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獣人-ケモノビト-  作者: 蠍戌
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第六章

 第六章



 これまでこの本屋に訪れてもまず足を踏み入れることのなかった見慣れない道を進んで、ようやく『児童書』と綴られた札が吊るされているエリアにたどり着いた。

 そこには興味がないために存在すらも知らなかった戦隊ヒーローの写真が表紙になっている月刊誌や、小中学生の間で大ブームになっているというニュースで辛うじてタイトルを知っているアニメのキャラクターが躍っている今風の絵本が平積みになっており、自分が生まれる前からあって死んだ後もあり続けるであろう王道の童話だとか昔話だとかが背表紙を向けて棚に並んでいた。端のほうには分厚い図鑑もある。

 サラの腕を放した純平は、いつかはこういったものを読ませたほうがいいのかなと漠然と思いながら、目についたそれらを一冊一冊つまみ出しては簡単に検分していった。

 純平にとって言葉や単語の知識は、物心ついたときにある程度知っているものだった。しかしそれはあくまでも、言うこと、聞くこと、話すことに限定されていた。それが証拠に純平は、小学校に入りたての頃の、点線をなぞってひらがなやカタカナを書く授業を記憶している。教室の壁には五十音図のポスターが貼られていたはず。自分がいつから識字を完璧なスキルにしたのかは覚えていないが、耳にして口に出しているだけで読み書きができるようになったわけではないということは経験則だ。

 しかしそれを教える立場となると、何を用いるのが的確なのか、見当がつかない。あいつはどんな風に子供たちに教育を施しているのだろうかと、眼鏡をかけた友人の姿を思い浮かべた。

 とりあえず幼児向けの本と言ったものの、絵本などを収集したり耽読したりする趣味がなく、その必要に迫られるわけでもない仕事で長いこと日々を忙殺されてきて、その時間的余裕の欠乏のために我が子の影が女のそれと同様に皆無に等しかった純平にとって、望むようなものが実際にあるのかどうか、わからない。

 ただ、精密だが温かみのあるイラストがとても好きで、手垢で汚したページを擦り切らせるほど読み込んだ、様々な乗り物の紹介されていた本は、幼い記憶に今なお残っている。

 もっとも今は、パトカーを乗り回す警察官やバスの運転手の自分を空想していた過去を鮮明に懐古するような、ふわふわした情緒を求めていたわけではない。誤って覚えていなければ、その本には、『パトカー』と横書きに記されている上に『ぱとかあ』だとか、『バス』という文字の脇に『ばす』という具合に、カタカナの単語にひらがなのルビが振られていたはずだった。あれなら両方の仮名文字を同時に教えられるし、また覚えられるのではないか。それを頼りにしたのである。

 実際にこうして『児童書』にある本を確かめてみると、目当てによく似た絵本に混じり、ひらがなやカタカナの学習本など、使えそうなものが幾つか見つかった。飛び出す絵本に至っては使途に乏しいと判断して本棚に戻したそばからサラが引っ張り出し、尻尾を逆立てながら何度も開けたり閉じたりしていた。

 視覚に訴えかけてくるものはやはり興味をそそられるものらしいなと感じながら次の本を開くと、見覚えのある光景がそこにあった。淡い色合いで描かれたそう高くはない建物の手前の道を、パトカーとバスと救急車が右から左に走っており、それぞれに丸っこい大きな字によるひらがなで名称が記されているのである。そうそうこの絵だこの絵だ。

 一旦本を閉じて表紙を見遣り、タイトルを確認してから再び開く。『いろんなのりもの』と題されたカラフルな薄手の絵本を丁寧にめくっているうちに、ああそうだ『ひこうき』のパイロットも憧れだったなあと童心に帰っていると、苛立ちが乗り移ったような強さで肩を揺すられた。

「早く教えてよ」

「ああ…」

 純平は淀んだ返事と同じぐらい躊躇した動きでサラの手から飛び出す絵本を摘み取った。おそらくは小学校の授業以来となる要請に妙に緊張してしまい、咳払いを一つしてからひらがなの出だしを朗読する。

「むかしむかしあるところに」

「言っちゃダメ!」

 お前が教えろって言ったんだろうがと憤りにも似た困惑で睨み付けると、サラはちょうど振り回していた首を止めて抗議するように見上げてきたところだった。

「そうじゃなくて、字を教えて。一人でも読めるように、教えて」

 書かれている文章のことを知りたいのだと理解したのが誤りだったと気がついたものの、純平はなおもサラの変化に少しだけ戸惑っていた。随分積極的になったものだ。

 飛び出す絵本をそばに置く代わりに、使えると思って平積みの本の上に積み上げて確保しておいた本の中から幼児用のひらがなの学習本を取り出すと、付録の五十音図を切り離し、床に広げつつ膝をついた。サラも落ちるようにリノリウムに接着していつもの座り方をする。

「いいか? これが『あ』なんだ」

「これが『あ』なの?」

 純平が右上の一番初めの文字を指し示して発音すると、サラもその文字に指を置いて同じ音を繰り返してから聞いてきた。

「そうだ」

「これは?」

「それは『か』だ」

「こっちは?」

「『さ』」

「じゃあ…これは?」

「『と』。要するに、これが一つで一文字、一文字で一つの音なんだ」

 サラはわかるようなわからないような面持ちで首を傾げる。それを見た純平もこんな具合でいいのかどうか自信が持てずに首を捻ったが、他にいい方法を思いつかないので続けることにした。

「よく見とけよ。ここからここまでが、『あ』、『い』、『う』、『え』、『お』、ここからここまでが、『か』、『き』、『く』、『け』、『こ』…」

 一文字一文字を順々に指差しながら、純平は五十音を朗読していく。ふと気がついた途中からは、発音もなるべく正確になるように努める。

 そうして『ん』までが終わると、サラは催促もされないうちに自分から『あ』で始まる文字の羅列を指差して五十音を反芻していった。

 やはり先人が、おそらくは試行錯誤して作り上げたためだろう、五つの音を反復していく独特のリズムは覚えやすいらしく、何度か突っ掛かったり口ごもったり間違いを指摘されたりする際にこちらを仰ぐ以外には滞りなく読み終えた。その作業を何度か繰り返すうちに読み上げは次第に完璧になり、確かな手応えによる自信で表情も明るくなっていく。純平も自分のことのように嬉しくなってきて、一つテストをしてやることにした。

「俺が何て言ったか当ててみな」

 純平は顔を上げたサラに人差し指を真上に突き立てて見せてから、五十音図の一点にそれを突き刺した。そして少し浮かばせたその指を真っ直ぐ左に移らせて次の一点に落とす。サラは嬉しそうな吐息で顔を綻ばせて呟いた。

「私の名前」

「そうだ」

 純平は満面の笑みで頷いて、『さ』『ら』と示した指を持ち上げた。

「こうして単語を作ったり文章を作ったりするんだ」

「じゃあ私も」

 サラは片手を床について前屈みになり、人差し指の先端を下に向けたもう片方の手を頭上にまで振り上げた。純平の聴覚がつかみかけては離してしまうぐらいの声を口の中でぶつぶつ呟きながら、首ごと動かして五十音図を端から端まで見渡していたサラは、突然「あれっ?」と素っ頓狂な声を出した。

「純平は?」

 そして困り果てた顔を弾ませて尋ね、質問の意味を問い返される前に続けた。

「教えてもらった中に、『じゅ』とか『ぺ』とか、なかったよ?」

 瞬間言葉の意味を把握しかね、目線をそろそろと垂らした純平は、自分が用意してやった図にあるのが清音だけだということに今更ながらに気がついた。

「ああ、悪い悪い」

 軽めだが素直な謝辞を口走って先の学習本を取り出し、もう一枚の付録を本体から引きちぎって五十音図の横に並べた。そこには『じゅ』や『ぺ』を含めた濁音と拗音と半濁音、そして促音『っ』と長音『ー』が記載されているのである。サラは即座に這いつくばった。

「このテンテンとマルは何? 『や』『ゆ』『よ』がちっちゃいよ? 『つ』も」

「それで音が変わるんだ」

「どういうこと?」

 サラは怪訝な顔だけを持ち上げた土下座という具合の体勢で詳細を請ってくる。純平は舌と唾で口の中と喉を念入りに湿らせてから「『が』、『ぎ』、『ぐ』、『げ』、『ご』…」と講釈の続きを始めることにした。

 発音が一通り終わったところで「どうしてこれだけなんだろ」と呟いたように、初めのうちは把握できないことによる不信と不満で唇を尖らせていたサラだったが、自分で口に出して発音していくうちに、五十音全てにテンテンやマルがつけられるわけではなく、小さい『や』『ゆ』『よ』である『ゃ』『ゅ』『ょ』は『い』の段の幾つかの文字にのみあてがわれる特殊な記号なのだと納得したらしい。

 それでも『っ』と『ー』については教えるのにも教わるのにも四苦八苦した。それそのものには読み方がないことや、文字と文字の間に間を置くとか、前の文字で音が変わるとか、当たり前すぎてそういう表現で説くことを思いつくまでに時間がかかった。対してサラは今一つ言われていることを体得できないらしく、これまでで一番難しいという具合の顔をそのままもぎ取れそうなほど肩口に近づけていくだけである。

 こうなると実践しかない。純平は本の山の中から絵とその名称がひらがなで書かれている絵本を開き、『こおと』だとか『けえき』だとか『ぱいなっぷる』だとか『ばっぐ』だとかで実例を提示してやった。

 どうやらイラストで『っ』と『ー』の用途はわかったようだが、サラにとってはそれらのひらがなの下に大きく書かれている『コート』や『ケーキ』や『パイナップル』や『バッグ』といったもののほうが不思議そうで、たちまちそれは不吉な予感で歪んでいく。

 純平が申し訳ない気持ちでカタカナで書かれた五十音図を床に敷いてやると、予想が当たったのだろうサラは深々とため息をつき、しかしすぐさま顔を上げて「順番は同じ?」と聞いてきた。気圧されながらも頷いてやる。

 純平は、『ア』から始まる字の群を一人で読み進めていく姿から発散されているいつにないやる気に驚かされつつ、それに応えるべく本をあさり、サラがカタカナの読み上げを一巡した頃を見計らって簡単な文章を差し出してみた。

 ひらがなの五十音の復唱を聞いているときにすでに芽生えていた心配が的中した。サラはかなりの字でつっかえたのである。やはり『あ』の次は『い』、『い』の次は『う』という具合に感覚的に知覚していただけだったらしい。幾つかの字がわかることから文章として成立する最も適当な字を導き出すなどの知恵も見せたが、それでは意味がないということは本人もわかっていた。

 サラは突然手近にあったカタカナの五十音図を破った。癇癪を起こしたのだと思ってなだめようとした純平はサラの体に触れる寸前で手を止める。サラは五十音を一文字ずつに分けようとしているだけだったのだ。純平も手伝ってひらがなの五十音図を同じように裂いていく。

 こうしてできた二種の仮名文字の濁音と半濁音と拗音の全てを含めた計二百十四枚の小さな紙の束を、サラはトランプを切るのに似た手付きで混ぜ合わせ、上から一枚一枚めくっては発音し、純平に正誤を確認してから下に回す。

 一周したときの正解率は一割にも満たなかったが、回数を重ねるごとにパーセンテージは百に近づいていき、それでも『ね』と『れ』と『わ』や、『シ』と『ツ』と『ン』と『ソ』の小差にしばらくてこずったが、やがてはそれらも反復によって見極められるようになった。

 ようやく短文の本に戻らせたものの、おかしな読み方をしているのに気がついてもう一度同じ文章を読ませると、その違和感の原因がすぐにわかった。助詞としての『は』は音にすると『わ』に、同様に『へ』は『え』になるという、補足と呼ぶには重要すぎる決りを教えてやると、読みながら変だなと思っていたとは言うものの、だったら『わ』や『え』で書けばいいのにと釈然としない様子で、かつての自分が感じた理不尽を客観的に見るような気分になった。俺も昔はその辺りに腹を立てたものだ。

 ともあれ、何冊もの本を用いてひらがなとカタカナをどうやらほぼ完璧に読みこなせるようになった頃、また新たな事件が起きた。布石となったのはその中の一冊として与えてみた動物のイラストの載せられた本である。

「なにこれ?」

 失望のような苛立った声に、次の本を品定めしていた純平は目線を送った。ちょうどこちらを見上げた不機嫌なサラの顔と見合う形になる。

「これ、何かの間違いでしょ」

 サラは四つん這いのまま、床に広げた絵本の一箇所を指差していた。そこには弧のような目と半円に開いた口を持つ愛くるしいライオンが描かれているのだ。言いたいことをすぐに理解し、子供向けだからしょうがないと取り成してやったものの、サラの不満は収まらない。

「本物こんなに可愛くないよ」

「あいつを引き合いに出すな」

 サラが本を閉じて差し出してきた。不審気味に見ているとそれを押し付けて催促してくる。

「他のないの? もっとみんながみんならしく出てる本」

「趣旨変わっちまったじゃねえか」

「もう平気だもん。これならどんな本でも読める」

 その誇らしげな姿にいささかの反発を覚えた純平は、『いろんなどうぶつ』と題された絵本を受け取り、本棚に収まったままの動物図鑑を取り出すと、ライオンの写真が載せられているページを開いて床に置いた。褐色の草原に悠然と佇んでいる百獣の王を目にし、サラは嘲笑をこぼす。

「これでも本物よりは可愛いね」

 一言で大将と写真の双方のライオンに相反する意味合いでの悪態をついたサラだが、案の定その表情は見下ろしているこちらがそれとわかるほど血の気が引くように凍り付く。写真に添えられた説明文を読もうとして頓挫したのだろうという純平の予測は、寸分の狂いもなく的中していた。

「なにこれ? こんなのなかったでしょ?」

「それは漢字だ」

「カンジ?」

 初耳なのか、サラは生まれて初めて口に出すという按配で聞き返してくる。純平は自分たち人間にとっては至極当然のことを大真面目に教えた。

「ひらがなとカタカナ以外にも、色んな文字があるんだ」

「どうして先に言ってくれないの?」

「順を追ってやらせようと思ったんだよ。簡単な漢字からじっくりな」

 ため息に引かれるように項垂れたサラは、横を向いたまま持ち上げた曇り顔で吐き捨てた。

「イヤ」

「わがまま言うな」

「イヤ。カンジも一緒に覚える」

 サラは顔をこちらに戻しながら言い、純平はなんだ、そういう意味でイヤなのかと呆気に取られてから、一瞬遅れて首を振る。

「そりゃ無理だ。俺だって知らない字があるんだぞ」

「イヤ。全部覚える。全部のカンジが載ってる本見せて」

 実情を知らないからこそ言える不可能な意志に鼻白んだ純平だが、口だけでそれを指摘しても無駄だろうという賢明な判断をして立ち上がる。

 程なく漢和辞典を手に提げて戻ってくると、早くもサラの目が見開かれた。自分の言ったことがいかに無茶なことかを悟ったに違いない。

 追い討ちをかけるように分厚い本を腰の高さから床に落としてやる。それだけで平手を打つのに似た結構な音が響き渡った。純平はあぐらをかき、頬を叩かれた後のように呆然と辞典を注視しているサラに中身を見せながらたしなめた。

「いいか? これだけの数があるんだぞ。いっぺんに覚えられるはずないだろう」

「何でこんなにあるの…?」

「漢字ってのはひらがなやカタカナと違って一文字一文字が意味を持ってるからな。同じ読み方だが違う漢字ってのも山ほどあるし、一つの漢字だけで幾つもの意味や読み方を持ってるってものもある。形を覚えたぐらいで使いこなせるものじゃないんだ」

「頭痛い…」

 ため息とともにうつむき、後頭部に近いところを撫でさするサラの声は、混乱と落胆が極まったあまり涙声に近くなっている。純平は辞書を閉じて優しい言葉をかけてやった。

「じゃあ今日はこの辺にしておこう。ひらがなとカタカナ全部覚えたんだから、よくやったよ」

「イヤ。もうちょっとやる」

 何に由来しているのかはわからないが、サラが頑張りたいのだということはよくわかる。しかし純平にしてみればせっかくの好意を無下にされているようなものなので嬉しくなく、ついつい言葉に棘が生える。

「イヤって言ったって頭痛いんだろうが。ただでさえ頭悪い奴にこれ以上勉強なんかさせられるか。これから先は今までの何倍も難しくなるんだぞ」

「薬飲む」

 思わぬ言葉に純平が聞き返す間もなく、サラは続けた。

「頭痛いときに飲む薬ってあるでしょ? それ飲んでもうちょっと続ける」

 一階上の薬局に行くのだろう、サラは漢和辞典を手に立ち上がって階段のほうへと向かっていく。それを必要とする理由もわからないままに純平が腰を上げて後に続こうとすると、振り返り様にサラが言った。

「来ないで」

 強い口調に思わず口をつぐんだものの、目だけは詰問するように威圧的に鋭くなる。サラはごめんねと、しかしながら純平の反応によってではなく呟いた。

「あんまり純平の手を借りたくないの」

 謝辞に続けて漏らした気遣いに、純平は顔逸らしてむしろ陰険に反発する。

「そら教えんのヘタクソだからな」

「そうじゃない。私が成長できない気がするからだよ」

 叱るような言い方と内容に純平は押し黙る。サラは上目遣いにじっと見据えて続けてきた。

「私が勉強するのは一人でも生きていけるようになるためだもの。純平がそう言ったんでしょ?」

 間違いのないことなので頷いた。

「私は純平が言ってくれたみたいに、一人でも生きていけるようになるの」

 片方の唇を吊り上げてそう言ったサラの顔は、途端に焦った具合に歪んだ。

「だけどそれは純平がいなくなってもいいようにじゃないからね? 純平のお手伝いができるようになるためだからね?」

 念を押してくるサラの声は、何だか奇妙な熱を帯びていた。

 じっくり考えてみれば顔が熱くなったり緩んでしまったりしそうな語意だったが、純平にはそれを斟酌するゆとりは今もこの後も生まれず、そこまで強い意志を示すようになったサラの変化の由来をただただ不思議に思うだけだった。

「とにかく」とサラは気を取り直して場を整える。

「私一人で頑張ってみる。わかんないカンジがあったらこれで調べてみる。全部載ってるんでしょ?」

 サラは辞典を顔の横に掲げて軽々と振った。純平は眉をひそめて口を開く。

「無理だ――けはするなよ」

 咄嗟に後半の言葉を繋げられた自分の反射を見事だと思った。前半を声に乗せた瞬間にそのやる気だけでも尊重してやるべきだと考えての配慮だった。

 正反対の真意に気付いておらず、単純にいたわられたことをはにかんだ様子で喜ぶサラに、爽やかに取り繕った微笑で謝意を隠匿してやって、なおも続けてやる。

「わかりそうになかったら呼びに来い」

 サラは笑顔で頷いて踵を返し、階段へと歩いていった。


 自尊心を傷付けることに直結するので追い縋ることはできない。

 せめて簡単にでも使い方を教えておいてやるべきだったと悔いたのはサラの姿が数架の本棚に隠れて見えなくなってさらにしばらくしてからで、まさか辞書を片手に薬を探しに行くサラを見送ることになるとは思ってもいなかったのだという旨の弁明を誰にともなく思った。

 そんなには時間を経ずして悄然と戻ってくるはずのサラに自信をつけさせるために小学生低学年向けの平易な漢字の本をピックアップしていると、どうやら帰ってきたらしく緩慢な足音が近づいてくる。

 見るとしかしそれは大将だった。何の感想も抱かず目線を戻す。

「何だ、まだ起きてたのか」

「んあ」と返事をすると、その気のない感じがそうさせたのか、大将が首を傾げつつ近づいてきた。

「読書か?」

「んあ」

「サラはどうした」

「んあ」

「聞いてるのか?」

「んあ」

「聞いてないのか?」

「んあ」

「おいタクロー」

「んあ」

 本に集中していただけである。断じてわざとではない。だがもうすぐサラが戻ってくるはずだから、好んで相手をしていたいわけでもなかった。それでも爆音並みの大音を至近距離で轟かされれば、それが自分に向けられたものでなくても反応するものである。

「何だこの女!」

 ほとんど不意打ちといった大将の絶叫に純平は腰を抜かし、両手で握り締めていた本を放り投げるように足元にこぼすほど仰天した。純平の対応が故意か過失かその真意はともあれ、まともに会話ができる状況ではないと判断して立ち去ろうとした大将が、床に開かれていたままの図鑑を目にして思わず叫んだ結果である。

 その辺の事情を知らないせいもあり、理解に苦しむという表情で純平が見遣ると、大将が床に腹這いになり、図鑑にしがみ付いて、そのページを舐めるように見回してから、顔だけをこちらに向き直らせたところだった。

「こいつはどこにいるんだ!」

 純平は太い手の生えた催促の言葉に襟首をつかまれて引っ張られたように、なおもわけがわからないまま図鑑を覗き込んで、先の騒音との連係を発見した。サラに迫力の乏しさを揶揄されたオスのライオンから少し離れたところに、一頭のメスのライオンが這っているのである。

 純平は図鑑を手に取り、写真の添え書きに目を通した。大方の予想はついていたが、やはりそうらしい。ライオンの棲息地なんて、動物園を除けばここぐらいしかないようだ。

「アフリカのサバンナだってよ」

「なるほど…道理でな…」

 大将は合点がいったようにゆっくりと、しかし入念に幾度となく頷いた。見たこともないのに何知ったかぶりしてんだこいつと目を狭めていると、嬉々とした様子でこちらに向き直って語りかけてきた。

「やはり世界は広いな。こんな魅力的な女がいるとはな。なあ?」

「よくわかんねえよ。ここにいる他のメスライオンとどこがどう違うんだ」

「どこがどうと言われてもなあ…」

 大将は首を傾げた姿勢でうつむき、うーむと考え込む。そのままじっくり間を置いた後で顔を上げ、納得したように頷いてから答えた。

「こればっかりは俺だけにしかわからんだろうな」

「勝手にしろ」

 少量とはいえ時間を費やした見返りとして得られたのがあまりにも無意味な情報だったという生産性の乏しさに、純平は半ば怒り半ば呆れて吐き捨てた。大将もちょっとは気が咎めたようだが、それを素直に詫びる謙虚さは持っていない。

「そう言うお前はどうなんだ。なんというかこう…掻き立てられるものはないのか」

 言わんとしていることが頭の中に直接書き込まれたみたいによくわかり、純平は中高生にでも戻った気分になった。あの頃は休み時間の時折に、白い顔をした男友達とセミロングの女友達が単なる好奇から、自分やそういう話題に気乗りしない眼鏡をかけた友人に軽薄な態度で聞き出そうとしてきたものだ。少し離れたところではもう一人の女友達が医大合格を目指して勉学に勤しんでいるように見せかけて、耳だけはしっかり二人の男友達のその方面での趣向を知ろうとしていたものである。

「なくはないけど…」

 純平はそのときと同様、若干気恥ずかしそうに、しかし満更でもない具合に答えると、その他のクラスメートの目を気にするように辺りを見回して、サラの未帰還を念入りに確認したところで立ち上がり、手振りで大将に着いてくるように言って歩き出す。

『男性娯楽誌』の札は、この店でその類の本を購入したことはおろか、そこで立ち止まったことすらもないのに、恐ろしいほどしっかり刻まれた記憶の通りの位置に垂れていた。

 いつ誰に出会うかわからないし、いつ来ても概して若い女がキャッシャーを担当しているために、今やそれを買うためだけの密かな常連となっている、カウンターに腰掛けた禿頭の老人が午睡のついでに番をしているようなちっぽけな本屋ほどではないが、ここもけして品揃えがいいわけではない。まれに専門店で調達することがある純平には干上がりそうな喉の渇きを一滴の水で癒すぐらいに物足りない。

 それでも大将に紹介してやりたい本は見つかった。何日か前に件の本屋で購入した、家にあるのと同一の月刊誌の今月号だ。見やすいように床に置いてやると、大将は表紙を一瞥しただけで怪訝そうに聞いてきた。

「なぜこの女は腰のところがヒョウなんだ? お前たちの同類か?」

「そういう柄の下着なんだよ…」

「うーむ…」

 大将はそのまま回転させようとでもするかのように立て続けに四、五回首を捻ってから、正直な感想を漏らす。

「やはり人間の考えることはわからんな…」

「俺は結構好きなんだけどな…」

 純平は大将の隣に腰を下ろすと、交差させた手で裸の胸を隠しているヒョウ柄の下着だけを身に着けた女の写真をめくり、その女が後ろ向きに膝立ちになって蠱惑的な眼差しでこちらを見据えている一枚を披露した。

「これなんか、よくね?」

 大将は首を傾げる。

「じゃあこれはどうだ」

「お前が見たいだけじゃないか」

 純平はなおもページを繰っていき、大将は的確な指摘をする。薄い紙面が二枚いっぺんにめくれてしまったり、やっと開いたところが記憶と違うポーズだったりと、うまく目当てを出せないせいでその作業に没頭していたために、大将が呆れた様子で振り向きしばし停止していたことに注意を払うのを怠った。

 やがて純平がこれこれと促し、大将は視線を戻した。片方の手を膝に置いて前屈みになった例の女が、もう片方の手の人差し指の先端を上下の前歯で噛んで斜めを向き、物欲しげな視線だけを読者のほうになげうっている写真だ。こちらは下半身だけでなく胸にもヒョウ柄の下着が覆われている。

「これ最高。すんげえいい」

 大将は首を傾げがてら振り向き、しばらくしてから顔を戻して聞いてきた。

「こういう格好だからいいのか? それとも体勢が気に入ってるのか?」

「格好だな」

 即答。

「上も下もヒョウ柄ってのがいい。何でかわかんないけど昔から好きなんだよヒョウ柄。掻き立てられる」

「そうか…」

 どうも理解に苦しむという顔を振り向かせて、大将は慰める。

「残念だったな」

 一体誰に言ったのかと振り向いてみて、すぐ後ろにサラがいて、純平は絶叫した。いつから、そしてどこから見ていたのだろうか、サラは写真の女とそっくりそのままの体勢で、ただ表情だけがモデルと違って怒りの色に染まっていて、もう少しで指を噛み切っていそうだった。

「随分楽しそうねえ」

 にわかに和らいだサラの表情は、そう言った直後に怒気を倍加させた。

「人が頭痛くて薬探してるときにねえ…」

「ああお帰り。具合どうだ? ちょっとは良くなったか?」

「今ひどくなった!」

 純平はサラの怒号からまるで逃げるように立ち上がる。

「じゃあすぐ取ってきてやるからちょっと待ってろ」

 その目的よりこの場から離れるほうが重要でそそくさと駆け出したが、横を通り過ぎたところで骨を砕こうとするような力でぐっと腕を握り締められた。

「これでいいんでしょ?」

 どんな言葉でお叱りを受けるのか、それが恐くて振り返れない冷や汗の吹き出た背中に、意外と鋭くないサラの声が刺さった。恐々首を後ろに曲げてみて、見覚えのある長方形の箱がサラの指によって宙吊りにされているのを発見する。

 訝りながら手に取ってみると、見間違いではなかった。それは紛れもなく、ゴミ置き場のような我が家のどこかにもあるはずの、自分が愛用しているのと同じ頭痛薬だった。

「よくわかったな」

「たまたまなんかじゃないからね」

 思っていることを言い当てられた驚きも含めて、純平は首を起こす。サラは誇らしげな顔のそばに漢和辞典を掲げ、揚々と告げてきた。

「ちゃんとこれで調べたんだよ」

 そして、若干覚束無いながらも経験済みという手付きでそれを開き、種を明かす。

 薬局の陳列棚の薬を幾つも見比べるうちに、『痛』や『薬』という漢字を度々目にしたので、その意味を調べようと辞典の表紙をめくったところ、部首索引のページを発見し、そこに記されたやまいだれやくさかんむりを認め、二字との関連に気がついた。漢数字が読めないためにそれらのページにすぐには行き着くことができなかったものの、あてどもなくめくっているうちに隅っこの漢字に規則性があることに気付き、程なくしてそれが示しているものが数字なのだと悟り、二つの部首のページを探し出すことができ、同じ要領で『痛』と『薬』が意味するものもわかった。それまでの間に偶然目にしていた音訓索引から、『あたま』に相当する漢字を探し当て、『頭痛』という単語を知り、それら三つの漢字を組み合わせた言葉が書かれている薬を探し出した。念のため効用を、やはり偶然その存在を知った総画索引を最大限活用して調べ上げ、それが紛れもなく「頭が痛いときに飲む薬」だと断定した。

 漢字が読めないことによる決定的な語彙の欠如に起因する、いつ頓挫してもおかしくないたどたどしい説明ではあったが、要約するとこのようなことを、純平はしっかり理解した。そして、心底感心したために硬直してしまった真顔を壊れた機械のように数回上下させてから、そこまでさせてくれた相手を小さな声でたった一言だが絶賛した。

「お前十分賢いよ…」

 サラの口から吐息のような笑い声が漏れたかと思うと、その体は前触れもなく何かに引かれるように後ろのほうへ倒れていく。純平は咄嗟に両腕を伸ばして一、二歩前へ踏み出し、斜めの姿勢のままのサラを抱き止めた。

「サラ! どうした!」

 大将が驚いた様子で呼び掛けたが返事はない。純平が表情を確認すると、サラは直前と変わらず穏やかな微笑を満たしたままで、平時よりは速い呼吸をしていた。額に手を置き、自分の額にも手をやって、納得して頷く。

「頭使いすぎたんだろうな」

「命に別状は」

「ない。あってたまるか」

 それを聞いてようやく安心したらしく、大将は頬を緩ませ、振り返り様に命じてくる。

「今日はもう休ませろ」

 異論はないのでサラの肩を抱こうとしたところ、大将の尻尾が左右から膝やすねに当たってきた。意図的に払ってきているらしいので見下ろすと、肩越しにこちらを見上げた大将があごをしゃくって言ってきた。

「運んでやる。上に乗せろ」

 純平は頷き、大将の背中を覆うようにサラを腹這いにさせた。大仕事を終えた余韻で火照り切っている頭がたてがみのそばに力なく垂れ、それでもその手は漢和辞典を握り締めていた。

 改めて見直した気分でサラを眺めていた純平は、支えておくように大将に促されたのでそれに従い、サラの背に手を添えて大将とともに十四階まで戻っていった。


 上半身だけを寝床から持ち上げた姿勢のまま、しばらく夢現をたゆたいながらじっとしていたところで、純平はようやく眠りについていない自分を発見した。

 みーこが腹の上によじ登ってエサを求めてきたわけではなく、前日のようにサラが起こしてくれたわけでもなく、当然ポポが顔をついばんできたわけでもないというように、誰の手も借りずに一人ぼっちで起床するという状況がいつ以来になるのかちっとも見当がつかないほど久し振りで、それでも目が覚めているという事実がなかなか把握できなかったためだ。

 思い出したように両腕を伸ばしたり体をねじったりして、まどろみの鎖を解き放とうとしていると、すぐ真横に、昨夜大将と一緒にここまで運んでやってから、整えた布団に横たわらせた体勢のままで、サラが静かな寝息を立てているのを見つけた。実はまだ眠っていて、夢を見ているのならともかく、これが現実ならば信じられないぐらい寝相が良い。勉強などという慣れないことをして疲れていたのだろう。

 純平は今一度褒めてやるつもりで軽く頭を撫でてやり、ついでに額を触って熱が引いているのを確認してから、おもむろに掛け布団から這い出した。

 事務所のテーブルには添わせて置いておいた漢和辞典と頭痛薬があり、いつしか自分が座るほうになっていったソファーの背もたれには一回折り畳んだダッフルコートがかけられている。

 コートを持ち上げ袖を通しながら、今日は簡単な漢字からやらせよう、小学校低学年で習うぐらいの漢字だったら夜頃には覚えられるかもしれないな、などと一日の予定を決めて、そのための本を取りに行くために外に出た。

 ロロを発見したのはそのときだ。純平純平純平と名を叫びながら傍目にも翼を酷使しているのがわかるほどの猛スピードでこちらに駆け寄ってくるところで、それでもしっかりコントロールしているのだからさすがだ。反射的に受け止めようと構えた両手に触れる寸前にぴたりと停止した。

「今呼びに行こうと思ってたの」

「何かあったのか」

 如何を問うより早く慌てた様子で言われ、思わず聞き返すと同時に身構えていた。ロロは特に返事らしい言葉を発さずに振り返って来た道を戻っていき、純平はそれを返答だと解釈してその後を追って走り出す。

 ロロは最低限の回数だけ陳列棚を旋回すると、後は真っ直ぐにフロアを突っ切っていって、すぐに窓辺まで到達した。橋を一望できるところだということは、背後から遠目で一瞥しただけでも十分わかる。

「下見て」

 ちょうど追い着いたところで促された。壁沿いのソファーに片膝をつき、片手を窓ガラスにへばりつけて前屈みに覗き込む。おかしなところは何もない。壊れた橋の下を川が這っている、いつもの光景だ。真意を測りかねて目線を送ると、ただそこに浮遊しているだけという具合のロロが、蒼白した顔で川を眺めていた。ますますわからなくなる。

「これがなんだ?」

 純平が問い掛けると、ロロは自分のほうが理解できないというように強張らせた表情でこちらを見遣ってきた。

「よく見てよ!」

 純平は圧倒的な力で両頬を挟まれたみたいに窓のほうへ首を戻す。しかしよく見ようにも見るべきところはどこにもないのでそれを傾ける。いつものように川は左手の上流から右手の下流へ流れている。遠くの風景も相変わらず。

 違った。

 あるはずの建物がなかった。

 茶色いセミロングをなびかせた女友達の職場であり、自分とサラが昨夜、図らずも捕囚となって閉じ込められていた、あのミラービルが。それも何らかの事情で忽然と消えたのではなく、初めから建てられていないものとして、そこに存在していない光景だった。

 全てを理解した純平は即座に反転して一直線に走り出す。程なく真向かいの窓の外の遠方に林立する高層ビル群が目に入る。肉眼で確認することなど到底できないが、鏡の法則を鑑みれば、中央右寄りのミラービルは狼狽して駆け寄ってくる自分の姿を反映しているに違いない。ソファーに倒れるようにへばり付いて手前を見下ろすと、橋は、右から左に流れる川に、えぐれた両端だけを残して架かっていた。

 やはりそうだ。ここが瑠香に壊された橋だ。じゃあ向こうの橋は。どうしてあの橋はなくなったんだ。ここと外を繋ぐ唯一の手段は、なぜ一晩で消えちまったんだ。

「さっきね、細長くて、大きくて、先の尖った鉄みたいな塊が降ってきたの」

 追い着いてきたロロが、まるで心の中を読んだみたいに教えてくれた。

「それが橋の真ん中に当たってね、ピカッて光って、音も衝撃もなかったけど、光が収まったときには、あんな風になってたの」

 情報も語彙も乏しすぎて、詳細など何もわからない。どんな事情があって消えてしまったのか、当事者でありながらわかるはずもない。それでもただ一つだけわかっていることがある。

 項垂れた純平は、革を破り綿を溢れ出させようとするほどに背もたれを握り締め、自明になっているその事柄を忌々しそうに口に出した。

「これでここは完全に孤立したってことだな」

「ねえ純平」

 呼び掛けに応じて目線を移すと、右手のそばのわずかに膨らんだ辺りに降り立っていたロロが、不安そうな表情でこちらを仰いでいるところだった。

「人間はどうしてこんなことするの? これじゃ救出に来ることもできないよ? 人質が逃げることもできないよ? どうして橋を壊したの?」

「俺が聞きてえよ」

 純平は強い口調で吐き捨て、その反動で逃げるように顔を逸らす。少々気圧され気味に口をつぐんだロロだったが、すぐに落ち着きを取り戻した様子で頷いた。

「そうだよね…純平は人間じゃないもんね…人間のやることなんてわからないよね…」

「人間にだってわかんねえよ!」

 純平は立場を忘れて怒鳴り声を張り上げると、本来ならば取り返しのつかないほどの失態に気がつかないままなおも、怯えに近い感情で身をすくませて恐々見上げてきているロロを尻目に呟いた。

「どこのどいつが…! 何しようとしてやがるんだ…!」

 もっとも今のロロには正常な判断力など到底望めなかったし、例え今が平時であるか、あるいはロロの肝がもう少し据わっていたとしても、信頼しきっている相手の正体を察することなどできようはずもなく、純平の発言は人間を知り尽くしている人物の見解だと単純に受け止めたに違いなかった。

「とにかく下に行こう、みんな待ってるから」

 当初の目的を思い出したロロがそう言って飛び立っていく。純平はあまりに判然としない状況下に激しく苛立ちながら、ここでこうしていても他に手段を得ることができそうにないから従うしかないという具合に航路に続く。


 再び真後ろに疾駆していき少しでもロスを避ける形でそのまま中央のエスカレーターを駆け下りて一階に到達すると、今し方破壊された橋を目と鼻の先にする位置であるエントランスのど真ん中で、豪快に仰向いて倒れているタクローが見つかった。

 ロロは一声タクローの名を叫んで頭上のそばに降り立ち、なおも絶叫しながら両翼で左右の頬を挟んで揺さぶった。半開きの口と白目を剥いた顔がロロの動きに合わせてがくがくと音を立てそうなほどぐらつく様に純平の足は一層速くなり、たちまちロロを押し退けて床に膝をつかせる。

 純平はタクローの全身を上部から下部にかけて見回しつつ、首筋に手を添えた。銃創を覆うために上半身の広範囲に渡って巻かれている包帯の他に外傷は見受けられず、指先には普通より少し速いテンポで弾んでいるが総じて緩やかだと太鼓判を押せるぐらいの脈動が響いてくる。息はある。気を失っているだけだなとほっとすると、再びロロが叫んだ。

「純平!」

 自分の名を呼ばれているだけにタクローへの呼び掛けとは違ってより鋭く強く聞こえたその声に顔を上げると、たった今通ってきたエスカレーターのちょうど真後ろにあたる個所に横たわっているトラの姿が認められ、こちらを見つめているロロがその上で羽ばたいているのに遅れて気がつく。

 触診しに行く道すがらで右手のほうにひっくり返っているワニが目に入り、走り出した足をつんのめらせて急停止したら、その奥のほうでうつ伏せに大の字になってのびているオオカミを発見した。

 ロロはロロで逆方向に重なり合って伏しているチーターとサイとゴリラを視認してまたまた悲鳴を上げ、つられて首を半回転させた純平も変わり果てた三者の姿を目撃する。

 チーター、サイ、ゴリラ、トラ、ワニの順に手近なところから駆け付けると、迅速にするために多少粗雑な診察ではあったが、揃って目立つほどの傷や怪我がなく、意識が朦朧としていたり人事不省に陥っていたりするものの生死に直結するほど重篤ではないということを確認できた。

 しかしもはや安堵より危惧のほうが肥大しており、オオカミに差し掛かったところでそれは飽和する。仲間の動物たちのおそらく全てが、種と類の別も問わず、累々と倒れている光景がその先に広がっていたのだ。

 診療すらも忘れて呆然と立ち尽くしていると、果てのほうからロロが、やはり心ここにあらずといった面持ちで眼下の惨状を凝視しながら飛んできた。

 生きているのか死んでいるのかなどすでに問題ではない。絶対的な力を誇っていたこれまでの日々からは考えられない異状だけでもう。忌むべき事態と新たに壊された橋とのリンクを当たり前のように導き出し、純平の中でじれったい気分はいよいよ強まる。

「どういうことだ!」

「わかんないよ!」

「話を聞いてくれないから、ちょっと黙っててもらったのさ」

 咎めるような純平と、うろたえながらも反駁するロロの会話に、落ち着き払った別の声が混じった。

 ちょうど後方から発せられた、すでに鼓膜に刻印されてしまったかのようなその子供の声に、純平の全身は顔ごと硬直する。

 瞬時にどこに潜んでいたのかという疑問がよぎり、次の一瞬には手段さえあれば内側から橋を壊すことだってできるという結論を浮かばせた。もう少しだけ考える時間があれば、それこそが安寧が粉砕された根源であると、確実に行き着いていたはずだった。

 純平は石のように硬くなってしまった体を時間をかけて振り返らせ、腕組みして誇らしげに佇んでいる瑠香を睨み付ける。しかし瑠香は視線が交わった途端に顔をしかめ、瞬かせてから細めた目を首を突き出して近付けた。

「君は人間じゃないの?」

 思わぬ言葉に純平は息を呑むほど狼狽して目線を散らしたが、同時にタクローやチーターとサイとゴリラなどの今の瑠香の発言を知覚できずにいる面子を確かめることになり、反射的にこれまでの日々に培われた演技力が自然に発揮され、何事もないように首を傾げることができた。

「何のことだ?」

「何のことって、昨日ここから助けてあげたじゃないか。他のみんなと一緒に」

「頭イカれてんじゃねえのか? 俺はお前のことなんか知らねえよ!」

 それでもロロに聞かれていることだけは確かなので、カバーしようとするあまり、むやみに声量が大きくなって言葉そのものも汚くなる。かえって怪しいぐらいだが、それを指摘できる唯一である瑠香自身が納得したらしい。

「それもそうだね。彼にそんなものはなかったもんな。きっと今もまた、ここに閉じ込められてるんだろうな」

 純平の頭上で微動するウサギの耳を身を乗り出して注視していた瑠香は、その姿勢のまま頷いたところで再び純平と目が合い、もう一つの疑問を思い出して歯を軋ませる。

「だとしても、なぜ生きてるんだ。確かに一昨日、川に落としてやったのに」

「ペットに助けてもらったんだよ」

 その答えは動物たちが知っていることでもあるので、齟齬も違和も生じさせないためには事実を正確に述べるだけでいい。調子に乗って口角を吊り上げ、気分を損なわせ挑発してやるためだけに悪態を付け加えてやった。

「お前が忌み嫌う動物たちにな」

 ところが瑠香は歯と歯をさらに強く噛み締めさせるどころか鷹揚に体勢を戻し、むしろ感心したように息をついた。

「まったく、君たちはしぶといね。そこのシロクマなんて確かに昨日ピストルで撃ち抜いてやったのに、よくもまあ生きてたもんだ。君もね」

 顔ごとタクローを見据えていた瑠香は、そこでロロへと横目を投げ付ける。前触れもなく純平の背後から現れた瑠香を認めるや否や、思わぬ事態に驚愕し困惑し今の今まで宙に漂う余力のみを残して凍り付いていたロロは、鋭利な眼差しに我に返りその冷たい瞳をぎっと睨み返した。

「みんなに何をしたの」

「ちょっとね」

 瑠香は楽しそうに微笑んで明答をはぐらかす。そして続けた。

「まあ、そんなに心配しないでいいよ。殺さないでおいてあげたから、そのうち目を覚ますさ」

 言い終えるか否かといううちに、ロロは、とてもハトの声帯を介しているとは思えない咆哮を迸らせ、弾丸さながらの勢いで瑠香目掛けて飛来する。そして乾いた音と甲走った悲鳴を残して壁に阻まれるように反発し、顔が下を向いた危険な姿勢で床に滑空していく。

 純平は反射的に頭から跳んだ。自然とリノリウムにダイブする形となり上半身を思い切り打ち付けたが、両手を伸ばした姿勢をわずかも崩すことなく保ち続け腹這いになってロロを受け止めることに成功する。

 何事が起こったのかを理解できないままに顔を上げて瑠香を見遣ると、斜め下を向いた片腕が肩口から離れた位置に浮かんでいた。目視不可能な速度で腕を払いロロを撥ね退けたのだということをようやく悟った。手の中ではロロが蠢く。

 両手を開いてやったことで、もがくように床へと這い出ることのできたロロは、何とかして体勢を立て直そうとするが、殴られたショックからかどうにも動きが覚束無い。

 それでも小動物にとって軟らかくはないこの建材にあのスピードで顔面から激突していたらと思うと、早々と兄を追うことになってしまっていた最悪の場合さえ想起されてぞっとする。

 それがロロの緩慢な動作の起因にも思えて、慰撫するように支えてやっていると、心底呆れた口調で瑠香が言った。

「これだから動物はイヤなんだ。会話の能力があるくせにロクに話をしようとしない。全て力で解決しようとする。どうしてこう愚かなんだろ」

 一挙に憤激を復活させ唸り声を昇らせて再度襲いかかろうとするロロを後ろから鷲づかみにすることで制し、純平はロロの分まで思いの丈をぶちまけた。

「それが今までこっちの顔見りゃ殺そうとしてた奴の台詞か。ふざけたことばっか言ってんじゃねえぞ!」

「僕が悪いわけじゃないよ。初めに人間に逆らってきたのは君たちじゃないか。君たちのせいだ」

「人間は偉くねえって言ってんだろうが! 何度言わせりゃわかるんだ!」

「何度って…僕と君は初対面じゃないか」

 瑠香はわけがわからないというようにしかめた顔を振り回し、純平はロロを留めていたために手で口を塞ぎこそしなかったが、大慌てで押し黙った。こいつから正体が露見したら、まるで茶番だ。

「まあいい、そんなことより何しに来やがった。残りの橋まで壊して何するつもりだ」

 急いで話題をはぐらかすために立て続けに問いただすと、瑠香は不服そうに親指を真横に突き立て駁してきた。

「あの橋を壊したのは僕じゃない。僕が来たときにはもう手遅れだったんだ。僕だってできることなら止めたかった。あれじゃ人間を逃がすことだって難しくなるじゃないか」

 よほど無実を訴えたかったのだろう、瑠香は純平が口をつぐんでじっと主張を聞き入るしかないほど勢いよくまくし立てた最後の最後に、「これだけは先に言っておくけどね」と、いささか時制の狂った言葉を付け加えた。

 人間を逃がすのが難しいという一言に集約された内容はもちろん、暴力に頼んででも発言を訂正させかねない気迫に秘められた純粋さからも、濡れ衣を着せた過誤を実感に近い感覚で把握した。だが、意地を捨ててもその間違いを受容してやれないだけの理由もある。

「お前以外の誰にあんなバケモノみてえなことができんだ。それにお前が来たときにすでに壊れてたってんなら、お前はどうやってここまでやってこれた。泳いだなんて言うんじゃねえだろうな。俺はあの川で死にかけたんだぞ」

「泳いだ、か。そういえば昨日そう言ったな。まあそのときは嘘をついたんだけどね」

 瑠香は当人にしかわからない独り言を漏らして思い出し笑いのように笑むと、語意を問うべきかどうかで迷っている純平が結論を出す前に口を開く。

「さすがにここの頭脳だね。他の連中と違って会話が弾んでいいや」

 不意に放たれた状況も立場もこんがらがったおかしな賛辞に、迂闊にも純平は照れた。しかし頬を掻く人差し指は瑠香が突然微笑から真面目な表情に顔の筋肉を引き締めたところで停止する。

「君を見込んで頼みがある」

「頼み?」

 純平が眉をひそめるのを見て、瑠香は哀訴するように頷いた。

「大将に会わせてほしい」

「なぜだ」

「いちいち説明してる暇はない! 後で話すから早く連れてきてくれ!」

 必死の形相に変身して急き立ててくる瑠香の姿に、純平は尋常でない危機を共有している立場を直感したが、こちらも大将の居場所を知らない。

 探し出してきてもらうかとロロを見下ろそうとしたそのとき、瑠香の背後に黄土色の棒のようなものが二本、ぬっと現れ、それがライオンの両前足だと気がついた次の瞬間には、双方の先端から鉤爪が飛び出し、鈍い光を見届ける間もなく瑠香の肩にそれらが深々と食い込んだ。小さな一声を漏らして腰から上が折れ曲がった瑠香の細く薄く狭い背に、その猛獣の巨体が覆いかぶさる形となる。

 熟練者さながらの早業に何が起こったのかを判断しかねた純平だが、まるで地の底から這い上がってきたように怒り狂った大将の面相が瑠香の肩口に現れたのを目にするや、慌てて開いた手を正面に伸ばした。

「待て、そいつは争いに来たわけじゃない」

 制止を受けた大将は若干狂気の薄まった瞳をよこすが、すまなさそうに項垂れて首を振ると、より濃厚な憤怒に満ちた低い声を紡ぎ出す。

「俺はお前を信頼している。これまでよくやってきてくれたし、人間を生かそうという作戦にも反対しない。しかし、いくらお前の指図であっても、これだけは譲れん」

 恐ろしいぐらいに力を入れたのだろう、丸められた大将の前足がひどい痙攣のように震え、その下で瑠香の肩を包む衣服が破けそうなほど膨張して無数の襞を作り出す。当の瑠香は悲鳴どころか声一つ上げないが、純平は自分の肉が爪の餌食になっているかのように叫んだ。

「よせ! やめろ!」

 辺りに響き渡ったそれが目的を果たすことができずに空しく霧消していく中で、大将は目線を真下に移して瑠香の頭をじろりと見下ろした。早い段階から顔の真横まで移した目で自分を見上げてきていた瑠香と視線を交えることになり、おもむろに口を半開きにし熱を帯びた唾液に濡れて湯気を発している牙を不恰好な具合に覗かせた。

「お前だけは許さん!」

 大将は雄叫びのように言い放つや否や、わずかに上昇させて勢いをつけた頭を振り下ろし、人が死ぬ場面を目撃する恐怖に耐えられなかった純平は顔を逸らしたその上に力の限り目をつむっていた。

 牙と牙がぶつかる音が楽器の高音にも似た金属質なそれで清冽に反響し、床に震動を伝えて遠ざかっていく鈍重な音がやけに間の抜けたものとして聞こえてくる。

 耳だけで言えば大きめのボールがバウンドしながら離れていくような、しかし実際に弾んでいるのは人体の一部であるという、現在の聴覚と直前の記憶で見る光景に嘔気と紙一重の感触を胸の奥に得て、純平はたたでさえ歪めていた顔を紙をまるめるみたいにひしゃげさせ、涙を落とすように唾を飲んだ。ロロが甲高い悲鳴を上げたのは程なくしてのことだ。

「純平…あれ…あれ…」

 ロロは異常なほど、今の自分が口を開いてもそこまでではないだろうというぐらい怯えた声をしていた。それでもぶるぶる震えているのが手から腕を通じて体に伝わってくると、感情までが体内に伝染してきたみたいで恐怖が倍化され、何事かを尋ねることもできない。

 致し方なくまぶたを恐る恐る、若干の覚悟を決めて持ち上げると、実際の出血というものはこんな程度のものなのかと意外に感じることもできないほど、美麗の保たれたリノリウムの床が視界に広がっていた。

 首のもげた瑠香はその範囲にはおらず、あるのは魂を抜かれた直後みたいに、穴のように開いた目と口をある一方に向けている大将の横顔だけだった。

 聞くようにロロを見下ろしたところで、ロロが大将と同じ方角を向いて怯えているのを知り、純平も二対の視線の先に自身のそれをなげうった。途端に絶叫して腰を抜かし、ロロを連れたまま尻を引きずって後ろへ下がっていく。

 驚きや恐怖で心境を満たした三者が見つめているのは、首を失った瑠香の胴体が、壁際まで転がってこちらを向いている瑠香の生首を目指し、確かな足取りで歩いている光景なのだった。

 胴体は途中、仰向いて気絶することで進路を阻んでいるワニを軽やかな跳躍でまたぎ、滞りなく目的地に到達する。生首は当たり前のように瞳を動かして、思わぬ事態の連続に混乱している三人を認めると、かすかに眉間に皺を寄せて目を閉じた。

「ちゃんと前置きをしてから教えたかったんだけど…」

 申し訳なさそうに呟いた生首を、膝を曲げて両腕を伸ばした胴体が拾い上げた。切り口は下になっているのに、赤いものは一滴も落ちない。純平も大将もロロも、瑠香の外側と内側の大差を否が応でも察することになり、瑠香は自らの口でそれを正答だと明かした。

「僕は人間じゃないんだ」

 目をつぶったままそう言い放った生首を胴体が持ち上げ、ほんの少し前まで双方が結合していた肩と肩の間のくぼみに乗せる。

「瑠香」

 引きつった呟きが、純平の後ろで閃光のように現れ消えた。振り返ってみると、動いていないエスカレーターを降りるか降りないかというところに、サラが立ちすくんでいた。目を覚まして一人きりだったことにびっくりし、それから心細くなり、慌てて純平を探している途中で昨夜まで架かっていたはずの橋の残骸を見つけて不安が増大し、急いでここまでやってきたものだった。

 後ろを向いた胴体の上のこちらを向いた生首は、ぎょっと目を開けてサラの姿を認めると、たちまち鬼のような形相に変身して歯を軋ませた。

「どこに逃げたのかと思えば…」

 胴体はサラを睨みつける生首を両手で押さえつけたまま、木をへし折るときに出てくるようなしなる音を立てさせて半回転する。

「こんなところにいたのか」

 胴と首が同じ向きを向いて、何事もなかったように元通りになった瑠香が、大股で歩み寄ってきて下を見もせずにワニを通過した辺りで、サラはようやく我に返った。

 純平に駆け寄り膝をつき、コートの背中に引っ付いて縮こまりながらも、耳だけをぴんと立たせる。

 純平の怪訝そうな、それでいて圧力のある睥睨を受け、瑠香は躊躇したように足を止める。

「どういう関係だ」

 純平は横目で瑠香を見据えたまま、肩口に現れているサラの耳に触れるほど口を近づけて問いただす。答えたのは瑠香だった。

「僕らは同じ場所で作られたのさ」

「作られた…?」

 サラの出生の経緯を知らない二人は瑠香へのそれと同様の違和を覚えたのだろう、大将はオウム返しをしつつ生首や胴体に向けたものと内実の変わらない愕然とした視線を純平の背から少し離れた位置に送り、ロロは発声の仕方を完全に忘れた具合となって露骨におぞましいものと接する目で純平を仰ぎその体の後ろに隠れている奇妙な生き物を見る。

「サラは人間と黒ネコを掛け合わせて作った新しい生命体さ。人間でもなければ動物でもない、おかしな奴だよ」

 引きちぎらんばかりにコートを握り締めてくるサラの力を背中で感じ取り、純平は唇を噛み締めることで怒鳴り付けてやりたい衝動を必死で抑えて叱責する。

「そういうお前は何なんだ」

「僕はロボット」

 瑠香は即答し、続ける。

「見てのとおり、ヒト形のね」

 そして楽しそうに笑んだ。

「とてもそうは見えないだろう? 誰がどう見てもただの子供だもんね。でも君たちも知ってるとおり、実際は人間を段違いに凌駕する能力を持つ大傑作さ。だけどサラは、僕と違って失敗作でね…」

 そこで瑠香は憐れみ嘲るように表情を崩し、時間をかけたため息をつく。サラの握力はいよいよ強まり、純平の内でも何かが臨界を突破しようとしていた。二つの感情の渦を知ってから知らずか、瑠香は長い間を空けた後で言い放った。

「生かしておいても仕方ないから、処分することになったんだ」

「帰って!」

 純平が声を荒げるより早くサラが叫んだ。それはそれだけならば気丈なものだったが、サラは直後に倒れるように純平の背中に顔面を押し付け、鼻をすすった。

 一瞬遅れて先を越されたことと、すぐ真後ろから怒号そのものを直接浴びたことで思わずすくんでいた純平は、サラの涙の温度をコート越しに感じ取った途端、爆発しかかっていた滾りが急速に収斂し、復讐よりも慰撫に意識が傾いた。顔ごと視線を後ろに向けてサラの頭と耳を撫でてやるが、サラはそれには応えずに、なおも瑠香に抗弁する。

「もういいじゃない…! 私のことは放っておいてよ…! 私が何したって言うのよ…!」

「そんなことから説明しなきゃいけないのか。どこまで君は頭が悪いんだ」

 言葉そのものは悪口だが、それまでと異なって挑発を目的にしていない口振りに、当のサラですら怪訝そうに目線を持ち上げることで瑠香に尋ねた。瑠香は親切に答えてやる。

「君は何もできない。知能は低く、野蛮で、ただただ本能のままに動き回る。人間としても不十分で、動物にもなりきれていない。そんな中途半端な生き物はこの世に存在しているだけで無意味だ。人間にとっても動物にとってもマイナスになる。だから君には消えてもらわなきゃならないんだ」

 瑠香は最後に力強く言い放つとともに、どこからともなくピストルを取り出し、背後に向けた。

 銃口は、瑠香がサラにその不要の理由を説くのに気を取られている間に真後ろから音もなく忍び寄り、傍目には尊大でしかない言い分も手伝って怒りが沸点に達した瞬間に一閃して飛び掛かった大将のたてがみの中に、すっぽりと納まる具合になった。

「だけど今の目的は君を殺すことじゃない。話を聞いてくれるかな?」

 冷淡な目は真顔とともにサラに向けられたままだったが、銃口はそれ自体で大将の毛と肉をえぐるように首筋にごりごりと押し付けられていた。顔の筋肉を忌々しそうな形に動かして、しかし体を戻すしかない大将がゆっくり身を引いたところで、瑠香は応じるようにおもむろにピストルを下ろした。

「君たちに協力してもらいたいんだ」

「協力?」

 聞き返し様に大将が鼻で笑う。

「人質を取られて浮き足立ったみたいだな」

「何だと」

 触れ合わせた上下の歯を剥き出しにした顔を振り向かせ、瑠香が大将を睨んだ。大将は蚊に刺されたほどにも感じないという涼しい表情を彼方に見せびらかしたまま、加えて一人ごちる。

「そもそも何に協力しろというんだろうな? 同士討ちをしろとでもいうのか? こりゃまた都合のいい話だ」

「続けてくれ、協力ってのはどういうことだ」

 歯を軋ませる音が耳元で響くほどに強く聞こえたので、純平は急いでなだめて促した。

 瑠香は憎々しげな視線をたてがみに突き刺しながらも、大将に噛み付くのを取り止めて話を再開させる。

「今この建物は、僕やサラを作った人間…僕らはマスターって呼んでるけど、彼がある兵器で狙ってるんだ」

「ある兵器?」

「ミサイルのようなものだと思ってくれればいい」

 純平の問いに瑠香は簡潔に答えて続ける。

「元々は有人ロケットとして作られたんだけど、昨夜のうちに作り上げた弾頭を搭載させて、軍事用に転用したのさ」

 瑠香はそこで不意打ちのように大将を顧みた。驚いた具合に眉をひそめる寸前の渋い表情を見逃さず、唇の片方を持ち上げる。

「ミサイルやロケットから説明しないとダメかな?」

「何となくだがわかる。続けろ。そのミサイルが何なんだ」

 図星を指摘され顔を紅潮させた大将が文字通り瑠香に噛み付くより早く、純平は再度なだめ促し捨て置くように言った。

 大将はひとまず激昂を鎮め、瑠香は報復を中断させたが、急に引き締めた表情でこちらを見た。

 話が不吉な核心に差し掛かる感触を先んじて悟り、それに耐えようとする防衛本能か、純平は思わず身構えた。

「もうすぐここに撃ち込まれる。そしてここは壊滅し、ここにいる全ての生き物が死滅する。人間も動物も君たちもみんな」

 深慮の余地がなかったせいもあり、純平は謎の脅威を素直に信じて唾を飲んだ。

「僕はそれを阻止したいんだ」

 瑠香は力強い宣言で締めてから、首を後ろに曲げた。不思議そうに、しかしやはり顔をしかめた大将に、中途で終わらされてしまった復讐をやり遂げる。

「君たちを殺すのに手助けなんているはずないだろ?」

 だがそうは受け止めなかった大将は表情を変えず、だからこそ純粋に疑問を投げかけた。

「そんな厄介なものをたった一人の人間が作れるものか」

「それならあの橋をどう説明する? 壊れたところを見てないのかい?」

 大将の言に目から鱗が落ちたように頷きかけた純平は、瑠香の反駁にその首を止めた。どちらも理にかなっている。しかしそのどちらが正しいのかわからない。純平の気持ちを映すように場は静まったが、思わぬところから沈黙が破けた。

「私、見たよ」

 ロロが控え目に呟いた。瑠香は先ほどまでとは打って変わった期待に満ちた眼差しでロロを見つめ、まるで親友にするみたいな懐っこい笑顔で催促した。

「どんな感じだった?」

「よくわかんなかったけど…」

 ロロは首をすくめることでその事態の場面と瑠香の豹変を同時に恐れ、言語化した結末を絞り出した。

「一瞬で消えちゃった…」

 瑠香は当然だというように頷く。

「あれは君たちの逃げ場をなくすためのものだったんだ。だが次はあんなもんじゃない。この建物はあの橋と同じように消え去り、中にいる生き物は跡形もなく消滅する。そしてこの場所に残るのは、おおよそ地下五階分の巨大な穴だ」

 瑠香は脅しつけるように大将を睨み、ロロを見据えてから、こちらを見遣ってきた。その迫力に気圧されはしたものの、考える時間が得られるほどに言われていることの全てを信じるのが難しくなり、純平はばつが悪そうに視線を落とした。

「サラ、君ならわかるだろう」

 純平はまたもコートが握り締められるのを背中で感じた。首を下に傾けたまま視界を後ろにずらすと、サラのあごが静かに沈んでいくのが見えた。

 言うなれば共通の故地を持つ同胞による肯定に、瑠香の言葉の信憑性は一挙に高まった。

「騙されるな純平」

 純平が考え込もうとした矢先、大将が制止の言葉を放り投げた。

「君には聞いてないだろう!」

「最終的に決めるのは俺だ!」

 瑠香は歯軋りして大将を怒鳴りつけ、大将は瑠香に怒鳴り返してから冷静に続ける。

「もしお前の言っていることが全て真実だったとしても、なぜ今になってそれを阻もうとする? 俺たちを絶滅させると息巻いていたのは他でもないお前だろう」

「別に君たちを見殺しにしたって構やしないさ。だけどここには人質が大勢いる。一人たりとも人間を巻き添えにするわけにはいかないんだ」

 瑠香は床に目を向け、まるで地下に捕らわれている人間たちの一人一人を見回すかのように、ゆっくり視線を動かした。

「マスターの研究や発明は全て人間のためだ。人間に奉仕し、より良い生活を提供するためだ。僕もその目的のために作られた。普段はマスターの作業の手伝いや日常の世話をするだけだったけど、非常時には人間を守るための武器としてできている。だから人間を守るのは僕の義務だ。僕はそのためだけにいるんだ」

 そこで不意に失態を思い返し、歯軋りの後に悔しそうに加えた。

「人質を取られさえしなけりゃ、こんなこと頼みに来なかった。建物ごと君たちを絶滅させる手段は僕だって考えてたんだ」

 そして勢いよく顔を上げた。

「あと少しでミサイルは自動的に発射される。橋がなくなった以上、捕まったみんなを救い出す時間はない。計画そのものを阻止する以外にみんなを守ることはできない」

「わからんな。それならお前一人でその男を始末すればいいだろう。なぜ俺たちに協力を求める」

「わかってないな。マスターも人間なんだ。たとえ何があっても僕が直接手を下すことはできないんだ」

「ここにいる人間を道連れにしようとしているのにか?」

「世界中の人間を道連れにしようとしていたとしてもさ」

「バカな…」

 大将は力なく吐き捨てて一、二度首を傾げた。瑠香は対照的に鷹揚に頷く。

「きっとそれが生き物の考え方なんだろうね。たとえ一人を見捨てたって残りを助けられるならそれでいいってことだろう? わからなくはないよ。数の上では正しい選択だ。今回のマスターの決断も同じ考えに基づいてなされたものだった。だけどそれはとても乱暴だ。血が通ってるとは思えないぐらい冷酷だ。死なせてもいい仲間がいるってことになっちゃうじゃないか。君たち生き物はそれを種の存続のためだとか、それによる本能だとでも言うのかもしれないけど、どちらのほうが望ましいことかなんて、考えるまでもないだろう」

 静かな、しかし力強い瑠香の主張に、大将は返す言葉がないというように押し黙る。瑠香に対しては、ロボットという単語の意味を正確には測れず、首が飛んでも死ななかった事実や僕は人間じゃないんだに代表される発言の幾つかから、自分たち動物とはおろか人間たちとさえ違う、生きているようで生きていない生き物という解釈が限界で、だからこそ本来ならば存在してはならない存在であり、欺瞞の具現のように感じられて鼻白む側面、だからこそここまで純粋で無垢に理想を語れるのだろう爛漫な部分が、替わってほしいぐらい羨ましくもあった。それに引き換え俺はどうだ。あいつのことを何だと思って――

「方法は」

 追憶に立ち入る寸前で大将は現実に引き戻された。しばらく黙っていた純平が瑠香への問い掛けによって口を開いたのである。瑠香は思わぬ珍客に驚いたように一瞬目を丸くしてから、笑みを浮かべた顔を頷かせた。

「僕と一緒にマスターのところに来てもらう。そこで君たちには僕を破壊してもらう。さっきみたいにやればいい」

「破壊する?」

 顔をしかめて聞き返した純平を始め、残りも眉をひそめたり首を傾げたりして怪訝を示す。要領を得ない表情たちに瑠香は説明した。

「マスターを守れないようにするためにね。君たちがマスターを襲おうとすれば、僕は体の動く限りマスターを守ろうとするし、君たちの邪魔をするから」

「自分で止めろよ」

 悪態をつくように思わず純平が呟くと、瑠香が目を見開いて見つめ直してきた。途端に拳を握り締めて歯を軋ませるのを目にし、何が逆鱗に触れたのかもわからず困惑する。

「それができないのがロボットっていうものなんだ…」

 瑠香はそんな純平をよそに絞り出して項垂れた。

「僕が今こうして喋ってるのも、僕がこれまでに行ってきた言動も、僕がこれから先に見せる些細な所作も、そのときそのときで人間のためになるベストの行動を最も人間らしい仕草によって取るという、インプットされた命令に従っているに過ぎないんだ。僕は君たちで言うところの意志に似たものを持っている。たとえそれが人為的な設定だとしても、この身を捨ててでも人間を守りたいという気持ちがある。だけどそのために他の人間を攻撃するということは、どうしてもできないんだ。それは僕に許容された行為じゃないから」

 純平は、悔しそうに拳を震わせ歯を軋ませ続ける瑠香の姿に、生身の人間には想像もつかない厄介な荷物を背負わされた機械の悲劇を見た気がした。それもまた人間のためになるベストの行動を人間っぽい仕草で取っているだけならばと落ち着いて考えてみると興も醒めるが、今回の計画に協力し成功を得るならば、複雑な葛藤に苦しんでいるこの道具は不可欠になる。そして当人はそれを理解した上でその手段を示そうとしている。純平は改めて方法を聞くことにした。

「その後は」

「君たちに任せる」

 瑠香も一変して真顔に戻って首を上げた。

「破壊された僕が歯軋りしてる間に、マスターを捕らえるなり仕留めるなりすればいい。そうしたら僕がミサイルを処理しよう」

「その後は」

 大将が咎めるように割って入り、瑠香の返事を待たずに問い詰めた。

「その男を殺せば、お前は次に俺たちを殺すんだろう。お前が生き物だろうとそうでなかろうと、自分を作った親みたいな者を殺されて黙っているはずがない」

「そう思うかい?」

 思わせぶりに口元に笑みを作って聞き返してきた瑠香を無言で見据えたままでいることを、大将はその返答とする。瑠香はますます笑みを深めた。

「だったらマスターを殺さないようにすればいいんじゃない? その場でマスターを楯にされれば、僕は君たちに手出しできなくなるだろう?」

「結局その男を殺すことはできないということだろうが。お前を作った張本人、つまりここまで俺たちをてこずらせた人間だ。そんな奴を無事で済ませるわけにはいかん」

「じゃあ好きにすれば?」

「だから、そうしたら俺たちにも危険が訪れるだろう」

「ならよせばいい」

「お前俺をからかってんのか…」

「その辺にしておけ」

 業を煮やしたように純平が乱暴な口調で大将を諌めた。

「もしその男を殺しても、そいつが復讐をすることはないはずだ。そいつは俺たちと違って、感情で行動を左右されないらしいからな」

「さすがにわかってるね」

 瑠香は数えられる速度ではっきり三回拍手し、純平は少し視線を逸らして頬を掻いた。双方の仕草に虫唾が走り、大将は床に爪を立てて口走る。

「だったらこいつは俺たちの目的を阻止するために牙を剥くだろう。純平、お前はそんなこともわからんのか」

「君もなかなかわかってるじゃないか」

 よほど意外だったのだろう、瑠香は純平にしたのと同じぐらいの時間で十回近く手を叩く。大将は表情を渋くしている純平を一瞥してから瑠香を睨み、唾ごと吐き捨てた。

「そんな割の合わん話に乗ると思うな」

 瑠香は思わず手を止めて顔面に散らされた唾を袖で拭い、憐れむように微笑んだ。

「やっぱりわかってないのかな?」

「わかってねえな」

 純平はまるでそっちが仲間であるかのように嘲笑を浮かべて瑠香の言葉に頷き、裏切られたといわんばかりに目をひん剥いて驚愕している大将を説く。

「このままここでじっとしてたら俺たちも死ぬんだぞ」

「そういうこと。そりゃあ君たちの目的を成就させるつもりはないけど、君たちだってこんなところで死ぬわけにいかないだろう? 悪い話じゃないと思うけどな」

「報復を恐れるのならその男を生かしてやりゃあいい。どうしてもその男を死なせたいなら、そいつのことも何とかしろ。これだけは譲れねえとか、お前だけは許さねえとか、さっき散々言ってたじゃねえか」

「お前どっちの味方だ…」

「それに僕がミサイルを処理することになったら、僕はミサイルとともに粉々になる。そうなってまで君たちに戦いを挑むことは、残念ながら不可能だ」

「――どういうこと」

 衝撃的な告白が自然な会話の流れの中であまりにも素っ気なく遂げられ、呆気に取られた純平と大将が揃って言葉を失っている一方で、純平の後ろからサラが身を乗り出すように尋ねた。

「発射を取り止めることができるのはマスターだけってこと。僕が阻止する手段はそれしかないってことだよ」

 くるりと首を曲げて答えた瑠香は、サラと同様に自分の言葉を理解できずにいる純平を視界に入れることになり、ついでに二人を映す鏡みたいな大将が横顔を見つめているのに気がついた。

「そっか、それも説明しなきゃな。じゃあ確認がてら、僕のプランを初めから話そう」

 瑠香は口元に拳をあてて咳払いを一つしてから、真剣な顔付きになって滔々と語り出す。

「これから僕らは研究所へ向かい、マスターに会う。そこで君たちは僕を壊す。ここから先は君たちの自由だ。マスターを説得するなり死なせるなり好きなようにすればいい。マスターが計画を思い留まって発射を取りやめてくれるのが僕にとって最良だけど、マスターにその気がなかったりその前に君たちがマスターを死なせたりするかもしれない。中止させた後で君たちがマスターを殺すという可能性もあるしね。とにかくマスターに発射を防がせることができなくなったら、僕は僕を修復してミサイルに乗り込む。時間が来たらミサイルは僕を乗せて飛び立ち、程なくして宇宙に出る。僕は僕の体の一部を爆弾に変えて爆発させる。ミサイルは僕ごと宇宙空間で木っ端微塵になる。これで終わり」

 瑠香は大きく息をついて額を拭うという、長話で疲れた体をいたわるような動作をしてから、唖然としているままの大将に笑いかけた。

「さすがにそんなことになったら、いくら僕でも二度と修復することはできないさ。君の心配は取り越し苦労だよ」

「瑠香はそれでいいの…?」

 大将が何事かを言ったり問うたりする前に、サラが心配そうな声を出した。丸くした目で聞き返さんばかりにこちらを見てきた瑠香に、同じトーンで続ける。

「消えちゃうってことでしょ…?」

「そうだよ?」

「………」

 瑠香は、何を聞くんだろうというようにむしろ不思議そうに答えてから、それ以上の言葉を失ってしまったらしいサラの姿に行為の意図を見出し、満開の笑顔を咲かせてみせた。

「言ったろう? 人間を守るために僕は作られたんだ。そのためなら壊れることだって厭わない」

「………」

「それがロボットっていうものさ」

「………」

「自分のことしか考えていない君とは違う」

「………」

「よし、もういい。お前の言い分はよくわかった」

 黙って話を聞いていた大将がそういう玩具のように何度も頷きながら瑠香を留めた。そして首をぴたりと止めるや自分と同じ間黙っていた純平に視線を移した。

「どうだ純平」

 純平は、けして長い時間ではないにしても、深く考え込んでいたのが察せられる渋い顔を、大儀そうに動かして大将に見せた。大将はそのしかめっ面を見据えたまま、瑠香に向けたあごをぞんざいにしゃくる。

「話が出来過ぎてる。俺には信用できん」

「ああ、俺もそいつを信じる気はない」

 瑠香が愕然とした様子で大将を見遣り、それから純平を睨んだ。言葉も出ないというように歯軋りをし、今にも泣き出しそうに瞳を震わせる。まるで仲間はずれにされたいじめられっ子のように映る姿を眺めながら、純平はゆっくりと片手を上げて後ろに回した。

「だが」

 そしてそこにあるものを鷲づかみするや背中に密着するまで抱き寄せた。

「俺はこいつを信じる」

 遠慮のない力で後頭部を押し込まれて純平の背中に覆い被さったところで、ようやくサラは純平が何をしてきたのかに気がついた。ほんの一瞬戸惑ってから、宣誓のような言葉をわずかに遅れて知覚し、桜色に染まった顔をおずおずと伏せ、純平の肩口に沿わせた。急に胸の辺りに熱い塊が生まれ、込み上げてくる。コート越しの温もりが心地好くて、それからほんの数滴だけのものでも涙を見せたくなくて、純平の手が慰め励ますように髪の中を動いてから離れていってもなお、サラはそのままでいた。

「サラがここまで言うのなら、そいつの言ってることも本当なんだろう。だったら俺たちがやるしかない。それにそいつがいなくなりゃあ」

 純平は持論とその論拠を力強く大将に告げてから、言葉を切って瑠香を見た。不意に自分を示された瑠香が驚いたように見返してきたところで視線を離し、再び大将を見遣る。

「これから先にサラに危害が及ぶこともないはずだ」

「確かに…」

 大将も瑠香を横目で見据え、合点がいったように頷く。首を素早く動かしてきた、唇を尖らせて不服そうな瑠香の顔に睨むように見つめられても、こちらは目を逸らさず、むしろ細めてやった。

「こいつがいなくなれば、これから先もやりやすくなる。俺たちの計画が実現するのも時間の問題というわけだ」

 そこまで言ったところで、大将はすでにそのときを迎えたみたいに哄笑を轟かせた。一方で瑠香は嘲笑を浮かべた顔を左右に振りながらこれ見よがしなため息を漏らし、大将の笑い声を静める。

「相変わらず考えが甘いね。僕がいなくなったって君たちに限界は訪れるさ」

「今のうちに強がっておけ。どうせお前はもうすぐいなくなるのだ。俺たちの活躍をあの世から眺めてせいぜい悔しがるといい」

「ロボットがあの世になんて行けるかな? 君こそ僕の後を追ってこないようにね」

「いずれは行ってやる。動物だけの世界を作ってからな」

 大将と瑠香は、挑戦的な言葉とそれの反射を、芝居の台本のように渡り合わせる。しかし瑠香を睨む大将の目に怒りや憎しみはなく、大将を捉えて離さない瑠香の瞳にも、そういった感情として見受けられるものは灯っていない。

「それじゃ行こう」

「よし」

 悪友同士の阿吽の呼吸といった会話は瑠香の呼び掛けと大将の応答で完結し、大将は続けて純平を見た。瑠香もつられて目を向ける。

「来てくれるか? 純平」

「僕からも頼みたい。君なら何かと役に立ってくれそうだからね」

 純平は黙ったまま、しかし躊躇も見せずにサラの手を背中から外し、立ち上がった。了解の合図として行ったもので、そう受け止めた両者は頷いたり唇の片方を持ち上げたりしてから揃って出口へと向かい、純平が後に続く形となる。その頭上を何かが飛来し三人の前に降り立った。

「ロロ」

 大将は純平と瑠香を含めた総意でもある驚いた声を出すと、誇らしげに微笑んだロロが意気揚々と何かを口にする前に言い放った。

「お前は留守番だぞ」

「ええっ?」

 言おうと思っていた言葉が舌に乗らず、発せられたのは漫画だったら濁点のついていそうな声だった。間髪を入れず、大将は続ける。

「お前はタクローたちの世話をしろ」

 ロロはふてくされたように、生まれつき尖っているくちばしをより前に突き出してから、開閉させた。

「私一人じゃ何もできないじゃない」

「サラがいるだろうが。二人で協力して、怪我人がいたら」

「私は行く」

 大将が言い終えるのを制するかのように、強い声が後ろから響いた。純平が残り三人と同じく声の出所を確かめるため振り返るのとほとんど同時に、それによって倒れ込むのを辛うじて防いだという具合にサラが腕にしがみ付いてきた。

「私も連れていって」

 苦しげな顔を上げ様に、サラが瞳を見据えて懇願してくる。申し訳なさそうに表情を曇らせる以外の応対をできずにいると、腕を抱き締めてくる力が強まった。首を振りながら、叩き付けるようにその手を解く。

「だめだ。ロロと一緒にみんなの世話をしろ。もう、どれが傷薬かってことぐらい、お前にもわかるだろ」

「行かせてやれよ、純平」

 有無を言わさず畳み掛けると、サラの居場所ではないほうから声がした。見ると、頭を押さえたタクローが、ふらつきながらも立ち上がろうとしているところだった。

「タクロー!」

 ロロが嬉しそうに声を上げて空を羽ばたき肩に降りると、それぐらいの重量すら今の状況では重荷になってしまうらしく、タクローは豪快に落下した。

 それでも片膝をついたところでその体勢を保ち、前足の下の歪んだ顔を無理して微笑ませ、慌てて飛び立ったものの自分の崩落に責任を感じているらしくすまなさそうな表情で力なく宙に留まっているだけのロロを仰いでやってから、おもむろに純平のほうへ苦笑いにも映る微笑を向けた。

「サラはお前と一緒にいたいんだ。残していくなんて可哀想だろ」

「遊びに行くんじゃねえんだぞ」

 浮ついた感の否めない意見のおかげで気持ちが固まった。純平は鋭い目と強い語調でタクローをたしなめてから、同じようにそれらをサラにぶつけた。

「俺たちがこれからどこに行くのか、わかってんのか? お前のことを失敗作だとか殺すだとか言ってる奴のところだぞ? 生きて帰れるとも限らないのに、お前までやってきたら、無事で済むはずないだろ」

「そうだね、やっぱり君には知能が足りないみたいだね」

 純平がそこまで言い切ると、まるで役割を奪い取るみたいに瑠香が後を引き継いだ。

「君が僕らに着いてきたら、僕はミサイルの前に君を始末する。君を処分することは今なお僕の務めの一つだからね」

 嘲罵を少しも隠そうとしない物言いのその中途で、瑠香はたちまち破顔する。

「僕らの話を聞いてたろう? 言わなくてもそれぐらいのことわかってくれよ」

 そして大口を開き侮蔑のためだけの高笑いを響かせようとして、ほんの一秒も果たせずに阻まれた。風のように正面に進み出た大将が左右のサスペンダーの外側から両前足の鉤爪を引っ掛け、頭突きを見舞うごとくに顔面を押し付けたためだ。

「サラに指一本触れてみろ。お前の計画とやらも台無しにしてやる。人質どもを皆殺しにさせてやる」

 大将の脅迫を受け、瑠香の表情がにわかに変化した。生き物に例えるなら強靭な精神力のようなものによって、微笑こそ維持されていたが、それでも全てに行き渡らせることはできなかったのだろう目だけは笑っていない。

「それならそれでいい。その代わり君も仲間たちを見殺しにすることになる」

 瑠香はその面白くない瞳を滑らせて、未だ気を失っている動物たち、半立ちの姿勢で頭を押さえたままの人事不省でいるのとさほどの差のないタクロー、その右の肩を宿り木にして弱々しい目でじっとこちらを窺っているロロを見遣ってから顔の位置を戻し、自分に合わせて視線を動かしていた大将と再び見つめ合ったところで、挑むように口元を緩めた。

「今のうちに逃がしておく? 橋もないのに? トリぐらいなら自力で助かるかもしれないけど、翼のない仲間はどうやって救う?」

 大将は今更ながらに深慮を始め、早くも浅い底に行き着いたらしく、決まり悪そうに視線を外した。軽く歯を軋ませた形で瑠香の表情が固まる。

「そうやって考えなしに動くの、いい加減で止めにしたらどうだい?」

 瞬間的に燃え上がり、大将はほとんど条件反射のうちに、大きく開いた口元に瑠香を引き寄せていた。

「やめろ大将」

 すかさず純平が叫ぶ。まるで分裂してもう一人現れた瑠香に対して行うように大将が先の尖った横目を飛ばしてきたが、純平は負けじと舌打ちを響かせてから吐き捨てた。

「そいつを壊したら元も子もないだろう」

 大将はひん曲げた口から地鳴りのような音を発しつつ、押し戻した横目でしばらくの間瑠香を見据えた後で、両前足で捕まえているものを荒々しく放り投げた。せめてもの報復の意味合いが込められた仕打ちをよろめきもせずに簡単に踏みとどまり、瑠香は聞こえよがしなため息をついて襟元を整える。純平も腹に据えかね泰然の装いを睨み付けてあごをしゃくった。

「手前も手前だ、余計なことして時間潰すな」

「僕に責任を問うのは早合点だよ」

 衣服が機械で直されたみたいに整ったところで、瑠香が懐っこく微笑みかけてきた。

「君だってわかってるだろう?」

 直接の返答こそしなかったが、内心では肯定しており、動作によってそれを果たすことになる。純平はサラの両腕をひったくるなり勢いよく自分と向き合わせ、敵視に近い眼差しが困惑で満ちた瞳に直に触れるか触れないかというところまで顔を近づけた。

「とにかく言うとおりにしろ、お前はここに残れ」

「そうだ。失敗作だろうと何だろうとお前は俺たちの仲間だ。みすみす死なせるわけにはいかん」

 純平の忠告と大将の口添えに、しかしサラは顔を曇らせ、首を振りながら純平の手を振り解く。

「絶対に行くの。どうしても行かなくちゃいけないの」

「君がそこまで愚かだとは思わなかったよ」

 軋ませる歯と歯の隙間からやっとのことで放ったという感じの苛立ちの醸された声にサラが視線をやると、その怪訝な雰囲気がより逆撫でしたのだろう、途端に瑠香が目を剥いた。

「せっかく君のことを大切に思ってくれている相手がいるのに、どうしてそれを裏切ることができるんだ。君には知能どころか思いやりもないのか。何のために感情を持っているんだ!」

 二人の思いを代替するが如き達弁の締めくくりに放たれた瑠香の怒号に、サラは目をつむり顔を強張らせ耳を伏せたまま身じろいだ。そろそろとまぶたを持ち上げると、言葉でそれを示さない代わりに、恩を仇で返されたような落胆や失望を滲ませて、純平が渋い顔ごと視線を逸らし、大将が憎悪さえ感じられる睥睨を射てきているのを知ることになった。

「私は別に…そんなつもりじゃないよ…」

 項垂れながらきれぎれに呟くと、見えない壁に撥ね返ったみたいに素早く顔を起こし、瑠香を見遣る。

「瑠香はどうして私を殺そうとするの? 私が何もできないから? 私が頭悪いから? 私が人間でも動物でもないから? それだけじゃないでしょう? マスターが私のことを殺せって言うから従ってるだけなんでしょう? もしマスターが私のことを殺さないでいいって言ったら何もしないでいてくれるんでしょう?」

 質問と自答と否定の目まぐるしい変遷に口を挟む余地がなかった上に、あまねく帯びられていた核心に終始圧倒されつつも、瑠香は最後の問い掛けに応対するための答えを虚空から探し出すようにして、茫漠と天井を見上げたままで数度に渡って頷いた。

「まあ…論理的にはそういうことになるね」

 主張が肯定されることを見越していたサラは、実際その通りになって満足そうに微笑んだ。

「だから私、マスターに頼んでみるの。殺さないでくれるように。生きていられるように。そうすればいいんでしょ? それで、マスターがこの世界で生きていってもいいって言ってくれたら、私はこれからも生きていけるんでしょう?」

「いいか、サラ」

 サラが純平の呼びかけに首を曲げるのとほとんど同時に、純平の片方の手がサラの肩をつかんで体も向けさせた。純平はもう一方の手もサラの肩口にはめ込み、少々困惑気味に仰いできているサラの眼差しを見下ろした。

「俺はその男のことをこれっぽっちも知らねえけどな」

 純平はそこまで言ったところで、大きく息を吸い込み、じっくり間を開けた後で、突如サラの肩を潰すほどの力をその両手に込める。

「そんなこと言うわけねえだろ!」

「だとしても行くの!」

 ひん剥いた両目の奥底から放ったような純平の怒号を、サラは目を閉じたり耳を伏せたり尻尾を逆立てたりすることなく受け止めてから、声量も迫力も劣っていながらも、精一杯の思いの丈で抗った。純平は萎縮したように両手を放し、サラもまた、脱力したように項垂れる。

「もう…こそこそ生きていくのは嫌なの…私はここにいるんだから…」

 集中していなければ独り言と聞き間違うほど控え目な呟き。だがそこには迷いがなく、揺るぐこともない、撤回不可能な決断が前面に押し出ている。もはや口を挟む資格は誰の身からも剥奪された。純平は力なくうつむいて何も言えない。

 不意に、抑揚のない乾いた音が、緩慢だが連続で響いた。瑠香が胸元まで持ち上げた両手を、純平を相手にしたときと同じぐらいの速度で、悠然と叩き合わせたのである。

「見直したよ。しっかり筋道立てて物事を考えられるし、本能だけじゃなくて、ちゃんとした感情も持ち合わせてるじゃないか」

「当然だ、サラは純平とともに俺たちに作戦を考えてくれる人材だ。賢さは俺たちの比じゃないし、それ以前に、お前なんかには及びもつかない、生き物という存在だ」

 瑠香は挑発にも似た大将の言葉に、何一つ間違いがないというように大きく頷いてみせると、あごを引いたままの姿勢で留まった。さながら難問にぶち当たって途方に暮れたよう。

「どうしてマスターは君のことを失敗作だなんて言ったんだろう。処分される理由なんてどこにもないはずなのに」

 わずかな間が生まれ、すぐさま途絶えた。

「マスターと話そう」

 早口でそう言い切るなり瑠香は颯爽と駆け出して外へと向かい、追い縋るように飛んでいった大将と競うようにしてドアをくぐった。たちまちにして二人の姿は眩しすぎる朝日の中に溶けて消える。

 一方で純平とサラは頭を垂れたまま、向かい合っている彫刻のごとく凝固していた。しかし両者は純平が視線を足元から外さないでいるのに対して、サラは目元まで覆われた前髪の隙間から鈍らな光を宿した眼差しを注いでいる。きつい口調で留守を命じられたり、力ずくでそうさせられたりするのを警戒して、それ以上の動作を取れずにいたのだ。

 瑠香の言葉を借りれば時間がないため、いつまでもこうして膠着しているわけにもいかないので、たとえ自分一人だけでマスターの元に舞い戻るとしても構わないとまで心を決めて拳を握り締めた矢先、サラは鼓膜に触れるものを感じ取った。

 囁き程度の声でも捕捉できる、ヒトより優れた聴覚を有している自分と、その特長を知り得ている相手との、暗号にも似た二人だけのコミュニケーション。

 想定していなかった音に驚いたせいで、内容を認識したのは、そばを通り過ぎ様の純平に腕をつかまれ朝日の方角へ連れて行かれるところでだった。途端に感情の波が盛り上がり、涙が溢れる。それまでとは違った事情でうつむき、自由の利くほうの手を軽く握って交互に両目を拭う。

 タクローが早足に駆け寄ってきたのはそのすぐ後で、純平の横を追い抜こうとしたところで裏拳で腹を殴られたのはその直後だ。瑠香に銃撃されたときでさえ出なかった悲鳴が漏れ出る。

「ドクターストップだ。お前はじっとしてろ」

 純平が暴挙の理由を言い終えたところで、タクローは両膝から床に落下し、前のめりに倒れた。反射的に包帯越しの傷口を両前足で押さえていたため受け身が取れず、顔面からリノリウムに激突してようやく止まる。ロロは慌てて傍らに降り立ち苦悶している横顔をしかめっ面で一瞥するなり、目の色だけを非難めいた具合に変えたものを向けてやったが、瑠香と大将に追い着くべく駆け足になっていた純平は大分離れてしまっている。

「行ってくるね」

 湿り気と元気が混交した不思議な声にロロが視線をずらすと、こちらに向けられていたサラの泣き笑いの表情が、純平の後姿に遅れてドアを飛び出し白く薄れて見えなくなった。

 もはや視認できないにもかかわらず、ロロは微笑を返して頷いた。それから息絶え絶えのタクローを、タクロー、タクローと呼びかけて励まそうとしたが、焦点の合わない双眸から無為になることを早々と見越し、まあいいやと呟いて、残りの仲間たちの介抱に務めるためにその場を離れた。


 視界が開けたことが聴覚を研磨させたらしく、厚いコンクリートで遮蔽されていたときにはさほど感じなかった急流の音が、今にも足から体をさらっていきそうなほど、近くに迫ったものとして聞こえてきている。

 純平は、マスターと呼ばれる男によって壊された橋のたもとで、日の光を乱反射している川を瑠香と大将の後ろに並ぶ具合に見下ろし、そこに秘められた身を切るような寒冷と、それによって死の手前に到達した恐怖という、肉体的にも精神的にも震え上がる経験則から、やっぱりこんなところを渡れるはずがないと反発する気持ちを込めて、ぶっきらぼうに先頭の瑠香に尋ねた。

「どうやってここを越えるんだ」

「こうするのさ」

 前を向いたままそう答えたかと思うと、にわかに瑠香の頭の位置が高くなった。純平と大将は反射的に首を動かし瑠香の足が地面から離れている様子を認める。浮いたのだと気がつき、しかし驚く間もなく純平の頭上ほどにまで靴底が達したところで、瑠香の肉体はその都度相当する機械的な音を伴って半分に折れたりねじれたり分裂したり癒合したりして様相を変えていった。

「瑠香は何にでもなれるの」

 目を丸くして言葉を失っている純平と大将に、サラが簡潔に説明する。程なく一つの姿で落ち着いた、それだけ見ても元が瑠香だとは信じられないものを前に、大将は感心と悔しさが絶妙に入り混じった口調で呟いた。

「なるほどな…これなら橋を塞いでいようが橋そのものがなかろうが…簡単に忍び込めるというわけだな…」

 そこには一機の小型のヘリコプターが搭乗口をぽっかり開いた姿で鎮座していたのである。機体の側面はくすんだ青色で、上下は白とベージュに色分けされており、その境界からは左右対称に深緑の線が二本、サスペンダーのように上に伸びていた。プロペラは当然、原料の頭髪と同じ茶色。

 内部は一面殺風景な灰色で、コックピットはなく、丸みを帯びた二人掛けの座席の形と、その足元に一頭が寝そべることができる程度のスペースが確保されているだけである。もしタクローやロロを同行させていたならば、瑠香は今より少し膨らんで、二人が入れる容積を確保したのだろうと察せられた。

「乗って」

 瑠香の誘う声がヘリコプターのどこかしらから聞こえた。

 慣れてでもいるのか、サラは何の躊躇も見せずに奥に乗り込むや、いつものように座席の上に正座を崩して座り、純平は恐る恐るといった感じで続いてその隣に腰を下ろす。金属質な硬くて冷たい感触がコート越しに背中と尻に伝わってきた。最後に意を決したように大将が飛び乗ってきて、その向きのまま身を伏せる。足だけが獣の皮膚と肉で温くなった。

 たちまちひとりでに扉が閉まった。程なく音を立ててプロペラが回転し、若干の震動を伴って機体が浮遊する。透明な力によって三者は座席のほうへと押し付けられ、ごめんごめんという瑠香の軽い詫び言によって背もたれと足場から現れたベルトが、純平とサラの腹部と大将の背中を固定してきた。サスペンダーのものらしい、革の感触である。

「行くよ!」

 三人が安定したのを見計らったように、瑠香が見えない口を開き、力強い鬨の声を轟かせた瞬間、ヘリコプターは発進した。


「そういえば君、純平って言うの?」

 思い出したような瑠香の声が機内に響いた。唯一の懸案である急流を容易に越え、速度と高度が急傾斜を描いてますます上昇し、微動すらせずにある一点へと向かっていく様子を内部からでも感じ取れて、急激に緊張がほとばしってきた矢先のことだ。

「ああ」

「へえ、そうなんだ」

 何を今更という気持ちで答えると、瑠香はわざわざこんな状況下で問いかけてきた割には気のない感慨を漏らすだけだった。舌打ちしてぼやくように言う。

「何だよ。それだけかよ」

「……いや、実はね」

 少しは悪いと思ったらしく、瑠香はちょっとの間と前置きをしてから種を明かした。

「昨日助け出した人質の中に、君にそっくりな人がいたんだ。もちろんそんな耳はなかったけどさ」

 悔いた。聞くんじゃなかった。反射的に、しかしさりげなく大将を見下ろしたが、大将は間接的にではあるが重力に逆らっている感触と遠ざかる地面に殊更に驚いているらしく、食い入るように窓から外を眺めているだけで、自分たちの会話など聞こえていないらしかった。

 代わりに昨日の邂逅を今始めて知ったサラが、仰天したような、そして俄然不安が募ってきた表情で、気遣わしげに、だがやはりさりげなく横目をなげうち、こちらを注視していた。

 瑠香ですら、二人の微細な変化には違和を感じ取らなかったかそれ自体にも気付かなかったらしく、若干大きめの独り言を口にする。

「彼が口紅をしてた理由、知りたかったな」

 サラが急カーブでハンドルを切った車のように首を直角に曲げてきた。理解に苦しみながらも事情を聞き出そうと凝視してくる視線から、純平はサラがしたのと同じ方向へ首の位置を変えていく。窓に映るサラの渋い顔に軽蔑の色が滲んだ。

 誤解を解くためにとくと説明してやりたいのは山々だったが、ただでさえこの至近距離に大将がいて、いわば瑠香の中で呼吸している以上、小声で話してやるわけにもいかない。自分に聞こえるほどの声量なんてもってのほかだ。

 身の安全を遺棄しかねないリスクを阻止するべく、純平は気難しそうに眉間に皺を寄せてやり過ごすことにする。思いが通じたのかどうか、サラは理解不能という具合に首を傾げてから、難解そうな表情を正面にうっちゃった。

 それきり会話はなくなり、プロペラの羽音だけが頭上で騒ぐようになる。二人きりで話せる場面が早く訪れることを願うばかりに、純平の中の緊張や焦燥はどこかへ消し飛んでいた。


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