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獣人-ケモノビト-  作者: 蠍戌
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エピローグ

 エピローグ



 カラム百貨店の壊れた二つの橋。

 そのうちのビル街を臨むほうに、ゴム製の大きな板が渡されている。所々に太陽や雲を映す水溜りの張った歪な表面を有しているが、丸一日かけて、動物園一つ分の動物や、彼らに捕らえられていた人質全員がそこを渡っても崩落しなかった、見た目以上に頑丈なものだ。

 公道沿いのたもとには、立入禁止の札のかけられた黒と黄色の縞模様のロープが張られ、なおかつすぐ間近に警備員の男が仁王立ちで佇んで、部外者の進入を禁じる役目を果たしている。

 人の良さそうなその若い警備員のそばにロロが飛び立っていくのを、タクローと、その左肩から顔だけを出す具合に背中にしがみついたみーこが、後ろのほうから眺めていた。

「あいつはあの建物を占領するときに俺が襲ったんだ。慌てて逃げていったけどな」

 片方の頬に絆創膏を貼った警備員は、黒光りする革靴の正面に降りたロロのために膝を曲げた。

 みーこは全く興味なくふーんと答えると、右に首を傾けてタクローの横顔を見遣る。

「でもまあ、一人も死なせなかったなんて大したもんね。あたし純平の友達にも会ったけど、みんな命に別状はないってさ」

「いや…」

 タクローはしきりに首を左右に振る。止めたときにはそっぽを向いた形となった。

「殺すつもりはあったし手加減もしなかった。あいつがあの程度の怪我で済んだのも、他の奴らが助かったのも、運がよかったからだろう。だが…今思うとそれでよかったよ…」

「動物園に戻っていいって言われたから?」

 タクローは神妙に頷く。

「殺されても文句は言えないのにな…」

「殺さないでおいてあげられる強さがあるの。それが人間ってもんよ」

 タクローは黙ったまま、もう一度頷いた。

 動物たちの投降と人質の解放によって終結した今回の騒動は、三桁を優に越える負傷者を生み出した惨事であった。しかし死者は、動物たちの直接の被害者ではない一人の男であったことと、実現していれば人質全てが死亡していたというその男の計画を阻止した功績から、負傷者、人質の別なく、多くの人々が助命を認め、あるいは推し、動物たちは、これまでよりも堅固な檻と厳しい監視体制の中でではあるが、元通り動物園で暮らすことになった。

 政府からはただちに異論が飛び出したが、円川町の人々は会議会議で結果的に何もしなかった彼らに介入する余地を認めず、速やかに独自の案を実行に移した。これを模範とした動物園における新しい決まりが政府の手によって制定されまた施行されるのは、幾つもの会議を経た、ずっと後のことである。

 ちょっと聞いてくるねと言い残して赴いた割には、大分時間をかけた、何度か笑い声を交えた話を終えて、ロロが右の肩に戻ってきた。ちょうど目の前に楽しそうな横顔が現れたので、タクローは気を取り直したように尋ねる。

「どこにいるって?」

「わかんないって」

 思わずずっこけそうになる。

「じゃあ何であんなに盛り上がってたんだ」

「ポップコーン。すごく美味しいのがあるんだって。今度食べさせてくれるって」

 詰問気味に言うと無邪気な答えが返ってきた。

 こんな奴が主力じゃどっちにしろ勝てなかったろうなと思いつつ、タクローはため息で真下に引きずられた顔を押さえ、気づくのが遅いわよと思いながら、みーこは身と前足を伸ばして慰めるように頭を撫でてやる。

「二人ともお帰り」

「ただいまー」

「おう、今戻ったぞ」

 親しげな呼びかけに、ロロとタクローがそれぞれ答えた。しかしみーこは一人、全身の毛をそばだてて身構えていた。いくら明るい声を放ってみても、その持ち主の脅威が消えるわけではないのだ。

 タクローが体の向きを右に変えた。そのためにみーこは、右腕をなくした瑠香の暖かい微笑を見ることになり、瑠香もまた、ロロの全身とタクローの顔に隠されていた、みーこの刺すような睥睨を浴びることになった。

 しかし瑠香は、みーこの視線がより鋭利になったのにも関わらず、あるいはだからこそか、とても嬉しそうに破顔して左手を上げた。すかさずみーこは吐き捨てる。

「久し振りだね」

「あんたにだけは会いたくなかったわ」

 しばし黙って睨み合う両者は、唯一の邂逅の場面を思い起こしていた。

 動物たちからの食糧の供給が反故とされた後、各自で持ち寄った食べ物が尽き、それを調達しようとしたペットたちは、パトロール中の瑠香に発見されてマシンガンの乱射を被った。

 何とか逃げ延びたために死傷者こそ出なかったが、その中には当然みーこもいた。もう少しで殺されていたという悔しさと、もう少しで仕留められたという悔しさが、相手に対する敵愾心を発火させる決定的な契機となったのである。

 みーこにとってその燃焼は今なお続くものであり、瑠香の炎もまた完全に消えたわけではない。だが、こうなった今、それらが何の意味も形もなさないということは、双方に判断のできることである。瑠香は顔を背けて嘲笑を遠ざけた。

「勘弁してよ。あのときの僕にとっては全ての動物が敵だったんだ。それが人間を守ることにつながるって信じてたからね」

 実際は瑠香も、自分たちと同じ目的で動いていたのである。そんなことはみーこだってわかっている。事件の当初にうまく交流を持っていれば、ベクトルは違えど、いがみ合わずにいられたかもしれなかったのだ。

 それでも人間を滅ぼそうとする動物たちと同類に見なされた屈辱と、殺されかけた恐怖の全てを水に流すことはできず、みーこもまた顔を逸らして言った。

「もし仲間が一人でも殺されてたら、あたしはあんたを許してなかったからね」

 不意に、瑠香が高らかに声を上げて笑った。意図がわからないなりにも見下されているということは理解でき、みーこは憤りを再燃させて瑠香を睨み直す。

「感情があるってのは本当に困ったもんだね。役に立たない復讐で傷付け合うことを厭わない。まったくもって無駄な生産だ」

「それが生き物ってもんよ。血の通ってないあんたなんかじゃ、いくらぶっ壊されたところでこれっぽっちもわかりゃしないでしょうけどね」

 瑠香はアキレス腱を射抜かれたように口をつぐむ。鼻で笑った拍子の嘲罵の滲んだ横顔を前に歯を軋ませると、真っ白い毛むくじゃらの塊が現れた。

「もうやめておけ。全部終わったんだ」

 タクローが瑠香の眼前に前足を差し出していたのである。もう片方はたしなめるようにみーこの頭を撫でている。

「その場の感情で流されてもロクなことはないって大将が言ってた…おかげで俺たちも生かしてもらってるんだからな…」

「賛成だね」

 タクローは足元を見つめて呟き、瑠香は鷹揚に頷いた。

 悄然とではあるが卑屈にならざるを得ない奴も、変わらず横柄でい続ける奴も気に入らない。みーこは鬱陶しそうにタクローの前足を払い除けて必要なことだけを聞くことにする。

「純平はどこ」

「大将と一緒にいるけど、何か用?」

「連れ戻しにきたのよ。やっと平和になったってのに、いつまで待っても帰ってこないんだから」

 はっきり二回瞬きをしてから、瑠香はははあと頷いた。

「純平が君の飼い主なんだね」

「そうよ」

「だから君はやたらと僕を憎んでるんだろうね。もう少しで純平が僕に殺されてたから。違うかい?」

 うつむき、少しだけ考えるための間を置いて、みーこは答える。

「そうね。あたしは仲間も大事だけど、それより純平が大事だわ」

「君は正直だね」

 瑠香が嬉しそうに頭に手を置いて、まるで褒めるように撫でてきた。

 けして安らぐわけではない。むしろこねられるたびに心の中まで掻き回されるようで気分が悪い。それでもみーこはおとなしく、挑発にも似た瑠香の行為を受け流そうと努める。

「案内しよう。こっちだ」

 しばらくそうしていた瑠香は、みーこの頭から離した手を招くように動かしてから歩き出した。

 自分の足で進むのであれば、みーこは足が地面に張り付いたように、その場に立ち尽くしたまま動けなかったろう。しかしタクローにしがみ付いているその体は、自己嫌悪に縛られることなく、タクローの歩みに合わせて同じ距離を移動していく。

 指摘されるまで気づかなかったが、確かにそれは本心だ。リュウゾーを失っても、ほかの誰かを失っていたとしても、たとえあの中で生き残っていたのが自分だけだったとしても、瑠香への憎悪がこれ以上増すことはなかったろう。だが、瑠香にとっての手違いだとしても、もし純平を奪われていたら。

 実在しない、これから先にすることもない架空の瑠香を想像して顔を上げると、嗅覚が図らずも純平の存在を強く感じた。

 やさしい記憶を裏付ける匂いは、途端にリュウゾーを初めとする仲間たちを霞の中に追いやっていく。タクローの鈍足がもどかしい。


 円形の流れを半回転するように川を迂回して、繁華街のほとりのほうの壊れた橋にたどり着く。

 こちらも立入禁止のロープがあるが、仮設の足場はすでに取り払われており、見張りもいない。雨水が小さな水溜りとなってわだかまっている欄干の根元から離れたところで、純平と大将がたむろしているだけである。

 純平はロープの程近いところ、地べたにあぐらをかいて、見下ろすように川と向き合っていた。大将はそのすぐ後ろで、気遣わしげに猫背のコートを眺めて佇んでいる。

 先に一行を感知したのは、ヒトよりもはるかに耳と鼻に優れた、ライオンである。大将は顔だけを振り返らせてタクローの左肩を見遣り、続いて体もそちらに向かせ、覚えの薄い匂いと音の出所をしかと目で確かめると、思い出したように言った。

「お前は確か、みーこ」

「ご名答」

 その名と声に、純平はにわかに反応して背を伸ばした。首を後ろに曲げてみーこの姿を認め、しかしすぐまた首の位置を戻して目線を落とし、背はまた曲がる。

 せっかくの再会の笑顔をすげなくかわされる形となったみーこは思い切り爪を立てた。いってえ! いててててて! と格好の悪い悲鳴で悶える巨体を肩までよじ登り切ったところで身を躍らせ、地面に降り立つや否や純平の元へ駆け寄っていく。

「お前たちも解散したはずだろう。わざわざこんなところまでどうした」

「帰りがけに会ってね。純平のところに案内してって言うから、一緒に来たの」

「飼い主を連れて帰るってさ」

「なるほど、それはありがたい」

 不思議そうに大将が問い、頬をさすってタクローをなだめつつロロが答え、瑠香が付け加える。

 大将が納得と謝意を示したときには、みーこはすでに純平のそばに到達していた。

「お疲れ様、純平。話聞いてるよ。大変だったね」

 みーこは純平をねぎらいながら、またぐらに垂れ下がった手に熱心に顔を擦り付ける。

「でも、おかげでみんな救われたよ。ありがとう」

 礼を継ぎ、前足で手を挟むようにしてしきりに舐める。邪魔だとばかりに振り払われた。

 鳴き声の悲鳴で背中から後ろに転がったみーこに、憮然と呆然が同量噴出する。何するのよと起き上がり様に身構えて純平を睨み付けたが、虚ろな瞳と力なく半開きになった口に象徴される放心しているような顔からは何の返事もやってこない。たちまち保護者にも似た気持ちが復活する。腰を下ろして心配そうに仰ぎ、かけるべき言葉を模索する。

 ちょうど痛みが和らいだところだったこともあり、左の肩から背中にかけてを叩いたりさすったりするのを中断して、タクローが大将に話しかけた。

「みんな動物園に戻った。残ってるのは俺たちだけだ」

「ご苦労、お前も行くといい」

 満足そうに頷いた大将は、少しだけ首を動かして、その微笑をロロにも見せる。

「達者でな、ロロ」

 ロロは無言で表情を曇らせ、斜め下に視線をなげうつ。同じように渋い顔になっていたタクローは、やはり目を合わせることができないまま、それでも今一度という具合に尋ねる。

「本当に…これでお別れなのか…?」

「ああ。何度も言わせるな」

 タクローはますます顔をうつむかせ、黙り込む。

「大将に会えなくなるの、寂しいよ」

 代わりにロロが大将を見つめて引き止めた。大将は軽く目を閉じた微笑を左右に揺らすだけである。

「もう決めたことだ。俺は動物園には帰らん」

「動物園以外のどこに行くつもりなのよ」

 聞くともなしに聞いていたみーこが、思わずという感じで割って入った。詰問気味の調子に対し、大将は晴れがましく胸を張る。

「アフリカのサバンナだ」

「やけに具体的ね。何があるの」

「図鑑で見た女に会うんだ。俺はあいつを女房にする」

 夢見るような幸せいっぱいの顔面を前に、みーこは複数の要因で呆れる。相手の気持ちはどうなのかとか、その図鑑がいつのものなのかとか、言いたいことはいくつもあるが、そのうちの最も度を越している事柄を指摘することにした。

「どうやってそんなとこまで行くっての」

「そいつに連れてってもらうのさ」

 大将はあごをしゃくる。その先では瑠香が、傍観者から当事者になってしまった困惑を顔をしかめることで示したところだった。

 ロロやタクローという近しいはずの存在が、立場の違いはあれども昨日まで大敵であった相手に信頼の対象を取って代わられているのが、同じ動物として不服であった。怒鳴ってやりたいのを何とか堪え、みーこは二人を見比べる。

「あらあら、いつの間にそんな仲良しになったのかしら。これからはずっと一緒ってこと」

「別に一緒ってわけじゃない。大将のことなんか知るもんか」

 みーこの揶揄に瑠香はむきになって反発した。訝しげに眉根をひそめる姿にかえって安心した様子で続ける。

「僕はマスターの研究を引き継ぐだけだ。人間のいないところで誰にも邪魔されずに一人でね。サバンナだったらちょうどいいだろうからね」

 そこで瑠香の表情は苦虫を噛み潰したような迷惑そうなそれに変わる。目だけが大将に向けられた。

「お前はこれからどうするんだって聞いてくるから、そういう風に言ったら、だったら俺も連れて行けってうるさいんだもん。でも、僕は連れて行くだけさ。後のことは知ったことじゃない。大将は人間じゃないから、生きていく手助けをすることはない。目の前で何かに殺されることがあったとしても、黙って眺めているだけさ」

 後半は見るからに爽快になって、最後は笑顔で突き放した。何て身勝手なのと今度はみーこが憤懣を抱える立場となり、しかしそれを瑠香にぶちまける無意味を悟っていたので、代わりに大将を睨み付ける。

「考え直しなさい。悪いこと言わないから」

「言ってるじゃないか」

 素早い切り返しにみーこは口をつぐみ、大将はいたずらっぽく笑った。すぐに気を取り直して続ける。

「あんたは動物園で決まった時間にごはんもらって暮らしてきたからわからないかもしれないけど、たったの一人で野生で生きていくってのは大変なのよ? そりゃあたしだって、サバンナなんかで暮らしたことないけど、生まれて何週間で純平に拾ってもらったわけだけど、それまでの間にどれだけ死に掛けたと思ってるの。お母さんは車に轢かれたし、きょうだいは病気になったり野良犬に襲われたりした。そりゃあね、都会じゃないから車に轢かれる心配はないわよ。深刻な病気にかかることもないと思う。あんただってそれなりに強い。でも思いどおりに生きていけるとは限らない。周りはみんな敵なのよ。生きるために乱暴でしたたかな奴らがうじゃうじゃしてるのよ。あんたなんかみたいに動物園でのんびり生きてた奴がいきなり野生の動物だらけのところに行ったらあっという間に野垂れ死によ。それでもいいって言うの?」

 実例も推測も、全てが理に適っている。その上での脅しのような体裁だが、よく聞けば嘆願だ。食糧を分けてやるという約束を破り、それによる共食いの悲劇を引き起こさせた自分への、それにもかかわらずどこにも行かないでという祈りにも似た。隠し切れない言外の気持ちに感謝しつつ、大将は表情を締めた。

「動物園の中だろうが外だろうが、どこにいたって殺すものだし、殺されるものだ。違うのは自分で手を下すかどうか、自分の手を汚すかどうか、この二つだけだ」

「………」

「生きるってのはそういうことだ」

「………」

 強い決意に舌を縛られたみーこは、じっと仰いで大将を見つめていたが、両方の瞳の奥に潜む揺るがない光に、やがては観念したように項垂れることしかできなくなる。大将はおもむろに純平に向き直った。

「俺たちはもう行く。お前もみーこと一緒に帰れ。そして平和に生きていけ。それはサラの望んだことでもあるし、俺たちの願いでもあるんだ」

 しかし純平はうつむいたまま、返事も反応もせずに、絶えず動く水面を見ているだけである。

 大将はわずかにためらう仕草を見せてから、重い足で添うように歩み寄ると、またしても躊躇から固まってしまう。だがほどなくして、意を決したように、おもむろにその背中に頭を押し付けて言い放った。

「俺はお前が好きなんだよ。純平」

 ようやく純平が振り返ってくれたのが、狼狽に近いほど戸惑っている気配とともにわかった。

 ここぞとばかりに紡がれる言葉は照れ隠しの役割も担っている分光の如く速く、しかし、熱心だった。

「けして長い付き合いではなかったが、何度も俺たちの危機を救ってくれて、色々なことを学ばせてくれて、一生かけてもできないような経験をさせてくれた。心から感謝している。そのお前が人間であるなら、俺は人間も好きだ。好きなものに生きていってほしい。好きなものに苦しんでほしくない。だからもう二度と人間を殺そうとしたり傷つけたりはしない。もちろんお前のことも」

「そうだよ純平」

 いてもたってもいられずに、ロロがタクローの肩から純平のそばに降り立った。

「お兄ちゃんのことは気にしないでいいんだよ? 私は純平のこともサラのことも恨んでなんかないんだから。お兄ちゃんだって絶対に恨んでないよ。私にはわかるもん。こうやって二人が私たちのこと守ってくれたんだから」

「何が不満なんだ。俺たちのことが嫌いならはっきり言えよ」

 怒ったようにそう続いたタクローは突然走り出して、純平の正面に回り込むなり前足で胸倉を鷲づかみした。慌てて駆け寄ってきた大将と右の肩に飛び付いてきたロロの制止を無視し、憮然とした顔面にまくし立てる。

「俺たちはそれでもいいんだ。お前が生きていてくれさえすればそれでいいんだ。教えてくれよ。お前は何が気に入らないんだ!」

「お前らのバカさ加減だよ…!」

 瞬間、タクローの膝が地べたに沈んだ。火焔にも似た唸りを放った純平の両手が胸倉を捻り上げる要領で胸元の毛を握り締めて巨体を引き摺り下ろしたのである。

 なおも純平は膝立ちになり、背筋を伸ばしてタクローよりもロロよりも目線を上げていく。憤懣に満ちた形相が頭一つ高い位置に現れると、タクローは萎縮したように純平のコートから前足を離していた。

「生きていってほしいなんて言うな。生きていってほしいってことは殺していってほしいってことだ。生きるためには食わなきゃならない。そのためには殺さなきゃならない。食うことは殺すことと一緒だ。生きることは殺すことだ。そんな非道を容易く俺に求めんな!」

 息の続く限りに怒鳴り終えた純平はにわかに我に帰った。

 今にも泣き出しそうなタクローの首から頭にかけてを罪滅ぼしのように撫でてやるが、意図を汲めずにより悲愴が濃くなるタクローを前に、こちらのほうが泣きたくなった。

「俺だってお前らが好きだ。サラもそうだ。サラも俺たちのことが好きだったんだ。だからこそあいつはあそこまでして俺たちを守り抜いたんだ」

 タクローは頷きながらうつむき、前足を胸板に添えてきた。まるで感情を分かち合おうとでもするように。

 しかし純平はそっとタクローの前足をつかみ、尋ねてきた上目に首を振る。

「そうやってサラに守ってもらった俺が…お前らやお前らの仲間をないがしろにするわけにはいかねえんだ…」

 ちょっとした丸太ほどの太さのそれをゆっくり下ろしてやって、純平は凄むようにタクローを見据えた。

「それでもお前らは俺に生きていってほしいって言うのか。お前らはこれから先も、多くのものを、俺に殺していってほしいって、そう言うのか。ポポを見捨てたときみたいに。ポポを食ったときみたいに!」

 そこだけはロロに直接言った。ロロが首をすくめるのを見届けてから、首だけでなく肩まで小さくしているタクローに視線を戻す。

「これから何度もあんな辛い思いをして、これから何度もあんな悲しい思いをして、これから何度もあんな苦しい思いをして、そんな風に生きて、そして死んでいけって言うのか!」

「そうだ」

 大将を見遣るのとほぼ同時に、待ち構えていた具合に答えられた。純平は息を呑むように押し黙り、大将は平然と話し出す。

「あの男も言っていたが、何かを守るためには他の何かを犠牲にしなければならない。それが世の常だ。この世界は何かが死ななきゃ生きていけないようにできているのだ。しかし誰も犠牲になんかなりたくない、死にたくなんかないから、生き延びようとする。争いが起こる。身勝手だとは思わん。それがこの世界というものだ。摂理とかいう奴だ。しかしそれがこの世界の定めなら、俺たちも望んで犠牲になろう。サラが俺たちを守ってくれたように、今度は俺たちがお前のためにいくらでも死のう。俺だけでなく全ての動物たちがそう思っている。俺たちはお前たちを生かすためにいくらでも死ねる。お前が何かを口にするときその動物は喜んでお前の体の一部となる。お前の生は全ての動物の喜びだ。だからお前はもう、生きることに悩まなくていいんだ。お前はお前の思うがままに、俺たちを殺し、俺たちを食い、胸を張って生きていけばいいんだ」

「………」

 純平は逃れるように顔を戻した。タクローとロロが競い合うように頷いてきた。体から力がしぼんで抜けていく。惰性に任せて首が垂れる。背が曲がる。まぶたが落ちる。全身で引力を感じる。その他にもけして抗えない何かの圧迫を肌に感じる。重かった。

「お前らが俺の生を喜んでくれても…俺は俺の生を喜べない…」

 純平は、ただ静かにそう言った。感情を込めないようにと意図せずともそれが果たされている口調で、吸った息を吐くのとなんら変わらない仕草で。

「もう失うのは嫌なんだ…人間だろうと動物だろうと…誰一人…俺なんかのせいで死なせたくないんだ…」

「だったら死になさいよ」

 純平が言い終えたのに間を置かず、刃物さながらの叱声が清冽に飛んできた。切り裂かれた場の空気は一時の凝固の後、局地的に急上昇しあるいは氷点下に落ち窪む。前者である大将と瑠香、後者であるタクローとロロに挟まれて、純平のそれは体温に近い温度を保っていた。

「純平がいなくなりゃ純平に食われるはずだった多くの命が助かる。純平が生きてる限り純平は食い続ける。純平が生きてる限り何かは死に続ける。誰も死なせたくないならそれしかない。純平が動物たちを生かすために死ぬか、純平が生きるために動物たちを死なすか、そのどっちかしかない。選ぶのは純平だよ」

 大将と瑠香の憤ろしい睥睨や、タクローとロロが怯えながらも向けている抗議めいた目つきなど物ともせずに、純平のそばに闊歩していったみーこは、ふと気がついたように正面をあごで示してやった。

「ちょうどいいじゃない、そこに飛び込んだら?」

 そこにあるのは緩やかな水のうねりである。あまり起伏のない水面を保つこの川が、実際は高い深さと速い流れを持つ危険な場所であることなど、ここにいる誰もが知っている。

「もうリュウゾーはいないから、誰かに助けられることもない。確実に死ねる。それでいいじゃない」

 そう言ったところで純平を見上げてみた。純平は相も変わらず渋面だったが、その頭の中で巡られている思考が何かこれまでと違っているのは一目で見抜ける。かすかに口の端が持ち上がったが、泰然を装うために急いで戻す。

「あたしね、みんとのお家に立てこもって、食べ物がなくなったり、瑠香に襲われたり、リュウゾーを食べることになったりしてる間、何度も何度も、もしかしたらあたしはこれで終わっちゃうのかもしれないなあって思って、あたしの人生って何だったんだろうなあって考えて、ちょっとさびしいけど、しょうがないかなあって感じるようになって、そうしたら、取りとめもなくね、昔のことなんかを思い出すようになったの」

 鷹揚に虚空を見遣り、それから目を閉じる。ゆっくりと、遠く近く、意識を過去へ戻していく。

「生まれてすぐにお母さんが死んで、きょうだいと死に別れて、お腹が空いて飢え死にしそうになって、人間に拾われた。その人間の住んでる小汚い家で飼われることになって、安物のごはんばっか食べさせられて、その人間の手で手術までさせられた。喧嘩もしょっちゅうしたし、いっつもちょっかい出さてれたし、甘えたこともいっぱいあったけど、仕事仕事で構ってもらえないことも多かったから、よく思わないこともあった。それでもこうして会えないでいると、その人間のことばっかり考えてて、絶対に忘れられなくて、もう一度会いたいなあ、貧しくてもいいし、ごはんが安物でもいいから、また一緒に暮らしたいなあなんて思って、そうしたら急に、ああそうか、あたし、結構幸せだったんだなあって気がついて、そうしたら、もう一つわかったんだ。何だと思う?」

 目を開けて、純平を見上げる。返事はしないし、表情も向いている方向もその前と変わらないが、前に会ったときに見たあのウサギの耳や、あるいはそれ以上に、次の言葉を聞こうと身構えているのがわかった。けして聞き漏らしたり聞き間違えたりしないように、一言一言をなぞるように言ってやる。

「こうしたいって思って、それが叶えられるのは、幸せなことなんだってこと」

 純平の体がかすかに動いたように見えた。間を空けずに言う。

「生きたいと思うものが生きていけるってのは、本当に幸せなことなんだってこと」

 なおも。

「それと同じぐらい、死にたいと思うものが死ねるってのも、幸せなことなんだってこと」

 純平は軽く目をつむった。みーこはそれを自分の考え方の肯定と受け取った。

「だから私は無理強いはしない。純平が死を選ぶなら、あたしは止めない。あたしは純平に幸せになってほしいから。でもあたしは純平に生きていってほしい。それがあたしの幸せだから。それはサラって子や、ここにいるみんなの幸せでもある」

 大将と瑠香、そしてタクローとロロの心が、互いに融合するようにして、温もりを回復していくのが実感できた。純平にも自分の気持ちは伝わったはずだ。後は、その境遇に足を踏み入れるだけだ。その後は、なるようにしかならない。

「さっき、ポポのこと言ってたよね。辛かったって。悲しかったって。苦しかったって。リュウゾーを死なせたときのあたしたちもそんな感じだったよ」

 自ら発した言葉が契機となって、リュウゾーの命を奪い、体を奪っていくその情景が、にわかに目の前に浮かんできた。恨みも憎しみも感じさせず、痛みや苦しみすら感じていなかったように思える表情は、リュウゾーの意志とは裏腹に、自分たちの内外を締め付けることだろう。途端に呼吸が困難になる。口の開閉も思うようにいかない。それでも、まだ伝え切れていない思いを述べていく。

「辛くて…悲しくて…苦しくて…何でこんなことしなくちゃならないんだって…よくわからない何かを恨んでさ…」

 片方の前足を持ち上げ、顔を洗うように目を拭った。それが終わるともう片方の前足も同じようにし、左右の目を交互に擦るのを幾度も繰り返す。

「でも…それでもみんな生きたかった…みんなあそこで死にたくなかった…死ぬまでにもう一度だけでいいから飼い主の顔を見ておきたかった…だから私たちはリュウゾーを死なせた…リュウゾーを食べた…生きようとした…」

 そこで不意に言葉を切る。いつの間にかすぐそばに場所を移していた大将が、自分のそれの何倍もある大きな舌で、顔を舐めてきたのだ。戸惑う間もなくタクローが前足で頭を撫でてくる。ロロは傍らに降り立ってきて体を寄せてくる。慰めようとしてくれているのだとわかった。とても励まされた。大丈夫だとばかりに頷いてみせてから、続きを話す。

「今はみんな…飼い主に再会できたことを喜んでる…また一緒に飼い主と暮らせることを喜んでる…でもその前に…みんなでリュウゾーの飼い主に会いに行った…初めから全部話した…何もかも正直に言った…それから謝った…リュウゾーの飼い主はあたしたちのこと許してくれた…あの事故でリュウゾーは死んでいたはず…いい獣医さんのおかげでほんの少しでもリュウゾーと暮らせただけで満足してる…そう言ってた…」

 そのときは謝意を抱き続けるだけだったが、こうして今思い起こすと嬉しい楽しさがほんのりとこみ上げてくる。つい、微笑がこぼれてしまうほど。

「ペットは飼い主に似るってホントなんだね…リュウゾーが言ったことと全くおんなじこと言うんだもん…」

 もう一度、前足で強く目を擦った。そして引き締めた顔でおもむろに純平を見遣ると、毅然とした口調で次々と言い放つ。

「あたしは何も、殺すことを幸せに思えとは言わない」

「………」

「殺すことは辛いし、悲しいし、苦しい。それでいい」

「………」

「それが生きることと同じなら、それでいい。生きることは辛くて悲しくて苦しいことでいい」

「………」

「そんな思いをしてでも、あたしは純平に生きていってほしい」

「………」

「もう一度言うよ」

 業を煮やしたみーこは、じっと黙って返事をしない純平の前に颯爽と進み出た。不倶戴天の敵にするように正面から睨み付けて、全てをまとめた思いの丈を告げていく。

「あたしは純平に生きていってほしい。他の生き物を殺してでも生きていってほしい。他の生き物を殺さないと生きていけない自然の流れを憎んでほしい。どんなに頑張ってもそれを変えることのできない無力を悩んでほしい。いくらだって自己嫌悪に陥ってほしい。奪った命の多さに押し潰されそうになってほしい。苦しんでほしい。苦しみまくってほしい。それでもいつか死ぬときまで生きていってほしい。それを幸せなことだと思ってほしい。それがあたしのお願いなの」

 みーこは最後に、まるでヒトがするように、頭を垂れて懇願した。

 程なくして、鼻で笑うような純平の声が聞こえた。

 顔を跳ね起きさせると、嘲笑気味に口元を緩ませた純平が、ゆっくりと視線を上にしていくところだった。

「本当なんだな…みーこ…」

 呼びかけに対し、声を発しないことで尋ねると、純平はもう一度鼻で笑い、あごを沈めてみーこを見、それから呟いた。

「ペットは飼い主に似るってのがさ…」

 みーこの表情にも穏やかな笑みが現れる。純平のそれはより深まった。

「俺もサラに生きていってほしかった…俺はあいつに幸せになってほしかった…そのためにあいつが苦しまないように…俺があいつの代わりに全ての負の感情を受け止めてやるつもりだった…」

 純平はサラを探すように、再び空を仰いだ。地上の喧騒に侵犯されることなく、自分の都合で凪いだり荒れたりする空は、今は、激しい雷雨の面影すらもなく、どこまでも澄み切った水色を湛えているだけである。

「あいつもきっと、俺に言ったろうな。純平は私に殺していってほしいの…? って…」

 まるでそこに、驚愕と困惑をない交ぜにした表情で自分を凝視して、次の言葉を待ち構えているサラを見つけたみたいに微笑んで、純平は、雨上がりの空に向かって、そっと説き聞かせる。



 お前が殺すんじゃない。俺が殺すんだ。

 お前を生かすために、俺が殺すんだ。

 お前は生きててくれればいいんだ。

 幸せになってくれればいいんだ。

 できれば、俺のそばで。



「そう言ってやりたかった…」

 純平は長い息をつくように呟いて、顔を戻した。目は緩やかな曲線に閉じられている。

「そのあいつがいなくなって…何のために生きてりゃいいのかわかんなくなって…どうしようもなくなった…」

 内容ほど沈鬱ではない具合にそう言って、

「だが…それももう昔のことだ…」

 全力でそうしたみたいに目を見開いた。

「お前らのおかげで目が覚めた」

 星を宿したような二つの瞳を前に、みーこはようやく心から安堵できた。今一度前足で目を拭った。純平は跳ね起きるように立ち上がり、その証左となる誓いを力強く宣言する。

「俺は生きる」

 みーこは頷いた。大将もタクローもロロも同じように諾った。

「だからお前らも生きていけ」

 声こそ返さない代わりに、動物たちは動作によって再び純平の言葉に従った。

「だが、絶対に苦しむな」

 四人の動きが滞り、何を聞いていたのか何を言い出すのかという不審にも似た具合に表情が歪む。

「サラが死ぬことでお前らを守ったように、俺は生きることでお前らを守ってやる。だから絶対に苦しむな」

 対するに純平は、我が意を得たりという満足そうな笑みを浮かべ、それを空へと披露した。やはり、そこには青さや輝く日とは別の、何かがあるのだ。

「今こうして生きているのは俺がそれを願ってるからだって思って生きていけ。俺が許したから殺すんだって思って生きていけ。俺に殺させられてるんだって思って生きていけ。そうやって俺を恨んで生きていけ。これから先に奪っていく命全てに俺を恨ませて生きていけ。お前らの手で殺される奴らの悔しさとか憎しみとか復讐心とかの全てを俺になすり付けて生きていけ。俺はそのために生きていってやる。お前らを生かすために生きてやる」

 言い終えた純平は、深く息をする。そして刻々と増え続けていくはずのその何かに、一滴の落涙とともに、前もって告げたのである。

「すまない…」


「さて…と」

 誰かに着いてこられるのを拒むかのように一人で立ち去っていこうとする純平と、これまでの間に濃密なそれをしてきたとはいえ、これで永訣となるとは思えないほど簡単な別辞を述べてそこへ追い縋っていくタクローとロロ、そして通り道だからという旨を残して早足で後に続いていくみーこを見えなくなるまで見送ってから、大将は少し名残惜しそうに、またそんな自分に鞭打つように言って、腰を上げた。

「俺たちも行くぞ」

「大将」

「なんだ」

「僕、今どんな顔してる?」

 ちょうど瑠香の傍らに歩み寄ったところだった大将は、不思議そうに瑠香を見遣り、それから言った。

「寂しいって感じだな」

「だろうね」

 瑠香は一度だけ首を縦に振った。

「ということは、たとえマスターでさえ、人間はそう思うってことなんだろう」

 続いてそれを二度三度と傾げてみせる。

「よくわかんないや。どうして人間はそんな風に考えられるんだろう。生きるって、こんなに大変なことなのに。それがわかったばっかりなのに」

 寂寥が消えて、不満すら見て取れる怪訝な表情の瑠香が背中にまたがってきたところで、大将は嘲るように言った。

「お前には、死んでもわからんさ」

 一方の瑠香は軽く歯を軋ませてから、不貞腐れた様子で答えたのだった。

「僕、死ねないから」

「そうだろうな」

 大将は、瑠香の精一杯の反駁など物ともせず、不敵な含み笑いを顔に残して走り出す。欄干の根元では勢いよく踏み締められた水溜りが音を立てて弾け、激しい波紋を作った。


 しばらく経って、欄干の水溜りに再び闖入者が現れ、豪快に水が跳ねた。

 水滴はほとんど塊となって、四本ある太い足のうちの一つに、黄金色の体毛にまとわりついたが、その持ち主は重量も冷感もものともせず、純平たちが去っていった方向へと、行きと同じかそれ以下の速度で、しかしそれよりもずっと急いた歩調で駆けていく。

 真っ直ぐに動物園の方角を注視する大将はその姿勢のまま、崩落しないようにと左手一本で押さえるためにひどく前のめりになっている背中の瑠香に不愉快そうに尋ねた。

「説明しろ」

「調べる時間が必要だ。本人にも聞いてみないとならない」

「助からないと言ったのは誰だ」

「予測と違うことが起こるのは研究でもよくあることさ。これまで動物の舌では人間の言葉を喋ることはできないとされてきたんだ。それができることだって僕に言わせれば異常現象なんだ」

 唇を尖らせて反論した瑠香は、そこでにこりとふくれっ面を崩した。

「でも、口紅の理由も知りたかったから、ちょうどいいや。あんな深刻な状況じゃ、とてもそんなこと聞けなかったからね」

「殺しなんか、しないだろうな」

 口調こそ威圧だったが、声にはさほどの迫力はこもっていない。

 バランスを崩したり道を誤ったりしないように気をつけるため、前方から目を逸らすことができないでいるのをいいことに、瑠香は陰険に微笑む。

「そもそも人間ではないし、人間に役立つ動物でもない。人間に還元されるはずの食べ物を消費する観点から言っても害獣みたいなもので、どうしても守らなければならないということはない。何て言ったって僕はマスターから処分するようにと命じられたわけだし、マスターもそれを撤回したわけではない。でも」

 さっきのお返しとばかりに思い付く限りの負の要因を提示していっていたが、立ち止まってまで振り返って牙を剥き出しにして唸る姿に、結局は頷きながら打ち消した。

 当然、そんなつもりなど厘ほどもないのだということを、握り締められて潰されて大将の脇腹に垂れ下がっているウサギの耳を見つめて明かしてやる。

「きっと、君たちにとっての純平のような役目で、純平を生かしておいてくれるだろうからね」

 大将は満足そうに頷き、再び全力で走り出すと、程なくしてスピードを落とした。そして思い切り絶叫した。

「おおーい! じゅんぺーい!」

 はたと顔を上げた瑠香も、左手を振り上げて叫んだ。

「忘れ物だよー!」

 先の声に反応したらしく、ウサギの耳を手にする腕が微動した。

「純…平…?」

 大将と瑠香のちょうど間の位置で、大将でも瑠香でもない声が出る。持ち主の顔が上がる。

 そこから大分離れたところ、それでも最も近い箇所にはみーこがいて、その前のほうに純平がいて、その左に右前足で純平の肩を抱いているタクローがいて、その右の肩にロロが宿っていて、全員が全員首だけを振り返らせた体勢で立ち止まっているのだが、判然としない視界では、白い巨躯とそれよりは小さい黒い体の輪郭がおぼろげに感じられるだけである。

 それでも程なくして、視覚にははっきりとした像が結ばれ、見覚えのない三毛ネコと、忘れようとしたとしても叶わないシロクマとハトと人間の姿を視認して、その目は大きく開かれる。

 これまでの経験から、少し考えれば、それはすぐにわかることである。

 これから先に対峙しなくてはならない様々の苦闘が、そこにはそっくりそのまま現れているのである。

 それでも表面に見えているのは、未来の悲しい部分、辛い部分、苦しい部分を、たとえほんの一時だとしても忘れさせることのできる、魔法のような姿だった。つい力がこもってしまい、ウサギの耳をより一層握り潰していた。

 視界はまたも、燃えるような熱度でぼやけた。

 声の限りに名を呼んだ。しかし瑠香と同様の思考からこれが現実であると認識できないために、困惑の極限に陥っているその相手からは、優れた聴覚をもってしても捕捉し難い呟きしか漏れてこなかった。

 おもむろに息を吸ったそのとき、やっと感じることができた。

 もう一度鼻から息を吸い込んだ。最愛の存在を確かめられた。

 目を見張る。

 耳を澄ませる。

 息を吸う。

 よく見えない。

 よく聞こえない。

 でも匂いはする。

 きっと、いや絶対に、ヒトの鼻ではわかることのない匂いがする。

 幸せの匂いがする。

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