴られたら死ぬと思い、選ぶに選べなかった。
「構えよ」
小西は自らが選んだ木の棒を、差し出された。
太閤殿下は小西が鉄製を選べば小西を、木製を選べば真紀を殴らせるつもりでいたのだ。
この期に及んで自らの命を案ずる愚かしい選択をする輩に、自らの娘を殴らせようとしたらどうなるか、実に見物であった。
「……えっ?」
一瞬、訳が分からず太閤殿下に疑問の顔を投げかけてしまい、慌てて顔を引き締めた。
「其奴で不敬な奴を殴れ」
「──!!」
小西は理解した。
そして自らが救われたと、地獄から天国へ上ったかのような高揚感、開放感、達成感が全身を包み込んだ。
救われた!!
小西の目に迷いは無かった。
「チュパーーーーッッ!!!!」
躊躇無く、その一撃は下ろされた。
御殿に真紀の悲鳴が轟く。
小西の顔には娘に対する気遣いや安否など微塵も感じられず、あるのは自らが救われることに対する優越感だけであった。
「カブラーの」
「はっ!」
「誰が止めて良いと申した?」
「ははっ!!」
「──ッッ!!」
二発目以降は声にもならず、真紀は蹲り耐えるしかなかった。
真紀を殴り続ける小西の顔は、既に人の様を失っていた。
「……もうよい」
「はっ!」
「下がれ」
「ははっ!」
「カブラーの」
「はっ!」
「其方も鬼畜よの」
「…………」
小西は何も言わず、ただ深く頭を下げた。
真紀は意識を失い、そのまま引き摺られるようにして御殿から去った。
真紀はそのまま朝まで目を覚まさなかった。
痛みで目が覚めると、体中に出来た痣に酷く悲しみ、そして痛みで動けず、ただ泣き続けるしかなかった。
太閤殿下からお許しを得られた小西は浮かれていた。じきにデスペラント家から接触がある。そう思い込んでいた。
「旦那様、ランク伯爵がお見えです」
「?」
小西は緩んだ頬を引きしませ、伯爵が待つ応接室へと踏み入った。
「これはこれは伯爵」
「ブモブモゥ……」
伯爵はその身に隠していた打擲用の牛製の棒をそっと小西へと向けた。その目には怒りが見て取れた。
「は、伯爵!?」
「ブモブモブモブモ」
「あ、あんなチュパカブラみたいな娘を殴って何が悪いと!?」
「ブモブモブモブモ」
「娘を娶るぅぅ!?」
小西の頭を疑念と謎が過ったが、伯爵が嘘を言っているようにも見えず、ただ不思議がった。
その後、伯爵に娶られればカブラー家も安泰ではないかと、そんな考えが過る。そして頬が緩んだ。
「ブモブモブモブモ」
「へっ!? 私を殴るですって!?」
「ブモブモブモブモ」
「ちょっ、待って! 待ってくれ! あーーーーっ!!!!」
痛みでどれだけ泣いたか分からぬ真紀の部屋の扉が乱雑に開いた。
投げ出されるような形で満身創痍の小西が転がり込む。
「真紀……すまなかった…………」
「チュパッ!?」
その後ろにランク伯爵の姿が見えた真紀は、全身の痛みに耐えながら、ゆっくりと起き上がった。
「ブモブモ……」
「チュチュパ……」
二人の間に言葉など要らなかった。と言うか会話になっていなかった。
二人は激しく見つめ合い、そして何とか頑張ってキスをした。鼻の輪っかがメッチャ邪魔だなぁ、と真紀は思った。
「チュチュパパチュ」
真紀は小西に絶縁を申し出た。
小西は蹲り、痛みでただ泣くしかなかった。
「ブモゥ」
真紀は伯爵に抱えられ、そのまま馬車を横切り、野花が咲く小道をゆっくりと連れて行かれた。馬車の揺れが身体に障ると伯爵は思ったからだ。
「チュパ……」
「ブモ」
温かい風が二人を包み、松坂の伯爵の屋敷までずっと続いていた。