1 戦争論
「退屈だわ」
魔王城の最上階に据えられた荘厳な玉座で、エレナードは漆黒のゴシックドレスから覗く細い足をブラブラと揺らす。
なぜ足が浮いているのかと言えば、玉座のサイズが今亡き先代魔王に合わせて作られているからだ。
十五、六の少女に近しい見た目と体格をしたエレナードにとっては、いささか大きすぎる。
若干の幼さを残しながらも美麗な容姿を持つエレナードは、白い肌とコントラストを奏でる真紅の瞳を鋭く細め、背中まで伸びた白銀の髪と爬虫類のような尻尾を交互に弄りながら、今日も怠惰を貪る。
そんな彼女こそ、インダリア帝国第三代魔王こと、エレナード・トゥリア・インダリアだ。
今亡き先代魔王の一人娘であるエレナードは、人類との大決戦により戦死した父の跡目を継ぎ、五年前に魔王の地位を拝命した。
同時に、それが退屈の始まりだった。
魔王就任当時は父の死を嘆き、にっくき人類への敵討に熱意を燃やしていたが、インダリア帝国首都の魔王城に住まうエレナードにとって、人類との戦争は遠い地の出来事でしかなかった。
戦いを指揮する部下達は、なんたら戦役で負けただの、なんたら城を攻め落としただの、そんな報告を告げるばかりで、戦争がどんなふうに推移しているか、優勢なのか劣勢なのか、それすらエレナードには分からなかった。
そんな日々が五年も続けば、かつての悲しみも癒え、復讐心も褪せてくる。
とにかく、今のエレナードは代わり映えのしない日々に退屈していた。
「退屈だわ」
先ほどから同じ言葉を繰り返すエレナードに対し、その場に居合わせる腹心のヴォルガは当惑した様子で応じる。
「は、退屈とおっしゃられましても、己は戦うしか脳のない男……残念ながら、魔王エレナード様のご期待に添うことはできません」
そう告げて申し訳なさそうに巨体を折ったヴォルガは、牛顔を持つミノタウロスだ。
背丈はエレナード二人分にも及び、黒光りする筋骨隆々の肉体は重厚な鎧で覆われている。まさに、戦うために生まれてきたと評して相違ない風体だ。
そんなヴォルガは四大将軍第一位という地位を拝命しており、インダリア帝国内で魔王エレナードに次ぐ大幹部でもある。
だが、そんな頼れる部下も今のエレナードにとっては何の面白味にもなりえなかった。
「アンタがつまんない男なのは知ってるわ。だから私は退屈してるの」
「左様ですか……」
ヴォルガは大きなリングをぶらさげた鼻から「むふぅ」と息を吐き、露骨にショックを受ける。
インダリア帝国最強と言われる歴戦の猛者ヴォルガも、魔王エレナードの前では単なる気の利かない部下の一人でしかないようだ。
それでも、ヴォルガとて単なる脳無しではない。
己の仕える君主のために頭をフル回転させたヴォルガは、ふと何かを思い出した様子で顔を上げる。
「そういえば、魔術師のエニセイが何やら面白い発見をしたと先日から騒いでおりましたが」
エレナードは己の背中に生えるコウモリのような羽をひらひらと揺らし、眉をひそめる。
「エニセイって、あのトカゲ男? 私、アイツ気味悪いから嫌いなのよね……まっ、ちょっとくらいは暇つぶしになるかも。とりあえず、エニセイをここに呼んで頂戴」
気まぐれなエレナードの要求に対し、ヴォルガは威勢よく返事をして、いそいそと玉座の間を後にした。
* * *
ヴォルガによって魔王エレナードの御前に呼び出されたエニセイは、玉座の前で跪き、特徴的な長い舌を垂らしながら挨拶を告げる。
「いやはや。魔王エレナード様、今日もご機嫌麗しゅうございます!」
「私の機嫌は全然麗しくないわ」
自分で呼び出しておきながらぶっきらぼうな態度を見せるエレナードに対し、エニセイは頭を掻いて苦笑いを浮かべる。
濃紺のローブを纏う魔術師エニセイは、いわゆるリザードマンだ。
鱗に覆われたカーキ色の肌に長い尻尾を引きずるその見た目は、エレナードの言葉通りトカゲ男と表す他ない。
二つに割れた舌はチロチロと動き回り、パチリと見開かれたつぶらな瞳が逆に不気味さを引き立てている。
だが、高い知性を持つエニセイは、インダリア帝国内でも屈指の魔術士と評されており、今亡き先代魔王も彼を重用していた。
そんなエニセイを呼びつけたエレナードは、さっそく本題を切り出す。
「ヴォルガから聞いたけど、何か面白い発見をしたそうね。私は退屈してるの。その面白い発見とやらを聞かせて頂戴」
「ははっ。実はわたくし、最近異世界から物体を転移させる魔術にハマっておりまして、様々な品物を独自に収集しておりました。特に書物が面白い! 異世界の知識というものは、我々の想像を超えた英知が詰まっております。解読も次々と進んでおり、どの書物も非常に興味深い内容です」
エニセイの勢いにエレナードはいささか気圧されたが、彼が転移させた書物の内容には素直に興味があった。
「へえ、なかなか面白そうじゃない。その異世界の本とやらを是非読んでみたいわね」
「そうおっしゃると思いまして、魔王様にピッタリな一冊をお持ちしました」
そう告げたエニセイは、懐から紙の束を取り出し、恭しくエレナードに差し出す。
「これは『戦争論』という異世界の書物を、我々の言葉に翻訳したものです。どうやら、地球と呼ばれる異世界の軍人クラウゼヴィッツなる者が記した著書のようで、戦争とはいかなるものかという内容が細かく記されております。日夜人類との戦いに励む魔王エレナード様にはもってこいの一冊かと」
戦争――その言葉に、エレナードは反応を示す。
エニセイの言う通り、エレナードは魔王に就任してからインダリア帝国の国家元首として、人類との戦争を取り仕切ってきた。
だが、エレナードが今までしてきたことと言えば、実際に戦いを指揮している部下達の言葉に耳を傾け、首を左右か上下のどちらかに振る程度だった。
当然ながら、戦場で何が起きているかはわからなかったし、戦争に加担しているという実感も皆無だ。
ならば、これを機に戦争の勉強を本格的に始めてもいいかもしれない。
そう思ったエレナードは、エニセイから『戦争論』の翻訳書を受け取る。
「戦争論ねぇ……少し目を通してみるわ。アンタは他の書物の翻訳も続けなさい。いずれ役に立つかもしれないしね」
「お気に召していただけたようで光栄です! では、さっそく翻訳作業に戻りますので、わたくしはこれにて失礼いたします」
そう告げたエニセイは、丁寧に一礼をしてその場を去った。
<カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780~1831年)>
クラウゼヴィッツは、ナポレオン戦争等に参加したプロイセン軍人である。軍事思想家でもある彼の著書『戦争論』は現代軍事思想の基礎となる概念を多く盛り込んでおり、後世に多大な影響を与えた。
しかしながら、『戦争論』は著者クラウゼヴィッツの死没後に未完成品の原稿を妻が編集して出版されたものであるため、一部内容に矛盾や要領を得ない記述があるとされている。