9 不可侵条約
「我が国は、貴国との不可侵条約を望むわ」
エレナードの提案に対し、ラプタリア王は眉をぴくりと動かす。
『不可侵、条約……?』
「ざっくり言えば、互いを軍事力で攻撃しないという中立条約みたいなものよ。今後アンタ達が魔王討伐連合軍に参加しなければ、私達はアンタの国を攻撃しない。期限はそうねぇ……三年くらいでどう?」
『なにかと思えば、魔物相手に中立条約とは甚だ馬鹿らしい。私がそんなものを守ると思うかね?』
鼻であしらうようなラプタリア王の言葉に対し、エレナードはニヤリと口を歪める。
「ええ、思うわ。なぜなら、この条約はアンタ達にとって利益になり得るからよ。小耳に挟んだけど、アンタの国はこの前の敗北で随分と余裕がなくなったみたいね。私達と停戦すれば、一時的に出費と出血を抑えられる……十分魅力的な提案でしょ?」
ラプタリア王は、エレナードの言葉に沈黙で応じる。
だが、その沈黙は反論できないという意思表示でもあった。
「そして無駄な戦いを極力避けたいのは私達も同じ。これで利害が一致するわ。もちろん、この取り交わしはここだけの秘密条約にするつもりよ。人類種の王様が魔王と取引したことが知られれば、総叩きに遭うでしょうからね」
ラプタリア王はさらに沈黙で応じる。
じっと顔色を変えずにいるのは、魔王エレナードに弱みを見せまいとする国王の意地のようでもあった。
そして、長い長い沈黙の後、ラプタリア王は不意に自嘲のような笑みを浮かべて口を開いた。
『ふん、まさに悪魔との契約というわけか……貴様ら魔物も、随分と人間の真似事が上手くなったようだな』
「で、結論を聞きたいんだけど」
『……よかろう。その条約、ラプタリア王2世の名をもって締結に合意する。調印書が必要かね?』
「私は煩わしいことが嫌いなの。紙なんか交わさなくても、捕虜達はすぐ解放してあげるわ。後は三年間、互いに手出しをしないだけでいい。簡単でしょ?」
『信頼していただけて光栄だね。私は、貴様のように抜け目ない小娘が人間でなかったことを酷く残念に思うよ』
「私も、アンタみたいに冷静な王が魔物じゃなかったことを残念に思うわ。それじゃ、話もまとまったことだし、また会う日までご機嫌よう」
そんな言葉を最後に、ラプタリア王との通話は途切れる。
すると、その場に居合わせたヴォルガが不意に声を荒げた。
「魔王様! 己ら幹部に相談もせず人類種と取引など! それに、せっかく捕えた者共を解放するというのは……」
正直なところ、先ほどの決定が部下達から非難されかねないことは、エレナードにもわかっていた。
人類滅ぼすべし――そう考える魔物達にとって、己の敵である人類と交渉し、捕虜を解放するなどという判断は、手ぬるく思われて当然だ。
だが、エレナードは己の考えを曲げる気はなかった。
「……丁度いい機会だから、私と少し話をしましょうか。エニセイ、アンタは外しなさい」
促されたエニセイは、共鳴水晶を抱えたままいそいそと部屋を後にする。
そして、残されたエレナードとヴォルガは互いに視線を交わしたまま、しばしの沈黙を共有した。
エレナードはおもむろに玉座を立ち上がり、バルコニーに続く大窓へと向かう。
そのまま大窓を開け放つと、目下に広がる城下町が一望できるようになった。
そんな景色を前にして、エレナードは淡々と沈黙を破る。
「私はこの一カ月間、地球の知識を学び、今代魔王として何をすべきか、これからどうするべきか、色々と考えたわ」
そう切り出したエレナードは、風に靡く漆黒のドレスをはためかせ、窓の外に向けて両手を広げる。
その先に広がるのは、木や石でできた質素な住居が密集した、整然さのかけらも無い魔物の住処だ。
「見なさいこの景色を。この街に住まう者達は、人類種から奪った服を着て、人類種から奪った道具を使い、人類種が育てた作物を食べて生活をしている。それが何を意味するか、わかる? 結局のところ、私達魔物は長い歴史の中で人類に依存する生き物になってしまったのよ」
そんな言葉に対し、ヴォルガは露骨に表情を曇らせる。
「まさか、人類種と共存しよう、などとお考えなのですか?」
エレナードは言葉を選んで応じる。
「共存……その言葉が正しいかはわからないけど、少なくとも私は、人類を皆殺しにするために魔王をやってるわけじゃないわ」
「なぜです! 人類種共の殲滅は、我が魔物達にとっての悲願ではないのですか!」
「果たしてそうかしら? この街に住まう者のうち、己の命を賭してでも人類を殲滅したいと渇望している者がどれだけいるの? アンタはそうかもしれない。けど、それは魔物達の総意ではない。彼らが真に望んでいるものは何か……それは、平和な暮らしよ」
エレナードの言葉通り、魔物達の多くは無理やり戦争に駆り出されている者も多く、時には不満が噴出することもある。
彼らとて、戦わずに平和な暮らしが享受できるのなら、それに越したことはないと考えているだろう。
だが、それでも魔物達が戦いに身を投じるのは、その多くが人類によって故郷を追われ、仲間を殺された者達だからだ。
「己は……己は、一族同胞を皆殺しにした人類種が憎いです。そんな奴らが、正義などという手前勝手な旗印を掲げ、そしらぬ顔で己の故郷を踏み荒らし、安寧を享受していることが、許せんのです……」
ヴォルガは強張った巨体を震わせ、己の正直な気持ちをエレナードにぶつける。
対するエレナードは、風に靡く白銀の髪をゆっくりとかきあげ、深紅に輝く瞳を寂しげに細めた。
「私だって、人類種にお父様を殺されてる。それに、アンタの言う通り、己の行動を正当化して私達の同胞を殺し、土地を奪う人類が憎いとも思う。だけど、私は魔王であり、インダリア帝国の国家元首よ。そんな私が真に目指すべきは、全ての魔物達が平和に暮らせる地を築くことだと気付いたの」
「ならばなおさら、人類種共の殲滅が必要になるはずです! 我々に害を成す人類種をこの地上から消し去れば、永遠の安寧が約束される! 簡単なことではありませんか!」
「確かに、私の読んだ『戦争論』にも、敵を征服するには敵の戦力を壊滅する他無い、という記述があるわ。だけど、私が人類の殲滅を至上目標に掲げれば、人類を滅ぼすまで戦いは終わらない……本当にそんなことができるかもわからないし、長い長い戦いになる。平和を得るために自ら闘争に身を投じるって、矛盾していると思わない?」
そんな言葉に対し口ごもるヴォルガを前に、エレナードは言葉を続ける。
「その上で、『戦争論』には、もっと重要な主張がある。戦争とは政治の一手段である……その言葉が示す通り、私の使命は戦争に勝つことじゃない。インダリア帝国国家元首として、全ての魔物達が平和に暮らせるような政を行うことよ。そこに人類の存亡は問われない。我が国の利益になるなら、時には人類種とも取引をする。それが、私の出した答えよ」
話を聞き終えたヴォルガは、黒々とした大きな瞳でエレナードを見据える。
エレナードは、その視線に含まれる複雑な感情を読みとることができなかった。
「もちろん、私の掲げる目標が達成されるまで戦いは続くわ。その間、アンタには気が済むまで暴れてもらうつもり……ただ私は、幼い頃から私のことを守ってくれていたアンタにだけは、嘘をつきたくなかった。だから私は、今代魔王としての正直な考えを伝えたの。どう、こんな魔王様で幻滅した?」
そう告げたエレナードは、言葉尻でいたずらっぽく微笑んで見せる。
だが、その儚げな笑みには、どこか縋るような寂しさが内包されているようだった。
そんなエレナードの表情を見たヴォルガは、ふと己の役目を思い出す。
先代魔王に命じられ、幼き赤子を前に跪いたその時から、ヴォルガは何があってもエレナードを守り抜くと誓った。
そして今、大きく成長したエレナードは、己の意見を正直に打ち明けた。
それはまさしく、彼女の信念だ。
全ての魔物達の平和を願い、そして実現しようとする、魔王としての信念だ。
そんな彼女を支えてやれずして、何が幹部か、何が四大将軍か。
ヴォルガは私怨に燃えて我を失いかけた己の浅はかさに気付き、おもむろに膝を折ってその場に跪く。
「己はどうやら、大切なことを忘れていたようです。己が主は、エレナード様ただ一人……その揺るぎない信念、しかと聞き届けました。どうか、己の不遜な振る舞いをお赦しください」
跪くヴォルガを前に、エレナードは深く瞬きをして静かに言葉をかける。
「私にも信念があるように、アンタにも信念がある。もし、この戦いの末にインダリア帝国が真の平和を勝ち得て、それでもアンタに譲れないものがあるなら、正直に言いなさい。その時は――」
「そんな時は訪れません。己は、何があろうとエレナード様に従います。なにとぞ、そのようなご心配をなさいませんよう。何なら、この場で今一度、お誓い申し上げても結構です」
「フフ、そう言ってもらえると頼もしいわ。でも、不満があるならいつでも言いなさい。でないと、部下である意味がないものね」
そう告げたエレナードは、頭を垂れるヴォルガに片手を差し伸べる。
「それじゃ、せっかくだしもう一度忠誠の誓いを立ててもらおうかしら。いえ、これは新たな誓いね。私は、アンタが誓いを立てた時のこと覚えてないし」
ヴォルガは頭を上げ、可愛げに微笑むエレナードの顔を見据える。
そして、恭しくその手を取った。
「己はヴォルガ。いかなる時も、インダリア帝国国家元首エレナード様をお守りし、その矛となって戦う戦士。この身を捧げ、永遠の忠誠を誓います」
誓いを立てたヴォルガは、エレナードの手に口づけをし、儀式を終える。
そして、不意に微笑んだヴォルガは、今まで聞いたことのないような優しげな声で呟いた。
「エレナード様……本当に、本当に大きくなられましたな」
そんな言葉に対し、エレナードは恥ずかしそうにはにかみながら、小さく頷いて見せた。
――敵を征服するとは何であるか。それは、敵の戦力を壊滅することである。
――戦争とは、他の手段をもって行う政治の一手段である。
カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』より