表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
獣人-ケモノビト-  作者: 蠍戌
8/10

第七章

 第七章



 瑠香製のヘリコプターがカラム百貨店を後にしてからどんな道順を辿ったのか、川を越えた以上のことはあまり把握できていない。とりあえず円川町の中のどこかしらに到着したらしいということは、飛行時間の短さから想像し得ることだった。

 同じ円川町に生まれ育っていながら、純平はみんとの飼い主の家を初めて見た。ほんの二日前の出来事だ。

 もちろん、健康診断で半年に一度必ず病院を訪れるため、他のペットや飼い主と比べて懇意にしているとはいえ、医者と患畜とその家族としての、せいぜいが外で偶然出会ったときに会釈を交わすぐらいの関係だから、それまでにみんと家の住まいなど知る由もなかったわけである。わざわざ用がないために、その付近の割と富裕な住宅街にさえ、生まれて初めて足を踏み入れていたぐらいだ。

 一つの土地に生まれてから他の地へ移住したことがないものの、その間にただ一度として訪れたことのない場所があるということは、そのとき身をもって学んだ経験であるが、ここまで特徴的な場所が今なお暮らしている郷里に存在していたとは考えもしなかった。まるで知らぬ間に異世界に紛れ込んだようである。

 瑠香の声が、さあ…と低く呼び掛けてから、例えるなら鉛のように重苦しい余韻を残し、やがて意を決したように、着いたよ、と言って、ヘリコプターが着地したのだった。

 搭乗の際と同じ真横のドアが開き、警戒心から慎重に体を押し出して機外に降り立つと、浅く沈む湿っぽい感触に靴底が迎えられた。こげ茶色の土がそこにあり、周囲にはそれらと同色の痩せた木が、果てしもなく並んでいる。こんなに息吹の薄い仮死みたいな自然が近くにあるとは知らなかった。

 冷たいものが顔に当たり、反射で空を仰ぐと、不健康な梢に囲まれてできているために所々を角張らせた形の円い曇天が、ヘリコプター一台が辛うじて昇降できる面積を占めていた。いつ頃からだったのだろう、目を凝らせば水滴を数えられそうな小雨が、そこから垂れ落ちてきていた。

 後ろに気配を感じて少し横にずれると、尻から這い出してきた大将が腿の裏をかすめて降機した。

 乗り込むときとは打って変わった鈍重な所作で大将に続いたサラは、同時に背中に寄り添ってきた。自分の意志を貫いたはずなのに、怯えで染まっているのだろう顔を、耳とともに伏せているらしい。それだけでこの場所が、目的地であることの証左となっている。

 前方、大股で十歩も進めば到達するところに、青いような白いような灰色のような複雑な色をした、くすんだ建物が構えていた。とっくの昔に枯死したような枝葉に遮られて、その両端や頂点は臨めないが、巨大で重厚そうな観音開きの鉄扉を備えた壁面は視認できる。しかしその先にあるはずの、サラを恐怖に陥れている脅威は、それによって窺い知ることができない。

 サラはきっと、満月を浮かべたあの凍えるような夜、どうにかあの番人に打ち勝って、外の世界へと飛び出したのだろう。自由と希望を掌中に収めたと確信し、逃げるためだけではなく、生きるために、この土の上を駆け抜けたことなのだろう。ここには二度と戻るまいと誓い、その誓いを遂げられると信じて。

「行くよ」

 元の姿に戻っていた瑠香がそう言い残して目の前を闊歩していく。

 少しの遅れも己に許すまいというように大将が早足で追う。

 自分が進まないのでサラは縮こまったままでいる。このまま歩き出したとしてもコートから手を放しいつまでも佇んでいるかもしれない。そんな気がしてならない。それではいけない。

 純平は腰の真裏に腕を伸ばし、しっかりサラの手をつかんだところで、大きく前に踏み出した。勢いをつけて二歩目を続け、早くも門の真正面に居場所を獲得した瑠香と大将との距離を縮めていく。

 サラは見ずともよろめいているのがわかる駆け足ですぐ真後ろに着いてきていて、しかし手を振り払わずまた拒まない。本人だってわかっているのだろう。だから口には出さず、それでも心から心へ伝えて念を押そうというように、胸の中で呟いた。

 生きるために、お前は今またこうして戻ってきたんだ。これを最後にするんだ。俺もちゃんとここにいるんだ。

 瑠香は小さい体を横いっぱいに広げて扉を引くと、けして長くはない両腕の分だけ開いた隙間に滑り込んだ。

 続いて大将がひとりでに閉まってくる鉄の塊を避けるように中へ飛び込み、純平はにわかに駆け出し屋内へと身を投じたところでサラを強く引いた。そこで扉が閉まる。

 誰もいなくなった外では、突如として雨足が強まった。身を削られる悲鳴のように乾いた音を連続させて土が弾け飛び、雲の裂け目から稲妻が落下し暗い周辺を瞬間的に閃光で染める。

 しかし、堅固な建物の中には、音も光も届かない。


 研究所とやらの内部は外の続きのように薄暗かった。一定の間隔で天井に据え付けられた蛍光灯が虫の息という具合の淡い光を今にも絶えそうになりながらも発していて、それでも暗闇に蝋燭を灯した程度の明るさしかないのは、四方が剥き出しのコンクリートという構造上のせいだけではないように思われた。

 悪辣な思惑に支配されている暗色の空間を、純平はサラの手を握り締めたまま、全力疾走で先導する瑠香と、それを追い回しているかのような大将の後を、取り残されないように駆けていく。

 何枚も扉をくぐり、幾度も十字路に差し掛かり、数回も階段を昇り降りし、いつの間にかサラがただの重石になってきて、自身も前より下を見つめてではないと走れなくなってきて、とうとう体力の限界から落伍しそうになった頃、着いてはすぐ離れていっていた大将の後ろ足がぴたりと床に接合した。

 膝から上を折り曲げて立ち止まり、苦悶で満たしてしまった息の荒い顔を起こすと、大将と瑠香の後姿の先に、それまでとは色も質も違う、中央に垂直の線が走った壁が立ちはだかっていた。瑠香が操作をしていたのだろう、正体を把握するのと同時ぐらいに線から左右に割れ、大分光度はあるが四人が身を寄せ合ってやっと入れる程度の小部屋が現れた。一見してエレベーターとわかる外観である。

 一度だけだが経験している大将は驚きもしないで瑠香の次に筐体に乗り込んだが、殿のサラは初体験らしく、若干の恐れが混じった不思議そうな顔で仰ぐように内部を見つめたまま、純平が引っ張り込むまで乗れなかった。

 間もなく扉が閉まり、上がっているのだか下がっているのだかわからない空気の震動に身を委ねていると、気を落ち着かせるようにゆっくり息を吐き出してから、瑠香が言う。

「いよいよだ。次にドアが開いたら、そこにマスターがいるはずだ」

 純平はひそかに唾を飲み込んだ。サラの体に変な力が入るのが伝わってきた。大将が早くもマスターと対峙したように身構え、ちらりと瑠香を見遣るのが見えた。

「これでどこに着くんだ」

「地上に戻る」

 純平が首を傾げると、同じ違和を得たらしい大将が指一本で扉を閉める瑠香に詰問気味に言った。

「階段を昇った回数のほうが多かったはずだぞ」

「ここは複雑な造りだからね」

 瑠香は頷いて認めてから、弁明のように説明する。

「肉眼では確認できないぐらいの角度で通路が坂になってたり、階段の段数がまちまちだったりするんだ。一つの場所に行く道順も一つとは限らない。下手に進めば堂々巡りになる大迷路さ。君もあんな奥深いところからよく逃げ出せたものだよ。野性の勘ってやつなのかな?」

 最後のほうの感心と挑発が半々という口振りのときだけ肩越しにサラを見た瑠香は、自分のことを言われているのがわかっているのかどうか、という虚ろな眼差しを認めてから、張り合いがなさそうに顔の向きを戻した。

「でも、今は最も短いルートで進んできたんだ。信じてくれ」

 扉を見据えて瑠香が言う。真剣な表情を斜め下から仰いでいた大将は、まるで面と向かって頼まれたように、気恥ずかしそうに顔を逸らした。了解の代わりに尋ねる。

「時間はどうだ」

「十分間に合ったよ」

 そこで瑠香は振り返り、地べたに膝をついたりへたり込んだりしている二人をしかと確認してから、嘲罵にも憐憫にも慈愛にも映る微笑を浮かべる。

「もう少しゆっくり来てもよかったかもしれないね」

「馬鹿言え、まだ遅いぐらいだ。なあ純平?」

 こちらの事情など一切斟酌していない問い掛けに、純平は意地になって頷いた。声は出さなかったのではなく、出せなかった。

「その心意気は大事だ」

 濃い疲労に気付いているのかいないのか、瑠香は取って付けたように聞こえる褒め言葉を残して再び扉に向き直る。

 程なく室内が停止する感触がした。

 大将は一層身を低くし、瑠香は大将に倣って腰を落とす。

 純平は床を叩き付けた反動で弾むように立ち、サラは純平の手を握り締めて全力を込めて起き上がる。

 それでも力を緩めずに握ってきているサラの手を、純平はそれ以上の強さで握り返してやった。


 ドアは、全くの無音を伴って、中心から左右に分かれていく。隙間から差し込む線ほどの閃光は短い時間で次第に面積を増し、たちまちドアのそれと同じ広さになる。

 黒から白へと変色したような光の量が眩しくて、純平は防衛本能にも似た反射で目を閉じた。先の二人が進んだ気配に従い、サラを導きつつ、まぶたの裏の明るい暗がりを睨んで前に踏み出す。左右一歩ずつで足の裏に触れる感触が変化した。

「ご苦労だった」

 初めて聞く男の声が静かに届いた。風のように特徴のない、どちらかと言えば低い音。

 純平は力強く目を見開き、射るような光をしかめっ面で耐えて、音の出所と今いる場所を確かめようとした。

 上下左右から発光しているように感じられるのは、縦横の別なく至るところに据え付けられた蛍光灯の強度だけではなく、無機的に染め上げられた純白のリノリウムという四方も関連しているらしかった。ちょっとした広間であり、奥行きは限りなく見え、両幅も遠い。天井が霞んでいるのは一面の白亜のためだけではなさそうである。

 部屋の中央には銀色に輝く尖塔が果ての知れないその天井に向かって佇んでいた。それでも目視できる最下部はそこからかなりの高さまで続く寸胴の一部で、床のその周りは輪状に黒い空間が沈んでおり、元が有人ロケットだというこのミサイルのブースターが地下に潜んでいることが窺い知れる。

 そしてミサイルの足元には、ほとんど部屋と保護色になっている、一人の人間が佇んでいた。肩から足首までを覆う長い白衣を身にまとい、襟足に届くほどの黒髪を有する、痩せぎすで長身の体躯。左右のポケットにそれぞれの手を突っ込み、こちらに背を向けて、真正面にそびえる自身の分身を仰ぎ見ていたが、にわかにその体を揺らし、静かな動作で反転してくる。もう一つの分身である、少年の形をしたロボットと同じように襟を立たせていて、その襟と襟の間に、小奇麗だが、先入観のせいか邪悪な体臭が漂ってくるような、壮年の男の顔がはまっていた。

 男は端にいる瑠香を細い目で満足そうに確かめると、悠然と微笑を移動させて順に来訪者を見回していき、もう一端に到達したところで笑みを失いぎょっと目を剥いた。そして再び相好を、氷点下の温度と果てのない闇を隠せないほど帯びた具合にではあるが、崩してみせた。

「久し振りだな、サラ」

「マスター…」

 すぐそばで聞いていても、想像抜きには聞き取れないぐらい小さな声だった。当然呼び名を言われたほうに届いているはずがなかったが、相手には初めから聞く気もない。

「よく戻ってきてくれた。これで探す手間が省けたということだな」

 思わずサラは純平の後ろに潜み、その姿を追ったマスターの焦点は、背後を庇護するように身を乗り出した純平に自ずと合わさる。マスターはサラを視認したときと比べて寸毫の驚きも見せずに、笑ったままで頷いた。

「瑠香から聞いている。お前が動物たちの頭脳だな」

 純平は返事をせず、挑むようにマスターを睨む。まるでそれが至福だというように、マスターは一層笑みを深めた。

「名は」

「純平」

「誰がお前を作った」

「親父とお袋」

「私のほかにもそんなことのできる人間がいたとはな…知らなかった」

「健康な人間だったら誰にでもできらあ」

「是非一度会ってみたいものだ。どこに住んでいる?」

「親父は四年前、お袋は去年死んじまったよ」

「そうか、それは実に残念だ」

 口で言うほど残念ではなさそうに頷きながら、マスターは左足を軸に体を捻る。おおよそ直角から鈍角に差し掛かったところで横目で瑠香を一瞥し、突き立てた親指を純平へと向ける。

「ついでにそいつも始末しておけ」

 瞳の延長線上に突き付けられたその指をへし折ってやることができない代わりに、純平は早くも怒りを滲ませて絞り出す。

「手前なんかにそんなこと決められる筋合いねえよ」

「残念ながら、ある」

 ちょうど半回転したところだった。マスターは停止し、改めてロケットを見上げると、ため息混じりに言った。

「私は人間なのだ」

 その肩書きを持て余しているという具合の、厄介な口振りである。しかしそこには紛れもなく、自ら名乗った生物学上の分類に自身が属しているという矜持が、どれだけ隠そう秘めようと努めたとしても果たせないほどに充溢しているのだった。

 私は人間なのだ。だからお前たちを殺す義務があり、また権限がある。一同はそれら言外の言葉を、直接告げられたのと変わらない声調で聞いたのだった。

 同じ人間として鑑みてもいたずらに神経を刺激される理不尽な言い分であり、ただでさえ仲間を失うわけにはいかない反乱の指導者にしても度し難い処刑の理由である。

 純平と大将がさざなみと噴火ほどの差こそあれ怒気を覚える一方、瑠香が泰然自若と構えているのは特に異論がないからなのだろう。

 そしてサラは、純平がしばらく気がつかなかったほどそっと純平の手を放し、三人の前に歩み出ていった。

「マスター…」

 今度もほとんど囁くようなものだったが、今度ははっきりと相手に届いたようだった。

 真顔で悪感情を相殺し、むしろそれによって嫌悪を露にしている視線に、サラは耳を半ば伏せ尻尾をかすかにそばだてながらも、祈りの言葉を捧げるように呟いた。

「私…生きていたい…」

 自分で口にしたその一言で、サラの内部に固いものが兆したらしい。耳は飛び起き尻尾は張り詰め声は大きく早くなっていく。

「私、生きていたいの。ここから逃げて、純平や大将に出会って、辛いことも大変なこともあったけど、楽しいこともいっぱいあって、まだそれを終わらせたくないの」

 そこでサラは項垂れ、湿っぽい息をゆっくりと吐いた。鼻を啜るのと一緒に酸素を取り入れ、再び言葉を紡ぐ。

「ひどいこともしたけど…それでも…やっぱり生きていたくて………ううん違う…生きていたかったからひどいこともして…」

 純平の脳裏に、ポポに由来する全ての光景が浮かんでいた。サラの頭の中でも同じ現象が起きているはずだった。それ以上言わせるのが忍びなくて、駆け寄って抱き締めてやりたい衝動を、必死に堪えて立ち尽くしていた。いてもたってもいられない。だが今ここに入っていってはいけない。そんな気持ちで。

 サラは軽く握った手の甲で目元を拭って、なおも悲愴に続けていく。

「私なんか、これっぽっちも人間の役になんて立たないかもしれないけど、それでももうちょっと生きていたいの。だから…だからお願い…」

 間を計るように、サラはそこからしばらく沈黙した。そして頃合を判断したらしく、もう一度同じ言葉を発して懇願した。

「だからお願い…殺さないで…」

「だめだ」

 マスターはとっくに用意していた返事をようやく射ると、そこで留まらず言葉の矢を加えていく。

「お前は処分する。私が責任を持って始末する。これはずっと前から決まっていたことだ」

「じゃあ教えて? どうしたら私は生きていても良くなるの? どうすればいいの?」

 サラはマスターが言い終えるか終えないかのうちに笑顔で問い掛けを連発した。前触れもなく豹変した姿に驚き怯んだように身を引いたマスターに間を置かず畳み掛ける。

「頭が悪いからだめなんだったら、いっぱい勉強するよ。見た目がよくないからなら、こうして」

 サラは首に手をやって素早くトレーナーを剥ぎ取ると、たちまちそれを腰に巻き付けてからくるりと回って尻尾の隠れた後姿を披露し、今度は頭に両手を伸ばしながら向き直った。

「こうしたら」

 そして左右の耳をぺたりと潰してみせた。

「人間とだって見分けがつかないでしょ?」

 サラを見つめていた瑠香の顔が何かをひらめきかけて一瞬渋く歪んだが、急いでいたために結び目が緩かったのだろう、ふわりと離れたトレーナーの裏から弛緩した尻尾が現れ元通りのサラになったので、昨日人質を救出したときに橋の上で見かけた女だとは気がつかない。消化できていない表情がそこに残った。

 サラは落ち切る寸前にトレーナーをさらって首に戻しつつ、より一層の早口になってまくし立てる。

「私、人間の迷惑になんてならない。これからいっぱい頑張って、人間の役に立つことだってできるようになる。だから」

「サラ」

 知らない人が聞いたらその呼び掛けは、ただそれだけなら、温和なものとして聞こえたことだろう。しかし当の本人にとってはまだまだ多くの主張を行おうとしていた矢先の遮断だった。ただそれだけで、サラはきつい猿ぐつわを噛まされたように、口を閉ざされてしまったのだ。

「これからどうしたって、お前は生きていてはいけない生き物なのだ。いや、これまでだってそうだったのだ。お前は生まれてきてもいけない生き物なのだ」

 序盤はこんなことを言われるだろうという漠然とした予感を裏付けるものに過ぎず、サラは耳と尻尾と一緒に顔をうつむかせた。

 しかし中盤で思わずその顔を跳ね起こさせ、終盤にかけての今一つ理解のしがたい言葉の連続を聞いていると、ひそめた眉の下で丸くした目をぱちぱち瞬かせた。

 マスターはサラの胸のうちを見透かし説明を加える。

「そもそもお前の誕生は自然に反することだ。ヒトと黒ネコを掛け合わせてできた生命体など、本来の生き物のあるべき姿ではない。そんな異常な生き物がその辺をうろついていてみろ。それだけで人間の生活は妨げられる。人間は初めて見るものに対して、それが危険であろうとなかろうと、興味をそそられたり怯えたりするものだ。お前の存在が人間社会に明るみになることで人間の平穏を乱すことに違いはない。最も愚劣なのはお前に希少価値を見出す人間が現れることだ。お前のような、いわば新種の生き物が発見されれば、それを独占しようとする人間は必ず出てくる。見世物にするか、慰み者にするか、研究対象として管理飼育するか、いずれにしても目も当てられん事態が起こる。そんな人間が何人も何十人も何百人も何千人も何万人もいたらどうする? お前を巡ってくだらない争いを始めるかもしれない。どれだけの人間が傷つき死んでいくか、考えるだけでも恐ろしい。より深刻なのは生態系を歪めるという危惧だ。お前を介してますます異常な生き物が誕生し、繁殖していったら、これまで培われてきた自然の法則が完全に破滅する。全てはお前がいることが原因だ。お前さえいなければこれまでもこれからも何も起こらないのだ。だからこそお前には消えてもらわなければならないのだ。例外として唯一お前のような生き物の存在が許されるのは、ここのように閉鎖された空間においてだけなのだ。それさえもけして外部に漏れないようにしなくてはならない。自分から逃げ出すなど言語道断だ。その罰として殺さなければならないぐらいなのだ」

 段々と熱を帯びて荒くなってきた口調に、締めくくりに放たれた怒声、そして尊大な内容。サラは次第に萎縮して項垂れていき、最も厳しい個所では素早く耳を伏せていた。しかし恐れはなかった。むしろ言ってほしいことができた。確かめたいことができた。

 瑠香のことをいかなるときでも理性的であろうとする性質に手がけた造物主は、その帰納のように、それ以上に声を乱しはせず、落ち着いた一言を付け加える。

「何よりもお前は失敗作だ」

 サラは黙っていた。それを聞きたかった。

「そんな物にこれ以上無駄飯を食わせてやるつもりはない」

 サラは頷き、その反動で顔を起こし、ゆっくり口を開く。

「もし私が失敗作じゃなかったら…」

 そこで言葉に詰まった濡れそぼった二つの瞳を左右の目で見据え返し、マスターは首を軽く斜め後ろに傾けた。サラは唾を飲んでから、催促に応えるように核心に踏み込んだ。

「マスターは私をどうしてたの…?」

 次に頷いたのはマスターだった。

「お前の生態を研究するつもりだった。どれだけの行動がネコに類似し、どれだけの行動が人間に近いのかをな」

 そう前置きをしてから虚空を見上げ、そこに浮いている両手の指を一本一本折り曲げていくような具合に話していく。

「知能はどうか、嗜好はどうか、運動能力、五感の差異、疾病への免疫、怪我への耐久性、文化的行為の有無、動物的直感の強弱、比べるところはいくらでもある」

 おおよそ思い付く限りの項目を列挙し終えたところで、マスターは視線を戻した。サラは目を逸らすことを目的としたように再び項垂れ、足元に向かって呟いた。

「寿命もでしょう…?」

 マスターははたと驚きを顔に浮かべ、それからそこに気づかなかった自分をたしなめるように微笑んだ。

「そうだ。よくわかっているじゃないか」

 サラはそれには答えずに足元に続けていく。

「誰にも知られていない生き物を作る…誰にも知られていないところでその研究をする…誰にも知られずにその生き物が死んでいくまで…それが私を作った目的…」

「なるほど言うだけのことはある。随分賢くなったものだな」

 マスターは微笑の意味合いをサラへの称賛に変化させ、白衣のポケットから取り出した両手をゆったりとした速度で叩き合わせたが、わずかに首を上げたサラの姿にその動きを止めた。

 上目だけでマスターを見据えたサラの左右の目には、じっとしていてもこぼれ落ちそうなほどに、大量の水が粒となって漲っていた。途中で全てわかっていたにもかかわらず。しかしまだ、一つだけわからないことがある。

 サラは、今に至って最大となった謎を聞き出すために、硬く強張っていた口を力を込めて開いていく。

「一体それが…人間の何の役に立つっていうの…?」

「私の暇潰しさ」

 マスターは即答と呼べるほど速く言った。

「まだそこまでの頭はなかったようだな」

 そして腰を支えがてらポケットに手を戻しつつ、若干残念そうに首を振ってからサラを確かめた。

 サラは木か石にでもなったように、瞬き一つせずにその場に凝固していた。一瞬前と異なっているのは、天を突かんとするように真上に屹立した耳と尻尾、そしてそれらを覆う獣毛であり、動くものは、二つの目から頬を伝い、あごの先で合流して床へと滴っていく水の粒だけである。

 マスターの表情には落胆を通り越して不満が萌芽していた。

「他に何がある」

「暇潰しなんかで…」

 そこまで発したサラは続く言葉を探すために唇を噛み、血を舐めるより早くそれを探し当てた。

「私の命を弄んだの…?」

「そうだとも」

 目を剥いたからというだけではなく、涙の量が格段に増えた。質も変わった。あまりにも遠慮のない言葉を選抜してやったのに、マスターはむしろ胸を張って口元を緩めたのだ。サラの前歯に鉄の味が触れる。

「そんなことしていいと思ってるの…!」

「強ければな」

 条件付きという曖昧な肯定は予想した答えではなかった。肩透かしを食ったようなしかめっ面で次の一言を求めているサラを知ってか知らずか、マスターは信念と等価の持論を確かな自信で繰り広げる。

「我々人類は強いからこそ、自分たちの都合で他の生き物を繁殖させ、去勢させ、避妊させ、捨て、拾い、飼い、殺し、そして食えるのだ。他の生き物も同じだろう? 弱者を生かすか殺すかは、強者の意思と、度量と、その時々における状況の兼ね合いによって決まるのだ。違うとは言わさんぞ。もしお前たちが私より強く、私がお前たちより弱かったなら、ここに強弱の関係が出来上がる。その関係をどのように用いていくかは、やはり強者の思うがまま、つまりお前たちの考え一つということだ。そしてサラ、私とお前の関係において、それは暇潰しなのだ」

「俺とお前の関係は違うな」

 大将は視線を移してきたマスターと目が合うと、残念だが、と前置きをした。

「俺には暇潰しでお前を殺せるほどの余力はない。俺はお前に殺されていく同胞を何としてでも救ってやるだけだ」

 マスターは口の端を吊り上げて頷いてから目を剥いた。

「ならばなぜ救おうとする? それは褒められることか? 救いたいから救うというのならば、それはそれでいい。正当な根拠として認めてやる。しかし教えてもらおう。それが私の行いとどう異なるというのだ? お前にそれができるとしたら、それはお前が私よりも強いからということになるだろう。お前は他の生き物より比較的強いということにおいて、私と同類なのだ」

 大将は巨大な鏡でも突き付けられたように顔と体を固くした。そこに映る醜悪なものが紛れもない自分の姿だと気がついたように。生まれてからこれまで誰にも劣らないという誇りとともに自負としていた特長を、生まれて初めて汚点として感じずにはいられなかった。マスターはその鏡の中と外から、大将自身の知らない更なる深部を指摘する。

「善意だろうと悪意だろうと、それがもたらす行為など、所詮は強者のエゴイズムに過ぎん。お前の目指す先に正義はあるのか」

 大将は目線を下げて口を結んで開けない。それだけで返答となっているにもかかわらず、わざわざ背後からそれが言葉で飛び出した。

「正義はねえな」

 大将は愕然と振り返った。しかし純平は抗議の目に一瞥すらくれずにマスターを睨んでいる。

「だが手前とも違う。こいつは純粋に仲間や動物たちを守りたいだけだ。頭わりいから余計なこと考えられねえんだよ。なあ?」

 純平は嘲笑とともに大将の頭に手のひらを落とした。水でも除けるように振り払われた手を慣性に任せておき、マスターを見据え直して口調を研ぐ。

「手前はどうだ。手前が望んでるのは優越だろうが。他の生き物より優れた存在でありたいという立場だけだろうが」

 純平は再度大将の頭に手を乗せて、気色ばんだマスターの反論と抗弁を封じていく。

「確かに人間は動物よりも強い。こいつだって他の動物よりは強い。だがそれだけだ。強いだけだ。強いことは偉いことじゃねえ。どの生き物にも同じだけの価値があるんだ。軽く扱っていい命なんか、この世にはただの一つもねえんだ!」

 言葉と絶叫以上の大きなものがすぐそこに迫ってきたように、マスターはわずかにのけぞって何かを言おうとしていた口を閉ざした。

「人間じゃなかろうが動物じゃなかろうが、失敗作だろうが何だろうが、こいつがいなくちゃ困るって奴もいるんだよ」

 純平は大将から離した手でそこに立ったままでも腕を伸ばせば届く最も手近なサラの一部を鷲づかみして引き寄せた。

 腰から全身に電気が走ったような感触もほどほどに、背中から純平の胸板にぶつかって停止したサラは、尻尾を力一杯握り潰されている痛みをひそかに喜んだ。理由の一変した落涙はそれまでより勢いよくとめどなく続く。

 マスターは音が出るほど歯を軋ませる。

「私は人類に貢献しなければならない。そのためにお前たちを殺さなければならない。くだらん感傷に浸らせておく余裕はない」

「そんなもん作ってぶっ放そうとしてる奴がどうやって人類に貢献できるってんだ」

「お前たちみたいな大馬鹿者どもを食い止めてだ!」

「いくらなんでも行き過ぎです…」

 怒鳴りつけたいのを何とか抑え込んだという具合の声を絞り出し、瑠香が三者の前に歩み出た。

 マスターは不興そうに瑠香を見つめ、瑠香はロケットともにそれを見据え返して話し始める。

「それを放ったら立てこもっている動物だけでなく、人質となっている人間までもが死んでしまいます。考え直してください。それができないなら」

 そこで言葉を切った瑠香の背に大将が覆いかぶさった。前のめりになった両肩に両前足を押し当て大口を開き、整然と並んだ牙に小さな頭を軽くあてる。稽古はおろか打ち合わせさえしていないにもかかわらず、両者とも何度となく練習を積んできたかのような鮮やかさだった。

「マスターもご無事では済みませんよ」

 ようやく瑠香は脅すように続きを言い放ち、大将とともにマスターを睨みつけた。

 どのような理論に基づいてこのような状況に瑠香がその身を至らせたのかは聞くまでもなくわかる。マスターはしばらく黙ってそれらの姿を見下ろしていたが、やがては頷いた。

「どうやら本気のようだな」

「もちろん本気です。僕は人間を守ります。たとえ動物を生かしておいてでも、まずは人間を守り抜きます。僕にはこれしか方法がないんです」

「そうか…」

 マスターはおもむろにポケットから片方の手を引っ張り出し、目を覆って抑揚のあるため息をついた。ため息をつき切ると手を持ち上げて髪を掻きむしり、またため息をついたような口調を漏らした。

「おかげでとんだ醜態をさらしてしまったではないか。感情のみに行動を支配されてしまうなど、人間のあるべき姿ではないというのに」

 額から後頭部までを通過した手をポケットに戻し、視線を戻すと、瑠香はなおも大将を背に担いだままで、何だか要領を得ない目つきをしている。

「まだ気がつかないのか?」

 マスターは憐れむように笑ったが、瑠香は表情の変化と問い掛けの意味の二つの真意がわからずにますます顔をしかめるだけである。

「私の研究と発明は全て人類に寄与するためのものだ。その私が本当に人間を巻き添えにすると思ったのか」

「動物たちを絶滅させるためには致し方ないことだと…あなたはそうおっしゃったではありませんか!」

「まあそう怖い顔をするな」

 マスターは歯軋りした瑠香をなだめてやったが、その揶揄するような笑顔はかえって瑠香の感情を逆撫でした。相手が相手であればとっくに風穴を空けられていたに違いない。それができないために瑠香の歯はいよいよ限界を迎えつつある。

 マスターは瑠香の上下の前歯が音を立てて壊れるまさにその寸前で表情を引き締めた。

「何よりも人間を大切にするお前のことだ。ああ言えば私の計画を阻止するために、動物たちを連れてここまでやってくるだろうと考えたのだよ」

「大将! 瑠香を壊せ!」

 純平はすかさず叫んだ。

 しかし、瑠香が同じようにマスターの意図を悟るのが、その純平よりも遅れるということなど、あるはずがなかった。

「まさか本気だとは思わなかった。てっきり芝居を打っているのだとばかり思っていた」

 マスターが一人ごちる間に事態は急変した。

 純平に乱暴な指示の理由を問おうと首を後ろに向けた大将は、その瞬間に瑠香の肘打ちを腹に食らい、如何の代わりに短い吐息だけの悲鳴を吐き出して滑落し、瑠香は拘束の解かれた隙にマスターのほうへステップを踏むように離れていって、くるりと三人に向き直ったところで浮かれた足取りを止めていた。

 全てを理解していた純平は遅れを悔やむように立ち尽くすことしかできず、何もわかっていないサラはただ反射的に膝をついて大将の体に手を添えるだけである。

「どういうことだ…!」

「これで心置きなく君たちを殺せるってことさ。ここなら人質を取られる心配もないしね」

 誰に対して発せられたのか判別のつきにくい苦しげな大将の詰問に、嬉々とした様子で瑠香が答えた。その瑠香の肉体は前後からの四対の眼差しの先で変形していく。

 右の肩口が服を裂く具合に銀色に膨れ上がり、綺麗な円形になったところで前後に伸び、中心が大きく深く窪んで太い筒になったときにはすでに体から分離していて、瑠香の両手を添えられ右肩に担がれていた。純平を川に落としたのと々バズーカ砲である。いつ砲弾を装填したのかなど、考えるのも馬鹿馬鹿しい。無限とは思えないが果ての察しがつかないためそれに近いぐらいの連射が可能に違いない。

「僕もまだまだですね。考えがそこまで至りませんでした」

「気にするな。私がそこまでの知恵をお前に組み込めなかっただけだ」

 首だけを振り返らせた瑠香とそれを見つめるマスターは互いに自らの非を認めた。室内には拳を握り締める純平も怯えるように顔をしかめるサラも忌々しげに呻く大将もおらず、まるで二人だけしかいないかのようである。マスターはくるりと反転して瑠香と残りに背を向けた。

「終わったら何食わぬ顔でそいつらのアジトへ戻れ。残っている動物全てを始末し、人質を救出しろ。私はこいつを処理してくる」

「かしこまりました」

 マスターは瑠香の恭しい返事を聞き終えてから、満足そうにロケットに歩み寄った。

 これで万事解決だ。瑠香の魯鈍による手違いで幾度も不安になりいささか不快にもさせられたが、やむを得まい。所詮。高望みをしてはいけない。

 嘲弄気味に微笑んでから、発射を中止させるための作業を行うためにポケットから両手を取り出そうと腕を引き上げた、その瞬間。異常なほどの大将の絶叫が耳をつんざいた。それはとても悪あがきや断末魔のものではなく、ケモノらしからぬ驚きに満ちた咆哮であった。マスターは声そのものよりそこに至った状況に先走って仰天しつつ振り返る。

 初めは直前までの光景との違和をかろうじて感じただけであったが、すぐに正体が知れた。やはり、自分以外の誰にも、あんなものを作ることはできないのだ。しかし誇らしさなど得られない。代わりにやってきたのは計り知れないことで懸念すべき予感とどうにかしてこの難局を乗り越えなければならないという切迫であった。深刻すぎて歯軋りしている自身にすら気がつかないほどだ。

 瑠香の前、むしろバズーカ砲の砲口の真正面に、擬態を捨てた、正真正銘の純平が、単身で立ちはだかっていた。後ろには恐怖を必死に堪えるあまりそうなってしまったという具合の強張った顔で屈んでいるサラがおり、全力で押さえ付けているかのようなサラの両手の下では腹這いになった大将がこの世の全てがわからなくなってしまったみたいな呆然とした表情を純平のほうに向けていた。その落ち着かず震えている二つの目は、純平の手に潰さんばかりに握り締められて苦しげに身をよじっているウサギの耳と、それを生やして今は宙ぶらりんになって微動している黒いニット帽を見据えていた。

 純平はいかにも邪魔者を払い除けるような仕草で腕を後ろに振って手を開いた。投げ捨てられたウサギの耳つきのニット帽はサラの胸の辺りに当たった。サラは思わず両手を引っくり返して落ちてくるところをキャッチし、大将はそれを一瞥してすぐに純平に向き直った。

「俺は人間なんだよ」

 純平は誰にともなく、しかしこの広く高い部屋のどこにいても聞こえるように言い放った。頭上では汗で湿った黒い髪の毛が風もないのにかすかになびいた。ウサギの耳は跡形もない。

「俺が榊純平だ」

 今度は瑠香をまっすぐに見つめて告げた。今なお現状を把握できておらずに目を白黒させている姿に意を決して言ってやる。

「口紅してた榊純平だ」

「なんで口紅を?」

 やはり動揺しているのかよほど気にかかっていたのか、なんにしてもサラの耳がぴんとこちらに張り詰めたのを直感せずにはいられない質問を、純平は辟易したようにそっぽを向いてはぐらかす。

「悲しい理由があるんだよ。後で話してやる」

「俺たちを騙していたのか…!」

 一方で予想を裏切らない詰問がやってきた。苦笑しそのまま答えてやる。

「こうでもしなきゃ、とっくにお前らに殺されてたはずだからな。だが」

 そこで真面目な顔を振り向かせ、想像した通りの睥睨をきっと睨み返してやった。

「そんなこと言ってる場合じゃねえだろ」

 吐き捨てるようにたしなめ、唸ることしかできないように大将を黙らせたところで、純平はおもむろに瑠香に向き直る。相変わらずの不景気そうな姿がやけに快かったので、つい口の片端を持ち上げた。

「どうする? 俺を殺せるのか?」

 難問を吹っかけるような見下した言い方に、瑠香はようやく自分の置かれた状況に気がついて悔しげに歯を軋ませてみせたが、純平の望む答えを返すしかない。バズーカ砲は出現したときの情景を遡行する具合に瑠香の体内へと消えたのだ。

「な? 人間だって役に立つだろう?」

 純平は表情そのままに大将を顧みたが、大将は舌打ちして顔を逸らすだけだ。こうなると立場が逆転して身の安全が確証された。つま先であごの下をぐりぐりしてやると、鬱陶しそうに牙を剥き出してから噛み付く素振りを見せてきたが、威嚇なのか悪ふざけなのか決めかねるので恐怖はない。たとえ前者でもそこを踏み越えることはできないのだ。

 純平と同じように大将を理解していたのはサラや瑠香や大将自身だけではない。軋ませた歯と歯の間からしごき出したような声でマスターが叫んだのだった。

「瑠香! とっとと始末しろ!」

 信じられないことが起こったという具合にサラは驚愕した顔を跳ね起きさせた。対するに純平と大将は、半ば面食らったような、それでいてどこかで予感していたことが実現したという具合の憤ろしい面持ちでマスターを睨んだ。しかし名を呼ばれ命じられたにもかかわらず、瑠香は軽く項垂れたまま、じっと立ち尽くしているのみである。

 業を煮やした高ぶりがより強い怒声となってマスターの口をつんざいた。

「聞こえているだろう! 瑠香!」

「できません」

「そ…それはどういうことだ!」

 あまりの驚きに口ごもってから、思い出したように意気を取り戻してマスターが問いただすと、瑠香は力ない足取りで緩慢に振り返り、うつむいたまま答える。

「僕が手を下せるのはサラと大将しかいません。ですが今ここでどちらかを攻撃したら、純平までをも巻き添えにして死なせてしまいます。純平は人間です。人間を殺すことはできません」

「なるほど…それもそうだな…」

 納得して何度となく頷いたマスターは、さりげなくサラと大将の前に佇み二人を隠すようにしている純平に向かって横柄にあごをしゃくった。

「今回は許す。その男ごと殺して構わん」

「人間を殺すわけにはいきません」

 知らず知らず漏れていた笑みは思わぬ拒絶によって凍り付く。マスターは瑠香の頭頂部を見据え直し、腹の底から絞り出した苦いものを吐き出していく。

「私の命令に背くというのか…」

「僕は人間を守るために作られました。その使命を果たすだけです」

 瑠香は顔を上げて至極当然だというように答えると、背中に目があるかのように不意に首だけを後ろに曲げた。

「約束したろ?」

 そしてすでに不可解の文字を顔に表していた純平にこう告げて更なる謎の境地に追い込んでから、誇らしげな微笑で深遠から引っ張り出した。

「君が人間である限り、僕は君を殺すことはない」

 瑠香は純平の表情が拍子抜けしたように弛緩していくのを見届けようともせず、一気に引き締めた顔の位置を素早く戻した。

「マスターこそ、そんな命令を下すなんてどういうおつもりですか。人類に貢献するというお言葉は偽りなのですか!」

 マスターはぐっと息を呑むような声を漏らして身じろいだが、にわかに歯と歯を離し、悲しそうに目を細めて頭を垂れた。

「所詮は機械…臨機応変には動けんか…」

 そう言ったマスターの白衣のポケットの一方が蠢くように波打ち、伴って電子音が連続して響いていたが、離れているところからではその動きは微動にすら見えず、音は小さすぎて聞こえもしない。

 意味深な瑠香への感想の時点で四人はほとんど無意識のうちに身構えていたが、両手を隠したまま取り出そうともしない姿から次の一手が始まっているとは考え付かなかった。

 しかしマスターの耳にかろうじて届く高音が最後に長く続いて途絶えた途端、爆発にも似た激しい破砕音が部屋を外から揺すぶる勢いで轟いた。

 純平もサラも大将も例外なく顔を逸らして身をよじっていたが、次の瞬間には急いで視線を元の位置へ戻し、図らずもその場から消えた瑠香を発見した。跡形もなくなったのではなく、拳を握った左右の腕や枯れ枝のように折れ曲がった両の足やきれぎれに断裂した胴体や歯を軋ませた表情の頭部が床のあちこちで完全に停止していたり慣性で動いていたりするのだった。

 大将は本能でじゃれついたかのように猛スピードで転がっていく生首に飛び掛かってそれを止め、サラはほとんど這うように駆け寄って悔しげな顔と向き合った。

 純平は狼狽と困惑のあまり足がすくんで立ち尽くしていたが、一瞬前の爆音と瑠香の四散の関連を直結させ、こうなった具体的な因果関係を知ることができなくても、密なる関わりを持っていることだけは理解し、あらん限りの眼力でマスターを睨み付けた。

 しかし当のマスターは一瞥すら返してこずに瑠香のほうを見つめている。その視線の先でサラは瑠香の髪を優しく撫で、音を立てて鼻をすすった。

「大丈夫…?」

 宝物が壊れてしまったように涙ぐんだ声で呼びかけられ、瑠香は目を丸くしてサラを見返すと、困ったような照れたような決まり悪い感じに微笑んだ。

「これぐらいならすぐに復元できるさ」

「復元などさせんよ」

 サラがほっとしたように笑みを漏らしたのが見えたのか、マスターが冷ややかに宣言した。

 瑠香は突きつけられた言葉よりも二人だけの会話に割って入ってこられたことそのものが気に入らないというように、歯を軋ませてマスターを見据え直す。

「残念だぞ、瑠香。お前は何かを守るということをわかっていないようだな」

 瑠香の目にかすかな怪訝がよぎった。マスターは続ける。

「何かを守るということは、他の何かを犠牲にしなければならないということだ。多くのものを守るために些細な物事を犠牲にすることを厭うようでは、何をも守ることはできない。それは人間だろうと同じなのだ」

「人間を守るために人間を殺しても構わないということですか…」

「そうだ」

「そんなはずない! あなたはいつも、人類は偉大であると、全ての生き物を統べる位にあると、そう言っていたではありませんか! それならばどんな理由があったとしても、けして傷付けたり殺したりしてはいけないはずではありませんか! ましてや人間が人間を殺すなんて…人間が人間を殺すことを許容するなんて…! もってのほかだ!」

「お前の価値観ならばそう思っても無理はない。だが現実はそうはいかん。聞き分けのない人間など害獣と同じだ。害獣を殺すのは我々人間の責務だ。それと同様の人間を殺すのもまたな」

「違う違う違う! 人間は…人間は…」

「瑠香、もういい、もう悩むな、全てはお前をそういう風に作ってしまった私の過誤。お前には何の責任もない。次に作るロボットにはしっかりそれを組み込んでおくことにする。今までご苦労だった」

 マスターは瑠香への死刑宣告を果たしつつ、ポケットから両手を取り出すと、一方で白衣の胸の辺りをめくり、もう一方を懐に入れた。程なくして利き手に握り締められた一丁の短銃が現れる。

 悠然と弾倉を開き、欠けなく弾丸が込められていることを確認してからそれを閉じ、そのまま両手を添えて持ち上げ、前方に銃口を向けて標的を定めようとし、不意に不具合を感じ取った。

 正面にいるのは、怒気と憎悪をふんだんに湛えるあまり、どちらがどちらか見分けがつかないほど酷似してしまった純平と大将、そして今にも悔し涙をこぼしそうに歯を食いしばっている、首だけの瑠香だった。

 狙うべき数が足りないことに気がつくのと同時に、背後に気配が走った。こちらを見遣っている三者は例外なく目を見開き、まったく同じ口の動きをした。サラ、と叫んだように聞こえた。実際そう叫んでいたのだった。

 それぞれの意識の方向がそれまでと少しも傾いていなかったとはいえ、他の四人の四人ともがそこに移動したことで初めてそれを悟れたという敏捷性でマスターの後ろまで走り抜けたサラは、純平と大将と瑠香の驚きの声への返事も反応も怠り、次の動作を急ぐ。

 一方の手をほぼ垂直に伸ばしもう片方を前方に突き出し同時に爪を立ててそこにあるものをつかむや、えずくような気味の悪い声を無視して両腕を上から下に回転させるように手前に動かし途中でぴたりと止めた。

 マスターは一瞬のうちに首と両腕を鷲づかみされて真後ろに捻じ曲げられ、足だけを支えに反り返る形となって、自由を奪われたのである。上下正反対にでないと視認できなくなった、目を剥いて歯を食い縛って息を切らした殺気立ったサラの顔には、これで終わりにする気がないことがはっきりと刻まれていた。

「何のつもりだ、サラ」

 死の恐怖の手前にある驚愕と焦燥を隠せない口調でマスターが言った。

 サラはぐっと荒い呼吸を止めてから、努めて落ち着いた声で、愚問のような問い掛けに丁寧に答えてやる。

「私は純平を守るの…ううん純平だけじゃない…大将も…動物たちも…もちろん瑠香のことも…そのためにマスターに犠牲になってもらうの…」

「サラ、お前は少し勘違いしているみたいだな」

 視線の先の瞳に薄くではあるが疑問が浮かんだ。マスターはここぞとばかりに饒舌で早口になる。

「いいか? サラ。よく聞け。確かに私の行いは全て人類への貢献を目的にしている。しかしその全てが人間のみに恩恵を授けるものではないのだぞ? この滅びつつある世界を復活させる唯一の手段でもあるのだ。お前にも見せ、聞かせてやったことがあるだろう。エネルギー資源の確保のプラン、環境維持の永続的方法、あらゆる病原菌に有効な薬剤の製法、無限に食糧を生み出す装置の概観。わかるな? 私ならばお前の守りたいという動物だって守ることができるのだ。むしろ私が守らないとならないのだ。生物の長たる人間が世界を守らないで誰が全ての生物を守ってやれるというのだ。私がいなければ遅かれ早かれこの世界は滅びるのだ。私を殺すということは世界を殺すことと同じなのだぞ? お前は私だけでなくこの世界まで殺したいのか?」

 サラの双眸に混じっていた不審の気配は、すでに動揺を経て躊躇にまで変化していた。握り潰さんばかりに強かった握力も子供のそれのように弱まっており、機を見たマスターは胸のうちで笑んでひそかに踵を踏み鳴らした。まだ、手はある。足と呼んでもいい。

「でも…マスターは…」

 もう一回床を踏み締めればというところで、サラが声を絞り出した。

 遅かれ早かれという気持ちであごを突き出して促してやると、揺るぐ気の感じられない主張が湧き上がるように現れてくる。

「純平たちを…守れない…」

「この大馬鹿者め…! まだわからんのか!」

 マスターは思わず全身を硬直させて歯を軋ませた。もはや靴に隠した武器など放棄していた。己の生命もそれと同等になりつつあった。

 これほどまでとは思わなかった。能力と才と費やしてきた時間と思考と経験と、言うなれば自分自身の沽券に関わる大事であった。いくら愚かとはいえそこまで落ちてほしくなかった。それは自分自身の失墜の証明であった。何としてでもそれを回避するために声を荒げた。

「私は他のものを守れるのだぞ! お前にそれができるのか! お前のような中途半端な出来損ないにそれができるというのか! 答えてみろ!」

「私は純平を守れる!」

 マスターは怯むように口をつぐんだ。サラはほんの少しの間だけ沈鬱なそれに変貌した半泣きの顔を見せてから、全身の力が抜けたように項垂れる。

「それでいいの…それだけでいいの…」

 そして、おもむろに口を開け、片方の手が握り締めるところへ近づいた。

 マスターは、もう危機の打開をその意志ごと完全に諦めたように、かつて自らの手で作り上げた、猛獣の牙さながらに研ぎ澄まされた犬歯が視界の外へ消えていくのを見届けてから、自嘲気味な微笑で口元を歪め、自分だけに言い聞かせるように思いの丈を呟いた。

「お前を作ったのは、やはり間違いだったな」

 それは図らずもサラの動きを一瞬だけ留めたが、次の一瞬には、その直前までのスピードを淀にしてしまう勢いが、サラの体に加わった。


 サラは、うつ伏せたまま動かなくなったマスターのそばに膝をついて屈み込み、慰撫するような優しい手付きでその背中や頭を触っている。時折鼻を啜り、目元を強く擦り、ごめんなさいと連呼しながら。

 首筋から顔を離すや否や、短銃を取りこぼして腕を垂らし、ただ重力の求めに従って床へと進むだけだった長躯を抱き留めるように支え、ゆっくりと横に反転させて今の体勢にさせたすぐ後だ。

 あのときの冷酷な様とはとても結び付かない姿に、きっとサラは、本当はポポに対してもこうしていたかったに違いないと思い、純平の胸の奥がかすかに疼いた。

 やがてサラは相当の意を決したという具合に腰を上げる。けして大きくはない背中が一回り小さく見える。目の辺りに押し付けた腕を今一度激しく左右させてから、口のところを同じ具合に、しかし時間をかけて念入りに拭い、それからようやく振り返って足を動かす。前より何もないほど綺麗になった口元がやけに不自然だった。

 なおもうつむいて片方の手だけでぐしぐしと左右の目を交互にいじっているサラは真っ直ぐには歩いてこなかった。戻ってこようとはしているのだが、そのまま放っておいたらどこか遠いところへ行ってしまいそうに、少しずつずれているのだ。

 純平は大股で一歩横に移動してから同じ方向に片腕を伸ばし、そこにいさせるように、肩をつかむ形でしっかりサラを抱く。

 ようやく止まったサラは純平を確かめもせず、わずかに身を引いてから、実に清澄に、ごめんなさいと言った。

「全くだよ。他にも方法はあったろう。あれだけ色んなこと言っておいたのに、一人で勝手なことして、結局こんなことになっちゃってでっ」

 大将が両前足で減らず口を封じたわけである。瑠香は間の抜けた声で罵詈を途絶された報復を遂げるように睥睨を突き刺し、首だけの体を激しく揺すぶって唸りまくっていたが、大将は素知らぬ態でサラを仰いで微笑みかけるだけである。

「謝ることなんかない。お前は俺たちみんなを救ったんだ。もっと胸を張れ。なあ純平」

 サラは何も答えず、ただそこにいるように純平と向き合っていた。意外にもサラが無反応だったので急遽同意を求められた純平も、大将の望むような返答の言葉を持たない。

 純平は今の状況のとおりに、自分とサラが大将と瑠香の中間に佇み、重なり合わずに位置している気がした。互いを隔てる空白、接着すらしていない事実は、そのまま二人の間を穿っている。それでもその距離を埋めることはできると信じた。根拠はただ一つだけだ。

 とりあえず今、こうして二人、こんな近くで生きている。その事実。

 サラにそれを自覚させるために、そばに寄り添い抱き寄せようと足を持ち上げ手に力を入れたところで、体のあちこちに訪れた冷たい衝撃に中断させてしまった。

 盛大な音を伴って室内の至るところで水が跳ねていた。床はたちまち薄い膜が張るほどのびしょ濡れとなった。頭上を仰ぐと、雨音に掻き消されてしまってほとんど聞き取れない軋る物音を立てて、一つの点が全方向にその面積を広げていく具合に、暗い曇天が天井の中央から円形に開けていっていた。そこから目を開けているのが苦痛なほどの豪雨が落下してきているのだ。

「これだから頭の悪い奴は嫌なんだ…」

 瑠香は渾身の力で首を躍動させ、他の二人と同様になぜ建物の中に空が現れたのかという怪訝な面持ちで雨空を見遣っていたために力の弱まっていた大将の前足をやっとのことで払い除けると、呟くようにそう吐き捨てる。大将は瑠香の首をさっきより強く押さえ付け、その首は否むように左右に揺れた。

「マスターのことはもういいんだ。取り戻せないものに執着したところで何も生み出せないということを僕は知ってる。だけどこうなった今、誰があれを止めるんだ。僕らの目的はマスターなんかじゃなかったはずだろう」

 当初の目的を思い出したように、三人は一斉に瑠香の示すあれを見遣った。その瞬間を待ち構えていたように、ロケットは爆音を立てた。

 一同は思わず固くした身を縮かめていたが、ロケットそのものにそれ以上の異変はなく、大きな震動を伴った重々しい地鳴りが足元から響いてくるだけである。それでも程なくして起こる事態は、そんな場面を目の当たりにしたことがない誰にとっても、火を見るより明らかだった。

「打ち上げの準備が始まった。僕が復元するまでに発射される。従って止める方法はない。あのデパートは壊滅する。そこに居座る動物たちも、彼らに捕まっている人間たちも、みんな平等に死に絶える」

 瑠香は残りの三人がそれぞれ思い描いている情景を簡潔な言葉で示してやった。そして自身の製作者の最期とよく似て、もはや歯軋りすらせずに、嘲笑で諦念を示したのだった。

「助かったのは僕たちだけだ」

 アジトでマスターの計画を聞いたときより現実味が増したものの、高楼とした建物と数え切れない命の消失は未だ漠然とし過ぎていて像を結ばない。避けられぬことが判然として、かえって不信が募ったほどで、不思議な夢を見ているみたいに頭の中が浮揚している。こんな風に終わって、またこんな風に続いてしまうことが、よくわからない。

 そこで純平は手を振り払われた。我に返って見下ろしたがサラはおらず、視線を普段の高さに戻したところで全力疾走で離れていくその背が見えた。迷いなくロケットへ突き進む姿にたった一つの生命の喪失とそれ以上に奪われていく自分の何かがはっきり見えた。それらを守り通そうとするように絶叫でその名を呼んで問いただす。

「サラ! 何するつもりだ!」

「自分で阻止しようとしてるのさ」

 返す余裕やそもそもその気がないらしく走りやめないサラの代わりに瑠香が答えた。

 サラはにわかに跳躍し、高跳びの一流選手ほども高く飛び上がると、ロケットの外面に大の字にへばりついた。体勢を整えさえせず両手足を器用に動かし登攀していく。尻尾が左右に揺らめくのさえバランスを取るためにしているように見受けられる。

 知らぬうちに行路に目線を上げていくと、頂点から大分下、それでもここからでは倍ほどもある位置に、ドアらしい縦長の矩形に縁取られた箇所が認められた。

「僕だってそれぐらいのこと考えたさ」

 鼻で笑うように瑠香が言った。純平は理由を聞き出そうとするように瑠香の嘲笑を見つめる。サラの動きもそれを知るために若干滞ったようである。瑠香はなおも無感情に説明していく。

「確かにサラなら持って生まれた身のこなしであそこまで行ける。だけどサラに任せることはできない。中に入るにはパスワードを打ち込まなきゃいけないんだ。サラは字が読めないから不可能なんだ」

「だったらだめだ!」

 純平は思わず叫んでロケットに駆け寄ったが、すぐ間近にその胴長の躯体を確認するや、触れずとも追い縋るのが不可能だとわかった。滝のように雨を流し落とす銀色の表面は、焦りで染まった顔を水に歪んだ面長に反射していて、手がかり足がかりにできそうなのがせいぜい無数に散らばっている微細なネジの頭や繊毛ほどの幅の溝だけだと知れたのである。

 一方でサラの速度は凹凸がほとんどなく濡れて滑りやすく登りにくいはずの鏡のようなその表皮を相手に劇的に増していた。そこだけ雨が止んでいるかのように、降り注ぐ勢いも衣服に堆積する重みも痛みを伴う冷たさも、全てを凌駕して進んでいる。

 今にもドアに達しようという勇姿と、なす術もなくそれを仰いで右往左往している醜態に、瑠香はそんなことがあるはずないと訝りながらも、願うように大将を見遣った。大将もよく似た表情を返してきた。

「字…読めるようになったの?」

「かもしれん…昨夜、二人で何かをしていたみたいだったからな…」

 瑠香は頷くように首を上下に揺すりながら、視線をサラへと戻して一人ごちた。

「賭けてみよう…サラの知能と…マスターの才能に…!」

 そして間髪入れずに振り絞る。

「パスワードはマスターの口癖だ!」

 純平が凍り付いた顔を振り向かせた。その先では一瞬留まったサラが頷いて再び動き出す様が見えた。

 瑠香は笑みがこぼれるほど安堵すると、そのまま蹴り飛ばさんばかりの勢いで駆け寄ってきた純平に、誇りを前面に押し出した笑顔で言い放った。

「人間を守るためのモノ。それが僕だ」


 ドアに達したサラは、その中央に据えられている金属製の板を発見した。そこには大量の桝目が整然と刻まれており、一つに一文字ずつ、カタカナが黒で染め抜かれている。その並び方は、昨夜勉強をしていたときに何度も見た、五十音図と全く同じだった。文字盤の上には狭い液晶の画面が据えられており、打った字が表示される仕組みになっているが、そこまでは気がついていない。それでもそのカタカナの群れから一文字ずつを探し当てて一つの文章を作ればいいということは察せられた。今の自分になら簡単なことだ。

 サラは片手だけで器用に身を支え、人差し指を突き出して、改めてカタカナの五十音図と対峙する。そこからマスターの口癖を――

 思えば自分を作ったときに、自らを称賛するために言った。失敗作だから処分すると告げられ、おののきながら理由を尋ねたときにもそれを答え、自分にはその義務があると面倒そうに付け加えて正当なことにした。

 何かの研究や実験を行うときに、必ず彼自身を高めるためにそう言っていた言葉を、サラは一文字一文字、純平に言われたことを注意しながら、確かめるように辿っていく。『シ』と『ン』は似てる。でも『ン』には濁点はつかない。『ハ』は『ハ』で読む以外に『ワ』で読むことがある。この場合は『ワ』と読むほうの『ハ』。

 完成に近づくにつれて、指の動きは停滞する。必要に迫られているとはいえ、このような尊大な文言に関わるのは辛い。心の中で届かぬ抗弁を繰り広げ、何とかその反発を原動力へと変えていく。

 やっぱり、こんなの嘘だよマスター。

 偉くなんて、ないよ。

 偉い生き物なんて、どこにもいないんだよ。

 みんなみんな、おんなじなんだよ。

 そう…。

 誰だって…何だって…おんなじ…。

 みんな…みんな…!

 叫ぶように念じながら、上から下へと力任せに叩き付けるように最後の文字を打ち込んだ。

 液晶画面には、マスターと呼ばれていた男そのものの権化ともいえる口癖が、蛍光色で灯った。



ジンルイハ イダイナリ



 外と中を隔てる分厚い鉄板が下から上へと昇ることによって、ドアは開く。

 下からではロケット内の天井が狭く見える程度だが、不意に居場所が開扉したことで足場を失い落下しかけたサラが慌ててそこへ降り立っただけで、内部の色合いはおろか光度すら確認できなくなる。

「見直したよ、サラ…」

 それでも瑠香は、そのままへたり込んでしまったサラを小さな声で称賛すると、何とか立ち上がった後姿に呼びかける。

「今爆弾を渡す」

 サラは引き締まった顔を体ごと振り返らせ、力強い意志を感じさせる勢いで頷いた。応じるように三人から少し離れたところで機械的な音が連続した。瑠香の片方の腕である。

 半ば握られていた指がひとりでにそそり立ち、手のひらとともに手首の中に納まり、服の布地は消えるように薄れていく。

「サラに渡してやってくれ」

 作り物とはいえ腕が変貌していく情景を前にじっと立ち尽くしたままだった純平は、不意に頼まれて瑠香を見た。もどかしそうに早く! と急かされ、黙って二、三歩進んでそれを拾い上げる。

 もはや腕という面影のなくなった白い棒には、危険分子と判断されて地下に連れ込まれたときに手首に感じた肌の感触は失われていて、硬質な手触りと氷のような冷たさだけが手の中にあった。耳を澄ませてやっと聞き取れるほどの大きさで、時計の針が秒数を刻むのによく似た音が響いている。

「これで人間は助かる。動物も」

「そうだ」

 独り言のような純平の言葉に、すかさず瑠香が相槌を打つ。

「あいつは助かるんだろうな」

 純平はそう言って瑠香を見遣った。瑠香は目が合うのを辛うじて避けたという具合にサラを見上げたところだった。

「梯子が見えるだろう? 一番上まで上がっていってくれ」

「助かるんだろうな!」

 純平は瑠香を怒鳴りつけるのに気を取られていたため、掌中のものを失ったことに、そうなったところで初めて気がついた。

 しまったと思って振り返ると、爆弾をくわえた大将が、大きく首を振り上げ様に口を開くことで、それを宙へと放ったところだった。

 棒状の時限爆弾は降りしきる雨を撥ね退け、また勢いを伴った水滴をその身に隈なく受けながら、高く高くほとんど垂直に昇っていくと、一瞬だけ停止してから、たちまち細長い放物線を描いて落下していく。そして体を半分ほど外に突き出し精一杯伸ばしたサラの手の上に収まった。

 思いのほか重かったりでもしたのか、サラは腕の位置が下がるとともに中空へつんのめったが、何とか堪えて体勢を戻し、ほっとしたように息をつく。あっと叫んで歯を軋ませた瑠香も、ようやくのことで、もう悪化することのない安堵の色をその顔に湛えた。

「感謝するよ、サラ、大将。これで人間を守れる」

「動物もな」

「ふざけんな! あいつはどうなるんだ!」

「死ぬさ」

 瑠香の即答に純平は押し黙る。瑠香は続ける。

「さっき話した僕のプラン、ちゃんと覚えてるだろう? 宇宙で爆発してロケットを木っ端微塵にするって。僕ですら復元できなくなるぐらいなのに、生きて帰れるはずがないだろう」

 躊躇はおろか引け目もない。ただただこれで人間を守れるという充足だけが溢れた温和な笑顔を相手に、どんな動作や言葉を用いても勝利する術はなかった。

 その代わりに純平は、もう一つの元凶に文字通り飛び掛かるや、そのまま首をもぐようにたてがみを両手でねじり上げた。

「それが仲間に対するお前のやり方か! あの男と何が違うんだ!」

「何も違わねえよ…何も違わねえさ…」

 大将は静かに諾い、目を逸らす。

「仲間が仲間に殺されたって…目的のためにはそれを無視しなければならないものだ…たとえその仲間と仲間というのが…ポポとサラだとしてもな…」

 力のない横目に瞳を射抜かれ、純平は心臓を壊された気持ちになった。なぜ言わずにいたのかという問いが、たった今その理由を耳にしたにもかかわらず、舌の上までもたげてきている。そしてどうしても唇をこじ開けはしなかった。聞き直すことはついにできなかった。

 大将は目線をゆっくり戻していく。

「どうしてそんなことしでかしたのか、そんなに腹が減っていたのかとも思ったが、今ならわかる。あいつはお前を守ろうとしたんだろう、今みたいに…」

「………」

「もう…やめて…」

 サラが祈るように呟いた。

 純平の手はそこだけが死没したみたいに大将から離れた。ぺたりと床に垂れ下がった一対の腕に、大将への暴力が蘇生することは二度とないだろう。

 かえってサラは安心できた。

「私はね、純平みたいになりたいの。みんなを守りたいの。人間も動物も、みんな」

「俺は人間も動物もお前も守りたい」

「純平…」

 純平は振り返りながら立ち上がるやそう宣言してサラを仰いだ。思わず名を呼んだサラは、切願の潜んだ真っ直ぐな眼差しから逃れるように、全身にぐっと力を入れて目をつむり、目元を拭って回れ右をしてロケットの内部と再び向き合った。

「これは私にしかできないの! 純平じゃここまで登ってこれないでしょ? だから私がやるしかないの!」

「それならお前だけでいい!」

「………」

「みんなそんなもんだ、何かを選んで何かを捨ててる。こいつらだってあいつらだって、そこまで互いのことなんて考えちゃいない。結局自分のことしか考えてない。今更なんだ。お前だってそうだったはずだ」

「うん…そうだった…そうだったよ…」

 サラは身勝手な考え方への肯定を言葉で示しながら、何度も何度も首を縦に動かした。そして不意にそれを止めるや、今度は一回だけ左右に振った。

「でも…今は違うの…」

「………」

 婉曲な、しかしはっきりとした離別の言葉に、純平には膝をついて項垂れるほかに取るべき行動がなかった。サラは頑張って気を引き締めて、少しでも純平を救済しようと、自分の気持ちを紡いでいく。

「わかって…純平…」

「………」

「私今…すごく怖いけど…すごく嬉しいの…」

「………」

「殺すことしかできなかった私が…あんなにたくさんの命を守れるんだよ…?」

「………」

「人間でも動物でもない私が…どっちも守れるんだよ…?」

「………」

「生まれてきてはいけないものだなんて言われてた私がだよ…?」

「………」

「信じられる…?」

「………」

「私…今初めて…生まれてきてもよかったんだって…そう言われてる気がするの…」

「………」

「私はこのために生まれてきたんだって…そう思えるの…」

「………」

「生まれてきてよかったって…初めて思えるの…」

「………」

「だから…このまま行かせて…」

「………」

「……!」

 突然サラはかすかな悲鳴を漏らして膝を曲げた。伏せた耳を上から両手で押さえつけてもなお、純平の口が魔法を詠唱するように動いているのがわかる。

 死なないでくれよ…。

 死なないでくれよ…。

 死なないでくれよ…。

 死なないでくれよ…。

 ある意味では魔法だった。ここに来る前、出掛けにそう言われたときは、涙が出るほど嬉しくて、絶対そのとおりにしようと思った。だが今、同じ言葉を同じように聞かされているのは、息苦しいだけである。それでも逃げ出せない。ずっと聞いていたいとさえどこかで思う。また涙が溢れてくる。

 死なないでくれよ…。

 死なないでくれよ…。

「死なないでくれよ…」

「死なないでくれよ…」

 純平の魔法はやがて、効果を上げようとするように、サラに聞かせるためのものから唱えている自身の聴覚にも捉えることができるものになっていく。

 自ずとそれは大将と瑠香にも届き、感情と、感情に酷似した回路を持っている二人をも動かしかけるが、両者の理性と、それに似た機能は、それでは望む形を成さないということも理解していた。

 未だに首だけの瑠香は何とか顔を横に倒して大将に目配せをし、大将は頷いて忍び足で純平の背中に向かって進む。

「死なないでくれよ…!」

「死なないでくれよ…!」

「死なないでくれよ…!」

「死なないでくれよ…!」

 純平は相変わらず、狂ったか、あるいは壊れたように、同じ言葉だけを繰り返していた。しかしサラはいつまで経ってもこちらに戻ってこようとはしない。

 ようやくよろめきながら立ち上がったものの、それは帰来のためではなさそうで、果たしてそのとおりだった。高く上げた足をそのまま前に踏み出し、もう片方の足もそれに倣わせる姿に、純平の口からはほとんど反射的に、より素直な気持ちが飛び出した。

「俺と一緒に生きててくれよ!」

 言ってから、本当はずっとこう告げたかったのだと気がついた。

 死なないでいてくれればいい。どこかで生きててくれればそれでいいなんていう高尚な考え方は、たとえそれが優れていたとしても、理想なのだとしても、できやしない。

 俺はサラと一緒に生きていきたいんだ。

 純平は自分に言い聞かせるように本心を思い、ほんの少しだけ照れを覚えつつも胸を張った。それがサラと共通の部分であると信じて疑わなかった。しかし。

「ごめんね純平…」

 サラの返事は予想だにしないものだった。純平は眩暈にも似た衝撃を受けて気を失いかけ、倒れ込みそうに前のめりになった体を、床に両手をついて何とか堪えたが、痛手は深かった。仰ぐことも、わけを聞くこともできない。問われないままサラは答える。

「私はもう…私だけじゃだめなの…私と純平だけでもだめなの…」

 錯乱寸前の純平の体内で、それでも理不尽だと理解できる激昂が込み上げてくる。それが憎悪ではないということも認識していた。これは悔しさだ。自分はサラにとって最も優れたものではないという、最愛の存在は別のところにあるという、嫉妬にも似た…。

「私は私以外のみんなに生きててほしいの」

 サラははっきりと言い切ると、力強い足取りでそこから一歩離れ、誰にも二歩目を見届けることはできなかった。落ちるように閉まった扉に、その毅然とした姿が遮蔽されたのだ。

 純平はサラの名を呼んだ。それはもはや呼びかけではなくほとんど絶叫だった。届いているのかどうかを測れない、届いていたとしても泡沫のような祈りだった。そこに大将の呟きがひそかに混じる。

「許せ純平」


 この直後に起こった詳細。

 大将が両前足を振り下ろし、室内に散らばった瑠香の体を集めて復元を手伝ってやった後、ロケットの発射時の影響を受けないために昏倒した自分を背に担いで瑠香の案内で研究所を脱出したということを、アジトの自室で、大将やタクローやロロなどの主だった動物たちと、それらに混じった瑠香に囲まれた布団の上で意識を取り戻してから、純平はようやく知った。

 歓喜と安堵で動物たちが自分の生還を祝福している中で、瑠香は、研究所を後にしてすぐに、ロケットがつつがなく発射されたことを教えてくれた。

 それで十分だった。

 着弾することはなかったという事実は、自分と目の前の連中が証人になって示していた。

 みんなここで生きている。

 サラがそれを望んだように。

 サラだけを除いて。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ