74 平和
テグリス王国がきっかけとなった『壁』の形成は、瞬く間に大陸全土へと波及した。
常々魔物との戦いを負担に感じていた人類諸国は、テグリス王国の将軍ドナウによって秘密裏にもたらされた提案を受け入れ、インダリア帝国を囲むようにして魔法により次々と石壁を生成していった。
結果的に、インダリア帝国は国土の全周を壁に囲われる形で孤立することとなったが、元より人類の包囲下にあったインダリア帝国にとって壁の存在は内政の妨げになりえなかった。
むしろ、周辺国との停戦と壁の存在は、インダリア帝国にひさかたぶりの平和をもたらした。
壁を越えてまで国土に侵入しようと企てる国は存在しなくなり、晴れてインダリア帝国は閉ざされた魔物の地として盤石なものとなったのだ。
それは、魔物と人類が双方の利害を一致させて得た結果だ。
だとすれば、今までの戦いには一体なんの意味があったのか。
互いに干渉しないという道が選べたのなら、なぜ魔物と人類は血を流してまで戦いに興じていたのか。
誰もが忌避し、多大な不幸を招く戦いを、一体誰が欲していたというのか。
束の間の平和が訪れた今となっても、その疑問に答えられる者はどこにも存在しなかった。
* * *
魔物と人類が『壁』により接触を断ってから、しばしの時が流れた。
「退屈だわ」
魔王城の最上階に位置する玉座の間で、エレナードは今日も身の丈に合わない玉座に腰を下ろして顎に手を当てながら足をぶらぶらと揺らす。
漆黒のゴシックドレスから覗く細くて白い足は、以前より少しだけ地面に近づいているようである。
魔物とは言え、エレナードも成長途上の女だ。
時が経つにつれ、可愛らしい顔立ちも大人びた魅力を帯びつつある。
そんな彼女は、小さくため息をついて再び声を漏らす。
「退屈だわ」
そんな気の抜けたエレナードに対し、すぐ近くで己の戦斧を磨き上げていたヴォルガは、どこか呆れた様子で応じる。
「退屈なら書物でも嗜んではいかがでしょう。エニセイも随分と翻訳を進めていたようですが」
「本はもう飽きたわ」
対するヴォルガは「左様ですか」と一言応じ、再び戦斧の手入れを再開する。
窓の外から爽やかな日差しが差し込む中、物言わぬ二人きりの室内は静けさに包まれる。
すると、先ほどまで文句を垂れていたエレナードは不意に小さな笑みをこぼす。
「だけど、こんな時間も悪くないわね」
そう告げたエレナードは、目を細めて窓の外へと視線を向ける。
魔王城の城下町では、今日も様々な魔物達が各々の生活に勤しみ、平和を享受している。
それは魔物だけに限らない。壁に阻まれた国境の外では、多くの人類もまた平和を享受している。
この大陸は、かつてない平和に包まれている。
もちろん、魔物と人類は互いの存在を認め合ったわけではない。
両者が接触すれば、また諍いやいがみ合いが起きるのだろう。
この平和は、壁の存在によって生み出された束の間のようなものだ。
それでもエレナードは、今のこの平和を尊く感じていた。
誰も命をかけた戦いに臨まなくて済むという状況に、深い安心を覚えていた。
だからこそ、エレナードは以前のように退屈で顔をしかめない。
平和によってもたらされた静かな退屈を、安らかに享受する。
そんなエレナードの手元には、既にボロボロとなった『戦争論』の翻訳書が置かれている。
エレナードの周囲はいつも本で埋め尽くされているが、『戦争論』だけはいつでも手に取れる位置に置かれていた。
エレナードは、静かに『戦争論』の翻訳書を手に取り、パラパラとページをめくっていく。
『戦争論』は、その大部分が戦争に勝利するための条件や方法を記したものだ。
エレナード自身もその内容を活用し、幾多の勝利を得ることができた。
しかし、それだけではない。
エレナードは、『戦争論』と出会ったことで、この束の間の平和を得ることができたとも言えるだろう。
もちろんそれは、人類という抵抗力を排除して得た勝利による平和ではない。
エレナードは、人類と戦わないという選択によって平和を得た。
それを可能にしたのは、『戦争論』の冒頭に書かれた一節を片時も忘れていなかったからだ。
「戦争とは政治の一手段である、か……」
エレナードは、ぽつりと呟いたその言葉を頭の中で反芻する。
戦争とは、手段である――それこそが、『戦争論』の中でエレナードが見出した最も重要な内容だ。
かつてこの世界で必然のように行われてきた魔物と人類の戦いを政治手段だと捉えたことで、エレナードは戦いを否定することができた。
戦いに勝つことを考えるのも重要だ。だがそれ以上に、なんのために戦うのか、誰のために戦うのか、なぜ戦うのか、それを考えることが必須となる。
それを理解したエレナードは、戦いを止めることができた。
正確にいえば、人類側に勇者アキラという意思を共有できた存在があったからこそ、魔物と人類は停戦に合意することができた。
しかし、これから先の未来はどうだ。
壁は単なる壁に過ぎない。それを乗り越えようという意思を持つものが現れれば、再び魔物と人類は衝突するのだろう。
それまでに魔王エレナードは何をすることができるのか。
平和な退屈を享受するエレナードは、遠い未来に考えを馳せる。
魔物は人類と手を取り合うべきなのか。それとも、人類を支配できるほどの武力を持つべきなのか。
その答えは、簡単に出すことができない。
すると、思索に耽るエレナードの下にふと来訪者が訪れた。
相変わらず落ち着きのない足取りで玉座の間へと足を踏み入れたのは、リザードマンのエニセイだ。
「エレナード様。先般より進めていた交渉がまとまりました。門の解錠は、一カ月となります」
その言葉を聞いたエレナードは、どこか感情の読めない表情を浮かべ、静かに玉座から立ち上がった。




